命を重んじるということ
とあるタレントが「死んでください」と
SNS上で発言したことが現在、
ネットニュースやテレビで大きな話題となっています。
発信力のある芸能人が今回のような失言をしてしまうと、元々の影響力が大きいだけに、大問題へと発展してしまいます。
この騒動を通して感じるのは、
今回はたまたま芸能人の軽率な発言でしたが
今回の「死んでください」にかぎらず、
最近の子どもや若い人の口からよく
「死ね」「殺す」などの言葉を聞きます。
口を開けばしょっちゅう、というような子もいます。
挨拶するかのように、
友達との会話で、
盛り上がっている中で
あっさりと「死ね」と言っています。
お互いに冗談の言葉として、悪ふざけで言っているので
「本気で言ってるわけじゃないから」
「そういう会話のノリ」
だと子どもや若者達は言います。
そういった悪ノリの延長戦といいますか、
時代の産物といいますか、
例の芸能人の発言は
今の若い人たちの言葉の使い方の問題が露呈したもののように感じました。
本当にあっさり、大笑いしながら
「死ね」「殺す」などの言葉が飛び交います。
何か嫌なことがあった時や、友達とのLINEのやりとりしている中で
「○○最悪、死ね」
「学校行きたくない、死ね」
「ヤバい、死んだ」
「死ねw」
こんな会話がよくなされています。
少し前は、「ムカつく」「キモイ」などの言葉がよく使われていました。
何か言うたびに、「キモイ」という言葉が定番のようにつく。
今の「死ね」の会話もそのような感じなのでしょう。
先日も、私の小さい教え子達が
追いかけっこやら
戦いごっこをしていた中で
何度も「ぶっ殺す!」「死ね!アハハ!」と言っていました。
それを注意しに行くと、私を後ろから捕まえて
「こいつを殺せー!」と
またもや悪ふざけの言動をし、大笑い。
こういった会話が日々学校やら、友達との遊びの間でなされているのです。
大人に叱られても、なぜその言葉について叱られたのかピンときていません。
よく「ゲーム感覚で、すぐにゲームオーバーになってもリセットできるから、それと同じ感覚で死ぬことを捉えている」と以前から言われていますが、もはやそれ以前の問題にもなってきた時代と思います。
そもそも命の重みを考えることすらしていないのです。
他者への思いやりや愛情、
相手の痛みを自分のこととして考える感性が乏しいのです。
今回の芸能人の言動に対して、
発達障害があるんじゃないか
という話題も出ているようですが、
何でも障害だと理由付けするのは失礼な話です。
障害がある方に対しても失礼です。
発達障害の人は人の立場に立って考えることができないとよく言われていますが、発達障害の子にかぎったことではありません。
障害のある子でも感受性豊かで、むしろ人の気持ちを受け取り過ぎてしまう子だっています。
障害の有無の問題ではありません。
障害があるから失言をするわけではありません。
障害がない人も失言をします。
障害がない子でも、思いやりや相手の痛みを想像することに欠けた子はいます。
むしろそういう子の方が増えてきているように思います。
障害の有無に関係なく、
思いやりや相手を尊重する気持ちが乏しければ、
失言もしますし、問題行動もします。
そういった自分の言動を振り返り、
改善しようと思える人は失敗からきちんと学びます。
そうでない人、気付きもしない人は
失礼な言動をいつまでもし続けます。
とてもあっさりと。
8月8日、大きな地震が発生しました。
南海トラフ地震発生の危険性も高まりました。
南海トラフ地震が発生した場合、
最悪の被害想定では死者32万人とされています。
こんなにも多くの人が亡くなる可能性がある環境下に私達はいるのです。
そんな環境下で、
自分も周りも死ぬかもしれない大災害がいずれ起きるというのに
私達は日常会話でいとも簡単に
平気で「死ね」という言葉を使っていて良いものでしょうか。
東日本大震災など、大災害の時は
「がんばろう日本」と掲げ
助け合いや、援助や、復興に尽力するのに、
そうでない平和な時になると、
「がんばろう日本」も
支え合うことも忘れて
悪ノリの会話で「死ね」と言う…
これはいかがなものか。
子どもや若い人にかぎらず
どの年代の人であっても、
平和慣れし、人への思いやりや
自分の言動によって相手がどう感じるかを想像できない人は、いとも簡単に軽率な言動をとってしまうのです。
「死ね」「死んだ」「殺す」
などの言葉を言いそうになる時、
その前に、本当に死んだらどうなるのかを考えてみてほしいのです。
明日も生きているはずだと思っていた人生が突然終わる。
そこに無念さや、心残りや、
悲しさや寂しさ。
自分のしたいことがもう二度とできなくなること。
会いたい人に会えなくなること。
家族や仲間、友人、ペット、大事な存在を残して逝ってしまうこと。
これらを考えた時、胸が苦しく、切なくなりませんか。
悲しきかな人間は
生命の危機を感じるほどのとてつもない恐怖や
悲惨な状況に陥らないと
命の重みや、人の痛みのより深いところまで気付けないのです。
耳の痛いことを言われないと想像することも
危機感を持つこともできないのです。
先日「ぶっ殺す!」と悪ふざけしていた教え子達。
注意しても、その意味を考えず、
さらに悪ふざけで「こいつを殺せー!」と言った彼らを私は容赦なく叱りました。
「死ね」「殺す」と言う我が子を
きちんと叱る親もいれば
とくに叱ることなく、言いっぱなしにさせている親もいます。
叱っても、その威力が弱く、
我が子に伝わっていない場合もあります。
過激かもしれませんが
そういった人の心だけでなく、
存在すら傷つけ、否定する言葉を発した時、
頬を引っ叩いて叱るぐらいの厳しさが必要なのではないかと思います。
痛みを伴わないと理解できない者が増えているからです。
さすがに他者の子を引っ叩くことは今の時代できませんが、
我が子であれば確実に引っ叩いて
「言葉の意味と、それを言った自分の愚かさを考えろ!」
と私は言うでしょう。
私は震災や病気などで命の危機に曝された経験が何度かあるからこそ、他者と自分の命を重んじる気持ちを大事にしてほしいのです。
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