大江健三郎「空の怪物アグイー」
その音楽家には、アグイーが見えていた。
アグイーは、ふいに空から舞い降りて、音楽家の横に立つ。
カンガルーほどの大きさで、木綿の肌着を身につけた、太った赤ん坊。
音楽家には、その妻の産んだ赤ん坊がいた。だが、頭に大きな瘤があった。
医者の誤診により、その子は、殺されることになる。ミルクを飲まされず、砂糖水だけを与えられて。音楽家も、それを認めていた。つまり、殺したのだ。
以来、音楽家は、自室に閉じこもるようになる。だが、開いた窓から、たまにアグイーが空から降りて、入ってくる。
アグイー、とその音楽家が名づけたのは、その赤ん坊が産まれてこの世で発した音、音楽家が唯一聞いた、赤ん坊の口から出た唯一の音が、「アグイー」だったから。
バイトで雇われた青年が、その音楽家と街へ出る。
空からアグイーが降りてきた。交差点の信号が変わった。だがアグイーは歩いて行ったのだ。
救助しようと音楽家も交差点へ飛び出し、トラックに轢かれて死ぬ。
アグイーは、失われた大切なもの、葬られ、喪われた大切なものの、ひとつの、かたち。
ほら、いっぱい空中に浮遊している。100mほど上空に、それらは、丸みを帯びたかたちで。
大江健三郎、初期だかの作品。
アグイーと、友達になりたいと思った。