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セカンドライフ③(食べるためだけじゃない)

 (セカンドライフ考察シリーズです)



【記事との出会い】


働かざる者食うべからず」と言われ続けて40年。

疲労困憊の半隠遁者に、またAIからの贈り物だ。

【托鉢から作務へ】

悩めるニートに贈る、とある。

今の自分は統計上はニートではないはずだが、AIはニート的とみなしたのかもしれない…。万事責任回避の傾向が見透かされている気がする……。

実際、半隠遁者は、全くもって仕方なく働いている。半分はニート的な志向を持つ者なのだ。

記事は論文でもなく、一人の僧侶のエッセイのようで、真偽はともかく、大胆に分かりやすく書いてあると感じた。

お釈迦様は自分の弟子達に、「異性とは目も合わせないニートになれ!」と教えていた ~(中略)~ 

一般的な意味での労働を拒絶し、何かを提供し、その見返りに報酬を受け取ることはしないのがお釈迦様の仏教であるのです。

お釈迦様は、紀元前5世紀前後の生まれらしい。「禁欲ニート」を推奨したとのこと。筆者の引用だが、初めて聞いたような喩えだ。

ニートは性欲も含め、欲がなく、自分に合わないことや興味のない苦役的なことを避けているイメージがある。

お釈迦様は、性欲のちからを知っていたのか。
カネや自分のためだけでなく、モテるために人は無理して頑張るもの。

欲望が悩みの原因となるのは明白なのと、若いうちは性欲が筆頭欲望なので、まず「性欲を絶て」となるわけだ。

よく、自分じゃなく、世の中が狂っているというセリフを聞くが、結構正しい。
実際、小学校の部活を始めた頃から40年以上、あまり疑いもなく競争してきたが、最近逃避者の気持ちがよく理解できる。

「オレ、無理して生きてきたんだなあ」…と。

部活、勉強、入試、恋愛、就職など、全てが競争が基調で、評価や格付けを重視され続ける。

就職してからは、いわずもがな である。

受験、スポーツ、カネ、異性、自己実現への欲望の薄い者にとっては、とても生きづらい世の中だろう。

ところで、紀元前の禁欲ニートの生き方はいかに?


托鉢という行(ぎょう)はその特色を残していて、修行僧が生きていくために必要な食料を信者の方からいただいております。その施しは「布施」と言われ、対価を求めぬ行いとして大切な修行の一つとされています。

食欲を満たすため、つまりは生きていくために、托鉢という行為を行う。

托鉢は仕事ではないのだという。

対して、街角に立っている僧侶や、家の前で読経する雲水に施しをすることを布施という。
寄付に似ているかもしれない。

自身のセカンドライフを考えた時に、この「托鉢」の考え方を取り入れてみたらどうだろうかと思ったのだ。

「托鉢」を実際に独りでやってみるのである。

地元でやるのか?
どこかの宗派に属してやるのか?
職質されないか?
家族をそれで養えるのか?
布施がなかったら終わりだぞ?

そんなことをすぐ考え、すぐさま否定する自分がいた。

まあ、いい。ひとまず、次に進もう。


それまでの仏教は直接的な生産活動はしていなかったのですが、修行者が一カ所のお寺に大勢集まるようになると、「作務」という修行がはじまります。坐禅修行するかたわら、自ら畑を耕し、鍬をとり、斧を振るって、米を搗(つ)くという生活に変化していったのです。

エッセイだ。真偽のほどはおいておく。
色々検索してみたが、お釈迦様の頃は労働が禁止されていて、修業に専念するために托鉢だけが許されていたとのこと。時代が変わり、「作務も大事だよ」という考えが生まれてきたらしい。

寺院において、「座禅」をメインにしつつ、「食事」「掃除」「農事」も大切なこととして一生懸命取り組むようになったということだ。

自身のセカンドライフを考えた時に、この「作務」はどうだろうか。

う~ん、これはすでに今の日常とあまり変わらない状態のような気がする。

組織たる寺院ではなく、家で「作務」をやったらどうだ?

自由があるのなら、出来そうな気がする。

生きていく以上、何かを食べなくてはなりません。食べなければならない以上、どう「務めを作(な)す」べきか、この言葉と向き合っていただければ幸いです。

筆者の面目躍如たる文章。
まあ、そうですな。
でも、務めとはなんぞや。

「作務」の真髄は、「利他」であるとの明確なご指摘。

托鉢は自分が食うためだが、作務は人のためとなる。

【まとめ】

現世は、ゴールデンウィークなどと浮かれているが、おそらく永平寺では毎日のお務めを淡々と行っているだろうし、都会の街中や何処かの街では、托鉢をするお坊さんが街頭に立っていることだろう。

明日から、何処かに出掛けて、托鉢をしている人をみかけたら、話を聞いてみようと思う今日この頃です………。


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