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大転換

どうも、犬井です。

今回紹介する本はカール・ポラニーの「大転換―市場社会の形成と崩壊」(1975)です。この本は1944年に出版された「The Great Transformation」を全訳した書です。

本書では、19世紀から第二次世界大戦までの人類史における、市場経済という特別な制度を取り上げ、市場経済は、社会の実体そのものを市場の諸法則に従属させるシステムゆえに、そのシステムが危機に陥ることを論じています。そうした市場経済の崩壊と国民国家への揺り戻しを、「大転換」という言葉で表現しています。

それでは、以下で簡単に内容を書き綴っていこうと思います。

社会と経済システム

市場経済とは、市場価格によって統制される経済、そして市場価格以外には何ものによっても統制されない経済のことである。外部からの助力や干渉なしに経済生活の全体を組織化することができるこのようなシステムは、「経済人」なる概念を生み出した。

しかし、人間は物質的財貨を所有すると言う個人的利益を守るために行動するのではない。人間は自らの社会的地位、社会的権利、社会的資産を守るために行動する。狩猟ないし漁撈小共同体と大専制社会とでは、これらの社会的利害は大きく異なっているであろうが、どちらの場合にも、経済システムは非経済的諸動機に基づいて動かされるであろう。

例えば、西ヨーロッパでは封建制が終焉を迎えるまでの、既知の経済システムは、すべて互恵、再分配、家政、ないしは、この原理の組み合わせに基づいていた。これらの原理は、対称性、中心性、自給自足というパターンを利用する社会組織の助けを借りて制度化されていた。この枠組みの中で、財の秩序ある生産と分配が、行動の一般的原理に律せられた種々様々の個人的動機を通じて保証されていたのである。これらの動機の中では、利得は重きをなしていなかった。慣習や法、宗教や呪術がともに作用して、経済システムにおける各自の働きを究極的には保証する行動法則に、個々人を従わせたのである。

ところが19世紀になると、全く新しい型の経済への転換が起こった。

労働、土地、貨幣

市場経済では、すべての生産要素について、つまり財だけでなく労働、土地、貨幣についても市場が存在する。これらの諸要素の価格はそれぞれ商品価格、賃金、地代、利子と呼ばれるが、これらの用語はまさしく諸価格が諸々の所得を形成することを意味している。また、市場経済では、市場の形成を阻止するものがあってはならないし、販売を通す以外の所得が形成されてはならない。さらにまた、市場状態の変動に応ずる価格の調整を妨げるものがあってもいけない。だから、これらの市場の機能に影響を及ぼすような措置や政策が取られてはいけないのである。

しかし、労働、土地、貨幣は本来商品ではない。なぜなら、市場メカニズムにおいて、商品とは、売買されるものはすべて販売のために生産されたものではならないが、これらの三つには全く当てはまらないからである。

労働は生活それ自体に伴う人間活動の別名に他ならず、その性質上、販売するために生産されるものではなく、全く別の理由から産出されるものであり、人間活動は生活の自余の部分から切り離すことができず、貯えることも販売することもできない。土地は自然の別名に他ならず、人間はそれを生産することができない。最後に、現にある貨幣は購買力の象徴に他ならない。それは一般には、決して生産されるものではなく、金融または政府財政のメカニズムを通じて出てくるものである。

これらはいずれも販売のために生産されるものではない。労働、土地、貨幣という商品種は全く擬制的(フィクティシャス)なものなのである。

自由主義教義の誕生

自由放任政策を、この標語が最初に用いられた18世紀半ばにまで遡らせるのは、全く非歴史的である。確かに言えることは、その後の二世代の間は、経済的自由主義は気まぐれな風潮以上のものではなかった。ようやく1820年代になって、経済自由主義は、次の三つの教理を表すものとなった。すなわち、労働は市場において価格を見出すべきこと、貨幣の創造は自動メカニズムによるべきこと、財は妨害や特恵梨子に国から国へ自由に移動すべきこと、要するに、労働市場、金本位制、自由貿易の三つを表すものとなったのである。

しかし、自由市場への途は、集権的に組織され管理された継続的な干渉主義の飛躍的強化によって拓かれ、維持された。アダムスミスのいう「単純で自由な自由」を人間社会の要求と両立させることは極めて面倒な仕事であった。自由主義の導入は、管理、統制、干渉の必要性を取り除くどころか、その範囲を途方もなく広げさせたのである。行政官は、システムの自由作用を保証するために絶えず目を凝らしていなければならなかった。

このパラドックスを凌ぐ、いま一つのパラドックスが存在した。自由放任経済が意識的な政府活動の産物だったのに対し、それに続く自由放任の規制は自然発生的に始まった。自己調整的市場の概念はユートピアであって、その進行は社会の現実主義的自己防衛によって停止させられたのである。

しかし、自由放任主義が、ある分野で劇的な失敗を喫したからといって、それがあらゆる分野で権威を失墜するということにはならなかった。というのは自由放任の擁護者たちは、その原理の不完全な適用こそが、この原理への非難のもととなった一切の困難について責任を問わるべきだと主張できたからである。経済的自由主義者は、このようにして過去と現在を首尾一貫した全体として結合するような主張を定式化できることとなった。

崩壊への緊張

1879年から1929年までの半世紀の間、面白いほど類似した様相が、諸事件を通しれ驚くべき広範囲にわたって見られたが、これは、以上に見たような基本的な制度的諸内容の同一性に起因していた。

国内政治では、極度に多岐にわたった、生産・雇用・所得の減少のような、無数の不均衡、典型的には失業があげられる。国内政治では、社会諸勢力の衝突があり、それが行き詰まるという状態にあった。つまり、階級間の緊張である。国際経済では、輸出の減退、交易条件の悪化、輸入原料の欠乏、外国投資が受ける損害など、一括して為替への圧力と呼ぶことができる。最後に、国内政治では帝国主義的対立という緊張である。

簡潔に言えば、緊張は市場部面から発し、そこから政治領域へと広まり、社会全体を包むことになったのである。しかし、一国内では、世界経済が機能し続けている限り、緊張は潜在的なものにとどまっていた。最後まで生存し続けた制度、金本位制が終焉した時に、ついに国内の緊張は現実的なものとなった。新しい状況への各国の対応は異なっていたが、基本的には、各国は伝統的な世界経済の消失に対する対応策を講じたのである。そしてこの伝統的世界経済がバラバラに崩壊した時、市場文明そのものも海の藻屑と消えたのである。

大転換

1920年代に国際システムが崩壊した時、初期資本主義の諸問題が再び姿を現した。その中で、第一に問題となったのは大衆政治であった。ファシストの大衆民主主義に対する攻撃は、市場経済の歴史につきまとった政治的干渉の問題を蒸し返したに過ぎなかった。ファシスト的解決は、基本的には、多くの国々に等しく存在した制度的暗礁から一つの脱出策を示していたのではあるが、例えそうした救済策が試みられるにしても、それは至る所で病を死に至らせるものであった。文明はそういう形で破滅するのだ。

自由主義的資本主義が行き当たった難局に対するファシスト的解決は、経済・政治双方の領域におけるあらゆる民主的諸制度の撤廃という犠牲を払って達成される。その運動はどのような文化にも同様に現れた。

ファシズムの根源は、社会主義と同様に、どうしても機能しなくなったしなくなった市場社会にあった。だからこそファシズムは、その広がりにおいては世界的、普遍的であり、その代わりにおいて全面的であった。その争点は経済的領域を超え、明確に社会的性格を持つ全面的転換を生み出したのである。

市場ユートピアを放棄することによって、我々は社会の現実と向き合うことになる。それは一方を自由主義、他方をファシズムと社会主義に区分する分離線である。ファシズムと社会主義が分かれるところは、自由の概念が是認されるかどうかという点にある。自由というのは空虚な言葉であって人類とその営みとを破滅させんとする誘惑なのだろうか。それとも人間は、そうした認識を直視してその自由を再度主張し、道徳的迷妄の中に陥ることなく、社会においてそれを実現すべく闘うことができるであろうか。

この切実な問いが人間の状況を集約的に物語っている。

あとがき

カール・ポラニーは、商品と定義できないものとして「労働・土地・貨幣」の三つを挙げています。しかし、この三つが市場メカニズムに組み込まれてしまうと、市場メカニズムは崩壊してしまうと述べています。

人間が文化的諸制度から保護させることなく市場経済に生身を晒すことになれば、雇用されるか失業するかは、景気によって振り回されることになる。また、土地生産物の食料も、景気動向に左右されるのみならず、環境汚染や軍事的脅威によって生産が脅かされることもある。貨幣も、景気過熱による金融バブルなどが起きれば、社会に大きな後遺症を残すこととなる。

このような不安定な社会では、人間は長く耐えることはできません。そのため、孤独になり、社会から切り捨てられていく人々の不満が限界を超えたとき、特定の人種や宗教、帰属する国家といった共同体への再結束の欲求が爆発していくこととなります。第二次世界大戦前夜から欧州を襲ったファシズムの潮流は、まさにそうして生まれたのです。

これは、現代のグローバリズムにも当てはまります。欧米で反グローバリズムを主張するポピュリストが支持される背景には、「労働・土地・貨幣」の商品化によって、共同体から切り離され、孤独化していった人々の不満があるのです。こうした構造があるため、彼らを支持する人たちを「もののわからない愚かな大衆」とする一方的な見方は成立しないのです。

では。

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