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白夜(Le notti bianche)

 ヴィスコンティ作品は見ていて泣いてしまうような映画はほとんど無いと思っているのだけれども、私にとって、この映画は唯一涙してしまう作品だ。

 『白夜』1957年 ドストエフスキーの同名の小説を原作とし、舞台をサンペテルブルグからリヴォルノというトスカーナ州の港町に移植して脚本が書かれている。(『郵便配達は2度ベルを鳴らす(Ossessione)』もアメリカからイタリアのポー川流域の村に移植している。ヴィスコンティが”イタリア映画の監督だ”と思わせるところは、まさにこういうところである)この1つ前に撮った『夏の嵐(Senso)』はヴェニスを舞台にしているので、この水辺の街の感じが酷似している。

 『白夜』は初めて全シーンをセットで(Cinecitta)撮影している映画である。彼のセット撮りは、まるでオペラをみているような心地になる、まさにヴィスコンティ作品の醍醐味であると私は思っている。そしてネオレアリズモをベースとした、”虚構のような現実”という不思議な世界へ連れて行ってくれる。

 マストロヤンニ演じるマリオは、リヴォルノに転勤してきたばかりの会社員。彼は橋で立ち尽くす、見知らぬ女性(ナタリア)に恋をする。彼女に根気強くアプローチをするものの、彼女は1年前に結婚する約束で別れたある男性を、毎晩この橋で待っているのだという。あまりにお伽話のようだと、あなたは僕に会いたくないからそんな嘘をつくのでしょう、と最初はその話に構わず口説き続けるが、だんだんと彼女の話とその男の存在を信じはじめ、そしてそのピュアな彼女にますますマリオは恋焦がれていく。

 彼女の身の上話が、回想シーンとして挿入されているのだが、その彼女が待ち焦がれている男性をなんとジャン・マレーが演じていて、初見のときは突然の彼の登場に驚いた。ジャン・マレーが映像に出てくると、私は何故か現実のものではない気がしてきてしまう。そして彼が普通の青年を演じていると、むしろ逆にそのお伽話度合いが増すのだから不思議である。(面白いことに、ジャック・デュミの『ロバと王女』の王様よりよっぽど違和感がある)

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 マリオが恋するこの女性も、現実に存在していることが奇跡のようなウブな女性で、「私は正気よ!」と高笑う様子に少し異常さも垣間見えて、やはりこのジャン・マレー演じる青年は、彼女の想像上の人物なのかもという疑念が最後の最後まで捨てきれずにいた。虚構のような現実の中の、また虚構のような話。

 ヴィスコンティが映画を制作する以前、フランスを放浪していた時期に、実はジャン・コクトーと交流があったようだ。彼が映画制作を始めるきっかけになったとも言われている。おそらくこの映画は彼へのオマージュの意味も込められているだろうが、先に私が書いたようなジャン・マレーへの印象を狙ってヴィスコンティは配役したのだろうか。ヴィスコンティはたまにおそろしいなと思う。

 またこの主人公のマリオと、彼が恋するウブな女性ナタリア両人ともに、二面性を感じる。ナタリアはウブなようで、結構戦略家的なところがあり、自分自身さえも騙して、マリオを利用する節がある。一方マリオは、見知らぬ女をしつこくナンパするぐらいの陽気さがありながらも、本当は影の濃い孤独な男である。マストロヤンニは顔に似合わず、こういう役を得意とする。エットーレ・スコーラの『特別な1日』のマストロヤンニなんかいい役である。デ・シーカの『ひまわり』、少し違うけど『8 1/2』なんかもそういう役どころでしょう。

 原作も私は読んだことがあるが、ドストエフスキーの意味する「白夜」とは、長い冬が明けた6月頃のロシアの寒空に、束の間だけ見ることができる薄明けの夜をを指している。一方、ヴィスコンティの脚本では「眠らない夜」のことを表している。会社員のマリオは、何事も無いようにずっとずっと一人で同じことを繰り返しているようにみえるのは、そういう思いが含まれた脚本だからかもしれない。

 マリオとナタリアは、なかなか打ち解けない。ずっと「Lei(貴方)」と呼び合って話し続け、終盤やっと「Tu(君)」と言い交わすのだけれども、今思えばナタリアが一人で喋っているようで、マリオの相槌は何の意味もない。彼女に何の影響も及ぼしていない。マリオがいなくても成り立つような話だったのである。マリオが自身の孤独を告白しても、ダンスホールの騒音もあってか、ナタリアは全く聞く耳を持っていない。自分のことで一杯である。彼女の存在は、人に何かを打ち明けたかったマリオの想像だったのかも、と思えばまだマシなのだけれども、彼はずっとずっと傷ついて、ますます殻に閉じこもってしまうのである。この雪が降る中、コートを深く被る。こうして、中身の伴わない陽気さを、彼は処世術として今後も時たま振りかざすのだろう。

 そんなこんなで、傷つかないよう厚い殻で覆われた彼を見ると、私は涙してしまうのである。人の孤独を描く映画はヴィスコンティの作品に多いのだけれども、これは素直にすーっと涙がつたう。書きながら分かったけれども、マリオが孤独への自覚が無く、そしえ特別ではなく一般的な存在で、きっと他の作品の登場人物よりも感情移入しやすいんだと思う。

他のヴィスコンティ映画のレビューはこちら!

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ちなみに、この映画の舞台のリヴォルノ料理を最近作ったのでご紹介。

日本でバッカラが手に入ったのでそれを使った料理です。

アンコーナは港町なのにStocafissoが有名で不思議だったのですが、(つまり魚が取れる地域で、魚の保存食が郷土料理になっていることに不思議)リグーリア海の方でもバッカラが食べられるようですね。結局、ノルウェーなどで加工したものを船員が途中で食べるために持ち帰ったのが始まりだそうです。StocafissoとBaccalàの違いは何?と夫に聞いたら夫もわからず調べてました。Stocafissoは干し鱈だけど、塩漬けではないそうです。そして加工ももっと難しく値段も高価とか。ヴェネトでバッカラと呼ばれているものは、実はStocafissoだそうです。紛らわしい!

Baccalà alla livornese

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<材料>

・バッカラ(干し鱈の塩漬け)1kg

・トマト 800g

・にんにくひとかけら

・玉ねぎ 2個

・イタリアンパセリ

・じゃがいも 2個


1.バッカラは塩抜きする。2日間水につけ、8時間おきに水を変える。

2.にんにくと玉ねぎを煮詰めて、トマトの皮を向き一緒に煮詰める

3.一口サイズに切ったじゃがいもを一緒に鍋の中にいれてやわらかくなるまで煮込む

4. バッカラに小麦粉をまぶし、簡単に揚げる

5. 鍋の中にバッカラも投入し軽く煮込んで、イタリアンパセリを散らしたら出来上がり。

Buon appetito!


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