短歌五十音(て)寺山修司『寺山修司青春歌集』
寺山修司の歌集を取り上げようと思ったものの、実際に歌集を読んで混乱してしまった。「青春」とタイトルについていて、確かに初期の短歌は青春香るような作風なのだけれど、後半の短歌はどこか土臭い、おどろおどろしい世界を詠んでいるからである。初期の作風を脱ぎ捨てて、後の作風に変化していった心境はどんなものだったのかと思うが、今回は前者の歌を中心に書いていきたい。
寺山修司は1935年青森県生まれ。1954年、第2回短歌研究新人賞特選を受賞。前衛短歌運動の中心として活躍した。1971年、『寺山修司全歌集』を刊行後は歌から離れ、演劇や映画などの活動を行なった。1983年に病没。
地下道に差し込む光の先に、孤児が帽子を持って佇んでおり、その帽子の中には小雀が包まれている。一人と一羽にスポットライトが当てられているような景である。孤児にとって小雀は、子雀にとって孤児はお互いに光のような存在なのかもしれない。演劇のワンシーンのような一首。
連作「老年物語」の中の一首。主体の父が亡くなり、町に墓を買いに来た。新しい帽子を被った主体の姿が、商店のショーウインドウにでも映ったのだろうか。ガラスに映った主体の顔がどんな表情をしていたのか、想像してしまう。
寺山の短歌の中で特に有名な一首。同居を始めるのだろう相手がクロッカスの歌を歌っている。その歌も新しい家具の一つとして数えよう。新しい生活に対する期待や新鮮な空気が伝わってくるような歌。
「春の嵐」とは成人を迎えるまでの時期の比喩か。成人したばかりの青年は、もうすでに大人の醜さや狡猾さなどのなまぐささを持っている、という歌と読んだ。
下の句は言葉遊び歌を由来としているようで、つい口ずさみたくなるフレーズである。古着屋の古着の中に消えていく、という景が面白い。
高く茂る欅は、私よりも空のことをよく知っているに違いない。そんな欅に空の中で最も青いだろう場所はどこかを尋ねる。自分の今見ている空よりももっと美しい空、を希求してしまう気持ち。
寺山には実際は弟はいなかった。前出の墓を買いに行く歌も、寺山の父は彼が幼い頃に亡くなっているので、寺山自身が父の墓を買いに行った事実はなかったはずである。亡き母を詠んだ歌もあるが、寺山の母は寺山よりも長生きした。彼はなぜ虚構を詠んだのだろう。歌は歌として、事実とは切り離し、自立した物語として描こうとしたのか。
海を見たことがない少女の前で、麦わら帽子を被った主体が両手を大きく広げている。その仕草は少女に海の大きさを伝えようとしているのだろうか。
なぜ主体は理科室に蝶を閉じ込めたのか? 空だけを世界のたった一人の恋人とするためか。空が出てくるが、どこか閉じた心を感じさせる歌である。
私のカヌーは寂しくないのだろうか?(寂しいだろう)。何度もたどり着く川岸は、他人の夢(真似)ばかりだから。
気になった歌を並べると、映画や演劇のワンシーンを思わせる歌が多い。ビジュアルにこだわった歌、というのだろうか。寺山は短歌で映画を、演劇をやろうとしたのかもしれない。そう考えると、なぜ彼は虚構を詠んだのかという疑問の答えも表れてくるような気がする。
次回予告
「短歌五十音」では、ぽっぷこーんじぇる、中森温泉、初夏みどり、桜庭紀子の4人のメンバーが週替りで、50音順に1人の歌人、1冊の歌集を紹介していきます。
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