転法輪転教と解説
ウダーナ3.10 世とともに経はあまりにも広い内容のお経ですので事前に必要な内容をあげておきます。
Dhammacakkappavattanasuttaṁ 転法輪転教
お釈迦様の最初の説法である経典です、余りに有名な経典ですから、ここでは余分な言及はさけます、言うまでもなく全ての仏教徒にとって特別な経典です。
Evaṁ me sutaṁ:
わたしはこのように聞いた。:
ekaṁ samayaṁ Bhagavā Bārāṇasiyaṁ viharati Isipatane Migadāye.
ある時、尊き師はバーラーナシーのイシパタナにあるミガダーヤ(鹿野苑)におられた。
Tatra kho Bhagavā pañcavaggiye bhikkhū āmantesi:
そこにおいて、尊き師は五人組のビク達に語りかけた。
“Dveme bhikkhave antā pabbajitena na sevitabbā,
「ビク達よ、出家した者はこれら二つの極端にかかずらうべきでない。
yo cāyaṁ: kāmesu kāmasukhallikānuyogo,
どのような二つとはなにか。もろもろの欲望の対象を楽しむことである。
hīno, gammo, pothujjaniko, anariyo, anatthasaṁhito;
このことは低俗であり、凡俗であり、平凡であり、聖者の行いではなく、利益を伴わない
yo cāyaṁ: attakilamathānuyogo,
そして、一方は白身を苦しめることである。
dukkho, anariyo, anatthasaṁhito.
このことは苦しく、立派でなく、利益を伴わない
Ete te bhikkhave ubho ante anupagamma,
ビクよ、これら二つの極端に近づかず、
majjhimā paṭipadā Tathāgatena abhisambuddhā,
中道は修行完成者によって完全に悟られた。
cakkhukaraṇī, ñāṇakaraṇī, upasamāya
眼を生じ、知識をつくり、静まりや
abhiññāya Sambodhāya Nibbānāya saṁvattati.
優れた理解や完全な目覚めや安らぎ(涅槃)に導く。
Katamā ca sā bhikkhave majjhimā paṭipadā, Tathāgatena
そしてビクよ、修行完成者が完全に目覚めたものであり、
abhisambuddhā, cakkhukaraṇī, ñāṇakaraṇī,
眼をそだて、智慧をつくり、静まりや
upasamāya abhiññāya Sambodhāya Nibbānāya saṁvattati?
優れた理解や完全な目覚めや安らぎへと導く中道とは。
Ayam-eva ariyo aṭṭhaṅgiko maggo, seyyathīdaṁ:
それは、この八つの支分からなる道(八聖道)である。それはすなわち
sammādiṭṭhi sammāsaṅkappo sammāvācā sammākammanto
正しい見解(正見)、正しい意図(正思)、正しい言葉(正語)、正しい行為(正業)、
sammā-ājīvo sammāvāyāmo sammāsati sammāsamādhi.
正しい生活(正命)、正しい努力(正精進)、正しい思念(正念)、正しい精神集中(正定)である
Ayaṁ kho sā bhikkhave majjhimā paṭipadā, Tathāgatena
ビク達よ、これが修行完成者が完全に目覚めたものであり、
abhisambuddhā, cakkhukaraṇī, ñāṇakaraṇī,
眼をそだて、智慧をつくり、静まりや
upasamāya abhiññāya Sambodhāya Nibbānāya saṁvattati.
優れた理解や完全な目覚めや安らぎへと導く中道である。
Idaṁ kho pana bhikkhave dukkhaṁ ariyasaccaṁ:
ところでビク達よ、これが苦しみという真実(苦聖諦)である
jāti pi dukkhā jarā pi dukkhā vyādhi pi dukkho maraṇam-pi dukkhaṁ
生まれるも苦(生苦)。老いも苦(老苦)。病も苦(病苦)。死も苦(死苦)。
sokaparidevadukkadomamanassupāyāsāpi
焼かれるような悲しみ、悲嘆、もろもろの苦しみ、憂惨、苛立ちも苦しい。
appiyehi sampayogo dukkho
好まざるものとの出会いは苦しい(怨憎会苦)。
piyehi vippayogo dukkho
好ましいものとの離別は苦しい(愛別離苦)。
yam-picchaṁ na labhati tam-pi dukkhaṁ
望んでも手に入らないことも苦しい(求不得苦)。
saṅkhittena pañcupādānakkhandhā dukkhā.
要するに、五蘊に執着することも苦しい(五取蘊苦)
Idaṁ kho pana bhikkhave dukkhasamudayaṁ ariyasaccaṁ:
ところでビク達よ、これが苦しみの出現という真実(集聖諦)である。
yā yaṁ taṇhā ponobhavikā,
それは、渇愛と再生をもたらし
nandirāgasahagatā, tatratatrābhinandinī, seyyathīdaṁ:
あれこれの歓喜を求める渇望である。それはすなわち
kāmataṇhā bhavataṇhā vibhavataṇhā.
欲望への渇愛・生存への渇愛・非存在への渇愛である。
Idaṁ kho pana bhikkhave dukkhanirodhaṁ ariyasaccaṁ:
ところでビク達よ、これが苦しみの滅という真実(滅聖諦)である。
yo tassā yeva taṇhāya asesavirāganirodho - cāgo, paṭinissaggo, mutti, anālayo.
それは渇愛を離れることによって、完全に滅すること、捨てること、
放棄すること、解き放たれること、依存しないことである。
Idaṁ kho pana bhikkhave, dukkhanirodhagāminī paṭipadā ariyasaccaṁ:
ところでビク達よ、これか苦しみの滅へと導く道という真実(道聖諦)である。
Ayam-eva ariyo aṭṭhaṅgiko maggo, seyyathīdaṁ:
それは八つの支分からなる聖なる道である。それはすなわち、
sammādiṭṭhi sammāsaṅkappo sammāvācā sammākammanto
正しい見解(正見)、正しい意図(正思)、正しい言葉(正語)、正しい行為(正業)、
sammā-ājīvo sammāvāyāmo sammāsati sammāsamādhi.
正しい生活(正命)、正しい努力(正精進)、正しい思念(正念)、正しい精神集中(正定)である
“Idaṁ dukkhaṁ ariyasaccan”-ti -
ビク達よ、「これが苦しみという真実である」という、-
me bhikkhave pubbe ananussutesu dhammesu cakkhuṁ udapādi, ñāṇaṁ udapādi,
かつて伝承されたことのないもろもろの法に対する眼が、わたしに生じた。智が生じた,
paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi
智慧が生じた。明が生じた。明知が生じた。
Taṁ kho pan' “idaṁ dukkhaṁ ariyasaccaṁ” pariññeyyan-ti -
またビク達よ、「この苦しみという真実は知り究めて捨て去られるべきである」という、
me bhikkhave pubbe ananussutesu dhammesu cakkhuṁ udapādi, ñāṇaṁ udapādi,
かつて伝承されたことのないもろもろの法に対する眼が、わたしに生じた。智が生じた,
paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi.
智慧が生じた。明が生じた。明知が生じた。
Taṁ kho pan' “idaṁ dukkhaṁ ariyasaccaṁ” pariññātan-ti -
またビク達よ、「この苦しみという真実は知りつくし、捨て去られている」という、
me bhikkhave pubbe ananussutesu dhammesu cakkhuṁ udapādi, ñāṇaṁ udapādi,
かつて伝承されたことのないもろもろの法に対する眼が、わたしに生じた。智が生じた
paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi.
智慧が生じた。明が生じた。明知が生じた。
“Idaṁ dukkhasamudayaṁ ariyasaccan”-ti -
ビク達よ、「これが苦しみの出現という真実である」という、
me bhikkhave pubbe ananussutesu dhammesu cakkhuṁ udapādi, ñāṇaṁ udapādi,
かつて伝承されたことのないもろもろの法に対する眼が、わたしに生じた。智が生じた
paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi.
智慧が生じた。明が生じた。明知が生じた。
Taṁ kho pan' “idaṁ dukkhasamudayaṁ ariyasaccaṁ” pahātabban-ti -
またビク達よ、「この苦しみの出現という真実は捨て放たれるべきである」という、
me bhikkhave pubbe ananussutesu dhammesu cakkhuṁ udapādi, ñāṇaṁ udapādi,
かつて伝承されたことのないもろもろの法に対する眼がわたしに生じた。智が生じた
paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi.
智慧が生じた。明が生じた。明知が生じた。
Taṁ kho pan' “idaṁ dukkhasamudayaṁ ariyasaccaṁ” pahīnan-ti -
またビク達よ、「この苦しみの出現という真実は捨て放たれている」という、
me bhikkhave pubbe ananussutesu dhammesu cakkhuṁ udapādi, ñāṇaṁ udapādi,
かつて伝承されたことのないもろもろの法に対する眼がわたしに生じた。智が生じた
paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi.
智慧が生じた。明が生じた。明知が生じた。
“Idaṁ dukkhanirodhaṁ ariyasaccan”-ti -
ビク達よ、「これが苦しみの滅という真実である」という、
me bhikkhave pubbe ananussutesu dhammesu cakkhuṁ udapādi, ñāṇaṁ udapādi,
かつて伝承されたことのないもろもろの法に対する眼がわたしに生じた。智が生じた
paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi.
智慧が生じた。明が生じた。明知が生じた。
Taṁ kho pan' “idaṁ dukkhanirodhaṁ ariyasaccaṁ” sacchikātabban-ti -
またビク達よ、「この苦しみの滅という真実は目の当たりにされるべきである」という、
me bhikkhave pubbe ananussutesu dhammesu cakkhuṁ udapādi, ñāṇaṁ udapādi,
かつて伝承されたことのないもろもろの法に対するがわたしに生じた。智が生じた
paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi.
智慧が生じた。明が生じた。明知が生じた。
Taṁ kho pan' “idaṁ dukkhanirodhaṁ ariyasaccaṁ” sacchikatan-ti -
また達よ、「この苦しみの滅という真実は目の当たりにされている」という、
me bhikkhave pubbe ananussutesu dhammesu cakkhuṁ udapādi, ñāṇaṁ udapādi,
かつて伝承されたことのないもろもろの法に対する眼がわたしに生じた。智が生じた
paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi.
智慧が生じた。明が生じた。明知が生じた。
“Idaṁ dukkhanirodhagāminī paṭipadā ariyasaccan”-ti -
ビク達よ、「これが苦しみの滅へと導く道という真実である」という、
me bhikkhave pubbe ananussutesu dhammesu cakkhuṁ udapādi, ñāṇaṁ udapādi,
かつて伝承されたことのないもろもろの法に対する眼がわたしに生じた。智が生じた
paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi.
智慧が生じた。明が生じた。明知が生じた。
Taṁ kho pan' “idaṁ dukkhanirodhagāminī paṭipadā ariyasaccaṁ” bhāvetabban-ti -
またビク達よ、「これが苦しみの滅へと導く道という真実は養成すべきである」という、
me bhikkhave pubbe ananussutesu dhammesu cakkhuṁ udapādi, ñāṇaṁ udapādi,
かつて伝承されたことのないもろもろの法に対する眼がわたしに生じた。智が生じた
paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi.
智慧が生じた。明が生じた。明知が生じた。
Taṁ kho pan' “idaṁ dukkhanirodhagāminī paṭipadā ariyasaccaṁ” bhāvitan-ti -
またビク達よ、「この苦しみの滅へと導く道という真実は養成されている」という-
me bhikkhave pubbe ananussutesu dhammesu cakkhuṁ udapādi, ñāṇaṁ udapādi,
かつて伝承されたことのないもろもろの法に対する眼がわたしに生じた。智が生じた
paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi.
智慧が生じた。明が生じた。明知が生じた。
Yāva kīvañ-ca me bhikkhave imesu catusu ariyasaccesu
そしてビク達よ、このように四つの真実を
evaṁ tiparivaṭṭaṁ dvādasākāraṁ
-三転十二行相で、-
yathābhūtaṁ ñāṇadassanaṁ na suvisuddhaṁ ahosi,
ありのままに知り見ることで清浄となったのであるから
neva tāvāhaṁ bhikkhave sadevake loke samārake sabrahmake,
ビク達よ、わたしは、神々や悪魔やブラフマー神を含めた世界で、
sassamaṇabrāhmaṇiyā pajāya sadevamanussāya,
サマナやバラモンや神々や人間といった生類のために
anuttaraṁ sammāsambodhiṁ abhisambuddho paccaññāsiṁ.
「わたしは、最高の完全な目覚めを得た」と自覚したのだ
Yato ca kho me bhikkhave imesu catusu ariyasaccesu。
そしてビク達よ、このように四つの真実をevaṁ tiparivaṭṭaṁ dvādasākāraṁ -
-三転十二行相で、
yathābhūtaṁ ñāṇadassanaṁ suvisuddhaṁ ahosi,
ありのままに知り見ることで清浄となったのであるから
athāhaṁ bhikkhave sadevake loke samārake sabrahmake
ビク達よ、わたしは、神々や悪魔やブラフマー神を含めた世界で
sassamaṇabrāhmaṇiyā pajāya sadevamanussāya,
サマナやバラモンや神々や人間といった生類のために
anuttaraṁ sammāsambodhiṁ abhisambuddho paccaññāsiṁ.
「わたしは最高の完全な目覚めを得た」と自覚したのだ。
Ñāṇañ-ca pana me dassanaṁ udapādi:
そしてまた見識と智慧とがわたしに生じた。:
“Akuppā me cetovimutti ayam-antimā jāti natthi dāni punabbhavo” ti.
「わたしの心の解放は揺るぎないものだ。これが最終の生であり、もはやさらなる再生は存在しない」と。
Idam-avoca Bhagavā,
尊き師はこのことをいった。
attamanā pañcavaggiyā bhikkhū Bhagavato bhāsitaṁ abhinandun-ti.
満足した五人組のビク達は、尊き師が語ったことに心より喜んで受け入れた。
Imasmiñ-ca pana veyyākaraṇasmiṁ bhaññamāne,
そしてまたこの教えが語られている最中に、
āyasmato Koṇḍaññassa virajaṁ, vītamalaṁ,
コンダンニャ尊者には、汚れなく塵のない
Dhammacakkhuṁ udapādi:
法を見るための眼が生じた。
Yaṁ kiñci samudayadhammaṁ, sabban-taṁ nirodhadhamman-ti.
「生じる性質をもつものはいずれも皆、滅する性質をもつのだ」と。
Pavattite ca pana Bhagavatā Dhammacakke
そして、このように尊き師が法を車輪のように転じ始めた時に、
Bhummā devā saddam-anussāvesuṁ:
地に属する神々(地居天)は声を伝え聞かせた。:
“Etaṁ Bhagavatā Bārāṇasiyaṁ Isipatane Migadāye,
「バーラーナシーのイシパタナにあるミガダーヤにて尊き師が
anuttaraṁ Dhammacakkaṁ pavattitaṁ,
この教法を車輪のように転じ始めたぞ。
appativattiyaṁ samaṇena vā brāhmaṇena vā
サマナ、バラモン、神、悪魔、ブラフマー神、
devena vā mārena vā brahmunā vā kenaci vā lokasmin”-ti.
世界の誰によっても反転させられないであろうものとして」と
Bhummānaṁ devānaṁ saddaṁ sutvā
地に属する神々の声を聞いてから、
Cātummahārājikā devā saddam-anussāvesuṁ:
大王たる四柱の神々(四天王)は声を伝え聞かせた。:
“Etaṁ Bhagavatā Bārāṇasiyaṁ Isipatane Migadāye,
「バーラーナシーのイシパタナにあるミガダーヤにて尊き師が
anuttaraṁ Dhammacakkaṁ pavattitaṁ,
この教法を車輪のように転じ始めたぞ。
appativattiyaṁ samaṇena vā brāhmaṇena vā
サマナ、バラモン、神、悪魔、ブラフマー神、
devena vā mārena vā brahmunā vā kenaci vā lokasmin”-ti.
世界の誰によっても反転させられないであろうものとして」と。
Cātummahārājikānaṁ devānaṁ saddaṁ sutvā
大王たる四柱の神々の声を聞いてから、
Tāvatiṁsā devā saddam-anussāvesuṁ:
三十二天は声を伝え聞かせた。
“Etaṁ Bhagavatā Bārāṇasiyaṁ Isipatane Migadāye,
「バーラーナシーのイシパタナにあるミガダーヤにて,
anuttaraṁ Dhammacakkaṁ pavattitaṁ,
尊き師がこの教法を車輪のように転じ始めたぞ
appativattiyaṁ samaṇena vā brāhmaṇena vā
サマナ、バラモン、神、悪魔、プラフマ-神、
devena vā mārena vā brahmunā vā kenaci vā lokasmin”-ti.
世界の誰によっても反転させられないであろうものとして」と。
Tāvatiṁsānaṁ devānaṁ saddaṁ sutvā
三十三天の声を聞いてから、
Yāmā devā saddam-anussāvesuṁ:
ヤマ天(夜摩天)は声を伝え聞かせた。
“Etaṁ Bhagavatā Bārāṇasiyaṁ Isipatane Migadāye,
「バーラーナシーのイシパタナにあるミガダーヤにて,
anuttaraṁ Dhammacakkaṁ pavattitaṁ,
尊き師がこの教法を車輪のように転じ始めたぞ。
appativattiyaṁ samaṇena vā brāhmaṇena vā
サマナ、バラモン、神、悪魔、プラフマ-神、
devena vā mārena vā brahmunā vā kenaci vā lokasmin”-ti.
世界の誰によっても反転させられないであろうものとして」と。
Yāmānaṁ devānaṁ saddaṁ sutvā
ヤマ天の声を聞いてから、
Tusitā devā saddam-anussāvesuṁ:
トゥシタ天(兜率天)は声を伝え聞かせた。
“Etaṁ Bhagavatā Bārāṇasiyaṁ Isipatane Migadāye,
「バーラーナシーのイシパタナにあるミガダーヤにて
anuttaraṁ Dhammacakkaṁ pavattitaṁ,
尊き師がこの教法を車輪のように転じ始めたぞ。
appativattiyaṁ samaṇena vā brāhmaṇena vā
サマナ、バラモン、神、悪魔、プラフマ-神、
devena vā mārena vā brahmunā vā kenaci vā lokasmin”-ti.
世界の誰によっても反転させられないであろうものとして」と。
Tusitānaṁ devānaṁ saddaṁ sutvā
トゥシタ天の声を聞いてから、
Nimmāṇaratī devā saddam-anussāvesuṁ:
ニンマーナラティ天(楽変化天)は声を伝え聞かせた。
“Etaṁ Bhagavatā Bārāṇasiyaṁ Isipatane Migadāye,
「バーラーナシーのイシパタナにあるミガダーヤにて,
anuttaraṁ Dhammacakkaṁ pavattitaṁ,
尊き師がこの教法を車輪のように転じ始めたぞ。
appativattiyaṁ samaṇena vā brāhmaṇena vā
サマナ、バラモン、神、悪魔、プラフマ-神、
devena vā mārena vā brahmunā vā kenaci vā lokasmin”-ti.
世界の誰によっても反転させられないであろうものとして」と。
Nimmāṇaratīnaṁ devānaṁ saddaṁ sutvā
ニンマーナラティ天の声を聞いてから、
Paranimmitavasavattino devā saddam-anussāvesuṁ:
パラニンミタヴァサヴアツティー天(他化自在天)は声を伝え聞かせた。
“Etaṁ Bhagavatā Bārāṇasiyaṁ Isipatane Migadāye,
「バーラーナシーのイシパタナにあるミガダーヤにて
anuttaraṁ Dhammacakkaṁ pavattitaṁ,
尊き師がこの教法を車輪のように転じ始めたぞ。
appativattiyaṁ samaṇena vā brāhmaṇena vā
サマナ、バラモン、神、悪魔、プラフマ-神、
devena vā mārena vā brahmunā vā kenaci vā lokasmin”-ti.
世界の誰によっても反転させられないであろうものとして」と。
Paranimmitavasavattīnaṁ devānaṁ saddaṁ sutvā
パラアニンミタヴァサヴァツティー天の声を聞いてから、
Brahmapārisajjā devā saddam-anussāvesuṁ:
ブラフマー神の世界に属する神々(梵衆天)は声を伝え聞かせた
“Etaṁ Bhagavatā Bārāṇasiyaṁ Isipatane Migadāye,
「バーラーナシーのイシパタナにあるミガダーヤにて
anuttaraṁ Dhammacakkaṁ pavattitaṁ,
尊き師がこの教法を車輪のように転じ始めたぞ。
appativattiyaṁ samaṇena vā brāhmaṇena vā
サマナ、バラモン、神、悪魔、プラフマ-神
devena vā mārena vā brahmunā vā kenaci vā lokasmin”-ti.
世界の誰によっても反転させられないであろうものとして」と。
Iti ha tena khaṇena tena muhuttena,
以上のようにして、その瞬間、寸時、寸刻に、
yāva Brahmalokā saddo abbhuggañchi,
声はブラフマー神の世界まで昇りついた。
ayañ-ca dasasahassī lokadhātu saṅkampi, sampakampi, sampavedhi,
そしてこの一万世界は震え、震え出し、振動し出した。
appamāṇo ca uḷāro obhāso loke pātur-ahosi,
そして無限で神々しい光明が世界に現れた。
atikkamma devānaṁ devānubhāvan-ti.
神々の威光を超越した後に.
Atha kho Bhagavā udānaṁ udānesi:
さて尊き師は〔この〕詩句を詠いあげた。
“Aññāsi vata bho Koṇḍañño, aññāsi vata bho Koṇḍañño” ti.
「コンダンニャは理解したのだ。コンダンニャは理解したのだ」と。
Iti hidaṁ āyasmato Koṇḍaññassa
以上のような訳で、コンダンニャ尊者には、
Aññā Koṇḍañño tveva nāmaṁ ahosī ti.
アンニャータ(理解した)・コンダンニャというこの名前がついた。
転法輪転教の解説
「ビク達よ、出家した者はこれら二つの極端にかかずらうべきでない。
どのような二つとはなにか。もろもろの欲望の対象を楽しむことである。
そして、一方は白身を苦しめることである。
ビクよ、これら二つの極端に近づかず、中道は修行完成者によって完全に悟られた。
眼を生じ、知識をつくり、静まりや優れた理解や完全な目覚めや安らぎ(涅槃)と導く。
「中道」について、例えで説明します
最初に、絶えず動いている橋を、自分が綱渡りのように渡っている姿をイメージしてください
右を歩くと落ちます 左を歩くと落ちます 真ん中を歩くと落ちます
ではどこを歩くと渡れましたか? 言葉で表現してください
お釈迦様は
右でも左でもない と言っています これが中道です。
もう一つ例えで
ギターの弦を張るとき(チューニング)は
きつく張りすぎるとダメ 緩すぎてもダメ その中間でもダメ
きつすぎず緩すぎず が中道です
ギターは世界中で何万台使われているかわからないほど数多く使われています、それでも機械でチューニングできません、もし出来たら、その機械を作った人はお金持ちになれるでしょう、その場その時により微妙に、湿気や会場の音響など条件が変わるので人間がチューニングしないとならないのです、このように困難な狭い道です、ベストな答えを得る道と言い換えてもいいでしょう、八聖道とは中道です。
お釈迦様の時代のインドでは、欲望のままに快楽を楽しむのが人生という人々と、ジャイナ教や当時の修行者の人々の中には、極端な苦行をする人々がいて、そのどちらも悟りには役に立たないということです。
そしてビクよ、修行完成者が完全に目覚めたものであり、眼をそだて、智慧をつくり、静まりや、優れた理解や完全な目覚めや安らぎへと導く中道とは。
それは、この八つの支分からなる道(八聖道)である。
それはすなわち
正しい見解(正見)、正しい意図(正思)、正しい言葉(正語)、正しい行為(正業)、
正しい生活(正命)、正しい努力(正精進)、正しい思念(正念)、正しい精神集中(正定)である
正しい見解 正しいもののみかた、すなわち智慧
正しい意図 正しい思考の選び方
正しい言葉 嘘をついたり粗暴な言葉をつかわない
正しい行為 正しい行い、生類を殺生しないこと
正しい生活 正しい生活規範、戒律のこと
正しい努力 修行に怠りがないこと
正しい思念 正しい記憶 教えをしっかり覚える
正しい精神集中 正しい瞑想
王が戒めるべき事柄をマヌ法典という古い文献から記載します
欲望から生じる悪徳十種
狩猟、賭博、昼寝、誹謗、女、飲酒、三種の歌舞演奏(歌・踊り・楽器演奏)、意味のない旅行
怒りから生じる悪徳八種
陰口、凶悪犯罪、裏切り、嫉妬、名誉棄損、財産を駄目にする、言葉の暴力、暴行
上記の様にインド古代の倫理・道徳を記載してみました、お釈迦様の時代の倫理的な常識と変わることはなく、真理を求めて修行する人にとっての具体的な道です。
八正道については仏教副読本の四聖諦で説明してありますので参照してください。ここでもお釈迦様は、この時代の人々にも常識的な言をつかって、解りやすく説いています、説法を聞くこの時代の、知識人、真理を求めて修行する人々であるバラモンが、自分の体験に照らし合わせて理解できるように説いています
ビク達よ、これが修行完成者が完全に目覚めたものであり、
眼をそだて、智慧をつくり、静まりや
優れた理解や完全な目覚めや安らぎへと導く中道である。
ところでビク達よ、これが苦という真実(苦聖諦)である
生まれるも苦(生苦)。老いも苦(老苦)。病も苦(病苦)。死も苦(死苦)。
焼かれるような悲しみ、悲嘆、もろもろの苦しみ、憂惨、苛立ちも苦しい。
好まざるものとの出会いは苫しい(怨憎会苦)。
好ましいものとの離別は苦しい(愛別離苦)。
望んでも手に入らないことも苦しい(求不得苦)。
要するに、五蘊に執着することも苦しい(五取蘊苦)
苦(dukkha)とは楽(sukha)の反対語で、ウパニシャットでは、楽とは永遠に変化しない至福の世界、苦とは常に変化する通常の世界、つまり人が住む世界です。
生苦 生きることに伴う苦、誕生に伴う苦
老苦 老いに伴う苦
病苦 病気に伴う苦
死苦 死に伴う苦
怨憎会苦 嫌いな人と人間関係を持つことに伴う苦
愛別離苦 愛する人と別れることに伴う苦
求不得苦 欲しいものが手に入らないことに伴う苦
五取蘊苦 前記の七つの苦を要約した苦、身体と心が働いていること、つまり生きていること自体が苦ということ
生苦は生きる苦しみで、五取蘊苦は執着の対象となる自分の心と身体(五蘊)そのものが苦ということで、この世に生きていること自体が苦という意味と思われます。生苦と五取蘊苦とは同様の意味と考えて、四つの苦として考えてもよいと思います。
「誕生」「老い」「病」「死」はアートマン(永久不滅な真の自我・主体)を形容する「不生」「不死」「不病」「不死」を反転させた言であると思われます、不生不死の主体であるアートマンを認めなければ「苦」は「誕生」「老い」「病」「死」として表れてきます。
「怨憎会苦」「愛別離苦」「求不得苦」は説法を聞いている人々が、日々直接体験していることを、具体的に言った生活に密着した苦のことです。
「五取蘊苦」は、苦(dukkha)とは結局は、これだよということです。五取蘊はこの時代の真理を求めるバラモンの人々には、この一言で多くのことがらが伝わる言です、詳しくは燃焼経の解説を参照してください。
ところでビク達よ、これが苦しみの出現という真実(集聖諦)である。
それは、渇愛と再生をもたらしあれこれの歓喜を求める渇望である。それはすなわち欲望への渇愛・生存への渇愛・非存在への渇愛ある。
苦の生じる原因は渇愛で、それは輪廻をもたらし歓喜(P.abhinandana S.ānanda)を求めるとあります。後の時代にはブラフマン(宇宙の根本原理)の本質は、存在(生存)・意識・歓喜(S.sac.cjd.ānanda)と規定されます。
歓喜は、至福という意味もあります、ある人にとっての最高の楽しみ、至福の時間という意味。目の前で溺れる人を死を賭して助ける気持ち。慈経に説かれる、母が一人子を命を賭けても護る気持ち、真実を求める気持ちも入ります。お釈迦様の時代のインドではブラフマン、現代では神という言葉で表現したものです。
欲望への渇愛 潜在的・衝動的な欲望、
生存への渇愛 生存欲、生きたいという欲望
非存在への渇愛 死によりすべて終わるということに対する渇望
上記の三つの渇愛は一連の現象を語っています。例えば、衣服を渇愛で選ぶ・買う。衣服を渇愛で着る・楽しむ。次の衣服を渇愛で買いたいと思い捨てる。衣服を身体として輪廻の中での一連の現象としてお釈迦様は説明なさっています。
この説法を聞いている五ビクには、ブラフマンやアートマンとは、無明が作り出した、誤った自己(アートマン)に起因する渇愛が苦(dukkha)を作り出すと、それとなく説いています。そしてお釈迦様は、潜在的欲・生存欲・再存在欲とは、生きる衝動、つまり、業・意志・行(saṅkhāra)であると、それは欲望(渇愛)であり、苦(dukkha)であると説いています。
苦の原因は渇愛であるという、十二縁起を順にみていくのと同じことです。
ところでビク達よ、これが苦しみの滅という真実(滅聖諦)である。
それは渇愛を離れることによって、その渇望を完全に滅すること、捨てること、放棄すること、解き放たれること、依存しないことである。
欲望をもたない者、欲望なく、欲望をはなれ、また欲望を満足させ、アートマンのみを欲する者の場合には、彼の機能は出て行かないのであります、彼はブラフマンそのもので あり、ブラフマンと合一しています。
(ブリハッドアーヌカヤ・ウパニシャット4・4・6)
お釈迦様の時代には、悟りとはアートマン(永久不滅の真の自我)がブラフマン(宇宙の原理)とが合一するという考えが主流です、この説法を聞いているお釈迦様と共に修行した五人のビクも同じ教えを受けた人達です、その人達に向けてアートマンとブラフマンの合一が悟りではなく、欲望(煩悩)を捨てるのが解脱だと、それとなく説いています。
苦を滅するには渇愛を滅するという、十二縁起を逆にみていくのと同じことです。
ところでビク達よ、これか苦しみの滅へと導く道という真実(道聖諦)である。
それは八つの支分からなる聖なる道である。それはすなわち、
正しい見解(正見)、正しい意図(正思)、正しい言葉(正語)、正しい行為(正業)、正しい生活(正命)、正しい努力(正精進)、正しい思念(正念)、正しい精神集中(正定)である
苦を滅する正しい道が八聖道ということです。
八聖道は言葉としては、くりかえしていますが、修行完成者(お釈迦様)が完全に目覚めた見地から説く八聖道と、苦しみの滅へと導く道つまり、これから悟りの道を歩む修行者からの見地では中身が異なります。詳しくはここでは記載しませんが、単なるくりかえしではないことは、こころに留めておいてください。
ビク達よ、「これが苦しみという真実である」という、
またビク達よ、「この苦しみという真実は知り究めて捨て去られるべきである」という、またビク達よ、「この苦しみという真実は知り究めて捨て去られている」という、
ビク達よ、「これが苦しみの出現という真実である」という、
またビク達よ、「この苦しみの出現という真実は捨て放たれるべきである」という、またビク達よ、「この苦しみの出現という真実は捨て放たれている」という、
ビク達よ、「これが苦しみの滅という真実である」という、
またビク達よ、「この苦しみの滅という真実は目の当たりにされるべきである」という-またビク達よ、「この苦しみの滅という真実は目の当たりにされている」という、
ビク達よ、「これが苦しみの滅へと導く道という真実である」という、
またビク達よ、「これが苦しみの滅へと導く道という真実は養成すべきである」という、
またビク達よ、「この苦しみの滅へと導く道という真実は養成されている」という-
かつて伝承されたことのないもろもろの法に対する眼が、わたしに生じた。智が生じた,智慧が生じた。明が生じた。明知が生じた。
そしてビク達よ、このように四つの真実を
三転十二行相で、
三転十二行相とは、三つの基準で見ることです。
①四聖諦の内容の確認・②どうすべきかの確認・③その結果を解り体と心で身に着けた
解りやすくすればこのようになります
1、①苦聖諦とはこのようなものである
②苦聖諦をよく知るべきである
③苦聖諦よく知り終えた
2、①苦集諦はこのようなものである
②苦集聖諦を捨てるべきである
③苦集聖諦を捨て去った
3、①苦滅聖諦はこのようなものである
②苦滅聖諦をはっきりと見るべきである
③苦滅聖諦をはっきりと見終わった
4、①苦滅道聖諦はこのようなものである
②苦滅道聖諦を繰り返し修行するべきである
③苦滅道聖諦を繰り返し修行し終えた
ありのままに知り見ることで清浄となったのである‥‥‥‥
ありのままに知り見ること(yathābhūtaṁ ñāṇadassanaṁ)古くから「如実知見」という言葉でしられています、ものごと、(自らの経験と生存と因果関係)を、ありのままに知り見ることを意味します。清浄は悟りと同じ意味です。
「わたしは最高の完全な目覚めを得た」と自覚したのだ。
そしてまた見識(dassana)と智慧(Ñāṇañ)とがわたしに生じた。:
悟りをお釈迦様がどの様に得たかを語っています、見識と智慧が生じたとは、誰かから教えてもらったものではなく自ら生じたということです、作ったとも言ってないです。
「わたしの心(me)の解放は揺るぎないものだ。これが最終の生であり、もはやさらなる再生は存在しない」と。
再生は存在しないと輪廻からの解脱を説いています。主語を我・自己(attā)としないで、わたしの心(me)とすることでアートマン(S. ātman P.attā)とブラフマンの合一
が解脱(解放)という意味が解脱から消えています。解脱という言はそれに代わって十二縁起で説いている、輪廻し無常である「心の連続体」が解脱(解放)するという意味になっています。
満足した五人組のビク達は、尊き師が語ったことに心より喜んで受け入れた。
そしてまたこの教えが語られている最中に、コンダンニャ尊者には、汚れなく塵のない法を見るための眼が生じた。
Yaṁ kiñci samudayadhammaṁ, sabban-taṁ nirodhadhamman-ti.
「生じる性質をもつものはいずれも皆、滅する性質をもつのだ」と。
中道・八聖道・四聖諦と開示され理解したコンダンニャ尊者が口にした言葉です、お釈迦様の教えの柱を見事に言葉にしたものです。
「すべてのものは変化する」これはアートマン・ブラフマンなど永久に変わらないものを求めてきたインドの考えとは異なるものです、まさにお釈迦様の教えを貫く一本の柱です。
この後神々がお釈迦様の悟りを祝うことが述べられます