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「帰国子女」という用語をめぐって

by 古家 淳

 僕は父の仕事に伴う5年半の海外生活を終えて1972(昭和47)年の12月に日本へ戻り、「帰国子女」になった。その後、30余年に及んだ月刊『海外子女教育』誌(発行:海外子女教育振興財団)での記者としての仕事を含め、数百人、もしかすると一千人を超える「帰国子女」たちと会い、話を聞いてきた。ところが当の本人たちの間ではこの「帰国子女」という用語はすこぶる評判が悪い。権威主義的だとか、「女・子ども」扱いしているようだとか、あるいは「(男子は含まず)女子だけ?」など、さまざまな声を聞いた。1980年代には同じラテンアメリカ帰りの盟友である袰岩ナオミが「海外成長日本人」という新たな用語を提案したが、これは定着しなかった。1990年ごろになると、自分たちをカジュアルに「キコク」と呼ぶ人々が現れた。
 ところで、この「帰国子女」という用語自体、いつから誰がどのように使い始めたのか、どうもわからない。最近は「帰国児童生徒」という用語に置き換えられることも多くなっているが、いつからそう変わったのかもわからない。数多くの専門書を見ても、それぞれこういう疑問への答えを求めている人もいるが、明確な答えは書かれていない。難問なのだ。
 そこへ、『新版サードカルチャーキッズ−−国際移動する子どもたち』の共訳者の一人であり、自身も帰国子女という経験を持ち、現在も帰国子女にかかわる研究をしている峰松愛子さんから、この難問への回答を求める相談が届いた。この記事では、僕があらためて「帰国子女」という用語の歴史を文献資料で調べた結果を、大きく3つに分けて紹介する。


「帰国子女」という熟語の初出用例

 結論から述べると、公的な文献としては1964(昭和39)年9月17日の第46回国会における衆議院外交委員会の議事録に「帰国子女教育学級」という表現が登場しているのが、確認できた範囲で最も古い。

帰ってまいりました子女の教育と申しますか、日本語あるいは歴史、地理等のおくれを取り戻すための方策といたしまして、国立大学の付属中学校に、東京と大阪を予定いたしておりますが、特別の帰国子女教育学級というようなものを設ける予定で検討を進めております。

国会議事録から

 これを受けて翌1965(昭和40)年に、国公立学校では初めての「帰国子女教育学級」が、東京学芸大学附属大泉中学校に開設されている。
 1968(昭和43)年に文部省が発表した『海外勤務者子女教育参考資料5 海外子女教育要覧』には1966(昭和41)年度の大泉中学校の「帰国子女教育学級生徒募集要項」が添付されていて、それを見ると「本学級は海外勤務者帰国子女の中学校教育を行なうものである」と明記されている。
 この『教育要覧』には、文部省が1965(昭和40)年8月に行なった「海外勤務者およびその子女の帰国後の編入学の実態調査」の結果も掲載されていて、「帰国子女は488名である」という記述が見られる。

 これとは別に、扇谷正造編『在外子弟の教育−−現状とその対策』(青葉出版、1978)には、1963(昭和38)年の桐朋教育研究所の研究題目が「在外邦人子女の教育状況の調査ならびにその対策」で、その第一の項目が「帰国子女の教育の実態調査」だったという記述がある。その報告は『桐朋教育研究所所報第8号』に掲載されているとも書いてあった。だとすればこちらの方が大泉中学校よりも早いかもしれない。この『所報』が国立教育行政研究所教育図書館に所蔵されているとわかったので、レファレンスサービスに下記のように問い合わせた。

「桐朋教育研究所所報」第8号あるいは1966年以前のいずれかの号で、
「在外(邦人)子女」ないし「帰国した子女」などではなく、
「帰国子女」という四字熟語の形で記載があるかどうか。

国立教育行政研究所教育図書館レファレンスサービスへの問い合わせ内容

 その結果は、次のようなものだった。

結論から申し上げますと、この号には「帰国子女」という四字の熟語・単語は使用されておりませんでした。
 当該号の表紙タイトルは、
 ・「在外邦人子弟・子女の教育に関する研究(その1帰国後の教育問題)」
  (本文ページ:p.1-31・資料編:p.35-49)となっており、
こちらで確認したかぎりでは、「帰国子女」という文脈にあてはまる部分には
「海外勤務者子弟の帰国後」「在外邦人子弟子女の帰国後」「海外からの帰国者」「帰国した児童・生徒」「在外子女の・・・」等の表現でした。
 その他当館が所蔵している『桐朋教育研究所所報』の1966年以前の1-7号も確認しましたが、当該研究・熟語・単語に関係すると思われるタイトルのものは見当たりませんでした。

国立教育行政研究所教育図書館レファレンスサービスからの回答

 『在外子弟の教育』の出版は1978(昭和53)年なので、扇谷らによって「帰国子女」に書き換えられたのだろうと推察できる。

 可能性としては、1964(昭和39)年の国会答弁よりも前に文部省と東京学芸大学附属大泉中学校との間で行われていたはずのやり取りが内部文書として存在しているかもしれないが、今回はそういうものを発見することはできなかった。

「帰国子女」の一般的な定義

 せっかく古い資料が発掘できたので、まず1965(昭和40)年に文部省が行なった「海外勤務者およびその子女の帰国後の編入学の実態調査」における調査対象の定義から見てみよう。

  • 昭和39年4月1日から昭和40年3月31日までに帰国した

  • 小学校から大学までの学令期の子女

 海外滞在年数などは考慮されていないので、「帰国子女の在外中の就学状況をみると、1年−3年程度海外で教育を受けた者が多いが、中には6年以上に及ぶ者もあった」と記されている。

 次に大泉中学校の「生徒募集要項」における出願資格を見ると、以下の通りである。
(1)日本国籍を有する者
(2)在外期間が1か年以上の者
(3)昭和41年3月現在下記の資格ありと認められる者
 第1学年 満12才以上 6ヶ年の学校教育を終了した者
 第2学年 満13才以上 7ヶ年の学校教育を終了した者
 その他本校において適当と認めた者
(4)通学に要する時間が1時間以内の者

昭和41年度 東京学芸大学附属大泉中学校 帰国子女教育学級生徒募集要項

(4)の通学時間は別として、ここでは「在外期間が1年以上」という要件が加わっている。

 さて上記のように、「帰国子女」の定義には、大きく分けて2種類のものが考えられる。1つは統計調査のためであり、もう1つは帰国子女として学校に出願するための応募資格だ。

 まず統計調査については、日本の学校教育にとって最も基本的な調査といえる「学校基本調査」に帰国子女数の項目が設けられたのは1977(昭和52)年からで、「引続き1年を超える期間海外に在留し、その1年度間に帰国した小学校から高校までの児童生徒の数」を調べている。一方、文部省は何年かに1度ずつ、「帰国子女在籍状況等に関する調査」を行なっていて、そこでの定義は「海外在留1年間以上」で、当該年度までの3年間に帰国した者となっていた。

 一方、いわゆる「帰国子女受け入れ校」における出願資格については、公立学校ではおおむね各自治体の教育委員会が、私立学校では当然ながら各校が独自に定めている。これらを概観すると、下記のような項目を組み合わせたものが多い。

  • 海外に在留していた年数および帰国後に経過した年数を基礎にするもの

  • 海外勤務者の子女に限定する場合と、広く海外に在住した子女とするもの

  • 全日制日本人学校に在籍していたか、あるいは現地校ないしインターナショナルスクールに在籍していたかで区別するもの

  • (とくに私立学校あるいは高等学校において)外国語力あるいは日本語力を基準とするもの

  • (とくに大学において)高校修了あるいは大学入学にかかわる国際的な、あるいは各国による統一試験の結果を求めるもの

 ところで、たとえば帰国後半世紀以上たった僕自身のような場合に、「僕は帰国子女である」と名乗るための定義は、公的には存在しないと言っていい。そもそも「子女」という年齢ではないし、「大人になった元帰国子女」の数を把握する調査などは誰も行なっていない。だが、かつて「帰国子女」であったことは確かなので、勝手に名乗っている。
 これについては、以前に僕が書き散らかした短いエッセイがある(初出:『私情つうしん』第2号「パラダイムの逆立ち 帰国子女の定義」、1995)。

「帰国子女」から「帰国児童生徒」への変遷

 冒頭に記したように、当事者である帰国子女本人たちの間で「帰国子女」という用語は不評だ。そればかりではない、海外帰国子女教育研究の泰斗である佐藤郡衛氏もその著書(『海外・帰国子女教育の再構築—異文化間教育学の視点から』玉川大学出版部、1997)で「『子女』という言葉に対して、差別的なイメージを感じる」と記している。さらには1992(平成4)年の第132回国会では参議院予算委員会で次のような論戦も行なわれていた。

○乾晴美君 この前の当委員会で子女の問題を提起させていただきましたけれども、そのときに、子女の子というのは息子そしてまた娘という意味があり、子供全体を指しますというようなお答えもいただきました。そういうことであれば、子ということで子供、男女を意味するなら、なぜその後に女をわざわざつけなきゃいけないか、女という字は要らないじゃないかと思います。
 なぜ子女にこだわらなければならないかということで、もう一度御答弁をよろしくお願いしたいと思います。
○国務大臣(鳩山邦夫君) 子女という言葉は息子と娘という意味があるという、女の子だけを指す場合もありますが、広辞苑等もそういうことを書いてある。それで、御承知のように憲法でもあるいは教育基本法でも「保護する子女」ですね。
 だから、要するに息子と娘という意味をうまく表現する言葉が日本語に他にないということなんですね。
 私どもは実は文部省の中では帰国児童という言葉を使います。それは帰国してきた小学生のことを言いますし、帰国児童生徒という言い方もします。義務教育段階で帰国をしてきた方を指す場合にそういう言い方をいたしますが、帰国児童と言うとどうしても小学生という形になってしまいますから、じゃ帰国子供とか帰国息子、娘というのでは、日本はやっぱりごろが大切で、俳句でも短歌でもごろがよくなくちゃいけませんから、帰国子女というのが一番いいかなと、こういうことでございます。
○乾晴美君 やっぱり憲法に使っているということかもしれませんが、帰国子女というような言葉を絶対に使わなきゃならないというような法律がほかにもあるのでしょうか。
○国務大臣(田原隆君) 子女という言葉は憲法にあるわけで、憲法二十六条の第二項において、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」という規定があるし、一方で憲法の十四条に法のもとの平等というのを規定しておりまして、性別による差別を禁止しておりますから、この子女という言葉は性別による差別とは法務省としては考えておりません。
○乾晴美君 ここの国会というのは非常に言葉を大事にするところだと思います。非常に意味もあることだと思います。そういうところで、やはり子女という言葉は女子供というような感じでおかしいなと思っている人がたくさんいらっしゃるのに、なぜそれにこだわってやらなきゃいけないか、どんな不都合があるか、変えたっていいじゃないかという意見を私は持っているわけです。全国にはこの子女というのはいかにも女子供という感じだなと受け取っていらっしゃる方も随分いらっしゃるということを御認識いただきたいと思います。

国会議事録から抜粋(太字は古家)
乾晴美氏は当時野党の議員。国務大臣鳩山邦夫氏は文部大臣、国務大臣田原隆氏は法務大臣。

 言うまでもないが、「子女」とは上記のように日本国憲法第26条(義務教育の定め)に登場する用語で、英文憲法で該当箇所を見ると「その保護する子女」=「all boys and girls under their protection」となっている。国会での議論のとおり、「子」=boys、「女」=girlsであることがわかる。

『岩波基本六法 昭和51年版』英文日本語憲法から(下線は古家)

 一方、「児童生徒」について言えば、学校教育法では小学校に通う学齢の子どもは「児童」、中学校に通う学齢の子どもは「生徒」と呼ぶことになっているが、児童福祉法や児童の権利に関する条約においては「児童」で「18歳未満の者」と規定されている。

https://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-12601000-Seisakutoukatsukan-Sanjikanshitsu_Shakaihoshoutantou/0000096703_1.pdf

 さて、この記事を書くきっかけをくれた峰松愛子さんからの最初の問い合わせは、「文科省が『帰国子女』という言葉を使用せずに『帰国児童生徒』という言葉を使い始めた時期や理由」というものだった。

 これに対して僕が調べたのは、月刊『海外子女教育』誌において毎年掲載されてきた文部(科学)省および外務省の予算についてのニュース(「政府概算要求まとまる」あるいは「政府原案まとまる」など)の記事、そして同様に毎年掲載されてきた帰国子女数統計(前述の「学校基本調査」)の結果を報告する記事だった。

 まず予算関係を見ると、1981(昭和56)年10月号では「子女」のみ。「帰国子女受け入れ体制の整備」という項目が立っていた。
 1982(昭和57)年10月号では「児童・生徒」と「子女」が両方とも登場。ただしこの号では「児童・生徒」と、間にナカグロが入っている。たとえば「帰国子女教育受け入れ推進地域の指定」という見出しがあり、本文の冒頭が「帰国児童・生徒」。これがしばらく続き、1985(昭和60)年10月号で初めてナカグロが取れ、「児童生徒」と「子女」とが併記されている。以降これが長く続いていた。
 ずっと時代が下がって1999(平成11)年10月号には「帰国子女」および「帰国に伴う国内校への編入学をする児童生徒」という表現があって、翌2000(平成12)年10月号で大きく変わる(この年、文部省が文部科学省に改組され、同時に「教育助成局海外子女教育課」から「初等中等局国際教育課」へと担当部署の名称が変わった)。この号の記事を引用すると「従来の『帰国子女・外国人子女教育受入推進地域の指定事業』(中略)を廃止し、(中略)『帰国・外国人児童生徒と共に進める教育の国際化推進地域事業』の実施のために必要な経費を新規要求している」となっている。このあとは、確認できただけで2023(令和5)年まで「帰国・外国人児童生徒」である。

 ここまでを要約すると、政府予算案あるいはその手前の概算要求で初めて「帰国児童(・)生徒」が用いられたのは1983(昭和58)年度の予算案と言えそうだ。また2000(平成12)年度までは「帰国子女」という用語も用いられていた。さらに翌2001(平成13)年度からは「帰国・外国人児童生徒」と括られている。

 一方、「帰国子女数統計」においては、記事の見出しおよび掲載されているグラフの表題に注目した。

月刊『海外子女教育』1997(平成9)年3月号から(枠線は古家)
記事の見出しは「帰国子女」、グラフでは「帰国児童生徒」。双方が混在している。

 1971(昭和46)年の創刊から1985(昭和60)年いっぱいまではこの帰国子女数統計についての掲載がなかった。
 1986(昭和61)年3月号で初めて「帰国子女在籍状況等に関する調査結果の概要まとまる」という大きな記事が掲載され、そこには「子女」だけが登場している。
 翌1987(昭和62)年10月号で、以後恒例となる「帰国子女数まとまる」という記事が登場。見出しもグラフのタイトルも「帰国子女」だが、本文中には「帰国する児童生徒数」という表現もある。
 グラフのタイトルが「帰国児童生徒」に変わったのは1990(平成2)年10月号から。
 記事の見出しが「帰国子女数」から「帰国児童生徒数」に変わったのは、2012(平成24)年4月号から。つまりここで初めてこの記事から「子女」という文言が消えたことになる。

 今回の調査で突き詰めることができたのは以上である。もし僕が見落としている資料などをご存知の方がいたら、ぜひご教示願いたい。

 この記事を書くきっかけをつくってくれた峰松愛子さんには、調査のプロセスでもさまざまな示唆をもらった。桐朋女子中学校・高等学校で教頭・国際教育センター主任を務める熊野孝先生と東京学芸大学附属大泉中学校(現・東京学芸大学附属国際中等教育学校)で副校長を務めた成田喜一郎先生には、貴重なご協力をいただいた。さらには国立教育行政研究所教育図書館のレファレンス担当者にも感謝する。国立国会図書館と国立公文書館のデジタルアーカイブが大いに役立ったし、川崎市立中原図書館ではさまざまな書籍や新聞・雑誌などのデータベースにアクセスできた。
 そして、この面倒な議論をここまでお読みいただいた読者の方々にも深く感謝する。

 ちなみにこちらは、もっと気楽に極私的なエッセイとして、この用語について僕が思うところを書いた過去の文章(初出:『私情つうしん』第16号「パラダイムの逆立ち 4 帰国子女の性格特性」、1998)だ。

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