診断が出た時の受け止めパターンを考える
人との関係性についての問題は、ASD者に限らず生きていたら誰でも苦悩する部分でもあり、どこからがASDと絡めて考えたら良いのかということすら難しい。そのような中で、診断が出た時のいくつかのパターンを想像してみた。
『当事者研究の誕生』の中に出てきた言葉も借りながら考えてみたのが以下だ。相手との<間>の問題であるならば、当事者というのは一人ではないだろうと思ったが、分かりやすさを優先して診断を受ける側を「当事者」として記載している。
著者の場合は①②⑥、我が家の場合は過去に学校から精神科受診を勧められた際には学校としては⑧を期待していたのではないかと思う。しかし診断が⑤であったため、学校としては恐らく期待外れで⑩となり、しかし最終的に⑪に移行していった。同時に我が家は①も感じていた。
つい数ヶ月前に親子関係で悩んでいた際に言われた「診断があったら受け入れやすくなりますか」については、⑦が可能かと訊かれたことになるのだろう。親は時に当事者側であり、同時に周囲の人の立場にもなる。
⑪はうまく行きそうでも⑤を強行に主張しすぎると難しくなる気がしている。以下の合理的配慮にある様に、均衡を失した状態は持続可能ではない。
個人的には環境調整には賛成であり、必須と考えている。書字や聞こえの困り感にはテクノロジーを、標準教育の困り感には個にあった課題を、食物アレルギーには食事を個別対応しなくてはならない。
一方で、生き方や物事の解釈の相違については、自分が多数派かどうかも判然としない中で、相手が特性があるらしいとなると、どう接するのが良いのか自分なりに試行錯誤し、それこそ疲弊もした。それでもまだ抜け出せない中で、相手にも少なからず協力を求めないと共倒れするのではないかと感じていた。しかしそれを求めることは罪であるようにも思って途方に暮れていたのだった。
それが神経発達に関するものについては、無理強いではなく双方歩み寄ることを当事者も提案しておられると知ったときは安堵したのだった。⑫として新に加えたい。⑫があることで、⑪もより実行しやすくなると思われる。
なお④⑨は社会モデルでも発生し得るが省略した。
「統合モデル」ICF(International Classification of Functioning, Disability and Health, 国際生活機能分類)
『当事者研究の誕生』では歩み寄りについて書かれていたわけだが、その部分に行きつくまでに、「医学モデル」と「社会モデル」の2つだけでは責任の押し付け合いのように思えたこともあり、もう少し違った考え方もないだろうかと探していた。すると「統合モデル」というものがあった。
ICF(国際生活機能分類) -「生きることの全体像」についての「共通言語」-
因果関係と解決のキーポイントは別という所が、どこに・誰に問題が有るかというテーマに言及せずとも解決できそうで理想と思ったのだが、このICFについても次に見るように課題が指摘されている。
以下は、社会モデルについて書かれている。
改めて「診断」について
「診断」をどう受け止めるかは、この「医学モデル」と「社会モデル」のどちらを採用しているかによっても変わってくるものと思った。また上記を踏まえると、当事者にとっては、「社会モデル」によって障壁が解消されたとしても、社会の側こそ「問題」という考え方が定着しない限り、実質的には医学モデルと同じであり真の納得感は得られないのではないかと感じられたりもした。この辺りは当事者の間でも人に寄るのかもしれない。
ギフテッドについて普段書いているが、こちらは相対的には「社会モデル」が最初から適用されやすいかもしれないと思う。しかし、それであるからこそ反感を買いやすい側面もあると思っている。
さらに、2Eでなければインペアメントが語られることもない。当事者の感覚体験と一致するかは別としてそれはギフトと形容される。ただし日常的な困り感は強く、社会参加の不利益は被る。しかしインペアメントが議題とならない以上、ギフテッドは医師が診断する必要もなく、診断がないということは社会的不利益に対して手当があるわけでもない。
長男についても人との間で利害対立が時々発生する。これをどう捉えるかというのは難しい。ASD当事者は<生き方>として捉えているとある。それであれば長男は意志を持って従わない等、それを生き方としている。選択の上での生き方なら診断が入る余地はないだろう。
ギフテッドを公言しておられる吉沢さんは、診断に納得がいかず、自分で自分の取り扱い説明書を作ったとおっしゃっていた。当事者研究と近いものを感じた。そして次の様に述べておられる。
誰一人として同じ生き方をしていない中で、私自身は、常に長男に対して相手の立場に立って考えることや、ギブアンドテイクの必要性も説いてきた。自分が被害者で、相手が加害者という発想を持って生きてほしくないとも思っている。
「なぜ」問題となってしまうのかの根本的な部分については定期的に考えてしまうが、最近は長男の特性にばかり目を向けず、反抗期や思春期、また生き方としても考えなくてはいけないだろうと家庭内では話している。ただ切り分けは本当に難しい。
絶対的な正解を探そうとすることや切り分けからは離れ、意志を持った<生き方>と捉えた時、お互いを尊重し合える状況が理想だと思う。ベジタリアンとそうでない人が一緒にテーブルについても、それぞれに合ったメニューが選択でき、どちらかを強要することなく、どちらも困らず、そして食事が一緒に楽しめる状況が理想だ。ただ<生き方>を突き詰めると宗教にまで発展し、そうなるとなかなか分かり合うというのも難しいかもしれない。
以下参考になった箇所。
ギフテッドについても行動面から観察されることが多い気がしている。
2023/9/12以下追加