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Netflix『地面師たち』が海外でウケるワケ / エンタメ評論と海外マーケの交差点

7月も終わりのうだるような真夏の日曜の昼下がり。リリースされたばかりのNetflixオリジナルドラマ『地面師たち』を見た。 

全7話で地上波のドラマよりはコンパクトにキュッと見やすく、でも2時間のTVドラマや映画よりはずっとリッチで、Netflixの良さを凝縮したような作品だった。ただサイコスリラーやハラハラを煽る作品が得意とは言えない私には緊迫度が凄すぎて、5話まで一気見したところで心臓が耐えきれなくなり、「あの、散歩……ちょっと外散歩させて……」と家の周りを一周して生暖かい(めちゃ暑い)空気のなかで一度ほうっと一息つかなければ、続きを見れなかったのだが(笑)。

うーん、カッコいい作品だった。日本のドラマにありがちな(失礼)ダサさの欠片もないと感じるのは、照明にお金をかけてるからという記事を読み、大いに納得。どのシーンにも陰影やナチュラルな自然さがあり、ジョークやシュールさにも重厚感が漂うのは光と音楽という映像の名手を見事に采配しているからなのだろう。で、Netflixが総力で推してる作品だからかレビューやインタビュー記事も雨後の筍のように遭遇するのだが、私の強く思ったこと──この作品のグローバル展開の可能性──をドンピシャで書いてくれる記事がないので、書いてみる。

ところで、レビュー書くか!と思い立った元記事を一つご紹介したい。東洋経済の最新の寄稿記事で、私の見方とは180度違う感想がある。

>“誰もが楽しめる予定調和のエンターテインメント大作で……(中略)……『地面師たち』は、従来の日本の大作映画のような完成度の高いエンターテインメント作品に感じる。大作映画として見ればおもしろい。ただ、角がなく、丸い。作品性がとがっていないのだ。”

→え?あれが尖ってなかったら何が尖ってるの?半沢直樹???
 
と、喧嘩を売るようで申し訳ないが、「従来の日本の大作映画のような」という形容詞とは、まさに真逆だと思う。

グローバルヒットを予感する理由

地面師たちの魅力、それはつまるところは単に面白いからである!!!と批評にも解説にもなっていないような言葉だが、面白さを分解すると……まず、役者が最高。豊川悦司、綾野剛、北村一輝、ピエール瀧、小池栄子、リリーフランキー、山本耕史。この辺りは本当に「世界で、画で通用する日本人俳優が誰か」を見せつける堂々たる存在感だった。

この錚々たる俳優陣のなかで、私が密かに手を叩いたのが小池栄子である。(名演と言われるとまた違うのだが、キャスティングの妙でいえば……)

小池栄子に見る日本の女優の未来

誰を魅力的と思うか、というのはその国によって変わるというのは定説だが、欧米で魅力的な日本人女性は誰だろうと考えると、まず今田美桜ではないのですね。トレンディードラマで主役を張って引っ張りだこになる、日本的なテレビ女優として人気を博すること(これはミス日本に選ばれることに近い気がするし、さらに遡ればホリプロの国民的美少女コンテストで優勝する女の子)と、欧米であれが日本の女優よと言わせられる存在感を持つ人って、同じではないから。で、誰なら、と考えると、小池栄子はまさにそのど真ん中。
 
前にね、日本人女性として世界でセクシーだと認識される大人の女って誰だろう、と考えたことがあったんです。AKB48が幅が太いおダサビキニで海辺で踊るPVをアメリカ人に見せて、「セクシーだと思う?」って聞いたら、「セクシーではない(苦笑)。キュートだけど、セクシーではない(苦笑)」と言われたのだが、その時ぼんやり考えたこと。

そう、アメリカ人にとってのセクシーさを持っている日本人女性は、小池栄子。あの強い感じ、成熟した存在感と、艶のある黒髪とタッパとメリハリのある女性こそ(notただ華奢なだけのペラペラ体型)と思ったことを『地面師たち』を見ていて思い出した。

また、小池栄子の表象がいいんですわ。HRシステム、タレントパレットのタクシーCMの小池栄子でもなく(頼れる人事部風)、カンブリア宮殿で村上龍の横で露出のない洋服に身を包み、意図的に色気を閉まってる小池栄子じゃなくて、は?色っぽくて何が悪いの?って踏みつけてくれそうな小池栄子。こういう小池栄子が見たかったのよ!!!

(でもいわゆる「お色気戦士」じゃないところがよいんです。銀座のママでもミニスカポリスでもないのに香る色香が一番芳醇ですからね)

次。詐欺の本丸となる舞台設定が秀逸。

僧侶!なんてカードぶっこんでくるんだい!!!(輸出目線で見たらyo)

本ドラマの本丸詐欺は、持ってもいない土地の権利を偽装書類を駆使して100億円で売りつける不動産詐欺なのですが、その土地に建ってる建造物ってのが、お寺なんですね。で、そこを守ってるのは女性の住職で、真面目に朝晩読経し、ほぼ世捨て人同然の聖職者生活を送る彼女の唯一の煩悩がやがて明らかになる──それが、歌舞伎町のホストくん。
 
その尼僧は、夫のインモラル系女性問題の醜聞で離婚し、その後外出らしい外出もしない引きこもり同然の生活を送り仏道に身を捧げているのだが、そんな尼僧が唯一ウィッグをつけてワンピースに身を包んで出かける先は、高級ホテル。そこに広がるのは、彼女の本命ホストと彼の子分的な若手ホスト達と4?5P?のハーレム的なセックスに耽る尼僧の姿(という名目だが、本命ホストは直接手を触れず、手下をかませ犬的にやらせておくだけでソファで一休み)。
 
かつこれ、順当に出てくるわけじゃなくて、全部ミステリーが明らかになる的にわかることなんで、とてもテンポが良い。

「従来さ」をどこに見、いかに裏切るかがいつだって新しさである

>『地面師たち』は、「誰もが楽しめる予定調和のエンターテインメント大作」であった。

と先の作品レビューはいうのだが、いいえ。この設定はめちゃくちゃ新しい。
 
仮に、これが数百年続く寺のお坊さん、金のある男性住職がお決まりのように銀座のホステスに入れ込み、乱倫な行為にふけってるって構図の場合、「あぁ、はいはい」的な感じだと思うんですよ。でもこの作品には、鑑賞側が、なんかちょっと失笑したくなる種のイタさがなく、あるのはハジけるまでの新鮮さ。なぜだろうと考えると、この作品が従来作品を適度に裏返し、ひねっているからと気づいた。
 
だって、財産を持ってる尼僧(結婚生活で男性に悲惨に裏切られ済)が捨てたはずの俗世と唯一つながりを持つのがホストで、でも本命ホストくんとはセックスに至らず、子分達に抱かれて、性的にはそれを楽しんでいる(でも本当は楓くんが好き)って、愚かさとほんのちょっとの切なさが素晴らしい。
 
このコミカルさって、金持ちの男性住職がホテルで銀座のホステス数名はべらせて挿入してるって描写からは、絶対生まれない。でも今までは、得てしてそんなばっかりじゃなかった?

ローカル発グローバルになり得る作品のDNA

VIVANTが海外でウケなかったのは、日本人には新しいけど海外の感覚からは別に新しくなかったからだとひろゆきはと言うが、これは、海外でも新しいですよ。
 
そう、鑑賞者が欧米になった場合、ここで光るのが、寺という宗教性とその歴史的な重厚さなのですわ。菜摘さん(尼僧)て、別にファッション僧侶やってるわけじゃなくて、心として寺を大切にし、朝晩読経する、ちゃんとした僧侶なわけですね。こっそりと羽目を外しているのがたまに行くホスト……という描写で、見事な読経シーンがあったり一目でわかる画面映えする神々しい阿弥陀如来が何体もぐわっと出てくるシーンがアクセントになっていたりと、その舞台性がチープに見えない。聖職者 - 男性の占有性が高い(キリスト教はそう) - 対して、尼僧(オリエンタル、異世界的) – その性という掛け算がされていくと、通常タブーなものに光が差し込むような新鮮さを感じるのが欧米と思う。私は。

ところで、『VIVANT』は世界進出を想定して総力をあげて作られた作品だったというが、どうグローバルに接続するかという意味で、『地面師たち』と『VIVANT』は真逆の作品だったと思う。

VIVANTは見ていないので5〜6本の作品レビューとストーリー解説を読んだだけだが、そこから感じることは、確かにスケール感の裏打ちとなるものやワクワクの要素が“日本から見て海外的な要素”で作られているように見えるということ。舞台が日本から海外の異国になる事、FBI、コロンビア大学、ミリタリースクールなど。

思うに海外でウケるわけがない作品というのは、設定がローカルの不文律のなかに描かれすぎるモノ(精神性や行動の行間が理解できない)。あるいは日本から海外を描いたつもりになっていて(海外的な要素の羽をつけたつもり)、本家からはそこに新鮮さがあるわけもなくたいして面白くない──のどちらかであって、じゃあ日本初で世界でウケるものが何かと思うと、私は「テーマや下敷きにする精神性はあくまで普遍な感情で、舞台が日本的なもの」(オリエンタルな世界観のなかに普遍性のあるテーマを見事描いたもの)だと思う。そう、「日本から海外に飛び出していく構図」ではなく、海外の視線を日本に取り込む引力のあるドラマ。

世界で知られるジブリ作品で言えば、『千と千尋の神隠し』は、アイデンティティという普遍的なテーマを八百万の神的な宗教観やお湯屋というオリエンタルな世界観のなかに埋め込んだもの。『もののけ姫』も、自然と人間の共生、技術の発展と地球資源、豊かさや正義とは何かという普遍的なテーマを、古代の縄張り、統治、戦という日本的な世界観のなかに描いたもので、そこに狼少女やフェミニズムという西洋からみて親しみのあるサブ和音が奏でられていく。

でもそんな事言うは易し行うは難しで、今まではきっと、わかってるけどそれをドラマではやれていないってのが日本の制作者の限界かつ悩みだったのかなと思うのだけど、「地面師たち」はそれを完全に打破した作品。どう打破したのか?その一つの理由は、従来型のサラリーマン表象作品にはどうしても欠けていた、論理構造の明瞭さだろう。

固有性と普遍性のバランス

「地面師詐欺」は、つまり持ってもいない土地を持ってるフリをして(身元と権利書を偽ることで)不動産会社を騙し、売買利益をいただく現代強盗なわけですが、そこに介在する要素が、全部欧米人が一発で理解できるもので構成されているんですよ。

・土地、建物(real estate, property)
・売買(business transaction, agent)
・身元(identification)の偽り、権利書の偽造
・詐欺(fraud)

「ハンコ」くらいは日本的ですけど。
(そんな十行の中に一行見慣れない慣習があるくらい、繋いで理解できる)

土地を購入したいディベロッパーサイドの社内の物語も、日本的な夜の街の接待、密室でのごにょごにょ的な古い描写に変わって、社長派と会長派、承認と決済フローというこれも組織というもののユニバーサルな性質に則って大変わかりやすく描かれていたのにも、膝を打ちたくなった。

だって、これを欧米に輸出しようと思った場合はすごく良い。義理人情とエンヤコラのコーポレート内チャンバラ劇の100倍わかりやすい!!!

さらばサラリーマン時代劇

というか、このサラリーマン表象は、日本人目にも、新しくない?これまでって、その世界のことを知っている人には、失笑するような職業描写が常だったと思うのだけど(今回も僧侶に関してはそうかもしれないけれど)、サラリーマン世界に関しては、相当アップデートされたと思う。

作中で、一度立場的にピンチに陥る山本耕史扮するディベロッパーの営業部長がなんとかして代替案となる土地の候補探してこいと部下にハッパかけるシーンも、一様に「ははーっ!!!」ってかしづく昭和〜平成の会社員一色じゃなくて、冷めた目で見ながら、こんなんパワハラっすよ、録音とったから大丈夫、的なことをいう社員もいて。
 
ギリギリの攻防の上の勝利に束の間酔いしれる祝杯の席の山本耕史の俺様トークも、割に、聞いてて辛いなってふるさがないし

「データがどうとか、前例がどうとか、コンプライアンスがどうとか
俺に言わせりゃそんなもんに振り回されてる奴は全員クソだ。今回にしたっておまえら全員諦めかけてただろ!」

(データ!前例!!コンプラ!!!今を生きる全会社員の共感を誘うんじゃ……)

また、その祝杯の宴も、男性社員だけで行われる@キャバクラって描かれ方しないんですよね。両脇に女性社員が挟み、彼女たちのうっとり見つめる目はキャバクラ的ではあるが、来ている服はオフィスカジュアルで、部下や同じ部の若い女性たちであろうことは明らか。そのキャバクラじゃないけど結局キャバクラ的なことを場所を変えてやっているってのがまた時代の空気をうまく切り取ってるなぁって。
 
しかし、そういう女性ばかりの一辺倒ではなく、女性表象が偏っていないのもいい。セックスで稼ぐデリヘル嬢、恋愛より仕事な新人刑事(池田エライザ)、アングラな世界でヤバい男たちと同様に活躍するキャスティング師(小池栄子)。男性地面師の、「大仕事の前の禊(女遊び)」に対して、小池栄子がいう、私も男遊びしてこよ、のバランス。
 
このどこが「従来型の大作」なんだ。

インテリ欧米人は哲学好き

そしてもうひとつ、外せないのは「台詞がいい」。山本耕史も、「俺たちは土地の奪い合いをしてるんだ!これは戦争なんだよ!」と社内のハッパかけワードで使うが、台詞的なハイライトはやはりクールでサイコパスな地面師トヨエツが綾野剛と繰り広げるこのシーンに集約されるでしょう。

(土地は)本来は誰のものでもないはずなのに、人間の頭の中でだけ所有という概念が生み出され、それによって殺戮や戦争を繰り返してきた。

人類の歴史は 早い話 土地の奪い合いの歴史です。
土地が人を狂わせるんです。

──じゃあもし、土地に自我があったら?

ハッとするような台詞に満ちてて、それはねえ、「倍返しだ」とかたいして意味のない決め台詞を語気と表情を強くいうだけの脚本とは、全然違う。
 
知的な層の欧米人って、エンタメのなかにも宗教や哲学があるものが好きなんですね。で、この地面師達は、真面目にそれにどストライク。
 
でもこれ、もう鑑賞した人ほど、「え、でもそれって地面師の全部サブ的要素だよね?」っていうと思うの。そう、物語の本当の核は、地面師グループの主要人物である綾野剛の家族の歴史(地面師詐欺に遭い一家離散した過去を持つ)と、自らが地面師として人を地獄に突き落とす綾野剛の半生が少しずつ交錯し、綾野剛と豊川悦司の関係はパートナーなのか、それとも利用されているのか?地面師グループを追う刑事(リリーフランキー&池田エライザ)の三つ巴の群像劇って、そっちが物語の核。尼僧もアイコン的に出てくるだけで、たいして意味なし。でもそれが海外に接続するコード、スパイスを持っている作品か否かてことだと思うのですよ。

これぞ、日本発、世界に通用するエンターテイメント。映像いい、音楽いい、脚本的な運びやスリルのカットの演出、緩急のつけ方、そういう表現的な技巧のすべてがいいのは、言うまでもない。そういう「見ればわかる」部分については言及せず、あえてミートの部分じゃなくて、骨の部分を書いた。ミートを遺憾なく味わえるのは、表には表出しない骨格みが巧みだから。<了>



と、こんな文章を書いていたら、国内ランキングは2週連続トップで、グローバル(非英語作品)も3位発進!とのニュースが流れてきた。流石!


▼文学・ドラマ考察、シリーズでやっています!よかったらぜひ。


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@Globe🌏蓮実 里菜
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