彼女はそうは思わない

そういうことである。

「まえがき」のかわりの自問自答という項目があって、著者がいくつかの問いに応える形となっている。いま数えてみたら20もあった。

最初の質問はこうである。

◆子供のころいちばん悲しかったことはなんですか。

佐野洋子 私はそうは思わない

ひとことで「これ」と言える人もあるかもしれない。わたしは誰に語ってもインパクトのある体験は持ち合わせていない。

子供のころに「悲しい」と感じられたのは、子供なりの感受性で受け止められる範囲のできごとであってそれを超えてしまうと、言葉にならない衝撃的な何か、になるような気がする。それを振り返って「あの時、悲しさを理解するまでに至っていなかったのか」と思うことはあるかもしれない。仮にそのような出来事を経験したとして、子供のころいちばん悲しかったことになるかどうか。

誰しも自分の理解できる範囲のことしか受け止められないし、それを超える事柄に遭遇したときにはその事柄自体を自分のなかで理解・咀嚼できないのである。それを衝撃として受け止める場合もあれば、そのまま忘れてしまうこともある。子供はこどもなりに、大人はおとななりに。

自分であっても見えている世界がそのときどきで違うのだから、いちばん悲しかったことを問われたときに何があるのか。今ふりかえって「ああ、そういえばあれが」という程度であれば、そんなに悲しいことではないのかもしれない。

そういう前段のようなことをふらふらと頭に転がして、結局問いに答えていない。悪い癖である。いちばん悲しいこと。インパクトのある単発のイベントではなく継続的な環境をそれということができるのならどうか。子供のころいちばん悲しかったことはなんですか。自分の能力を閉じるような考え方を身につけてしまったこと。なぜ悲しいのか。文字通りのことがひとつであり、もうひとつは「悲しさを悲しさと認識できない」悲しさである。ここにおいて後者はいくら歳を重ねたところで、人間はそれを学習したがらない生き物であるようにも思う。生物が世代を重ねるうちに「進化」することがあると教わるが、人間にもそのような性質があるのなら、ずっと後の世代はより豊かな時間を過ごすことになるだろう。

どうにもつまらぬ答えである。生々しさが足りない。上っ面を撫でて形式的に答えた気になっている。


わたしはあの日本語のインパクトを見て以来、それを超える日本語をどうやったら創出できるのか、そればかり考えている。日本語として、いくつかの仮名文字と漢字とを組合せることで完成した言葉の塊が、強烈な印象を残した。

いま生み出された言葉ではなく、タイムラインに乗ってくる殺し文句でもなく、昨日聞いた言葉でもない。

もう日本語を書くのをやめようかと思うほどだ。


「まえがき」のかわりの自問自答にはこういう問いもある。

◆大人になってからいちばん悲しかったことはなんですか。

すでにあのような日本語が綴られていたこと。それに気づかなかった自分が悲しい。しかし、こういう見方もできる。

わたしはそうは思わない。

そういうことである。



この記事が参加している募集