アナタの知らない凄い脚本本がこれだ! 「橋本治 失われた近代を求めて」
脚本を書くにあたってやっぱり「プロ」の技を知らねば・・・・
と思い古今東西様々な「脚本本」を読み漁った結果
「ななななんだこのアバウトなチャートリアルっぷりは!!」
と驚愕してしまった僕ですが、でも「無敵の人3.0」という
脚本を書くにあたってとても参考にさせていただいた
「これこそ脚本本じゃん!!」という参考書との出会いが
ありました。その一つが
橋本治氏の「失われた近代を求めて 1.2.3」です
新しい人称と新しいセリフを求めて
僕が「無敵の人3.0」というXR脚本でたどり着いたのは
「無人称」という得体の知れない人称形式、
人称形式っていうとちょっとややこしいので言い換えると
それは「新しい視点」と言えると思います。
じゃあなぜ新しい人称が新しい視点が必要だったかと言えば
今、僕がこの瞬間書こうとしている「何か」
それを後に「ストリーム」と名付けましたが
を書こうとする時、それを絶対に書かせようとしない
ほとんど「呪い」のようなものにがんじがらめに
なってる事に気づいたからです。
「呪い」といってしまうくらいなので
ぶっちゃけフツーの方にはオカルト感マシマシなこの感覚・・・
そーーなってくると流石の僕も不安になってきました
「あれ・・・僕おかしくなっちゃったのかな??やばいんじゃないか・・・」
とととととところが、いたーーーーー!いてくれた!!!
僕と同じような苦しみにもがき苦しんで七転八倒・悶絶してる
人達が、まさか100年以上前の明治時代にいっぱいいたなんて
言文一致運動とはなんだったのか
いやー・・・WIKIPEDIAのこのまとめ方酷いなぁ・・・(泣)
この江戸時代から明治時代へ、正に「ザ・新時代」に置いて
この言文一致という奇跡をどうしても手に入れようとした
代表的な作家はあの二葉亭四迷で
四迷先生の絶望と孤独と至高については
高橋源一郎氏が様々な形で書いていらっしゃるので
是非お読みください
言文一致運動とは「何を書いたらいいのかわからない」との戦いではなく
「どう書いたらいいのかわからない」との死闘でした。
こうやって書くとこんな事を思う方もいらっしゃるかも知れません
「どう書いたらいいのかわからないっていう感覚がわからない・・・」
書けばいいじゃん、書けばわかるさ!!
でも書けないんです。なぜならそれを書くための視点がないからです。
題名だけは知られているけれど多分最後まで読まれる事のない
日本文学史上最初の言文一致体作品
二葉亭四迷の「浮雲」はまるで映写機が故障して
突然上映が終わってしまった映画のような謎すぎるラストを迎えます。
「物語」的には完全にアウトです・・・
でも僕にはわかりすぎるほどわかりました
二葉亭四迷先生にとっては
この「浮雲」を書く間に手に入れた「新しい視点(人称)」だけが重要だったんだって事が。
その視点、「世界を何処から見る・聴くのか?」の位置さえ感じてもらえれば
「浮雲」という作品は成功だったのです。
この視点だけを手に入れるという感覚、物凄くXR的なありようだと
僕は思っています。
言文一致から自然主義へ、視点からセリフへ
そして「浮雲」が発表されるや否や、その新しい視点・人称の意味に
気づいた人達は突然狂ったように新しい作品群を生み出し始めます。
ようやく新しいものが見える
ようやく新しい音(声)が聴こえる
その視点から見えるものだけを聴こえるものだけを書けばいいんだ!!
それが後に「私小説」と名付けられる自然主義作品の誕生でした。
(チラっと以前の記事でも触れてますがXR脚本術では2020年代に書かれる脚本は私小説的方法論をとるべきだと思っています。それはもちろんドキュメンタリーであるといったような意味ではなくです)
ここでまず「物語」が決壊します。
新しい視点が物語という「呪い」から自由になったからです
そしてそれに合わせて今度は「私(人称)」が決壊します。
自然主義から私小説へ超ド級の文学的爆弾
田山花袋の「蒲団」はその決壊したワタシから吹き出す
性欲だけが正にXR的立体感でワシャワシャする正に「無敵の人」作品だったりします
この自然主義から私小説へ、新しい視点を手に入れる事によって
更新されたワタシが生まれたからこそ
「ワタシを語る私」という饒舌な、全く新しい語られるコトバ=セリフが生まれました。
新しい時代、新しい視点、新しいワタシ
その三位一体こそがセリフを生み出したとも言えるかも知れません。
失われた近代を求めてには「脚本」を書くためのマインドセットが全部書いてある
実は!!この時代の「新しい視点の誕生」に橋本治氏自身は
結論として懐疑だったりします(泣)
でもいいんです。僕は文学史を知りたくてこの本を読んだ訳ではなく
あくまでほとんどこの明治時代と同じくらい新しいセリフのための
新しい視点を必要としてる2020年代における脚本執筆のための
マインドセット本として読んでしまったからです。
「脚本村」に住む今の脚本家の方々の姿より
100年前の二葉亭四迷が田山花袋が死に物狂いに手に入れようとした
視点への足掻きっぷりの方が僕らに近いなんて
僕もこの本を読むまで思いもよりませんでした。
多分僕等が脚本を書く本当の理由とは「自由」なんだと思います。
そしてその自由さは本来、同じテキストを書くという行為に置ける
小説やエッセイetc、どんな著述形式よりも「今」という時代を書く事ができるのが
脚本だと僕は思っています。
そんな想いをもしキミがアナタが持っていてくれるなら
是非「失われた近代を求めて」にアクセスして下さい。
今回も読んでいただきありがとうございました。