短編小説 走れ雄一 お笑い僕の大炎上(1350文字)
これは、携帯電話も、SNSも無い、昭和の話です。
A駅の広場で、毎日のように同じメンバーで反戦のアジ演説が行われていました。同時に募金活動もしていて、反戦募金、戦争孤児募金、○○国に小学校を作ろう募金、等日替わりのように募金名は変わったのに、アジ演説の最後はA市の行政批判で終わりました。ある日僕は気づきました、この募金って大丈夫なの、ちゃんと使われているの、何処に行っているの、素朴に疑問に思ったのです。
その思いは、どんどん膨れていき、たまたま本屋で手にした、高校生向けの月刊誌にあった読者の声欄に、疑問を投稿したのです。
翌月僕の投稿は見事に掲載されたのです、しかも自宅の住所、△〇高校、〇×雄一、十七歳。と堂々の身元入りです。異色の投書らしく投書欄では目立っていました。その日僕は、ヤッターと喜んだのです。
異変は翌々日にやってきました。その日サッカーの部活が休みだったため、早く帰りました。郵便受けを見ると、手紙が、ぎっしりと約三十通ほど入っていました。ヤバイと思いました。開封すると文面は批判です、ベ平連を知っているか、反戦に反対か。僕は単に募金の行方に疑問を呈しただけなのですが、どうやら右の代表になって仕舞ったようでした。ヤバイ、僕の父も、母も、労働組合の職員なのです。左です。これがバレたらどうなるか。
その日は三十通の手紙をベッドの下に隠し、恐怖で眠れませんでした。
翌日は、サッカー部の部活を終えると、家まで約十キロ全力で走り帰りました。
家の前に立つと、なんと、郵便受けに入りきれず、手紙の束が二つ郵便受けの上に積まれているのです。あ、あ、あー。愕然としました。
よくアイドルにファンレターがダンボールで何箱などと記事になりますが、実感した人はいないと思いますが、僕は実感しました。しかも芸能人ではありません。この日の手紙は百通を超えていました。内容は僕に賛同するのがめずらしく一通、他の百二十九通が批判でした。
結局五日目がピークで百七十通、以後は段々減って行きました。しかし僕は一カ月以上手紙を両親から隠すため、部活でヘロヘロな体なのに焦り必死になって家まで走り続けたのです。
一カ月後月刊誌の次号が発売されました。投書欄を見ると、恐れていた通り、××県の女子高の方が、僕への批判反論をデカデカと書いていました。この頃の僕はすっかりマスコミ恐怖症になっており、走って帰る事は止められませんでした。手紙が一通来ました、××県の女子高生からのものでした。内容は、私は未熟でした的なお詫びで、主旨は反論を書かないで欲しいとありました。
恐らく彼女にも反論の手紙が大量に来たのでしょう。
これで手打となりました。しかし僕は走って帰るのを止めていません。
その方が何故か心が落ち着くのです、結局それは心的後遺症だと思います。
おわり。
付録
その後サッカー部のレギュラーを失い、くさっていた僕に、声を掛けてくれたのは陸上部の先輩でした。
「うちで、駅伝走らないか」
走力には自信のあった僕はふたつ返事で受けました。
僕は駅伝の選手となり区間賞をとってテレビのインタビューを受けるのですが、それが全国ネットと訊いて、急にマスコミ恐怖症が出てしまい、インタビュー中に過呼吸で倒れてしまいました。だとさ。
付録 おわり。
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