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おばあちゃんとドジョウ
私はおばあちゃん子だった。
母方の祖父母はとうの昔に亡くなり、写真でしか見たことがない。
父方の祖父も私が生まれて一か月後に亡くなった。次女の私が生まれた時は「また女か」と言っていたそうだ。
「おじいちゃんのお葬式の時は、あんたを押入れに入れといたんだよ」
と母が言っていたが、母よ、生後一か月の赤ん坊の扱い、雑すぎるだろう。
そんなこんなで、父方の祖母は私が唯一『おばあちゃん』と呼べる人だった。
祖母は明治45年生まれ。
関東大震災や戦争を経験してきた世代だ。
昔の人にしては背が高くて、手足も大きかった記憶がある。
戦争に行っていた祖父の留守を守り、五人の子供たちを育てた肝っ玉母さんでもある。
世代のせいなのか、祖母の気質なのか、「もったいない」が口癖で、こまめに電気を消したり、裏の白いチラシやビニールや包装紙をよくとっておいていた。
目を閉じれば祖母の思い出がよみがえる。
一緒にお出かけした時、閉まりかけた電車のドアを両手でガシッとつかんで、「早く乗りな」と私を促したおばあちゃん。
近所のおだんご屋さんで買い物した時、「この間30円貸してましたよね」と言われ「そうだっけ?」と言っていたおばあちゃん。
スーパーで「お孫さんの写真撮りませんか」と言われ、高原のセットみたいなところで私の写真を撮ったものの、あまりの値段の高さに「こんなに取るの!」と憤慨していたおばあちゃん。
包丁で親指の先3ミリほど切り落としてしまい、絆創膏でくっつけて三日後に「くっついた」と言っていたおばあちゃん。
飼っていたインコを見ながら、「うぐいすの糞で顔洗うといいんだよ」とインコの糞で洗いたそうにしていたおばあちゃん。
「餅のカビは薬だ」と言って、カビの生えた餅をむっしゃむしゃ食べてたおばあちゃん。
懐かしいおばあちゃん。
そして、私には九月になると思い出す祖母のエピソードがある。
私の地元の商店街では毎年九月にお祭りがある。
朝から商店街にはお囃子っぽい笛や太鼓の音が流れ、いつもは堅苦しい顔をしている時計屋や電器屋をはじめ、商店街のおじさんたちがはっぴに鉢巻姿で動き回っている。
近くの神社の参道には屋台が並び、人であふれかえる。
威勢のいい掛け声とともに、おみこしを担いだ男性たちが町をまわり、子供たちは山車を引いて練り歩く。
山車を引いた後は子供たちにとって一番楽しみなメインイベント、
ドジョウ掴み大会だ!!
ドジョウ掴み大会とは。
鰻屋全面協力、文字通り商店街のアスファルトの道路の上に大量のドジョウをぶちまけ、子供たちがピチピチと蠢くドジョウを掴んだり、ツルっとなったりしながら戯れ、ゲットする阿鼻叫喚のイベントである。
私はこのドジョウ掴み大会を毎年楽しみにしていた。
ドジョウ掴み大会に賭けていた、と言ってもいい。
脳内でイメージトレーニングを繰り返し、ゲットしたドジョウを水槽で飼う様子を想像してはニヤニヤしていた。
やがて道路に水が捲かれる。
集まった子供たちはお互い牽制し合いながらベストの位置を探っている。
プラスチックの大きな桶の中に、うじゃうじゃとひしめいているドジョウ。
スタートの合図とともにドジョウが道路に放たれた!!
ワーーーーー!!キャーーーーー!!
奇声を発しながら大興奮でドジョウに挑む子供たち。
一心不乱、もう服はビッショビショ。
踏まれてご臨終なされたドジョウも所々にいらっしゃるという地獄絵図。
ドジョウは掴もうとしても掴めないので、私は持っているビニール袋の口を開いて地面にくっつけ、ちりとりと箒の様にして捕まえるという小ずるい方法で、割と多くのドジョウをゲットした。
「おばあちゃーーーん、ドジョウ取って来たよーーー!」
私は祖母の喜ぶ顔が見たくて、一番に祖母にドジョウの入ったビニール袋を差し出した。
「おおーそうかいそうかい、いっぱい取れたねえ」
言うや否や、祖母は熱されたフライパンの中にドジョウを放り込み、蓋をした。
ジュッ!
というドジョウたちが天に召される音を、私は今でも忘れない。
卵でとじられ、立派な柳川鍋になった彼らをおいしそうに食べていたおばあちゃん。