ブッダ・心のことば ウダーナ第1章10 バーヒヤの経 わかりやすい版 (お釈迦様が短い説法で悟に導いた有名な経典)
1 菩提の章
1.10 バーヒヤの経(10)
悟りの世界には
物などはない
星もないし太陽もない
月もなければ暗闇もない
自分がないとわかるとき
真にかしこいひとは、なにもかんがえない
物やかんがえることから
楽しいや苦しいからも自由になっている
あるとき、お釈迦様はサーヴァッティーに住んでいた。
ジェータ林のアナータピンディカ長者の聖園に、お釈迦様はいた。
同じころ、バーヒヤという、人々から尊敬されている行者がスッパーラカの海岸に住んでいた。
坐禅していたバーヒヤは、フっと想ったのです。
「私は悟ったのか」
バーヒヤの昔のご先祖である神が、バーヒヤのいるところに現れ言った。
「バーヒヤよ、あなたは悟っていない、悟りへの道も歩んでいない」
「バーヒヤよ、北の地方に、サーヴァッティーという名の城市があります。そ こにお釈迦様という悟った人が住んでいて、悟りの道を説かれる」
その天神の言葉に感動したバーヒヤは、スッパーラカから一夜で、お釈迦様の住む、聖園にやってきた。
バーヒヤは、大勢の弟子が野外で修行しているときに語りかけた。
「尊き方々よ、目覚めた人は、おられますか。お釈迦様にお会いしたいのです」
「お釈迦様は町中へと托鉢に行かれました」と教えられ
バーヒヤはジェータ林から出て、お釈迦様が托鉢しているのを見つけ、お釈迦様にご挨拶(あいさつ)し、こう申し上げた。
「尊き方よ、教えをお説きください。悟りへの教えを説いてください」
お釈迦様は、バーヒヤにこう告げました。
「見たら、見ただけ、で止まりなさい
聞いたら、聞いた、ところで止まりなさい
嗅いだら、味わったら、そこで止まりなさい
なにか思考が生まれたら、すぐに止まりなさい
そうするとあなたは、こちらにもいませんし、そちらにもいませんし、真ん中にもいませせん
あなたというものはどこにもいないのです
どこにもいないということは苦しみの終了です」
バーヒヤは、お釈迦様のこの教えで、悟りを開いた。
まもなくバーヒヤは、子牛づれの雌牛がぶつかって生命を終えたのです。
お釈迦様は、
「弟子たちよ、バーヒヤの遺骸を寝床にのせて運び出して燃やしてあげなさい。塔を作りなさい。清らかな修行をする者が命を終えたのです」
弟子たちは、バーヒヤの遺骸を燃やして塔を作ってから、お釈迦様にたずねました。
「尊き方よ、あの方には、どのような運命が来世がありますか。」
「弟子たちよ、バーヒヤは賢者です。弟子たちよ、バーヒヤは完全なる悟りに到達したのです」
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お釈迦様が短い説法で悟に導いた有名な経典
見たら、聞いたら、嗅いだら。味わったら、思考が生まれたら、そこで止まりなさい
〇妄想が生まれる前に、自分が生まれる前に、止まりなさい
あなたというものはどこにもいないのです
〇妄想が生まれる前に止まれば、自分はない
どこにもいないということは苦しみの終了です
〇これが悟りです
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悟りへの教えの原文と意訳です
Tasmātiha te, bāhiya, evaṃ sikkhitabbaṃ
それではバーヒヤ、このように学ぶべきです。
diṭṭhe diṭṭhamattaṃ bhavissati,
見えたものに対して見ただけにします。
sute sutamattaṃ bhavissati,
聞いたものには聞いた(聴覚・音)だけにします。
mute mutamattaṃ bhavissati,
身体で感じたものに対して感じただけにします。
*mute ― 所覚・思われたもの・考えられたもの。
対象を眼耳鼻舌身意で感受し(感じ)、想い、思ったもの
viññāte viññātamattaṃ bhavissatī’ti.
こころで認識したものに対して識だけにする。
*viññāte ― 所識・認識された・わかる。
対象を意識・心で感受し、想い、思った(認識した)もの
Evañhi te, bāhiya, sikkhitabbaṃ.
もし、あなたは、そのように学ぶならば、
Yato kho te, bāhiya, diṭṭhe diṭṭhamattaṃ bhavissati,
あなたは、見えたものに対しては見ただけにします。
sute sutamattaṃ bhavissati,
聞いたものには聞いた(聴覚・音)だけにします。
mute mutamattaṃ bhavissati,
身体で感じたものに対して感じただけにします。
viññāte viññātamattaṃ bhavissati,
こころで認識したものに対して識だけにする。
tato tvaṃ, bāhiya, na tena; yato tvaṃ,
あなたは、それら(見られ・聞かれ・思われ・識られたもの) と一緒でないから
bāhiya, na tena tato tvaṃ,
あなたは、それら(見られ・聞かれ・思われ・識られたもの)と一緒ではありません。
bāhiya, na tattha; yato tvaṃ,
あなたは、そこ(対象の世界)にいません。
bāhiya, na tattha, tato tvaṃ,
そこ(対象の世界)にいない、あなたは、
bāhiya, nevidha na huraṃ na ubhayamantarena.
ここにもいない、向こうにもいない、二つの間にもいない。
Esevanto dukkhassā
これが苦の終わりであります。
物語で解るようにバーヒヤという人は、優れた資質をもちヴェーダの学習をし、修行を積み、人々に尊敬された人格者で、お釈迦様にお会いして、悟りを開いた尊者です。お釈迦様とは今まで会う機会はなく、お釈迦様の教えを聞く機会もない人です、そこでお釈迦様は、バーヒヤさんが学んできた、ヴェーダ(ウパニシャット)の言葉を使って、わかりやすく説いています、バーヒヤさんがどの様に理解したかを書いていきます。
この時代のインドでは、魂のようなものが生命一つ一つ(個人)にあり、その魂のようなものはアートマンというものが内在していて、この魂のようなものが、生まれ変わり、そして、見て、聴いて、感じて考えて、認識する、そしてこのアートマンがブラフマンという宇宙の最高原理と一つになるのが修行の完成(悟り)とされていました。
下記がウパニシャットのアートマンとブラフマンの記載です。
ātmā’ntaryāmy amṛto
それがあなたのアートマンであり、不死の内部の抑制者です、すなわち
` drṣṭo draṣṭā, `śrutaḥ śrotrā, `mato mantā, `vijñāto vijñātā,
他から見られることなく見るものであり、他から聞かれることなく聞くも
のであり
他から思われることなく思うものであり、他から識られることなく識るも
のである
(ブリハットアーラヌヤカ・ウパニシャット 3・7・23)
etad akṣataṃ
この不滅のもの(ブラフマン)は
adṭṣṭam drṣṭr aśrutaṃ śrotr amataṃ mantr avijñātaṃ vijñātṛ
他から見られることのない見るものであり、他から聞かれることのない聞
くものであり
他から思われることのない思うものであり、他から識られることのない識
るものである
(ブリハットアーラヌヤカ・ウパニシャット3・8・11)
お釈迦様は、お弟子さんたちには、生命(人間)を、身体(色)と心(名)、と説明して、さらに五蘊(五蘊の説明は別冊参考)という一つの身体(色)と、四つの心(受・想・行・識)に分けて説明しています。そして五蘊から離れることを知って、苦が生じることを知り、悟った(相応部35・13・味楽経)と説いている、バーヒヤさんには五蘊ではなく今まで学んできた、見えたもの、聞いたもの、体で感じたもの、認識されたもの、という言で解りやすく説いている。
見えた・聞いた・体で感じ・認識したものに対して、見た・聞いた・体で感じ・認識しただけにします。これは五蘊から離れることを知るのと同じことを指している。
(離れるとは、涅槃・悟り、と同じ意味です)
苦が生じることとは、五蘊という仕組みが苦をつくり出す、ということで、お弟子さんたちには、五蘊という仕組みで、六処・十二処・十八界という場所で、十二縁起という仕組みで、と多くの方法で説かれていることですがバーヒヤさんには、見ただけにします‥‥‥という言で説ききっています。
そして苦をつくり出す仕組みを説いたお釈迦様は、あなたは、ここにもいない、向こうにもいない、二つの間にもいない。と説いています、これは、バーヒヤさん、あなたは、魂のようなものではない、アートマンではない、ブラフマンではないという意味で、バーヒヤさんが学んできた、永久不滅の魂のようなものを求めてもそれは認識できない、すべては無常であり、永久不滅の魂のようなものだと思っているのは五蘊という五つの束にすぎない(無我)と説き、これが苦の終わり、つまり悟りだと説いています。
ウダーナとは
ウダーナはパーリ経典・クッダカ・ニカーヤ(小部)に収録されている経典です。
太字の詩文については、お釈迦様のことばのままを、もっとも伝えている経典と言われています、誰に教えるためでなく、お釈迦様が『心のまま』に口にしたことばを集めた経典です。
詩文に続き後の人々が、いつ、どこでや編集当時の教えを付け加えたエピソードなどが散文で記されています。