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普通のシングルマザーがフェスを夢にする-音楽と共に歩んできた no.2《幼少期から中学生》


生い立ち

私は大阪で生まれ、
公務員の父親と専業主婦の母に
大切に育てられた。

音楽に興味を持ち出したのは小学生だった。
小学生の頃、小室ファミリーが
全盛期を迎えていた。

放課後、近所の公園で思いっきり
友達と遊んだあと、
料理が得意な母が美味しい手作りの夕飯を
食卓に並べてくれていた。
3人兄弟だったので大皿に
ざっくり盛られていたが何品も用意してくれた。

それを食べ終えたのち、
テレビの音楽番組を観て過ごすのが好きだった。
ときには近くのTSUTAYAで
CDを借りてもらった。

これが多分私が自発的に
音楽を聴きはじめたスタートだったと思う。
初めて買ったCDはMr.Chirdrenの「花」
という曲。

まだ小学生には早すぎる歌詞だったなぁと思うが、サビの歌詞が好きだった。

引っ越しと中学入学

その後中学に入学すると同時に
大阪から奈良に引っ越した。
喘息があった私が、
できるだけ空気のいい場所で過ごせるように、
というのがあった。

20年ほど前に新しく開発されたベッドタウン。
都会からのアクセスがよく、
転勤族も多かった。
綺麗に舗装された道路、
関西弁ではない地方から来た友人の
いくつかの話し方、
おまけに学校まで車の通らない
安全な道で登下校することができた。

古くからやっている商店が並ぶ商店街、雑踏。
夏には地蔵盆があり、
秋にはだんじり、
お正月には近くの神社にお参りに行く。
祖父母の家ではことあるごとに
風習に習った行事をする。

そんな下町で育った私には
町の歴史がこれからできていく、ニュータウン。その感じがとても新鮮だった。

引っ越して間もなく両親は、
少し離れた場所で畑を借り野菜を育て始め、
育ててくれた野菜が食卓に並んだ。

中学時代の私はというとバスケ部に入部し、
青春を謳歌していた。
学校生活は私の人生の中でも特別に感じるほど、
周りの環境に恵まれた。
前述したように転勤族が多かったので、
関西以外の方言があり、
転校も多かった。

学校指定のものは名札だけ、
私服だったのも特別感があった。

当時仲良くなった友達とは夢を話し合った。

文通で自分たちの感じたことを
何度も何度もやり合った。
幸いなことにいい担任の先生にも出会った。
教科は社会。

先生は学級通信で社会や時事を交えながら、
自分たちがこれからどう生きていくべきかを
常に問い、それをみんなが真っ直ぐに聞いた。

前向きに夢を追い誠実に熱く生きようとする
友達と充実した時間を過ごすことができた。

音楽はというと、
そんな自分にぴったりな青春ポップスを
まっすぐに好んで聴いていたように思う。
今でもみんなで選んで歌った歌は忘れられない。

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あとがき

山陰のミュージックバー&カフェで働く
シングルマザー、ひろみです。

みなさん中学校の時ってなに聴いてましたか?
当時は、めっちゃいっぱい音楽番組がありました。

ASAYAN、うたばん、HEY!HEY!HEY!、
Mステ、、、
ありとあらゆる番組観てたなぁ。

中学の時一番ハマったのは、
19かもしれません笑

cutie女子だった私は、
カラフルでおしゃれなPVに憧れてました!

特に岩瀬敬吾さんの声が好きでたまらなくて。
(当時どっち派?
みたいなのなかったですか?笑)

一度だけ、
学園祭に来てるのを観に行ったことがあります。

その時に歌ってくれた「つまさき」
という曲が、
とても綺麗なラブソングで、
うたばんで歌ってくれた時めちゃくちゃ
興奮したのを覚えています。

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