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グールーはひとり

グールー。導師、というんでしょうか?
 
私の行くスポーツジムにはそれぞれ素晴らしいHatha Yoga、Iyengar Yoga、Vinyasa Yogaの先生が何人もいらっしゃるんですが、その中でも心に大きな足跡を残すのがトニーの言葉です。
 
トニーは厳しい師匠の下で修行したときに37人中の35番目と後ろから数えた方が早いほど、身体は固く、ちっともお師匠さんの言うとおりにできなかったダメ生徒だったのだそうです。試練に試練を積んで、やがて試験に合格し長い時間が過ぎて、今なおヨガの指導を専門職としているのは37人中たった2人なのだそうです。なんという厳しい世界なのでしょう。

そんなトニーが1時間半のレッスンの最後、ナマステの時に言ういくつかのフレーズがあります。
 
You are the one and only Guru in this world for yourself. 
訳:あなた自身の導師はこの世であなた一人だけなのです。


ヨガについて深く勉強したことはないのですが、この言葉にはきっととても深い意味があるのだと思います。
 
もちろん、私たち一人一人が自分の直観や閃き、悟りに対して自信を持つ、ということへの応援の言葉でもあると思います。まずそれが一点。
 

しかし、彼が導師としての立場でありながら自分の立場を否定しているところにさらに意味深さがあります。
 
いろいろな教えを学ぶときに、私たちは権威を求めて最高峰の大先生に最高峰の教えを求めたい、と願います。そのときにその導師と自分との位置づけを、自分がどうしているか?

そして、それ以上に大切なのは、その導師が導師自身と私たち弟子との位置づけをどうしているのか?このことはあまり問題にされないことが多いように感じます。

しかし、物騒になってしまった社会を見渡すと、人の上に立ちたい、偉くなりたいという、経済的成功を収めたいという、おそらく親の期待に応えようとするたくさんの人が上に立ったり経済的力に付随するだろうと勘違いしている権威、権力ばかりを求めた結果、常識的な判断が疎かになっているケースが非常に多いことに気づきます。

本来なら人の上に立つことや経済的成功を収めるということは、人間性を磨いていった結果として後ろから追いかけてくるものであり、決して他人を振り回すための権威ではないはずです。

長年の努力を重ね到達している、あらゆる分野の師匠という立場の方々それぞれを尊敬する気持ちは変わりません。ただ、私自身が師と呼ばれる立場についたこともあり、その経験から語らせていただければ、あの方たちも私と同じ人間であるという事実を私は忘れたくないのです。いえ、導師、あるいはリーダーと認められたすべての人たちも含め、私たち誰もがそのことを忘れてはいけないのだと思います。教えがどんなに素晴らしく神がかっていても、神格化というプロセスが発生した途端に、双方に人間の弱さが内在してしまうのだと思います。
 
そして、残念なことに実はその神格化はあちこちでいとも簡単に導師側からも要求されているような気がします。依存関係が生まれてしまうことで、建前や保身に惑わされた結果、一つ一つのできごとを検証しフェアな答えを出すことができなくなる。
  

もちろん、教えていただくことに対して最高の敬意と感謝を示すのは第一条件です。もしそこにあるべき敬意や感謝の気持ちが希薄になってしまえば師弟の関係は損なわれ、本当の意味で師からおしえを受け取ることは困難になります。抵抗が発生し、師と徒という二極間の流れが遮断されてしまうからです。ですから、まずはおしえ・まなびの流れを潤滑にするため、受け取る側は無心になりあらゆる抵抗を取り除き感謝と共に吸収することが大切です。感謝し吸収してからそれを検証し、自分の叡智に取り込むのかそうでないかを吟味すればいいのです。抵抗を導師に感じさせてしまうことほど、まなびに支障となることはありません。 

それを最低条件として次に必要なのはおしえを受け取る者が、この導師も自分と同じ人間なのだと位置づけられるということ。その事実を受け入れることで、導師を介して聖なる叡智をおすそ分けしていただけるだけではなく、同じ人間としてのその導師が私達すべての人間の無限の可能性に光を灯してくださることの価値を再確認できるのです。人間として成長し導師となったその事実を受け入れることこそ、ありとあらゆる人間を包み込み引き上げることのできるおしえであり、本当の愛のおしえだと思うのです。そしてそこに縄張りも派閥もないはずです。すべてに同意する必要も圧力もなくなる。
 
無心に学んだ生徒はやがておしえを実践し、自らの叡智へと昇華させ、学びと教えの連鎖は広がり、末代へとつながっていくのです。そして一人でも多くが深くまなび・行動し続けることであの「百匹の猿」の逸話のようにテレパシーとなって人類に多大なる影響をもたらすことも可能です。
 
派閥、あるいは教祖様を中心にした集団が大きくなり、社会的権威をもつということはよくあることです。カルトという表現は「教祖に洗脳されてしばしば集団生活を営む狂信的教団」という否定的、あるいは軽蔑的な意味合いで使われることが多いのですが、もともと「礼拝」を意味するラテン語 cultusから派生した言葉であり、広義の解釈では「礼賛, 崇拝(一時的)熱中, 流行, …熱;マニア、あるいはその対象」というなんらかの共通的思想や儀式を行うことを目的に集まる二名以上からなる集団ということになり、そこには否定的な意味合いはなかったようです。
 
今や交通移動手段も充実し海を越えて顔を合わせるオフラインのミーティングをはじめ、地理的時間的な限界を超えて人々が集まれるリモートでの会議や作業が可能な時代です。
 
9-11以降、戦争へと突き進んでいったアメリカも国粋主義をベースとしたカルトであれば、アイドル歌手を追いかけるのも広義の意味のカルトなのでしょう。行き過ぎたカルトには自分以外の人やことがらに必要以上の価値観を置いてしまう人、そして置かせる人、その両方が存在します。
 
遠い昔に起きた事ながら、今だ遺族や被害者の方々がこころの傷を引きずっているだろうオウムの事件があります。どんな理由があったにしろ、ある一人の人間に判断をすべて委ねてしまうこと、そして自分ひとりに全権を委ねさせてしまうような組織、思想、暗示をもって洗脳してしまうような先導者、その両方があってはならないことだと思うのです。
 
オウムの首謀者たちが処刑された今でも問題は何も解決していない。誰かを処刑しなくてはいけないと思う心理はなくなるどころかより多くの心をむしばんでいるようにさえ見える。私たちは首謀者たちにだけ罪を問うのではなく、どうしてあれほどまで学力や才能ある科学者が共謀し、さらに数多くの若者たちがオウム真理教というカルトに魅せられ抜けられないような社会的背景を作り出してしまったのかということを、それぞれ個人の課題として考え続けていく必要があるのかもしれない。当事者である必要はないのです。


導師でありながら、自分は導師ではないのだよ。君自身が君自身の導師なのだから、とはっきりと自分の立場を否定してしまう。このアンチテーゼには、本当はその奥に、私たちはみな高次元の場ではひとつなのだから、というすべての人間を引き上げてくれるメッセージが隠されているのではないでしょうか。
 
鍛え上げた柔軟な芸術作品ともいいえてしまうジャコメッティの彫像のように細く長く伸びるトニーの肢体から流れでるこの言葉の重さに、いつまでもいつまでも深く深く頭を下げ続けずにはいられない私です。
 
 
...NAMASTE...(=I bow to you.)



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