与えること。
「与えたものしか残らない」
どこかで見聞したことのあるこの言葉を信じて、何もかも与えることにしている。
「与えること」で自分が死んだ時、それによって相手が満たされる。だから与え続けるのだ、と自分の生き方の一つとして心に留めてきた。
しかし、今日になって妙なことに気が付いた。
与えることで自分も相手も満たされ、幸せが築かれると思っていた。もちろん、見返りも期待していないつもりだ。
結局「つもり」だった。
これまでの「受け取ってきたもの」で、満たされることを知ってしまっていた。
与えるだけでなく、自らも受け取りたいー。
その想いが巡ったら最後。最初のあの言葉はどこかに消えかけてしまっていた。
承認欲求、社会的欲求を満たしたい、、。
マズローの欲求5段階説の3、4段階を行き来していた。意識は美しくても、本能はそうはいかない。結局何も変わらない自分じゃないか、と項垂れる1日だった。
この気付きは自分を、このままではいけない、哲学をしなければ、と夜に駆り立てた。
ふと子どもの頃の記憶が蘇った。
皆さんも一度は読んだことがあるだろう、『ずーっとずっとだいすきだよ』という絵本のことである。
主人公の"ぼく"と愛犬"エルフィー"のお話。
ぼくは毎晩寝る前にエルフィーに「ずーっとずっとだいすきだよ」と話しかけてから眠る。
ある朝、エルフィーが死んでいた。
家族はすごい悲しんだ。でも、ぼくは幾分かマシだった。
毎晩「ずーっとずっとだいすきだよ」って伝えていたからね。
このお話を思い出し、やはり与えることは相手が満たされるのはもちろん、いつかの自分への御守りにもなるのだと気付かされた。
子どもの"ぼく"なんかより、考えが子ども過ぎる自分を思うと赤面せずにはいられない。
何も惜しむことなく、いつかの御守りを携えながら、自分なりの人生を歩みたい。