忘れられない上司
私の在籍する職場はよく差し入れをいただく。
取引先や付き合いのある方からいただく差し入れはバラエティー豊か、かつ高級なものが多く、今の部署に来た当初はその豪華さに驚いたものだった。
皆さん喜ばれる差し入れを熟知されている。
デパ地下の話題のお菓子やケーキはもちろん、地方にお住いの方が直接送ってくださるお米、野菜。手作り味噌や一升瓶のお酒を社員一人一人にいただいたこともあった。どれも本当においしくて、ありがたくいただいている。
最近の個人的大ヒットは、1か月前にいただいたいちご。
家に2パック持ち帰り、さっそく食してみる。大粒でへたの際まで真っ赤に熟しており、ジューシーで濃厚で、甘さと酸味のバランスが絶妙。
何なんだ、このうまいいちごは……。
あっという間に夫と二人で2パック完食だ。
驚いたので検索。
茨城県のオリジナル品種「いばらキッス」。
絶妙にダサい(ほめています)名前も私好みだ。
茨城にしか売ってなさそうだが、強烈にお勧めしたい。
いばらキッスの宣伝をしたところで本題。
私には今の部署に来てからお世話になった、忘れられない上司がいる。
その上司・早川さん(仮名)は、部長を務め定年後にこの部署に天下り?してきた重鎮社員だ。
眉間にしわを寄せたシベリアンハスキーのような顔と、東北なまりの話し方から、怖くてとっつきづらい印象を持っていた。
「早川さん、今度異動してきましたえと申します。よろしくお願いいたします。」
おそるおそる挨拶すると、早川さんは予想外の言葉を投げかけてきた。
「えは何ができるんだー?」
「何もできないですー。」
本心だった。右も左もわからない部署に異動になって、不安しかなかったのだ。早川さんは眉間にしわを寄せたまま言った。
「なあんだ、俺と同じじゃないかー。」
あ、この人顔は怖いけどなんか気を遣ってくれてる……。
私は早川さんがなんとなく好きになった。
一緒に働いてみると、早川さんは人情味があってさりげなく優しい人だった。何もわからない私にいろいろ仕事を振ってくれ、隣に置いて助手のようにしてくれた。私のような下っ端には上からものを言う他部署の社員も、早川さんに対しては急に愛想が良くなる。早川さんのおかげで次第に職場になじめるようになっていった。
けっこうフランクな話もするようになって、夫婦喧嘩の話題になった。
「奥さんに謝ったりするんですか?」
「絶対あやまんねぇよぉー。」
「えー、気まずいじゃないですかぁー。」
「プライドがあるしー。」
かわいいおじさんなのだ。
ようやく仕事を覚え、なんとかやっていけるようになったある日、早川さんの異動が発表された。
恩人の異動に呆然とする私に早川さんは、
「困ったことがあったらいつでも電話するんだぞ。」
と自らの携帯番号が入った名刺を手渡してくれた。よっぽど私が情けない顔をしていたのだろう。早川さんの優しさが身に染みた。
実際には電話することはなかったが、その名刺は今でもお守り代わりに肌身離さず持ち歩いている。
居酒屋で行われた早川さんの送別会には、ほとんどの社員が参加した。
私の席は早川さんの右隣、さらに私の右には取引先若手男性社員のKさんが座っていた。
Kさんは早川さんを慕っていた。まじめだがちょっと個性的なキャラクターの持ち主で、それがいい味を出していてみんなにかわいがられていた。
飲み会が盛り上がってくると、Kさんが自分のアパートの隣の部屋から夜な夜な聞こえてくる、男女の営みの声の話をし始めた。その声は毎晩のように聞こえてくるらしく、Kさんは本当に困っているようだった。
話を聞いていたYさんとHさんのおじさん社員二人が、
「いいじゃん、いいじゃん」
「うらやましいよ」
などと適当な感想を述べたが、Kさんは、
「でも毎日ですよ…。」
とげんなりした様子でため息をついた。
その時である。
今まで黙って聞いていた早川さんがおもむろに、
「K!」
と発した。その声は重々しく、貫禄にあふれており、Kさんは背筋を伸ばして、
「はいっ!!」
と早川さんのほうに向きなおった。
「K」
「はい」
「お前は何をやってるんだ」
「はい」
二人は真剣な表情で向かい合っている。
早川さんとKさんに挟まれた私は動くこともできず、事の成り行きを見守っていた。
早川さん、怒ってるんだろうか…。
「K!」
「はい!」
「お前そんなことでどうする!」
「はい」
「お前が隣に声を聞かせられるくらいにならないとだめだろう!」
「はい」
「わかったか!」
「……わかりました!早川さん、僕、隣に声を聞かせられるようにがんばります!」
「そうだ、がんばるんだぞ、K!」
………………何言ってんだこの人たち。おもしろすぎるな。
早川さんとは今でも年賀状のやり取りをしている。
今は退職されて、ご夫婦仲良く暮らしておられるようだ。
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