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誰が皇室報道を殺すのか

📌一本ごとに独立していますが総合的にはつながったシークエンスです。
【2024振り返り前編】ついでにあの篠原夫妻はいったいおいくら稼ぐか試算してみた
【2024振り返り後編】ついでに未だにろくな解説なしの雅子さまへの名誉博士号の解説全部書きます
【2025に向けて 】誰が皇室報道を殺すのか←今ここ

2025年に向けて

前回noteまでで、2025年の目標はnoteだから書けることと、メディアに載せてこそ意味が最大化されることを書き分けていくこと──と書いた。

まあでも、あれほど稀有なことは(あれとは雅子さまが授与された名誉博士号の話である)、たとえ半年後の今だって、その価値がそこまで衰えないと思うの。令和の皇室外交にフォーカスする企画なんてそれがいつだって成立させられると思うし。でも、なかには本当にタイミングセンシティブなものもあって。

そう、この半年で一番、「これをなんとか今メディアに載せたい」と思ったのは、実は名誉博士号の解説ではなく、秋に皇族が推薦入試を使って国立大学に進学する姿勢を問う署名運動の時だった。

その頃の報道風景に対する気持ちはここに書いたのでもう一度は書かないけれど──

その頃その署名活動は、「署名サイトが強制終了させた悪質すぎる署名活動」「異常事態はなぜ起こったのか? 情報発信の少なさと膨れ上がった不信感が『高校生』を襲った」というような記事が滝のように量産され、それが「無礼か否か」「許されるのか否か」という戦前かよ並みの薄っぺらいメディア学者の言葉があちこちで響き、その「署名文の主張自体」を正面から拾って展開しようとする論説は一本も出なかった。

私は忘れられない。世間の関心が最高に高まった時に、“「あまりに悪質」悠仁さまの「東大進学に反対署名1万人超え」運営サイトが署名ストップさせた理由”とヤフーニュースに週刊誌の見出しタイトルが一番に流れてきた時のこと。コメント欄は封鎖で。

信じられなかった。

ヤフーはPVが出ればいいから、少しでもセンセーショナルなタイトルにしたり、釣りタイトルをやって、たまに問題になる。記事をクリックせずともタイトルからメッセージを受け取る人がいて、それはすなわちフェイクニュースを拡散することと同じ効果を持つからだ。あまりに釣りタイトルが過ぎたり、ニュースの内容が偏向報道すぎるとコメント欄が炎上するけれど(橋本環奈のインタビューに対して、「そんなことは言っていないつもりだけど」と本人が否定し、ヤフーが謝罪した)、でも、それもこれもコメント欄を閉じてしまえば、そんなことは起こりもしない。

でもそれって、ニュースという形式を借りて、何万人、何十万人のスマホ画面に印象操作の15秒CMを流すのと、どう違う?それがメディアという拡張器を通したプロパガンダじゃないというのなら、なぜそのニュースだけコメント欄がないの?最初から?

私だってその署名活動が100%正しいやり方だったとは思っていない(※)、だけど、そこまで否定されることしかそこになかったわけじゃない。そうまで世の中が否定してくるんだったら、私はその文章が持っていた正当性を徹底的に擁護する解説を書いてやるわ。だって、それでやっとバランス取れるでしょ?

そう思って書いたのがこれだった。

(※オリジナル文を批判的に読んでいる初期解説はこちら、活動の終了の際の姿勢を批判している記事はこちら

どこに書いたら10年後も読まれるか

その一瞬、社会の一部で(皇室や教育に関心が高い人の層で)、署名文はわりと知られた存在だった、SNSでバズりまくっていた為、皇室評論家?が印象をコントロールしても呼びかけ文に何が書かれていたか自分で読んだ人もいただろう。でも、一時的にどれほど読まれた署名文も、いずれ落ち葉が重なるように下に流される、ネット上で活字が息を吐くように生み出される情報の洪水社会で。そして瞬間的に湧いた社会ですらも、この記憶を瞬く間に失っていくだろう、でも私はこの署名文とそれが引き起こした反響は、簡単に忘れ去られるべきではないと思った。

だから、今からずっと時間が進み、社会の記憶が薄れ、そこに何が書かれていたのか何も知らない人がふと読んでも──主張の主眼、巻き起こした反響、そして巻き起こさなかった反響を含めて理解できるようなピースを書こうと思って。

まあ、悲しくもそれは載せられなかったのだけど。3雑誌と話した結果。

それからしばらく、離れていた。興味を失ったわけじゃないんだけど、白熱するほど出口のない毒が体に回るようでしんどいというか──出口がないことを考え詰めている体感は、辛い。

それからそのショックを共有できなかったこともショックだったんだと思う。

2024年一番落ち込んだときのこと

一月くらいして、それを載せられなかったダメージから少し立ち直りかけた頃、それをnoteで公開しようと決めた。その文章だけじゃなく、編集部に載せてほしいと言ったけれど、載せられなかったという事実も併せて。

でもそれは、すごいやる方にもリスクが伴う。だってそれは、もし話題になれば、載せなかった編集部がセンスなく見えるけれど、無風の無反応だったら公開してる方がバカみたいに見えるし、それに編集部の名前を出してそうやってnoteで公開するのは、それはもう今後その編集部とは仕事しなくていいや、くらい思わないとできないこと。

まあ、フェアな抗義というのはしようと思ったら、する方にも覚悟がないとできないって事。

でも、いつもnoteで私の皇室コラムを読んでくれてる読者からその文章は遠すぎて、それ単体で読まれるのは無理だと思った。

耕すブリッジマテリアルがないと無理だと思った、もっとエモーショナルに読める呼び水。どうしたらそこに接続できるかを考え、3本連なるものにして、3本目にその原稿を出すことにした。

1】憂鬱、たまに絶望
2】日本には社会運動の批評家・評論家はいないのだなと思った日
3】アリストテレスの弁論術に学ぶ、型破りな超長文でも東大推薦反対署名が飛躍したワケ

③につなげるために、私は何が書けるのか?って、心をさらった末に生まれたその前座の2本は、この半年noteで書いてきたものの他の比じゃないくらい難しい文章だった。自分の心に肉薄するけど生すぎでもない、多層的で思想の広がりがあって情感がある文章、というのは。完成した時は、この半年の先にこういうことができるようになったんだと感傷すら覚えた。


でもそれが、本っっっっっ当に読まれなかったんですよ(ツイッターに至っては2いいねしかつかなかった!2!いいね!そのうち1回は私が押したから実質的には1いいね笑)


(今は進学先が決まった時に3本目だけめちゃくちゃ読まれて♡が伸びたため、時差ありでカッコつく体裁になったけど)


それまで、皇室ネタでnoteを書けば、当たるものは300スキを超えていく、ヒットとはそういう感触を得られるものなのだと感じられるようになっていた。でもまあ、これはそういう種類のものじゃないから、一本でも100を超えればいい。そう思ってた、でも、公開して3日目くらいまで、15スキ、20スキ、そんなところを漂い、込めたエネルギーや思考力の分、私は久々に脱力するというか、「起き上がるのが不可」状態に久しぶりになった。

スキの数は文章の価値じゃない。だけどそれは一つの結果ではある。そのコンテンツを、世の中にどれだけ訴求できたか?への如実な答え。


ここまで見向きもしてもらえないか、は久しぶりに感じた感情だった。



誰をみて書いていいのか わかった気がして でもまた わからなくなった気がして──


その頃行った松島は、雄大な海に島々が点々と浮かんでいるのが見えた。波が全然立たないのは湾で囲まれているからだと教えてもらい、確かにそれは鏡面のようだった。こんな景色は初めて見たと思って、その窓からの景色に吸い込まれるように、何もかもを吸い込んで静かにそこにあるような海を夜中じゅう見ながら座ってた。ここに向けられるエネルギーは全部使い果たした気がして、やれること全部やったけどな──そう思って、海とツイッターを見ながら夜が更けていった。拡張性のなさに、うんざりしてた。


あの部屋から見る景色をもう一度見て、 今度は 世界は美しいと思えるのだろうか。


私の穴の開きかけた心をふと縫い合わせてくれたのは、ふともらったDMだった。

“あの署名は大切な主張を含んでいたのに、ジャーナリズムに読み解く力がなかったから誹謗中傷とまとめられてしまってすごく残念に思ってる──”

国立大学の教授で、立場があるから表立っては言えないのだけど、蓮実さんの主張は嬉しく読んでいると書かれていた。書き続けたことは絶対いつか意味を持つ、だから頑張ってほしい。

その言葉で救われてしまった。私の怒りや苛立ちはおかしくも不毛でもなかったのだと、誰かには届くものだったのだと思ったから。

菊タブーと御用ライターのそびえ立つ壁

「論客・数名」の寡占構造はなぜできる?

ところで、流れてくる記事を漫然に読んでいることと、どこで誰が何を言っているか、どの媒体がどういう論調で出しているか意識して読むのでは、見えるものは違う。この数ヶ月、皇室に関して文章を書き始めてから、誰がどこでどんな記事を書いているか意識的に読みだして(どこなら自分のスタンスと近く、どこでどんな書き手に場所が与えられているか、自分を差し込める場所を探そうとするから)、気づいたことがある。本当に数人の“論客”しか、そこにはいないことに。

理由の一つは、新聞記者が本来の仕事をしないからだと思う。

前回noteから幾度となく引用させてもらっている上杉隆氏は(日米のジャーナリズムの慣行を比較し、日本の特に「新聞メディア」の奇怪さを丁寧に言語化してくれている)、著書『ジャーナリズム崩壊』で、「記者クラブの中でも、最もジャーナリズムと縁遠いのが宮内庁記者会である」(同著p77)といい、月間『創』の編集長 篠田博之氏は、「新聞・テレビが発表モノしか報じないため、週刊誌の独壇場となっているのが皇室報道」と記すのだけれど、新聞上の皇室報道は、こういう公務をされました、こういうお出ましがありました、的な事実を報じるものばかりで(目黒区広報タウン誌??と思う平和っぷり)、印象に残るほどの署名記事を書いている人は本当に皆無である。

いやぁ、前は、新聞はゴシップからは距離を置いてるだけで、社会的に重要なことはちゃんと書くのだと思っていたのだけど。そんなこと……全然なかった。社会的に重要な論点や核心の具体に踏み込むこと、なーーーーーんにも言わないんだもの(署名に関してだって、具体に踏み込む形では一紙も当時最後まで扱わなかったしね……)誰もが知ってるのに言及しないし考え方も示さないって、“elephant in the room”の例ってこれか……と頭がクラクラしたほど。

みんなが気付いてるけどないかのようにされることの英語表現デス。

では、新聞が放棄する皇室絡みの「言論アリーナ」は、代わりにどこにあるのか?皇室絡みの話では、雑誌と呼ばれる場所にしか、それはない。AERA、プレジデント、現代ビジネス、新潮、そういうところ。皇室が絡むネタに対して、ある程度まともな具体性に踏み込んで、薄っぺらい抽象論以上に踏み込む文章を載せるメディア、というのは。

しかし、そこには本当に、数人の論客しかいない。なぜならそういうメディアは、独自記事は出すけど、署名は「編集部」であることが依然として慣例的で、記名記事の文化がないからである。だからそういう雑誌メディアへの外部からの寄稿のみが記名記事で、そしてそれらの寄稿が、実質的に解説や論評性の色を最も強くもっているため、そこが皇室絡みの論説や言論のある唯一の場所と化している。だけどそういう場所でコンスタントに見かける名前が片手で数えるほどしかいないことが、私の感じる「あぁ、またこの方現象」なのである。

それってどれくらい変なことだと思う?

それって本当は、「30〜40人*で、それぞれが責任を負って記名で書き、均衡を保つべき空間」が、たかが数名の筆(と匿名の陰に隠れて誰が書いたのか正体不明の無数の記事)に支配されてるってこと。

*新聞テレビ、雑誌のメジャーどころに各社2人ずつ皇室担当がいたらそれくらいの数になるはずである

少人数のシェアオブボイスを劇的に高めるからくり

ところで、去年だったか一昨年だったか、SNSかどこかで、「大学教授はいつからジャーナリストの仕事もしなければならなくなったのか」って大学の先生の言葉(嘆き)を見て、すごくその言葉が心に残った。その通りすぎる!と思ったからである。

例えば、ジャーナリストが書いてる記事内の一部が弁護士や学者、識者の見解というならわかる。新聞記者が専門家の知見を求めて取材に行くのは当然だし。でも、「その先生の知見をそのまま載せただけの記事」と、その先生の知見を一つの礎として記者が自分の論説を書いたかは全然違って、今それを聞く理由やらの導入の数行を記者は書くだけであとは学者の話をそのままコンテンツにしただけの記事やパッチワーク的な浅い記事のなかに権威として学者のコメントを2行くらい垂らしておく記事は、ほんとミツバチ仕事よなぁと思う。

でもそういうのって皇室界隈にはすごく多い(苦笑)。皇室評論家の〇〇さんに聞いてみました、〇〇大学の教授に聞いてみましたってやつ。

一例。記名記事の形を取っているものの、「聞き手 緒方優子」と文末に出てくるように思考はそのまんま河西氏のもの。

こういう「思考」を大学の先生に丸投げしてるのって、まさに「いつから大学教授はジャーナリストの仕事もしなければならなくなったのか」よ。で、そういう手抜きのジャーナリスト仕事が皇室報道をする新聞のレイヤーに悠々と存在することは、そのわずか数名のシェアオブボイスをそのテーマの言論空間において不健全なまでに高めることをことさらに助長する。

実例でいこう。雑誌メディア(例えばプレジデント)によく寄稿するおなじみの皇室評論家・皇室研究者は、縦横無尽な媒体へ、神出鬼没である。なぜなら「新聞記者」じゃないから。だからAERAに書き、プレジデントに書いてダイヤモンドに書いてっていくらでもできる。それに加えて、新聞のミツバチ記者がいそいそと取材に来て記事書くでしょ。そして今度は文春か新潮あたりで、その人たち同士のグループ対談。一人の人間の声、どこまで響く?ってくらい、この寡占構造はすごい。すごすぎる。ジャーナリズムの歯が完璧に抜けてるから、成立することだと思う。

皇室ライターは初老の老人クラブか大学教授の天下り先か

あとね。そうやって、誰が、どこで、なにを書いているかに気を払って皇室報道を見るようになり、もう一つ気づいたことがある。平均年齢がえらく高い(軒並み定年後くらいの人が中央値でボリュームゾーン)ということだ。

そう、皇室ライターは、ほぼ老人クラブである(メディア所属のサラリーマン記者をのぞき)。それに気づいたのは、一件の訃報を見たからだった。渡辺みどりさんという名前は、買ったことこそないけれど美智子さまの本をよく書いて皇室ネタであちこちに寄稿もよくされている方くらいのイメージはあり、その方が自宅で一人亡くなったという報道を見て(享年88)、ふと皇室ライターの代名詞的な他の方の年齢もググってみたのである、何の気なしに。そして思った、ききき気づかなかったわ……揃いも揃ってみなさん定年後の年齢だということには……と。

全て敬称は略 /単純に生まれ年で計算したので、誕生日を迎えているか否かで誤差1歳はあるかも

例外的に河西先生だけは若い(40代後半)が、主たる年代は60代と70代。

この中にも尊敬できる仕事をされている方もいるので一概に括るわけではないんですが、私は、記名でよく見かけるこの方たちがいかに平成の皇室ライターとして栄華を誇った方達で、その貯金でやっている人だらけなのかに気づいた時、「まーそら皇室論考、死んでるの納得だわぁ」と思わず思ってしまった。

だってね、一般に、競争するから質が上がるというのは万事における世の常な訳です。でも、皇室について書くのは恐れ多いと感じる自主的な書き控え×コンサバティブな気質の参入障壁に守られた壁のなかで、若手記者やライターの下からの突き上げもくらわず、競合他社が自分たちより質の高く勇敢な報道をするかもしれないプレッシャーもなく、足並み揃えた範疇の中でソツなく紙面を埋めておくことが仕事と思っている新聞記者と、一度書く権利を手に入れたら、それで半永久的に仕事ができる御用ライター主体で構成されてる場所だとしたら、そりゃ。


最近、30年前の皇室雑誌を5冊くらい買ってみて、驚いたの。


私は30代なので、皇太子さまと雅子さまのご成婚の時の記憶とかちっともないので、当時の雰囲気が感じられるかな?と、何の気なしにメルカリで見つけて買ってみただけなのだけど、それが、意外なまでに面白かったんですよ、どれも。そこには、歯の浮くようなお世辞や奇妙な礼賛がなく、どの言葉にも実態があって、対象もすごく魅力的に見え、率直で忌憚のないコメントや伸び伸びとした論考で溢れ、雑誌全体が希望に満ち溢れていた。


それを見て、思った。30年で日本の皇室報道は退化したのだと。昭和から平成にかけての取材攻勢はモラルとしては低かった時代なのかもしれないが、平成中期より、後期より、今より、その頃の方がレベルが高いのは明らかだった。組織のなかで個人としてそれに抗っている人が一人二人、いれども。


それって、どうしたら変わるんだろうね?私は、寄稿する人が変わるしかない。増えるしかない。そう思う。


で、その情報の流通構造の蛇口にいるのは、「新聞社」ではなく、ウェブメディア、雑誌媒体の編集者ですから。そこに新しい人の論考いっちょ載せてみようと思う稀有な編集者を時間をかけて見つけるしかないんですよ。この情報の流通構造上の、上流から正攻法で違う水を流したいと思ったら。

で、そのためには面白いと思われるクオリティの文章を書き続けて、振り向かせるしかない。

書ける実績と読まれる実績でしか多分ドアは開かない


さて、ここで少し前編で書いたことに立ち返ります。なぜ私が「届けること」に必死になるか、それは、すっごい面白い皇室コラムあるとしましょう。10いいね、20いいねしかついてないとしましょう。多分99%のウェブ媒体の編集者は見向きもしません(書籍編集者はまた5%くらいは少し違うと思いますが)。そういう業界では目に見える数字というのが非常に重要で、なんで私が届けることに必死になっているかというと、編集者が結局「読まれている」「反響がある」ということを大切にするから。素晴らしい論考で、コラムで、2いいね、20いいね、そういうものは、悲しくもそれが「無価値に見える魔法」が、今の世の中ではかかっているのですね。

しかし、いくら200いいね300いいねがついていても、何万・何十万PV出そうが真偽のほどが曖昧な噂話を根拠に井戸端会議並みのブログ書いてたりしては、その水域を出られるわけもなく。だから、量的に、かつ質的に読まれている実績。その先にしか、このフラストレーションの出口はないというわけで。

で、先に申した通り、このすべてがいかんせん自主的な無収益活動なので、ちょっとしんどくなってきた。(詳しくは2024年振り返り前編」参照)


発見がある考察やシェアしたくなるほどの記事を持続的に書き続けるためにはどうしたらいいか?を考えた末に、皇室コラムに特化したプチ・スポンサープラン(1163円 / 月額)を立ち上げることにしました。


値段はずいぶん考えた。私だったら、月480円だったら払うかな、と思ったので一度はワンコインの480円。いやーーーーでも今の私のリーチ力で、480円で実際やり続けられますか?って多分無理だ。480円で30人いたって、手数料引いて月に1万円。そこにコンスタントに月30〜50時間かけられるか?


あの、私バリバリ働かないといけない世代なんで・・・。ビル持ってるわけでもないし。あ、ビルの前に家も持ってないぞ。


どこだ、落とし所は!!!!と考えあぐねた末に、決めた。「東京都の最低賃金」にしました。


私が皇室関係のことを調べ、考え、書く活動を、月1時間スポンサーしたいと思えるか。それだけである。


そういう人が50人いたら、月50時間無償労働する時間を捻出する必要がなくなるわけで、月に1〜2本はコンスタントに書いていける。



目標はとりあえず足元で50人。半年以内くらいに100人。


私がここで書いてきた「誰が皇室報道を殺すのか」、そしてその打開策として、流れてくる水が気に入らないなら、水をすくって文句を言う代わりに水が流れるところに行って違う水を流せばいいんだという思想に共感や希望を感じてくれた方は、ぜひ応援していただきたいです。


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@Globe🌏蓮実 里菜
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