何かを作る人

わたしの周りにはプロアマ問わず何かを作る人で溢れている、いわゆるクリエイターといわれるような人々だ。
お笑い、演劇を中心として映像制作やグラフィック系、ファッション、音楽、そういう人たちの中にある何か、共有される空気感とかが好きで、なんとなく自分もその中に入って、でも自分は何も作れないし、裏方の仕事もポンコツ過ぎてまかせられないから、特に馴染めないまま何もしないけどたまにいる人、になった。

何かを作る人たちは、みんなそれが好きだ。当たり前のように聞こえるけれど、それはすごいことだ。きっと職業にすれば責任も伴うし、楽しくないことも沢山出てくる。ただの趣味でも、何かを作って人前に出すというのには苦しみが伴うものなのだ。好きじゃないと続けられないし、好きの熱量を維持するのはすごく難しい。

わたしも何かを作ったことはある。幼稚園の卒業文集にはデザイナーになりたいと書いていたし、元々出たがりなタイプだったと思うけれど、初めて誰かに見せたのは中学生の頃だ。当時不登校で暇だったわたしは1週間に10冊近い文庫本を読むような生活をしていて、頭の中が書き言葉でいっぱいだった。
頭の中を整理するように、小説というにはストーリーのない、頭に浮かんだ情景を散文で表現する、詩の真似事のようなものを小さな同人サイトに書いていた。
ある時、その同人サイトの元ネタのチケットが余った。「誰か一緒にいきませんか?」とサイトに書くと、すぐに同い年の女の子からメッセージが来た。
彼女はわたしに「ファンです」と言ってくれた。もしかしたら、それは挨拶程度の意味しかなかったかもしれない。それでも、彼女がくれたたくさんの褒め言葉は今までに感じたことのない喜びをわたしにもたらした。

高校では文芸部に入り、大学ではお笑いサークルに入った。

でも、わたしは何かを作ることをやめた。やめたというか、気付いた。わたしには情熱がない、好きなもの、表現したいものがない。かつてはあったかもしれないけれど、いつの間にか承認欲求が満たされる喜び以外の、モノを作ることへの、もっとプリミティブな欲求がなくなってしまった。もちろん、人に見せたい、認められたい気持ちは悪いことではない、けれど、それだけが目的だと、0は永遠に1にならない。

人に言われたことをやることも、人前に出ることも、作ったものを人に見せることも楽しい。これは1を2や10にしていくことだ。フィードバックをもらえた時は、あの喜びが心の底から湧き上がってくる。でも、時々ふっと浮かぶ「本当にわたしの作った状況なのかな?お膳立てしてくれた人がいるから貰えた評価であって、それにわたしは何か貢献出来ていただろうか?わたしは1を2にすることが出来たのだろうか?」という気持ちがどうしても消えない。

(それはそれこれはこれなので、お手伝い出来ることがあれば何でもしたいので言ってください!!!!それが楽しいと言う気持ちは本当なので!!!!!!!)

趣味がなくても、特別なスキルがなくても、やりがいある仕事をしていなくても、何も悪いことじゃないとは頭の中では分かっている。

医者は「今はその元気がないだけ。元気になればやりたいことはまた必ず出てくる。」と言う。

だけど、自分には何もない、という気持ちがずっと消えない。
0を1にする人、1を2や10にできる人、たくさんの好きを抱えて、それを持続させている人への憧れと、尊敬と、自分勝手な感傷だけがこびり付いている。

あっ!でも!こんなふうにひとりで浸ってんのも恥ずかしいし、誰かにウジウジ言って嫌われるのもやだし、何もない自分でいるのは本当に苦しいから、今は自分のそういう喪失感を埋める時なのかも、と割り切って、今まで中途半端にやってきたことをやり直したりしてます。
心の穴を探して、埋める作業も、それはそれで楽しいです。そんなことは学生のうちにやっておけよ、と思うけど、もう遅いからと諦めてしまえばどんどんわたしがつまらない大人であることが確定していくだけなので。

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