アイデンティティ
アイデンティティ。
日本語にすると、自己同一性なんて言ったりもする。
『自分は何者なのか』という概念で、
心理学者のエリクソンが提唱した言葉だったはず。(大学4年、教員採用試験時の薄い知識)
では、社会人にとってのアイデンティティとは何か。
それは、自分だけにできることは何か。
自分の希少性を追求することだと思っている。
自分が得意なこと、武器が1つでも多ければ、その希少性は上がる。
教員でいえば、
授業、学級経営、生徒指導、教育相談、ICT、委員会、特別活動、総合、道徳、その他分掌…。
挙げればキリがないが、どれか1つでも特出していれば、それが武器になって、重宝される存在となる。
そしてその数が増えると、さらに重宝されていくのだ。
それが私の定義する、社会人にとっての『希少性』だ。
実は今英語を勉強しているのも、その一面がある。
1校目の4年間は、それが確固たるものとしてあった。
大学在学中に教員採用試験に合格したし、1発合格という自負もあった。(ちなみに同教科では主席だったはず)
授業では、誰よりも研究し、誰よりも教材研究に時間をかけた。
ICT、自分なりにたくさん勉強し、たくさんの実践を積んできた。
学級経営、生徒指導だって、誰よりも学んだし、先輩たちから吸収しようと意気込んでいた。
教員4年目(1校目のラストイヤー)では、
教科主任とICT主任。自治体を代表して研究授業。文科省から委嘱を受けてCBTの開発・研究。教育委員会と連携してAIについてのサイトを作成。教育長を交えてのYouTubeライブ出演。文科省のホームページ掲載。
自慢になってしまったが、それなりに自信はあったし、この業界でやっていけると確信していた。
3月8日には新天地が告げられた。
面接をパスし、念願叶っての希望校。ハイレベルな学校であることはわかっていたが、それに相応しい十分な実績があると思っていた。
そして迎えた今年度。
びっくりするほど何も勝てないのだ。
授業、ICT、2つの武器でも太刀打ちできない。
教務に配属のため、学級経営も生かせない。
自分の磨いてきた刀はなんだったのかと、自分に失望した。
もちろん、優秀な教員・生徒が集まる学校である。
教員に関しては、面白いくらい寄せ集めだ。
明らかにエリート集団である。
でも、そんなことはわかっていたのだ。
授業をしてみても、自分より格上の教員がいる。
ICTでも、絶対に勝てないバディがいる。
じゃあ、私がやる意味は?
私がここにいる意味は?
他の教員がやった方がいいのでは?
何回もそう思い、その瞬間、完全にアイデンティティを失った。
この学校に7年〜10年勤めるのだ。
もちろん異動はできるが、そんな簡単に負けを認めたくない。
血迷って、情報の免許を通信でとろうなんて考えたりもした。(実は今もまだ検討中である)
でもきっと、それをしたら次の絶望が待っているからキリがない。
自分よりできる人なんて、いくらでもいるのだ。
だからきっと、そんな付け焼き刃の考えではいけない。
自分にしかできないことは何だろう?
自分がここで生きていくにはどうすれば良いだろうか?
もちろんそんな簡単に答えは出ないし、今もまだ出ていない。
そもそも、チームで仕事をする上で希少性なんて必要ないのかもしれない。
そんな肩肘張ったって、疲れるだけなのかもしれない。
でも、20代後半の今、真剣にこの問題に向き合わなかったら、僕はきっと胸を張って生きていけないだろう。
たださえ、自信を失って、ギリギリで今立っているんだ。
私は、しばらく自分の『アイデンティティ』と向き合い、苦しまなければならない。