空洞化と属国化
どうも、犬井です。
今回紹介する本は坂本雅子先生の「空洞化と属国化―日本経済グローバル化の顚末」(2017)です。本書は、グローバリゼーションの進展によって国内産業の空洞化が生じ、日本経済が長期停滞に陥っていること、また、その空洞化は、アメリカの強い圧力に対する、近年の日本の従順さによって引き起こされていることを、学問の分野を超えた総合的な分析によって鋭く指摘しています。700ページを優に超える大著の内容を、簡単ではありますがまとめていきたいと思います。
*
日本の製造業の現状
日本経済はこの2、30年の間衰退・停滞している。製造業においては特に衰退が著しく、1991年には125兆円を記録した生産額は2011年以降は80兆円台を推移している。業種別にみると電気機械が大きく変化しており、1990年代初頭、20兆円を越えていた生産額は、2012年には半分にまで落ち込んだ。また輸送用機械及び一般機械も低迷が続いている。
日本経済をリードしてきた業種が衰退・停滞した結果、生産があまり減らないという理由だけで食料品がトップの業種となった。日本は「ハイ・テク」製品ではなく「ロー・テク」製品の生産でかろうじて支えられる国になった。
また、東アジアにおける生産と輸出の中心は完全に中国に移っており、電気機械中間財では、日本は2013年に台湾に抜かれて以降、東アジアで最下位にまで転落している。
輸出総額においてもその衰退は見てとれる。1985年にはアジアの輸出全体の55%を占めていたが、2014年には15%にまで落ち込こんだ。1990年には日本の輸出総額のそれぞれ3割、2割に過ぎなかった中国・韓国が、今や中国は日本の約3倍、韓国も日本の80%程度にまで迫っている。
現時点では中国の輸送機械は国内消費が中心で輸出は少ないが、世界中の自動車メーカーが中国に投資、生産を急増させている現状を鑑みると、いずれは中国から日本メーカーはじめ世界の自動車メーカーの製品が大量に輸出されることになるだろう。もし、中国工場からの対日自動車輸出が本格化すれば、日本はとてつもない産業空洞化に襲われることになる。
他国を育てた日本
アジアに電機産業の種をまき、その基礎を築いたのは日本の電機企業であった。日本は韓国や台湾に設置された「輸出加工区」などの企業優遇措置をとる特別区域に早くから集中して投資をした。
例えば、韓国の輸出自由地域馬山にほ多くの日本企業が進出し、1973年11月の調査では、同地域の111工場のうち95%が日系企業であった。
また、1989年時点で、台湾と韓国には約130余りの日系電子部品企業があり、これらの地域では現地企業も「日本企業と技術提携や資本提携などで関係を持つ現地企業」が主流を占めていた。台湾などでは「日系企業からのスピンアウトした人材」が現地の同分野に参入することもあったという。
こうした日本企業からの投資、及び部品等の受注によって台湾・韓国の電気・電子部品メーカーは次第に大きく育ち、現在の電機や情報機器・部品の世界的巨大メーカーが生まれる土台を築くことになった。
日本の自動車産業
日本の自動車生産は大きな変化を遂げている。自動車各社が生産を主に北米、アジアに移転し海外生産が伸びる一方、国内生産は減少の傾向にある。
特に、トヨタ・ホンダ・日産の生産の海外移転は著しく、2015年の海外生産比率は各社それぞれ、64% 、84%、82%と、企業にとっての「母国」という言葉は意味を失っている。
すでに海外生産の「日本車」の輸入も始まっており、アジア部品の輸入も広がり、調達や開発の「現地化」「日本離れ」も進んでいる。
また、日本は国内自動車製造の強みも失いつつある。日本の自動車づくりの強みは「擦り合わせ」にあると言われていた。完成車メーカーは、車種ごとに下請け部品メーカーその他の取引先と一体となって小さな部品まで開発・設計し、協働・調整しながら自動車を製造してきた。自動車を製造するためには、数万点の部品の調整と、数万社との協力が必要であった。
しかし、近年は車種ごとの「造り込み」ではなく、異なる車種でも共通の車台や部品を使用する方式や、「モジュール化」という、究極にはレゴ・ブロックを組み合わせるような様式の車づくりも始まっている。
これは、世界的巨大部品メーカーだけが勢いを増す一方で、国内と部品メーカーと完成車の紐帯が根本から解体され、国内の幅広い裾野は足元から崩れようとしていることを指す。
日本の自動車産業は今まさに正念場を迎えている。
アメリカの要求
「規制撤廃」「民営化」は、20年以上に渡って日本政治の中心課題として、とりわけ、橋本_小泉_第一次・安倍の各政権下で追求されてきたが、それらはまだ完了したわけではない。そこで、第二次・安倍政権下において、残された課題の一掃を目指した政策が行われている。
そもそも「規制撤廃」や「民営化」が推し進められる理由に、「財政再建」や「グローバル化を勝ち抜くための選択」といったものが挙げられる。しかし、こうした施策は全て、米国によって日本に突きつけられた「対日要求」を源流としており、日本政府と企業が自主的に選択した政策ではない。
米国政府の要求の原点には、日米の貿易不均衡があった。対日貿易赤字が膨れる中で、米国企業は次第に、「日本企業とではなく、日本のシステム全体と競争させられている」として、日本の経営・経済・社会システム全体を叩くようになった。
とりわけ1994年以降は、毎年、米国政府から日本政府に対して「日本における規制緩和、行政改革および競争政策に関する日本政府に対する米国政府の要望書」として、有無をいわさぬ対日「要求書」が突きつけられてきた。
そして、近年の安倍内閣が掲げる成長戦略は、国内の規制撤廃・構造改革にせよ、海外展開戦略にせよ、すべてにわたって米国の意向をストレートに体現したものであった。
アメリカにかくも従順な理由
なぜ日本政府、日本経済界はかくも従順に米国の要求を受け入れ続けてきたのだろうか。
いくつも理由を挙げることは出来る。軍事的な同盟関係、米国の日本占領以来組み込まれた対米従属システム、米国に従順な政治家・「識者」の育成、メディア操作、経済制裁の脅し、為替操作による脅し等々。
しかし、1980年代や90年代初めまでは、まだ全て米国のいいなりというわけでもなかった。
けれども、例えば「雇用改革」などで米国からの要求と日本の経済界の要求が一致し、米国との「親和性」を重視する経営者が、経済界の中枢に位置するようになったのはきっかけの一つかもしれない。経団連会長が1980年代の鉄鋼の稲垣嘉寛や斎藤英四郎などから、1994年の自動車の豊田章一郎に変わったことはその象徴である。
また、日本の政権が米国の要求を丸呑みして国内企業に打撃を与える政策を選択しようとした場合には日本の経済界は抵抗したが、日本の政権は(小泉政権、安倍政権は特に)自国の資本の利益さえ「グローバル化」の名目で潰して押し通した。
そして長年の米国からの要求の強制の中で、日本の巨大企業自身が変質してしまったことも理由の一つであろう。今や日本経団連の役員企業でも三分の一以上が外資によって占められ、企業の大株主として顔を出し、企業経営に口出しするようになった。
何れにせよ日本はアメリカの強力な圧力の下で、日本のシステム全体を完全に捻じ曲げてしまった。
空洞化と属国化
企業本位のグローバル化、とくに生産の国外移転は、企業の母国の産業空洞化を加速し、国民の貧困下を進行させた。また、国家の役割も変質し、国家はもっぱらグローバルに活動する企業に向けた政策に注力するようになった。
日本経済でこの30年近くの間に深刻化した経済上の諸問題の根元も、このグローバル化という名の生産の国外移転、それに伴う国家単位の経済力の低下や国家の政策の変質にその根源がある。
しかし、世界の国民は、企業本位のグローバル化が進展したこの30年間からの転換を模索し始めている。トランプ政権の誕生、Brexit、黄色いベスト運動などはその反映である。
日本でも、こうした現実を国民が共有し、転換の道を模索しなければならない。反対は大きいだろうが、逆輸入関税の導入や、海外産比率の上限設定等は一案としてあげられるだろう。
それにもかかわらず、日本は米国の圧力に屈し、米国企業により一層市場を「開放」し続けている。ISDSのような主権を強く縛る体制を受けれた日には、未来永劫、後戻りできなくなるだろう。
日本国民は、日本経済を破壊してきたこうした問題に、立ち向かわなければならない。
*
あとがき
前半はショッキングなデータと日本産業の衰退の説明が書き連ねられており、読み進めるのが苦痛ですらありました。特に日本企業が海外企業に買収され、国内の生産能力を失っていく過程は悲壮そのものでした。
また、後半はアメリカ政府・企業への従属が安倍内閣によって集大成され受容されたことが、様々な業種ごとに叙述されており、これもまた陰々滅々な気分になるばかりでした。
しかし、そうした日本のありのままの現実を装飾なく記述する坂本雅子先生の筆力に瞠目するとともに、積み重ねられた研究の巨塔に感服せざるをえませんでした。
個人的には、本書が新日本出版社により公刊されていることに興味をひかれました。新日本出版社といえば、日本共産党とも関わりの深い会社です。その出版社が、本来は保守の側がやるべきグローバリゼーション批判や対米従属批判を主題とした著書を刊行していることに、驚かされました。
思えば、現政権下で北方領土などの領土問題が大きく後退し、「日本の固有の領土」とすら現政権は言えなくなってしまった中で、日本共産党は一貫して「日本固有の領土」であることを主張しています。こうしたことを踏まえると、一周回って日本共産党こそが保守であるかのように思えてくるのも不思議ではないのかもしれません。
何れにせよ、我々は産業の空洞化と属国化を見つめ直す上で、本書から学ぶべき箇所が多分にあると考えられます。
では。