#2442 障がいの個性としての線引き
どこまでが個性と認められ、障がいとして理解しなければならないのでしょうか。
以下、私の小学生の時の実体験です。長文失礼します。
学年に知的障害のある同級生がいました。彼はよく手を舐めたり、机にツバを塗りたくり、異臭を放っていたので近づきたくありませんでした。それで避けていたところ、先生には知的障害の差別だと捉えられたようでした。個性だから、と諭されました。もちろん、知的障害だから避けていたわけでは無く、汚いと感じたから避けていたわけで、障がいの有無は関係ありません。結果、その先生たちの対応で特別扱いされているような不快感を覚え、数人でその人をいじめてしまいました。いじめたのは良くないと今では思いますが、避けたこと自体は別に悪いことじゃないと思います。
そこで、障がいの方はどこまでが個性でどこまでが障がいなのか議論したいです。上記の行動は合っていたのか、間違っていたのか。完全責任能力がなければ、理不尽があっても受け入れなければならないのでしょうか。
#1
なんと言いますか。その子は特別支援学級に入るべきでしたね。
差別をしない=健常者と同じようにする、という意味ではないと思います。
特に子供は精神的にも知識的にも未熟であるのだから、健常者の中に放り込むのはその子に必要な支援を受けさせないという親の差別というか、虐待ですらあると考えられます。
確かにいじめたこと自体は良くないです。しかし、その子が不潔である事を放置しているということは、その子に対して教師も必要な支援をしていないという事なので、どの口が言うのか、と言いたいところです。
障害者を差別せず、必要な支援を与えるということが差別をなくす、という事で、単に健常者と同じに扱うことは差別をなくしたことにはなりません。
多様性とはその人が生きていけるように、社会を整備し、必要な支援を受けられるようにする事であって、その結果、不自由が少なく生きていけるようになるのです。
その教師はその辺りを正しく理解できていなかったのでしょうね。
その子の親もでしょうね。
#2
障害であれ個性であれ全てを受け入れる必要はないと思います 当人もそんな事をのぞんでいないのではとも思います
個人が歩み寄りが出来る範囲こそがそれぞれの個性であり、これ以上歩み寄れないと感じる個性を否定するべきではないと思います
#10
質問者さんが不快な思いを訴えているのに、一緒に授業を受けさせるのは、先生によるイジメだと思います。
多様性でもなんでもなく、授業は真剣に勉強する人のためにあります。
授業を中断させる、または集中できない状態にする人を同じ教室に入れるのは、教師の怠慢だと思います。
それぐらい意味のない授業を展開していることの証明だと思います。
誰のための教育なのか、真摯に向き合えばどうクラスを分けるべきかが見えてくると思います。
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