マルセル・デュシャンについて
『THE ESSENTIAL DUCHAMP デュシャン 人と作品』フィラデルフィア美術館/『マルセル・デュシャンDUCHAMP』ジャニス・ミンク TASCHEN/『マルセル・デュシャン全著作』ミシェル・サヌイエ編 北山研二訳 未知谷/『マルセル・デュシャンとは何か』平芳幸浩著 河出書房新社/『デュシャンとの対話』ジョルジュ・シャルボニエ著 北山研二訳 みすず書房
美術が好きで例えばルネサンスやシュール・レアリズムなどの区分でもいいしルーベンスとかゴヤとか特定の画家や彫刻家でもいいけれど、好きだなと思ったら機会があればできるだけ美術展に行って直接その作品を観るべきと思い、若いころからずっと美術展通いをしてきた。
特にこのマルセル・デュシャンという人は20世紀のもっとも偉大な芸術家といわれているにも関わらず、僕には何が偉大なのかもっともよくわからない一人だった。いや、今でもそうなのだから一人である、というべきか。
で、これもやはり実物をこの眼で確かめて何か分かることがあるだろうかと、2018年11月に東京国立博物館で開催された「特別展/Special Exhibition マルセル・デュシャンと日本美術」に行ってみた。
芸術作品というものは、それが生み出された直後から独り歩きをして、その芸術家の人物像から独立し、作品そのものに対して鑑賞者の琴線に触れ、感動したりするものだ、という思い込みが僕にはあった。しかし実際に美術展に足を運んでいるうちに、ミケランジェリにしてもゴヤにしてもピカソにしても、その人がどのような時代に何を考え、何を訴えようとして作品を生み出したかを全く無視して鑑賞してもしかたがないと思うようになった。
そんな思いがもっとも強かったのがマルセル・デュシャンという人についてだった。かの有名な小便器を逆さにしてR.MUTTという偽名をつけ出品した「泉 1950(レプリカ/オリジナル1917)」(しかも現在展示されるのはレプリカという二重のアイロニー)、大きな張り合わせのガラスになにやら幾何学的で不規則な図形を配置した「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも(大ガラス)1915-23」(この画像を僕は長いこと携帯電話の壁紙にしていた)、レンガの囲まれた古ぼけて壊れかかった木製の扉に開いた二つの穴からのぞき込むと、藪の中に横たわった女性の裸体がガスランプを掲げており、背景の森には小さく滝が見えるという「遺作」。どれもみなこれだけを見て偉大な芸術作品だとは誰だって思わないだろう。
マルセル・デュシャンは芸術作品を創っていたわけではなく、芸術作品を創るという”行為”そのものを問いかけて、その答えは社会の批判、反応、評価によって時間をかけて導き出されていく、ということを考えていたのではないだろうか。だから、平芳幸治氏は「マルセル・デュシャンとは誰か」ではなく「マルセル・デュシャンとは何か」とした。
ジョルジュ・シャルボニエの『デュシャンとの対話』のなかで、絵画の値打ちについてデュシャンはこう言っている。
シャルポニエ ー しかし、値打ちという観念が芸術作品の観念と結びついていることは、どのようにして理解できるのでしょうか。
デュシャン ー 理解なんかできない。だからこそ、レッテルを貼るなんてまったくバカげたこと。それはそれ自体として二律背反的なのですよ。
さらにデュシャンは、芸術作品には数値上の価値や精神上の価値さえもない、ただその現前によって課されるあるものなのだ、と言っている。
いずれにせよ、マルセル・デュシャンについて、ダダやキュビズムなどの運動について、彼が生きた時代について、彼の”行為”と対する世間の反応について、思い巡らすことはたくさんあり、まったくそこが見えて来ないことに限りない喜びを感じている。