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普通のシングルマザーがフェスを夢にする-音楽と共に歩んできた no.4《大学中退から社会へ飛び出す》


厨房での新しい出会い

大学に入る前に、アルバイトを始めた。
地元にあるとてもお洒落な佇まいの
インド料理屋だった。
オーナーはモード系のファッションに身を包み、
日本人とインド人が一緒に働いていた。

店にはデイゴの木があって春に満開になっていました。
花言葉は、「愛」「生命力」「活力」だそう。

スパイシーな香りが漂う中、
インド人が厨房にあるラジカセのスイッチを
入れる。

甲高い声の女性が歌う
インド歌謡の音楽に合わせ、
鼻歌を歌いながら陽気なインド人が
タンドールにナンを張り付けていた。

そんな様子を横目に、
高校を卒業したての私は
異国情緒のあるリズム感にワクワクした日々を
送った。

そして、
レストランのライブ感、
お客さんの笑顔、
その一瞬一瞬に感じられる
活気の中に私は特別なものを感じた。

さらにそこには、
私がまだ出会ったことのないタイプの
面白い先輩がたくさんいた。

DJ、旅人、絵描き・・・私の知る身近な大人にはいなかった。

人見知りだった私は普段出会わないタイプの
大人と何を話していいのかわからず、
質問されることに答えていた。


小さな体で世界を旅する大きな人

同じ厨房で働くお姉さんに、
仕事の合間にいろんな音楽や世界のことを
教えてもらうのがだんだん好きになった。

人生はとても自由なんだと思い知らされた。

彼女は世界中を旅していた。
身長は140cmちょっとしかなかったと思う。
歳も私とひと回り以上離れていた。

私は、彼女の物腰の柔らかさと
無限大の優しさを感じていた。

日常のささいな出来事も楽しんでいて
心の豊かさを持っていた。

家に招待してくれた時には、
砂利道のある長屋の古民家の中に
シタールや装飾品とともに
自分で描いたたくさんの絵が
所狭しと飾られていた。

とても繊細で、柔らかな色で、
自然や生き物をモチーフにしていた。
決して主張しないが、
ただ平和と温かみのある絵だった。

とある日のバイト後、
一緒に行こうと誘ってもらったバーは
「DUB花」というラスタマンの集まる店。

ドレッドロックスのオーナーがやる店には
奥に座敷があり、
トグロを巻いたような髪型のラスタマンが
7、8人。
ジャンベをゆるく演奏しながら
お酒を交わしていた。

私の知っていた、ビルボードでみていた
アゲアゲのレゲエの世界はほんの一部だった。

ヒップホップと同様、
そこにも文化や歴史をもとにして
出来上がっていった音楽だというのを
知っていく。

はじめてクラブに行ったのも、
この店で働くDJをしていた人たちが
主催するイベントだった。
ちょうど大学に入学する前の春休みだったと
思う、すごくドキドキしながら
中学からの友達とおしゃれして出かけた。

今はなき、奈良にある「RED」という
名前のクラブ。

おしゃれなファッションに身を包む大人が
DJの曲にあわせて踊っていた。
ビルボードでみた、
音に合わせて自由に楽しむ世界が
そこにはあった。

大学中退

大学は1年で中退した。
美術が好きで、
デザインの仕事をしたいと思っていたのだが
両親からの説得もあり
母が料理好きでよく
お手伝いをしていたこともあり、
抵抗のない食に関わる方向とシフトした。

大学への入学を希望していた父の意向もあり、
管理栄養士の資格が取れる京都の大学に
入学したのだった。

しかし、数字で管理する
料理の仕方が自分には向いていなかった。
両親には本当に迷惑をかけた。
とにかくレストランのライブ感に惹かれていた。


あの時私が自分の想いを押し切って
進みたい意思を伝えることができて、
行動に移していたら、
また違う人生だったのかもしれない。

といいつつ、
私は高校時代バイトをしたお金で
ファッションやプリクラ、カラオケに精を出し、
友達と遊ぶのが大好きな
何者でもないただの高校生で、
何の説得力もなかった。


音楽を掘っていく


高校時代の友人の影響で
「音楽を掘る人生が始まった」と記したが、
大学中退までの日々で、
さらに深堀りをしていく時期に突入する。
マンハッタンレコードのサイトで
PCからイヤホンに繋ぎ、
何時間も何時間も視聴に時間を注ぎ込んだ。

それと同時に、
大学を辞めて社会に放り出され、
どう生きたいのかをよく考えていた。

誰しも通るであろう哲学と向き合う期間。
夜中に携帯電話で友達と「カルマ」や「輪廻」
について話し合った時期もあった。

それと並行して音楽をとにかく聴き漁った。

国内外問わず、テクノ、ハウス、トランス、ヒップホップ、R&B・・・
どんなものが自分は好きなのか知りたかった。
ひとつのジャンルに打ち込んでやっている
人たちがとにかくかっこよく見えた。
私には「これ!」っていうのが
なかなか見えなかった。

といいながらも当時
一番よく聴いていたのは
リズム感が好きで
気に入っていたレゲエだったように思う。


ただ、当時の流行の仕方が派手で
ヤンチャな気質が強かったことから
私は流行っていたダンスホールに全く馴染めず、
聴く頻度が減っていった。

女子がほとんど来ない、
オタク男子が純粋に音楽を楽しみにきている。
もちろんナンパなんて考えられない、
レゲエの中でもダブワイズというジャンルの
音楽にハマった。
「自分」とはどういう人間なのか、
何が好きなのか、
個性としてどんな形で自分を表現したいのか。
そんなことを内に内に探っていく中で、
煌びやかで派手な世界は、
私にはほど遠いものだった。

陽気に騒ぐ感じは私にはほど遠く、
そして自分に自信のない現状を思い知った。



毎日修行の日々


その後、いくつかの飲食店での経験を積んだ。

多分当時の私は、
クールな人だったかもしれない。
とにかく仕事にのめり込んだ。

目的なく働く人とは仲良くできなかったし、
時に違和感がある時、
上司に噛みついた。

男性主体の厨房で、
力仕事も女だからと思われないように
肩を張っていた時もある。
同世代は大学に通いバイトにきている
キラキラしたかわいい女子たち。

今考えると私はやりにくい、
めんどくさい奴だったと思う。

東京の料理教室にだって、通った。
本を読み漁って勉強して、
気になる店を食べ歩いた。

自分ができることが増えて、
お客さんの笑顔を見るのが生きがいになった。
そして、いつか飲食店を持ちたいという
明確な目標ができた。


そうすれば、食事以外にも
自分がやりたいことを表現する場ができる、
未熟な人間がそう思っていた。

私は、何者かになりたかった。

帰りの電車の中で腕に魚の鱗が
張り付いているのがみえた。
でもそんな夢に向かう自分が
ちょっと好きだった。


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あとがき

レゲエにもいろんなジャンルがあります。
ダンスホール、ラバーズロック、
ロックステディ、ダブワイズ、、、

ダブワイズってあんまり馴染みないかも
しれませんが意外と潜んでいます。

当時ハマったのは
「DRY&HEAVY」「lee perry」など。


DRY&HEAVYというバンドが解散してから、
ボーカルのAO INOUEさんとmossというバンドの沖大八さんがおこしたユニット
「maccafat」はかなり大好きでした!
アルバム1枚しか出ませんでしたが。笑


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