【BOOK】『慈雨』柚月裕子:著 己に恥じない生き方を慈しむ雨
「慈雨」とは、万物をうるおし育てる雨。また、ひでりつづきのときに降るめぐみの雨のことをいう。
主人公・神場は警察官を定年退職し、妻と共にお遍路の旅に出る。
巡礼の最中、捜査中の幼女誘拐事件が16年前の自身も関わった事件と酷似していることに気づく。
過去の過ちと警察組織への忠誠心の狭間で葛藤する男の、真実への矜持が迸る傑作長編ミステリー。
本作の構造は「安楽椅子」ならぬ「お遍路さん」探偵ミステリーである。
安楽椅子探偵とは?
お遍路さんとは?
数多くのいわゆる「刑事もの」「警察もの」のミステリー小説を読んできたが、とりわけ異色の設定である。
主人公は元警察官の神場智則。42年間勤め上げた警察官を定年退職し、四国へお遍路の旅へ出ている。
巡礼の旅をしながら、とある幼女誘拐事件を知る。
元同僚や元部下たちから捜査の相談を受ける内、42年前の事件と酷似していることから、忘れ去ることのできない重大な過ちを反芻する。
神場は終始お遍路周りをしており、事件を捜査をするわけではない。
元部下と連絡を取り合いながら、少しずつ情報を集め、真実を見つけ出そうとするのだ。
こうした特殊な構造に注目しがちであるが、本作の魅力はどこまでも「男くさい」中年男の哀愁と仕事への矜持なのである。
神場は自身が過去に犯した過ちをずっと胸に秘めていた。
その贖罪の意味もあって巡礼の旅へ出たのだろう。
どんな人間も間違わない人間はいない。
たとえ警察官であってもだ。
神場には警察官としての職務を全うしたいという気持ちと、警察組織全体に関わる信用問題との板挟みにあった過去があった。
お遍路の旅で自分自身の人生を振り返る。むしろそのために巡礼しているようなものだ。
過去を振り返り、消えない汚点を振り払おうとするが、考えれば考えるほど絡みついていく負の記憶。
ひとりの初老男性の悔恨と贖罪の物語、として読むこともできるが、最も心を打たれたのは、その仕事に対する正直さだ。
20代の若さで群馬県の県北の端にある集落へ駐在勤務を命じられ、難しい村人との関係構築などを経て、職務を全うする。
その後、本庁の刑事となり、定年まで務めるなど、一貫してその真摯な仕事ぶりは変わらなかった。
だからこそ、唯一と言っていい「汚点」が自分で許せなかったのだろう。
今、ここまで自分の仕事に誇りを持って働いている人間が、どれほどいるだろうか。
昨今ニュースを賑わせている政治家や企業経営者、国家の権力者は、己に恥じない仕事をしていると、胸を張って言えるだろうか。
自分たちの過ちを見て見ぬふりをしたり、無かったことにしたり、隠したりしていないだろうか。
神場は警察を辞めても、自分で根っからの刑事だと認識している。
お遍路旅の途中であっても、事件解決への糸口を常に掴もうと足掻いている。
その真っ直ぐに生きる姿勢に、天は恵みを与えた。
晴れた空から降る優しい雨、慈しみの雨、慈雨が。