障害の社会モデルから弾かれる人のこと
最近読んだ本まとめ
タイトルの話は③の「障害社会学という視座」です。
①ナッジ!?自由でおせっかいなリバタリアン・パターナリズム
パターナリズムとは、特に上の立場の人が下の立場の人に対して、介入をすること。たとえば、先生が生徒に対して、受験のアドバイスをするとかもパターナリズムに入るだろう。ただそれが強いパターナリズムになると、いろいろ弊害が生じてくる。例えば、医者が患者に強制入院させたりとか、進路を変えさせるとか。
撲滅すべきパターナリズムと強いパターナリズム、弱いパターナリズムの線引きが曖昧なケースでいうと、上の立場の人間が思想や行動を変えた方がいいという理由で、生徒や患者にそれを促すこと、それもパターナリズムと言えるだろう。というかそれが定義かもしれない
それを、お金や労力をあまり使わずに相手の意識外、相手が気付かないうちに行動を変えるのがナッジだ。例えば、スーパーでお菓子を見えにくい場所に、野菜を見えやすい場所に置き、健康増進をはかるのもそうだろう。それらの問題点や課題、展望についてまとめた本だ。本書は経済や法という点から論じてあったので、今自分の興味のある教育でのパターナリズムというところから外れるので、途中で読むのはやめた。
②坂口恭平躁鬱日記
双極症の日記というか、双極症を持った人の毎日の綴りという感じで、「病気の本!」という感じはしなかった。最後まで読んでないが、解決方法も書かれている雰囲気はない。「ケアをひらく」シリーズの当事者研究といえる本で学問的ともいえるだろう。
ところどころに教養とむずびついた表現があって、すごい面白い人だなあと思った。まあ僕は教養がないので分からないのだが、
丁寧な生活の一個上の生活という感じがする。この人は丁寧に生活をしたいわけではない。でも、いくつも書斎を持って、ツリーハウスがあって、花の冠つくって、、、子供たちや奥さんとのやりとりもすごく素敵だ。
③障害社会学という視座
障害の社会モデルをご存じだろうか。これは障害は、個人の能力の問題ではなく、社会や環境によって作られるという考え方だ。
それに対して一般的な考え方、障害は個人の能力がないことによって生まれるというのが医療モデルだ。
たとえば、車いすの人は、例えば足が何かしらの障害や欠損で使えないとしよう。でもエレベーターがあれば2階に上がることができるし、ほかの人の手を借りれば家の中や階段でもある程度不自由なく動くことができる。このように人の手を借りればその人は障害をもつ人ではなくなる。つまり、社会の側がエレベーターを作ってない、障害者を助けるような思想が一般的ではない、という感じで社会が障害を生み出しているという考え方が社会モデルだ。この考え方は1970年代には提唱されたらしく、いまやどの大学の障害学生支援室もこれを基に活動している。これは、社会の障害者への視点を変えるだけでなく、障害者自身も他人や社会の力を借りられらばいいと思えるようになり、すばらしい視点である。
しかし、この考え方にも捉えられない概念や零れ落ちていく人たちがいる。
僕は高校生のとき社会モデルと出会い、小論文の塾で教えられた。
地域社会の在り方、政治の在り方のついて仲間と話していたときだろうか。その中の仲間の1人である女の子に、「社会が変わればその人は障害者でなくなる、なんでわからないのか」と豪語された。そのときはなんか胸に引っかかって、「うーん、それはそうなんだけど、なんか違う気がする」と言って、話の分からない奴だ、医療モデルに基づいた差別者だと言われたような気がした。
社会モデルの提唱はパラダイムを変えた、すばらしい理論であったが、先ほども述べたように僕は多分そこから零れ落ちやすい人間だったのだろう。
まず、社会が変わっていくからといって、苦しいのは今で、社会が変わっていくスピードなど、そんなもの待ってられないというのが一つ目である。ただこれは社会モデルの欠陥ではなく、社会の変化のスピードの問題であるので、社会モデルの批判にはなりえないであろう。
ただ、社会モデルの始まりである、イギリスの障害学では重度の身体障害者が、想定する障害者像であった。直感的に分かりやすい障害者に注目するのは当然というか、誰でもそうするだろう。したがって一見重大そうに見えない障害、運動家ではない障害者、かつて障害を持っていた人を軽視する要素を社会モデルは持っている。僕は薬を使えばいいと思うのだが、それは医療モデルを迎合するのではないか。そんな極端な社会モデル主義者はいないと思われるが、、
薬を飲むのは努力は必要ないという考え方もあるが、それには大きな葛藤をもつ人も多い。医療も社会の要素の1つと考えれば、葛藤を生み出すスティグマを軽減する、薬を飲むようなサポートをしていくというのも社会モデルの1つといえるかもしれない。いずれにせよ、両方のよさを生かしていくことが肝要だ。
話は戻るが、僕の小論文塾でもボランティアをおこなっていたが、脳性小児麻痺という重い障害の人が被支援者となっていた。それがその友人の想定する社会モデル像であることは容易に想像できる。
僕は双極症という精神疾患を持っているが、例にもれずその中には入っていなかったのだろう。僕が彼女に対して「当事者である私と、健常者であるあなたとは少し見方が違うのかもしれない」といったら、「その区別はあまり必要ないんじゃないか」と言われた。僕も僕で健常者を周縁化しているところはあっただろう。
たしかに僕たちは外見上は対等な仲間で、学問上の仲間であった。しかし、そこには曖昧な上下関係があった。年齢と塾での滞在履歴だ。僕はその塾に入って、3ヶ月くらいのパンピーだったが、彼女は2年ほどそこにいて、彼女なりの理論を構築していたし、仲間も作っていた。彼女は僕に「客体」としての障害問題の話をしたかったのだろう。しかし、彼女には当事者性はあるだろうか。彼女はケアを中心に勉強していたのだが、当事者性の意識のない支援者は非常に危険に思える。さらに彼女は熱心に脳性小児麻痺をもつ方のボランティアをやっていたが、その方に同じことを、「障害者であるかどうかの区別は必要ない」と言えただろうか。
彼女による一般的な社会モデルの見方は僕のようなそんなに重くない(と思われている)精神障害は障害者ではない、当事者ではないということだ。マイノリティである障害者を差別しないという目的で作られた社会モデルは、その中にいる一見障害者には見えない、障害者の中のマイノリティを軽視するという結果になっている。
しかも、個人的な推察なのだが、気分障害(双極症、うつ病)と社会モデルの相性は悪い。うつや躁にならない予防としての社会的支援や回復後の支援(テレワーク、オンライン授業の整備、レポートの代替など)は効果的だ。
しかし、うつになったときはどうだろうか。うつのとき周りや社会が助けてくれることはすばらしいことだ。だが、それはあまり意味をなさない。手を差し伸べられても死にたい気持ちは回復しない。だから、社会が障害を作ってるって言われてもしっくりこないのだ。うつにまで追い込んだのは社会のせいなのかもしれない、うつから寛解に至らないのは社会のせいなのかもしれない。しかし、うつ真っ只中、言い換えれば欠損そのものが発現しているとき、社会は、社会モデルは何をすることができるだろうか。
一方で、大学生にはうれしいお知らせがあって、今まで国公立大学は合理的配慮の提供の義務はあったのが、私立大学はなかった。しかし、2024年春に私立大学でも義務化された。合理的配慮とは、障害を持った人がほかの学生と同じように大学生活を送れるようにするための制度だ。例えば、レポートや課題の提出期限の延長、別日程や別の部屋での試験、機器の貸し出しなどだ。
さらになんと!オンライン授業の合理的配慮の義務が全国で進んでいるらしい。僕の大学も来年の春を目標に義務化されるらしい。体育とかは厳しいかもしれないが、地元に帰って単位がとれるという夢がかなえられる。
本書は社会モデルを理論の中枢とする障害学から障害社会学(社会モデルと医療モデルの対立を超えた次の段階、社会モデルの反省も含んだ学問)とはどのようなものかという洞察を試みた本だ。円形脱毛症(10円ハゲではなく、すべての部分の毛が抜け落ちることもしばしばあるようだ)、吃音、知的障害、発達障害(ASD)、ALS、障害者スポーツなど、いろいろなケースの論文が集まった論文集と言える。ただし上記のテーマを共通してもつ。当たり前だが、僕の器量ではここに本の内容を書くことができない。本書では、深い検討がなされているし、僕の注目してない場所に興味を深く惹かれる場所もあると思うので、ぜひ本書を読んでみて欲しい。