松原致遠『佛に遇ふ』(丁子屋書店、昭和23年12月5日)
P.1
この書は昭和十三年五月二十三日より二十六日まで、東京中央放送局の依嘱によって放送せしものの筆記である。
相当長き叙述によってせらるべきものを短時間に話したために、誤解され易い表現が、この書のうちにままある。そのうち、我らを生かす力、真実の心、大きな心等のことばは宗教するという上に重大な意味を有っているものであるから、概(あら)ましその真意をここに明らかにすることとする。これらの言葉は帰命盡十方無碍光如来をあらわそうとしたものである。ただしそれは親鸞聖人が「大行というは無碍光如来の名を称するなり」と申されしによっておのづから知らるるごとく、南無阿弥陀仏と称えるとき、自己の如実の相を照らす主体的なるものとして全情意に感ずる帰依の対象である。
p.2
宗教一般に於て立てる神仏は、おおよそ既にあるとして考えられたものである。人間が「在る」として考えたものは、人間性と次元を同じくするものであるから、仏の性格を失うたものである。本来人間そのものがすくわれざるものである。救われざるものなるが故に、それを救われざるものとして照らし出す主体としての仏はなければならない。最高次元者として全人間を照らし(否定し)つつ、それを摂取する仏は、なくてかなわぬ、有らざるべからざる実在である。この照らし(否定し)摂取するものを盡十方無碍光如来というのである。しかしそれは南無阿弥陀仏を称念するときの、全情意の主体としてあるものであって、もし名号を称念する帰依の感情から抽離してのものならば一の客体にすぎず、化仏であって、真実の如来ではない。
p.3
しからば何故に人間はすくわれざるものであるか。
どこまでも人生を合理化しようとする西洋思想からいえば、こういう問いは意味をなさない。しかし人生は本来非合理のものであり、それ自身矛盾である。
狂人でないかぎり、誰が自己を完全のものとし、自己の生き方を善しとし得るか。いかなる人もが、明かにそれと意識はせずとも、自分が賢善なるものでないことは知っている。殊にその人の生活態度が、真摯なれば真摯なるほど、自らを愚とし悪とする自覚は深まるのである。ソクラテスが自らを愚者と言っているに見ても分ることである。宗教生活の特質として謙虚が言わるるはこれを意味するのである。その自らをへりくだる意識の下には、無限の向上心がある。それは主体的なる理想の影現である。ただそれは主体的なるものであるから、それによって照らされた自己(人生)の現実相が見え来るばかりである。
p.4
日本人は自ら意識せざれども深い宗教的自覚を有っている。日本人の最も多く使うことばにありがたいというのがある。これは救われざるものが救われているという感激(意識の下にある)の表現である。こんなものが今生きさせて戴いているという不思議を内奥に深く感じているのである。また、おぞましい日ぐらしをして居ります。勿体ないことです。あさましいことばかりして居りまして。おかげさまで。これも私の業でござります等。これらはたしかに全人生的の反省であり、人間の生き方を、何かに照らされていてのみ生まれて来ることばである。この照らすもの(それは人間全体の主体であり、従って普遍的なるもの)は何か。また照らさるるものの本質は何か。
これを明らかにすることによって、人生の如実の相、人生の矛盾を生み出す理想と現実とは明らかになるであろう。それが明らかになれば、ほのかに体得されていたものが自覚的になり、現実は理想に照らされつつ、限りなく理想へと進む(往生する)ことができるであろう。