ブッダ・心のことば ウダーナ第1章1~10 (完全版)
ウダーナ(自説経)について
ウダーナ(自説経)はパーリ経典、クッダカ・ニカーヤ(小部)に収録されている経典で詩文と散文で構成されている、一つの経典としてどのように、まとめられたかなどは明らかではありませんが、近年の研究では詩文については、スッタニパータ(ブッダのことば)、ダンマパダ(真理のことば)などと同様に最も古い経典でお釈迦様のことばのままを、もっとも伝えている経典と言われています
ウダーナの意義
一般的にウダーナ は、喜びの言葉、歓喜、感興 というふうに訳されていますが、実は「息を吐く」という意味の動詞から作った名詞です。
何かをやり遂げた時、息を吐いて達成感を感じる。その時、発する言葉です。これは六年間の修行が成功して解脱に達したので、お釈迦様がその達成感を発表している言葉です。
解脱・涅槃はどのような境地か
こころにどのような変化が起きたか
仏道を実践する人は何を参考にすればよいか
他宗教との違いは何か
仏教が語る真理とは、等々のポイントが記載されています
ウダーナの構成
第一章はバラモン
第二章は苦と楽
第三章は真のビク
第四章は心
第五章~第七章は教説の内容などビクが理解すべきこと
第八章は苦の終わり・涅槃
上記の様に章ごとに主題があり、詩文の説明が散文でされています
ウダーナの具体例を紹介します。
お釈迦様の最初の説法とされている、転法輪転教という経典があります。ある日、お釈迦様がかつての修行仲間である五比丘に、ご自分の悟った内容である、中道とその実践法である八正道、苦集滅道の四諦、四諦の完成にいたる三転十二行相、を説いた。その時、五人のうちコンダンニャが悟りをひらき、「生じる性質をもつものはいずれも皆、滅する性質をもつのだ」という言を口にした、その姿を見て、お釈迦様は「コンダンニャは理解したのだ。コンダンニャは理解したのだ」と。唱えたと伝わっています。
お釈迦様が口から発した「コンダンニャは理解したのだ。コンダンニャは理解したのだ」という言がウダーナです。
全体の構成は四聖諦に分けて編集されています、四聖諦は互いに関連しているので、明確に分類はできませんが、集聖諦で苦聖集をみて、道聖諦で滅聖諦をみる、という順番で重層的に構成されています。下記の表を見て頂ければ四聖諦つまりお釈迦様の教えのエッセンスが縦糸と横糸を織り込んで布になるような形で、理解できるように一つの経典としてまとめられているのがお分かりとおもいます
第一章の1・2・3、第二章の1、第三章の10が悟りを得た直後の教えとして、縁起と慈悲と四聖諦が凝縮して説かれ、第一章10では無我、第八章1・2・3・4では涅槃が直接的に説かれ、仏教の重要な教えが凝縮されています。第六章4・5・6では論争するなという理由が説かれています。第5章6に触れられている最古の経典スッタニパータ第4章と同じテーマが説かれていて、ウダーナ経典との深いかかわりが有る様に思います
「群盲象を撫ぜる」「仏道の八不思議」「自己より愛しいものはない」など数々の有名なエピソードが説かれている経典です。
1 菩提の章
1.1 第一の菩提の教(1)
このように、わたしは聞きました。
あるとき、お釈迦様はウルヴェーラーに住んでおられた。
ネーランジャラー川の岸辺にある菩提樹の根元で悟りを得てすぐのころ、七日のあいだ瞑想姿で坐っておられた。
悟りの安楽を得たお釈迦様は七日が過ぎ瞑想から覚められて、夜の初めのあいだ物事が縁によって生起することわりを順に確かめられました。
これがあるからあれがある、これが生ずるからあれが生ずる。
すなわち、
無明(無知)を縁として、もろもろの行(業・意志)が生ずる。
もろもろの行を縁として、識知作用(識)が生ずる。
識知作用を縁として、名前と形態(名色)が生ずる。
名前と形態を縁として、六つの認識の場所(六処)が生ずる。
六つの認識を縁として、接触(触)が生ずる。
接触を縁として、感受(受)が生ずる。
感受を縁として、渇愛(愛)が生ずる。
渇愛を縁として、執着(取)が生ずる。
執着を縁として、生存(有)が生ずる。
生存を縁として、生が生ずる。
生を縁として、老と死と憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(老死愁悲苦憂悩)が生ずる。
このように、一切の苦の集まりが、起こる
お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました
精進して修行(観察)するバラモンに
確かに、(理法)現象が現れて来る
そこで彼は、現象には原因があると知って
その時、知っているので、一切の疑が消える(1)
以上が第一の経となる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
お釈迦様が菩提樹の根元で悟り、その直後に確かめられた教えとは十二縁起の順観と語られているお話
真に修行するバラモン(修行者)の目覚めとは、法(現象)とは縁起の順観と詩う
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
なにが書いてあるか
(直訳詩)
Yadā have pātubhavanti dhammā,
確かに法(真理)が明らかになる
Ātāpino jhāyato brāhmaṇassa.
熱心に瞑想するバラモンに
Athassa kaṅkhā vapayanti sabbā,
その時疑いは、すべて消え去る
Yato pajānāti sahetudhammaṃ.
そこで有因の法を知る
解 説
Ātāpino jhāyato brāhmaṇassa.
精進して修行(観察)するバラモン(聖者)に
*brāhmaṇassa この時代は、カースト制度によるバラモンではなく、聖
者という意味
Yadā have pātubhavanti dhammā,
確かに、(理法)現象が現れて来る
*「現象」が無であるというような極端な見解がなくなる。
Yato pajānāti sahetudhammaṃ.
そこで彼は、現象には原因があると知って
*現象は原因によって起こるのだという過程を発見することで、
*時間的に過去に遡ると様々な見解が起こる。それで同時に「疑」が現れ
て悩む。
Athassa kaṅkhā vapayanti sabbā,
その時、知っているので、一切の疑が消える
*過去に対する有・無の「疑」が消滅する。
第一の詩は縁起の順観を語っています
Iti imasmiṃ sati idaṃ hoti, imassuppādā idaṃ uppajjati,
①これがあるからあれがある ②これが生ずるからあれが生ずる。
縁起については、仏教副読本、ウダーナ副読本を参照
ウダーナ1-3にも関連の解説があります
1.2 第二の菩提の経(2)
このように、わたしは聞きました。
あるとき、お釈迦様はウルヴェーラーに住んでおられた。
ネーランジャラー川の岸辺にある菩提樹の根元で悟りを得てすぐのころ、七日のあいだ瞑想姿で坐っておられた。
悟りの安楽を得たお釈迦様は七日が過ぎ瞑想から覚められて、夜の中ごろのあいだ物事が縁によって生起することわりを逆順に確かめられました。
これがないからあれがない、これが滅するからあれが滅する。
すなわち、
無明(無知)か滅するから、もろもろの行(業・意志)が滅する。
もろもろの行が滅するから、識知作用(識)が滅する。
識知作用が滅するから、名前と形態(名色)が滅する。
名前と形態が滅するから、六つの認識の場所(六処)が滅する。
六つの認識が滅するから、接触(触)が滅する。
接触が滅するから、感受(受)が滅する。
感受が滅するから、渇愛(愛)が滅する。
渇愛が滅するから、執着(取)が滅する。
執着が滅するから、生存(有)が滅する。
生存が滅するから、生が滅する。
生が滅するから、老と死と憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(老死愁悲苦憂悩)が滅する。
このように、一切の苦の集まり(苦蘊)が、滅する
お釈迦様は、このこと知って、ウダーナを唱えました
精進して修行(観察)するバラモン(聖者)に
確かに、(理法)現象が現れて来る
そこで彼は因縁によって、現象が消滅すると知って
その時、知っているので、一切の疑が消える(2)
以上が第二の経となる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
お釈迦様が菩提樹の根元で悟り、その直後に確かめられた教えとは十二縁起の逆観と語られているお話
真に修行するバラモン(修行者)の目覚めとは、法(現象)とは縁起の逆観と詩う
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
なにが書いてあるか
(直訳詩)
Yadā have pātubhavanti dhammā,
確かに法(真理)が明らかになる
Ātāpino jhāyato brāhmaṇassa.
熱心に瞑想するバラモンに
Yato khayaṃ paccayānaṃ avedi”ti
そこで、もろもろの縁起の消滅を知る
Athassa kaṅkhā vapayanti sabbā,
その時疑いは、すべて消え去る(3)
解 説
Ātāpino jhāyato brāhmaṇassa.
精進して修行(観察)するバラモン(聖者)に
*brāhmaṇassa この時代は、カースト制度によるバラモンではなく、聖
者という意味
Ātāpino jhāyato brāhmaṇassa.
確かに、(理法)現象が現れて来る
Yato khayaṃ paccayānaṃ avedi”ti
そこで彼は因縁によって、現象が消滅すると知って
*現象は原因によって消滅するのだという過程を発見することで
*有も無も成り立たないと知って
Athassa kaṅkhā vapayanti sabbā,
その時、知っているので、一切の疑が消える
*未来に対する有・無の「疑」が消滅します。
第二の詩は縁起の逆観を語っています
Iti imasmiṃ asati idaṃ na hoti, imassa nirodhā idaṃ nirujjhati,
③これがないからあれがない ④これが滅するからあれが滅する。
縁起については、仏教副読本、ウダーナ副読本を参照
ウダーナ1-3にも関連の解説があります
1.3 第三の菩提の経(3)
このように、わたしは聞きました。
あるとき、お釈迦様はウルヴェーラーに住んでおられた。
ネーランジャラー川の岸辺にある菩提樹の根元で悟りを得てすぐのころ、七日のあいだ、瞑想姿で坐っておられた。
悟りの安楽を得たお釈迦様は七日が過ぎて瞑想から覚められて、明け方に物事が縁によって生起する道理を、順逆に確かめられました。
これがあるからあれがある、これが生ずるからあれが生ずる
これがないからあれがない、これが滅するからあれが滅する
すなわち、無明(無知)を縁として、諸々の行(業・意志)が生ずる。
諸々の行を縁として、識知作用(識)が生ずる。
識知作用を縁として、名前と形態(名色)が生ずる。
名前と形態を縁として、六つの認識の場所(六処)が生ずる。
六つの認識を縁として、接触(触)が生ずる。
接触を縁として、感受(受)が生ずる。
感受を縁として、渇愛(愛)が生ずる。
渇愛を縁として、執着(取)が生ずる。
執着を縁として、生存(有)が生ずる。
生存を縁として、生が生ずる。
生を縁として、老と死と憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(老死愁悲苦憂悩)が生ずる。
このように、一切の苦の集まりが、起こる
無明(無知)か滅するから、諸々の行(業・意志)が滅する。
諸々の行が滅するから、識知作用(識)が滅する。
識知作用が滅するから、名前と形態(名色)が滅する。
名前と形態が滅するから、六つの認識の場所(六処)が滅する。
六つの認識が滅するから、接触(触)が滅する。
接触が滅するから、感受(受)が滅する。
感受が滅するから、渇愛(愛)が滅する。
渇愛が滅するから、執着(取)が滅する。
執着が滅するから、生存(有)が滅する。
生存が滅するから、生が滅する。
生が滅するから、老と死と憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(老死愁悲苦憂悩)が滅する。
このように、一切の苦の集まりが、滅する
お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました
精進して修行(観察)するバラモン(聖者)に
確かに、(理法)現象が現れて来る、
かれは悪魔の軍勢を粉砕している
あたかも太陽が天空を輝かすように(3)
以上が第三の経となる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
お釈迦さまが悟りをひらき七日の後に確認した道理が十二縁起だと伝える
経典
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
なにが書いてあるか
十二縁起は一切も表現している、
①これがあるから、あれがある ②これが生ずるから、あれが生ずる。
③これがないから、あれがない ④これが滅するから、あれが滅する。
これは縁起という公式で①と③、②と④は対の関係にあり、言葉としては①と②、③と④が対になり一つの言葉としてつかわれる
お釈迦様の一切、つまり全世界の語り方
②これが生ずるから、あれが生ずる。④これが滅するから、あれが滅する。
上記②と④はお釈迦様が一切を時間という縦軸をつかって、どのように苦が 生じ・滅するかをことばで表現したもの、この縁起の説明が殆どの仏教の縁起の説明
①これがあるから、あれがある③これがないから、あれがない
上記①と③はお釈迦様が一切を空間という横軸をつかって、どのように苦が ある・ない、かをことばで表現したものです、この縁起は人間には理解し難い微妙で深遠なものと説明されている
一切を地面に例えると、
パイプを地面に打ち込んで(ボーリング)、引き上げれば地層が観察できる、こうして観察した地面を表現したのが
②これが生ずるから、あれが生ずる④これが滅するから、あれが滅する
パイプが時間、パイプのサイズは一つの生命つまり我、こうすれば普段は目に入らない地層でも説明できる。
地面はパイプの外側にも広がっているが目には入りにくい、この地面を横に切り取って観察した地面を表現したのが
①これがあるから、あれがある③これがないから、あれがない
これが時間を入れずに観察する方法、人間には理解し難い微妙で深遠なものとなる、これが空間という横軸
縦軸と横軸を同時に〝ひとつのことば〟で表現し「移り変わる一切」を表現しているのが縁起です。
「生ずるものは,一切が滅するものである」
(直訳詩)
Yadā have pātubhavanti dhammā,
確かに法(真理)が明らかになる
Ātāpino jhāyato brāhmaṇassa;
熱心に瞑想するバラモンに
Vidhūpayaṃ tiṭṭhati mārasenaṃ,
悪魔の軍団を破壊し存在する
Sūriyova obhāsayamantalikkhaṃ.
太陽が天空を照らすように(3)
解 説
Ātāpino jhāyato brāhmaṇassa.
精進して修行(観察)するバラモン(聖者)に
Ātāpino jhāyato brāhmaṇassa.
確かに、(理法)現象が現れて来る
Vidhūpayaṃ tiṭṭhati mārasenaṃ,
かれは悪魔の軍勢を粉砕している
*mārasenaṃ, 煩悩の粉砕を、悪魔の軍勢と表現します
Sūriyova obhāsayamantalikkhaṃ.
あたかも太陽が天空を輝かすように
*縁起の法(性質)を見て取ったお釈迦様という太陽が天空を照らすように疑を打ち破る。
*太陽とは、お釈迦様の尊称です。つまり、お釈迦様です。
第一の詩は縁起の順観を
Iti imasmiṃ sati idaṃ hoti, imassuppādā idaṃ uppajjati,
①これがあるからあれがある ②これが生ずるからあれが生ずる。
第二の詩は縁起の逆観を
Iti imasmiṃ asati idaṃ na hoti, imassa nirodhā idaṃ nirujjhati,
③これがないからあれがない ④これが滅するからあれが滅する。
それぞれ見て取れば、その時は、と詩っています
②これが生ずるからあれが生ずる。 ④これが滅するからあれが滅する。
②④は時間を入れた順番(連続性)これだけでは意味が解りません
①これがあるからあれがある③これがないからあれがない
①③の空間で説明するつながり(同時性)も詩っています
例えで説明します
十二縁起の一セットとは時計のようなものです。それぞれの部品、歯車や針などつながりが、時計という一つの時間をはかるという機能を構成しています。一つ一つの部品は時間をはかる機能はありませんがそれぞれの部品がつながり時計があります。どのように時計があるのかを、あるがままに覚知するのが縁起の順観。一つでも部品が欠ければ時計が壊れると知るというのが縁起の逆観です
第三の詩は縁起の順観と逆観を見て取れば、その時は、と詩っています
お釈迦様はこの まよいの軍団を作り出している原因を無明・渇愛と見て取っています
十二の項目をよく理解すれば、どの項目を取り除けばいいか簡単にわかります。縁起は実際に観察して得られた関係で理論だけの関係ではありません。眼耳鼻舌身意などは実際には取り除けません。触れるや感受も実際には自分ではコントロールできません、執着の原因の渇愛がなくなれば執着もなくなります。そして十二縁起を理解すれば無明はなくなります。つまり無明・渇愛は亡くなります。これが十二縁起というリストです。
執着について
見解は執着があるから起こり。執着があるから見解をつくる、が因縁法則を見て取れば、見解は成り立たない。 一切の現象は因縁法則によって起きては消えるからです。
この発見で執着がなくなるので、 現象のある境地(Lokiya・俗世間)から、現象のない境地(Lokuttara・出世間)へ向かいます。
縁起については、仏教副読本、ウダーナ副読本を参照
「疑」という大問題
疑(kaṅkhā)とは通常の疑いとは異なります、自分が知らないという、ことわりをしらないかもしれないというという潜在的な疑い・不安です。
この疑はどんなに、しらべても直接的に発見することはできない、現象を観察することにより間接的に発見するしかないブッダの法です
我々が知っている知識、事実、真理というものは決して『絶対的』ではありません。それぞれの分野ではそれぞれの知識・事実・真実があり、一生研究して結論に達しても、100%の確信はあり得ない。新たな情報が入り次第、その見解は新しい発見があればすぐ変わるのです。 確実だと思うことは迷信であり、見解にしがみついて成長を妨げることになる
色々なことを知っているが確実ではないです、これが「疑」というのです。この「疑」というのは、人間は実感してないものなのです。世間では知られていないものです、そしてこの疑の中には新しい発見が、あるかもしれないというような不安が隠れています。科学、文学、宗教、哲学、政治学など何でもかまいません。「疑」は常にあるのです。「疑」がある世界では争い、戦い、論争、物別れ、悩み、落ち込みなどは絶えないのです。 この疑というのは、人間の眼耳鼻舌身が原因で起こります、人間が二人いれば別々の五感で、それぞれ認識します、ここも疑があります
有・無という両極端
なにかを考える場合には、有か、無かという両極端に陥っています。 全ての「論」には「異論」が成り立ちます。 「疑」の罠から抜けられないので、人生、生きることが曖昧で、間違いだらけで、善・不善の間で振り回されています。結局、私たちは有・無、善・不善、好き・嫌いなどなどの 2つの異なる原理により操られながら生きています。
釈尊が「疑」をなくす
お釈迦様が学者の様に言葉にして整理整頓したのが因縁法則です
テーラワーダでは悟りを開いて最初に頭のなかで確認したのが十二縁起のことわりであり、口に出した言葉が三つの詩であると言われています
この因果法則をつかい、どのように疑をなくすか書いていきます
概念の善し悪しを・是非を説いてもきりがありません。 例えば『永遠不滅の魂』が在る・ない、などです
そこで何故そのような概念が生じたのかを観察する。 その時に中正(Majjhima)という方法を使用します、
なぜ概念が起きたのかと、原因(因果関係)を発見します。
ここで具体的に説明します
なぜ私という実感(概念)があるのか、冷たい風か触れると寒さを感じる、そこで私が寒いと感じる、ここで私つまり自我が生まれる、私が因果法則により生まれます、実際は冷たい風が触れたり、暖かい風が触れたりした感覚がする、つまり条件(因果)が変化するだけなのに私が生じ続けます
一切の概念は原因があって起るのです。現象が原因によって起るならば、現象そのものに対する議論は無意味です。 概念は根拠がないので、概念を否定するのではなく捨てるのです。
例えば、蜃気楼に対して無数の見解をつくることには意味がないように。一切の現象が起こる様々な原因を発見すると「疑」が消えるのです
仏 教 副 読 本
ウダーナという経典は、転法輪転経という経典で、お釈迦様が悟った内容である、中道とその実践法である八正道、苦集滅道の四諦を説いた。その時、五人のうちコンダンニャが悟りをひらき、
「生じる性質をもつものはいずれも皆、滅する性質をもつのだ」
という言を口にした。その姿を見て、お釈迦様は「コンダンニャは理解したのだ。コンダンニャは理解したのだ」と。唱えたと伝わっています。
お釈迦様が口から発した
「コンダンニャは理解したのだ。コンダンニャは理解したのだ」
という言がウダーナです。
ウダーナは、お釈迦様が、ときと場所を考えて、誰かにあてて説いた、誰かのために説いた言ではなく、自然に発した言です、ウダーナという経典は、このお釈迦様が自然に発した言に、後世の人々が、ふさわしと思われる、時と場所や経典から選んだエピソードなどの解説をつけて、一つの経典として編集したものと思われます。文体などからしても、ほぼ間違いのないことだと思われます。後世の人々が、物語などを付け加える時には、お釈迦様の教えは、ある程度体系化され、お釈迦様の生涯やお弟子さん達の物語は、常識としてウダーナという経典は編集されていると思われます。
そこで、副読本という形で常識を記載していきます。インドは歴史を残さない文化です、何時、お釈迦様の言に、物語が関連づけられ、ウダーナが編集されたのか正確には解りません、常識と言っても正確とはいきませんが、ウダーナを理解するのに役立つような、ことを記載していきます。
なにを悟ったか
ウダーナ1-1~3は、お釈迦様が悟りを開いた直後の様子が語られています。このときに、お釈迦様が口にされた言葉が別な経典に伝わっているので記載します。
153Anekajātisaṃsāraṃ ,
無数の生涯の輪廻を
sandhāvissaṃ anibbisaṃ;
見出すことなく流転した
Gahakārakaṃ gavesanto,
家の作者を探し求めて
dukkhā jāti punappunaṃ.
再三再四の生は,苦しいことだ
154Gahakāraka diṭṭhosi,
家の作者よ、お前は見られた
puna gehaṃ na kāhasi;
再び家を作らないであろう
Sabbā te phāsukā bhaggā,
すべてのお前の梁は壊れた
gahakūṭaṃ visaṅkhataṃ;
家の屋根は構成力を離れた
Visaṅkhāragataṃ cittaṃ,
構成力を離れた心は
taṇhānaṃ khayamajjhagā.
渇愛を滅ぼしに到達した
(ダンマパダ153・154)
シャカ族の王子シッダッタは、ゴータマ家の家長スッドダーナ王と母親マーヤー王妃の息子として生まれた。王子二十九歳の時、何不自由のない優雅な宮廷生活を自ら放棄されるや『生』『老』『病』『死』の苦しみを解決する道を探し求めるため出家修行者となられた。その後六年間、沙門シッタックはガンガ川流域を放浪しながら当時の有名な宗教家たちに師事しては彼らの教理と修行方法を学び、そして、死の一歩手前の極限状態まで自分を追いつめるほどの苦行を続けられたが、それでも探し求める結果を得ることができなかった。この体験をもとに苦行では自分の目的を達することはできないと理解されたシッダッタは、快楽主義や苦行主義という両極端な修行方法を捨る決心をされた。そして、智慧の眼を生じさせ、完全なる心の平和に導く中道を知るや自ら八つの部分からなる聖なる道の実践(八聖道)をはじめられた。
やがて三十五歳になられた沙門シッダッタは、ある日、ネランジャラー川の辺にある菩提樹の下で「私は自分が求める結果を得るまでは死んでもここを離れない」という決意を胸に秘め一人静かに座られたのである。その夜の初夜にまず自分の心の中にある悪魔(Mara)の甘い誘惑と強い脅迫に勝利されたシッダッタは、やがて深い禅定の力によってはるかな過去世から現在に至るまで自分及び他人の前世のことを知ることができる宿住智を、さらに中夜には天人の眼のように肉眼で見えない遠い所や微小な所を見えることができる天眼智を、次の後夜にはすべての煩悩を残らず滅し尽くす漏尽智を得られたのである。そして、これらのすぐれた智慧によって、人は生死を繰り返し、そのたびに老死の苦しみを受ける流転・還滅の中に独自の『縁起の道理』を発見され、さらにそれを観察されたのである。この縁起の瞑想に一夜を過ごされたシッダッタは、やがて暁天に明星が現れる頃、その智慧と明察力によって聖なる四つの真理(四聖諦)を自ら完全に理解されるとともに、自己の覚った真理を他の人に救済として悟らしめる覚者・仏陀となられたのである。この最高の真理を発見された時、仏陀は思わず次の二つの詩を歓喜の中で唱えられたのである。
「私は、この身体という家を建てる大工を、遥か昔の覚者が「あなたは将来ブッダ(仏陀)になるであろう」と予言されて以来、探し求めていた。しかし、これまで菩提智という智慧を覚れなかった私は、その大工を見つけ出すことができず、数えきれないほど生死を繰り返し、さ迷っていた。この輪廻の世界に生まれ続けることは、‥‥・実に、苦しみ以外なにものでもない」
「この身体という家を作る大工よ。私はこの菩提智によって、ついにあなたを見つけた。これからはもう家を建てることはできないだろう。何故ならば、あなたの家の煩悩という『たる木』も無明という『むな木』も折れて屋根が崩壊してしまったからである。
私の心は、もはや家を作る行為から離れ『生』『老』『病』『死』の苦しみのない完全な幸福の境地にある。もろもろの渇愛を尽滅する漏尽智を得たのである」と。
(ダンマパダ153・154の因縁物語)
この詩は、上座部仏教の国々は開眼供養などの時に唱えられる。
ウダーナ1-1~3と、ほぼ同じ内容が、最古の仏伝と言われる、パーリ仏典(パーリ三蔵経典)、律蔵(戒律をまとめた文献)の犍度、大品に記載されています。
上記の様に、ウダーナは多くの経典と深いつながりがあります、ウダーナを入口にして、おなじ内容の経典をご自分で探してみるのも、よいと思います。
仏教副読本ではこれから、ウダーナの理解に役立ことを記載していきます。
縁起について
もろもろの現象は原因から生ずる。真理の体現者はその原因を説きたもう。もろもろの現象の消滅をも説かれる。
大いなる修行者(お釈迦様)はこのように説きたもう。
(律蔵 大品)
縁起についての有名な言です。
「原因があって結果がある、原因がなくなって結果がなくなる」
この教えをお釈迦様は説いている、つまり、これこそお釈迦様の教という意味です。これはどういうことかを、これから記載していきます。
縁起の型式つまりは、お釈迦様が智慧を使う方法を記載します。
①これがあるからあれがある、②これが生ずるからあれが生ずる
③これがないからあれがない、④これが滅するからあれが滅する
①は常に支え合っている因果関係、②は原因によって原因と異なる果が生
まれるという連続性を示す因果関係
世の中の現象は、二つの側面があり、ここにある現象を、それはどうゆうことかと説明すること(例えば引力という原因が絶えずあるので、人は地面に付いている)が必要なのと、その現象が変化して違う現象になる(百年前の世界と今の世界が、だいぶ変わっているように)その、現象が違う現象になる仕組みも説明しなくてはなりません。その両方を説明するための、厳密に見るための方法です。
③④は①②の反対です、これは正しいと確かめるための方法です。「AがあるときBがある」、これが正しいと確かめるには、「AがないときBもない」と発見し、Bという現象の存在にAという現象が欠かせないと、確かめる、こうして、すべてのものごとを観察したお釈迦様は、一切の現象は無常であり、消えてゆくものだと発見したのです。
縁起というのは、因(原因)と果(結果)で一切(世界)を語ります、因と果の間の現象は何も語りません、人間という存在は生滅を繰り返していく存在とまでは語りえますが、現れては消えながら映画のフィルムの様に流れて行くのに、人の記憶は、なぜつながっていくのかはわからないのです、人間の解りえる範囲には限度があります、難しい論議は、その限度を超えて言葉の世界でその答えを解ったように語っているだけです。
お釈迦様の法は、縁起という説明方法で一切を解る範囲で開示して、その姿を見つめる方法を語っている教えです
縁起というのは、すべての事象は、このように観察していけばいいという方法が縁起です。ですから縁起というのは、人が生きていれば無数にあります、例えば、なにか食べるという結果の原因は、食べようという意志が原因としてあり、食物も原因、食器も原因、食物の生産者も原因、料理に使った火も原因などなど、無数に原因があり結果があります。
十二縁起とは、お釈迦様が十二の項目を選び出して並べた教えです、その目的は、悟りをえるためです、それでは、どうしたらよいか、それは欲(無明・渇愛)を滅ぼすということだ、というのを一目で解るように、多くのお弟子さん達が解るように説いた教えです。
相手が理解しやすいように、無数の縁起の中から相手が学んできた言葉で、相手のレベルに合わせて説いています。
縁起の法は、身近なところから始まる教えです。お釈迦様の教えは四聖諦でも一番身近な苦諦から始まり、悟りへの修行方法でも、身近な生活を整える戒律から始まり、瞑想でもまずは自分自身の体から始めていく、縁起の教えを理解するのなら身近なところから始めていけばよいのです。
それぞれがそれぞれに生滅を繰り返し行く縁起の世界では、因と果の間の現象は解らないが、確かに無明と渇愛は因果があり存在する、この無明と渇愛(煩悩)が我(私)をつくり、生物として生きるのに都合のいいように心という〝しくみ〟をつくり瞬間瞬間を生きています、この〝しくみ〟を見て取り、表現したのが十二縁起です
十二縁起を簡単に記入しておきます
先ず生命、生きることがテーマなのが十二縁起です、生きることは生命のことで、それは動き続けることであり、①これがあるからあれがある、のであるから、生命があるのから縁起があります。③これがないからあれがない、生命がなければ縁起がありません。
無明ではじまるのは因果をことばにするためには因が必要なので持ってきただけです
無明→行
煩悩で潜在的な要因(業)をつくる、真理を知らない状態から生きるために動かなければならないから衝動が生じる
行→識
潜在的な要因(業)が表面に現れて心(識)をつくる。生命の認識が現れる。
識→名色
心から体ができてきます。物質と心の区別がある世界が起こる。
名色→六処
心の感じる六種類の機能(チャンネル)ができます
六処→触
心が触れて感受(認識)がはじまります、人間の解る範囲をここで明らかに説明する。
十二処・十八界などの説明はこの説明です
触→受
心が外からの刺激(触)で〝しくみ〟をつかい、ふるいにかけて苦・楽などをきめます。このとき過去の記憶と照合する働きが想です
受→渇愛
渇愛はこれいいね程度の欲が生まれます
渇愛→執着
これいいね程度から、欲しい・離さないという欲になります
無明も渇愛も執着も欲です、この欲が我をつくる、その〝しくみ〟が心です、そして執着があると次の生をつくる、執着すると無常が解らなくなり無常を無視して新たな生をつくる。
執着→有
執着から業(行)が生まれ(有り)・この世に生まれる(有る)
有→生
この世に生まれます
生→老死愁悲苦憂悩
苦が生まれます
苦が生まれる〝しくみ〟の説明が十二縁起とも言えます
十二縁起は具体的に考え立体的に語られるが言葉では表現が困難です、そこで四聖諦や無常・無我・苦という形にして説いていきます
下記は十二縁起についてテーラワーダで伝統的に説かれている教えです、興味のある方は読んでください
無明 知るべき法をしらないことを無明という、その自性は不善心と相応する痴である。この無明は、四聖諦、前辺、後辺、前辺・後辺、十二縁起の8点について正しい理解ができないこと、つまり、理解できないように慧を妨げているのが無明である。
無明という縁から行 現世のあらゆる身業・語業・意業、及び次有に異熟をもたらすあらゆる業を行という。つまり、善行・不善行・不動行の3種であり、その自性は世間善心・不善心に相応する29の思である。(道の思は異熟をもたらす有為であっても、輪転に属さないので行に入らない)
その中、欲界善心8、色界善心5と相応する13の思を善行といい、不善心と相応する12の思を不善行といい、無色界善心と相応する4の思を不動行という。(無色界は定の力が勝れているため、敵対法に対して動揺しないので不動と言われる)
無明に縁って善行・不善行・不動行の起こる様子は次の通りです。名色蘊を得ている限り、生・老・病・死などの不可避の苦を初めとして、財の損出、愛する者との離別、憎む者との出会い、求めて得られないなどの様々の苦を受けるが、渇愛を抱く人々は無明に妨げられて、その苦を見ることができず、善行。不動行を為すのである、また、殺生などの不善行を為せば、現では人に嫌われ、次有では離善地に落ちるなどの結果を招く、不与取や邪欲行なども同様である。しかし、死を望む人が毒を恐れないように、無明のためにその結果を見ることができない人々は、殺生などの瞋恚悪行を為し、また、幼児が大便を玩ぶように邪欲行をなす。
行という縁から識 この場合、識の自性は、結生時・生起時における世間異熟心32です。その中、善行を縁として欲界無因異熟8、大善心8、色界異熟5の21識が生じ、不善行を縁として、不善無因異熟7識が生じ、不動行を縁として無色界異熟4識が生じる。なお、出世間の異熟識は輪転に属さないものであるから識に入れない。
識という縁から名色 識が縁となる際の、その識の自性は、過去業識、つまり思と称される業と相応する識、及び異熟識である。同じく、この際の名の自性は、異熟心と相応する心所であり、色の自性は業生色です。
結生識が生じる時には、この識と相応する名蘊(受・想・行)と業生色も同時に生じる。この同時に生じるものの中、識が主になっているので、識によって名色が生じるというのである。生起時にも、眼識などに相応する心所が同時に生じるのである。(この場合にも名の自性として、心と心所を共に取るべきであるが、識の自性として縁の力から已に取り上げているため、縁と縁所生とが混乱しないように、名の自性から心を除いた。)
そして、識が名色を生じさせると言っても、五蘊地の場合には眼識などの前五蘊は、名のみを生じさせ、心生色を生じさせない。しかし、他の識は名・色を共に生じさせる。無色界には色がないので名のみを生じさせ、無想有情地には、その地に生まれる前の、過去世で修した第五禅業である業識が業生色を生じさせる。
名色という縁から六処 世間異熟心と相応する心所としての名と業生色とを縁として、眼・耳・鼻・舌・身の色処五と、世間異熟心32の意処とが生じる。すなわち、名色が生じるとその中に業生色も含まれているから、業生色の中に含まれている眼色などの色処5も同時に生じることになる。つまり、業生色が生じれば、眼色などの色処も必ず生じるのである。また心所としての名も意処である異熟識に対して倶生縁などの力で縁となる。このように五蘊地においては名色が六処を生じさせ、無色界地においては名が意処のみを生じさせるのです。
六処という縁から触 六処とは已に述べた眼浄色などの六内処であり、(色処などの六外処も合わせて取る説もある。)触の自性は世間異熟心32に相応する触心所である。この触は六内処に応じて眼触・耳触・舌触・身触・意触の6種となる。この中、眼浄色(眼基)に依私止する触を眼触という。つまり、眼識に相応する触心所で。この眼触は眼処が無ければ生じることができない。耳・鼻・舌・身触などが生じるのも同様です。
次に前五識10を除いた世間異熟心22に相応する触を意触という。この意触も意処が無ければ生ずることができない。
触という縁から受 触とは先に述べた触心所であって、この触によって生じる触所生受という。その自性は世間異熟心32の相応する受心所である。受もそれに応じて眼触所生受・耳触所生受・鼻触所生受・舌触所生受・身触所生受・意触所生受の6種となる。つまり接触が無ければ感受作用も生じないのです。
受という縁から渇愛 受が6種あるから、それを縁とする渇愛の、色愛・声愛・香愛・味愛・触愛・法愛の6種となる。すなわち眼触所生受を縁として色愛が生じ、同じく他の耳触所生受などを縁として、それぞれ声愛などが生じるのです。貪根心8と相応する貪心所である。そして、ここで受を縁として渇愛が生じると称しながら、渇愛を色愛などと名づけるのは、色所縁などが受を伴い、それに対して渇愛が働くからです。
例えば色愛の場合、色所縁を貪るのは、その色所縁が楽受を伴っているからである。この楽受に対して渇愛が働くのである。苦受にたいしても、その苦受から逃れて他の受を得ようと貪り、捨受に対しても、その捨受を貪る渇愛が働くのです。
割愛という縁から執着 執着(取)とは、4種の執着であるから、縁としての渇愛の自性と4種の執着中の欲の執着の自性とは同じ貪ということになる。しかし両者は自性は同じ貪であっても働きが異なっている。つまり、所縁に対して貪る度合が、渇愛は弱く、欲に執着は強いのです。例えば、或る色所縁を見る時には、先ず、渇愛が生じ、それが強くなれば欲の執着というのです。
次に、我説の執着は、五蘊に対して我という霊魂があると執着する見です。つまり有身見であるが、そもそも、この有身見が生じるのは、自分に対する渇愛のためであるから、この渇愛から有身見という執着が生じると言われるのです、また習性行の執着においても、それは次有に楽を得んがためであるから、これも渇愛に基づいて生じることがわかる。見の執着も同じく渇愛によるものです。
執着という縁から有 有には業そのものとしての業有と、その業有の結果としての起有との2種がある。業有とは、世間善心17と不善心12とに相応する思29である。すなわち、行の箇所で述べた善・不善行・不動行のことである。
起有とは、その業有より生じる世間異熟心、それと相応する心所、及び業生色である。すなわち欲有・色有・無色有である。例えば次の執着の場合、この執着があるため或る者は現世の欲楽を得ようと、殺・盗などの業有を為して離善地に起有を得、或る者は天人や人間の業の楽を求めて欲界善である布施などの業有をなして欲善趣地に起有を得、或る者は更に欲界より上の楽を求めて色界禅・無色界禅である業有を修し、色界・無色界に起有を得るのである。
このようにして次の執着から業有。起有の両者が生じる。見などの執着の場合も、それぞれの執着のため適宜に業有と起有が生じるのは同様である。
<行と業有の相異>業と業有とは共に世間善・不善心に相応する思であるが、行は現世に異熟をもたらすところの過去世に生じた思であり、業有は来世に異熟をもたらすところの現世に生じる思である。つまり、思としては同じであっても、その思が生じる時点が過去世であるか、現世であるかによって行となり、業有となる訳である。
有という縁から生 この場合に有は、業有のみを意味し、生とは三界の各有における結生の刹那に生じる世間異熟名蘊と業生色とである。例えば人界に結生する場合、結生心としての大異熟第一心、それと相応する心所、及び業生聚3などの、その有における最初の名色蘊が生である。三界の他の地における場合も同様である。つまり有と生とは、業とその異熟の関係に他ならない。
生という縁から老・死・愁・悲・苦・憂・悩 老とは、結生以来死ぬまでの間における世間異熟名蘊・業生色などの老いる状態である。死とは、同じく世間異熟名蘊・業生色が死滅すること。愁とは愁えること、例えば親族・財産・名誉などが損なわれることを心配するのが愁であり、その自性は瞋恚相応心と相応する憂受である。悲とは悲泣のこと、例えば親族・財産・名誉などを失った時に、声を挙げてなき悲しむなどは悲であり、その自性は心生による顚倒の声色である。苦とは肉体的な苦痛のこと、その自性は心識と相応する苦受である。憂とは親族・財産・名誉などを失うこと、愛する者との離別、憎む者との出会い、求めても得られないなどによって生じる精神的苦痛であり、その自性は瞋恚相応心と相応する憂受である。悩とは悲・愁より更に激しい苦脳であり、その自性は瞋恚相応心と相応する瞋恚である。以上で明らかなように、一切の苦は無明などを縁として生じるのであって、ブラフマンなどの絶対神の作るものではない。
十二縁起について経典から記載します、下記は無明から十二縁起が始まるのは、なぜかというお釈迦様の答えです。
Yamakavaggo 10. 2. 2. 1 Avijjā suttaṃ (Sāvatthi)
Purimā bhikkhave koṭi na paññāyati avijjāya 'ito pubbe avijjā nāhosi, atha pacchā sambhavī'ti. Evametaṃ bhikkhave vuccati, atha ca pana paññāyati 'idappaccayā avijjā'ti.
「比丘たちよ、無明のばあい、『無明は、これより前には有ることなく、後に発生した』という、前端(直前の存在)が覚知されることはありません。比丘たちよ、私はこのように説きます、『この縁から、無明がある』と覚知されます」(アングッタラ・ニカーヤ10.2.2.1)
意訳
「比丘たちよ、無明のばあい、『無明は、この時点で最初に起きた。それ以前に無明はなかった』と定めることは不可能だ。比丘たちよ、私はこのように説きます、『(現象の)最初の端は成り立ちません』と覚知されます」2 Taṇhā suttaṃ (Sāvatthi)
''Purimā bhikkhave koṭi na paññāyati bhavataṇhāya, ito pubbe bhavataṇhā nāhosi, atha pacchā sambhavī1''ti. Evañcetaṃ bhikkhave vuccati, atha ca pana paññāyati ''idapaccayā bhavataṇhā''ti.
「比丘たちよ、生存への渇愛のばあい、『生存への渇愛は、これより前には有ることなく、後に発生した』という、前端が覚知されることはありません。比丘たちよ、私はこのように説きます、『この縁から、生存への渇愛がある』と覚知されます」(アングッタラ・ニカーヤ10.2.2.2)と。
意訳
「比丘たちよ、渇愛のばあい、『渇愛は、この時点で最初に起きたのだ。それ以前に渇愛はなかった』と定めることは不可能だ。比丘たちよ、私はこのように説きます、『(現象の)最初の端は成り立ちません』と覚知されます」
お釈迦様の十二縁起にかんする自らの言です。
‘‘Iti hidaṃ avijjāpaccayā saṅkhārā; saṅkhārapaccayā viññāṇaṃ…pe… evametassa kevalassa dukkhakkhandhassa samudayo hoti. ‘Samudayo, samudayo’ti kho me, bhikkhave, pubbe ananussutesu dhammesu cakkhuṃ udapādi, ñāṇaṃ udapādi, paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi.
十二縁起を語ったのちに
比丘たちよ、私はこのように考えたのである
「集合し起こる、集合し起こる」といまだかつて聞かれたことのない法に対して、私に眼が生じ、知識が生じ、知恵が生じ、明知は生じ光が生じた
(サンユッタニカーヤ12・10・15)
‘‘Iti hidaṃ avijjānirodhā saṅkhāranirodho; saṅkhāranirodhā viññāṇanirodho…pe… evametassa kevalassa dukkhakkhandhassa nirodho hoti. ‘Nirodho, nirodho’ti kho me, bhikkhave, pubbe ananussutesu dhammesu cakkhuṃ udapādi, ñāṇaṃ udapādi, paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādī’’ti. Dasamo.
十二縁起を語ったのちに
比丘たちよ、私はこのように考えたのである
「離散し滅する、離散し滅する」といまだかつて聞かれたことのない法に対して、私に眼が生じ、知識が生じ、知恵が生じ、明知は生じ光が生じた
(サンユッタニカーヤ 12・10・15)
明知は生じ光が生じたとは、悟りに達したと同義です。お釈迦様が自ら縁起の法を、いまだかつて聞かれたことのない法と、お弟子さんに語り、十二縁起はお釈迦様の教えだと語っている経典です。
十二縁起、ひとつひとつの要素は、(他を)条件付けると同時に、(他により)条件付けられている。すべては相対的であり、相互依存しており、相互に関連しており、何一つとして絶対ではなく、独立していない。仏教では何かが絶対的主因であるとは見なさない、これも縁起の教えの自然な答えです。始まりが、人には解らないとなれば、始まりという一点は言葉の概念でしかなく、仏教には不要になります、そこで、縁起は、完結する閉じた輪と見なすべきであり、完結しない単なる連鎖と見なすべきではない。という表現がなされ、仏教の教えが円として表現されていきます。
五蘊について
身体・感覚・心、のことを五蘊と言います。
お釈迦様が問題にしたのは心のなかの、感覚です、ここに焦点をあてて説明したのが五蘊です。蘊とは集まり、システムのこと、色受想行識という五つのシステムが集まって生命(人)を形作っているという教えです。
色蘊
これは物質的な体のことです、身体の細胞システムと理解してもいいと思います。内的、外的物質の領域は、物質という色蘊に含まれます。
受蘊
体中に機能する感覚のことです、感じる能力です、身体事態が外の世界を、自分がいることを、感じることです。触れたものを感じ、自分に体があることを感じます。私達の感受性自体が、受です。これは心のはたらきです、物質の働きではありません。物質は感じることはできません。身体という物体に心がないと、何も感じません。
眼、耳、鼻、舌、身体、それから意識・心。この六つのどこかに常に何かが反応する。その反応を「受」と言います。反応は知識ではありません。認識でもありません。まだ知ったわけではない。音に「反応」して、音を「聞く」。なにを聴いたかは、頭の中(意識)の主観で合成するので、感じただけでは知識にはなっていません。知識になる以前、情報を感じるステップが「受」です。
想蘊
眼耳鼻舌身意に入る情報を現象(概念)に変えるシステムです。我々は認識することによって知識、概念や世界観、区別判断などをします、これが想というはたらきです。何かを見たとき、見たものが青いと認識する「青い」という結果は、想です。ですから五感で認識すると同時に、想が起こります。
「思い出す」という機能があります、それは過去の想の現在の認識で蘇らせることです、過去の想を現在に認識で蘇らせることができない場合いは「忘れた」となります。
認識するたびに起こる区別判断も想です。この判断が出来なくなると「認知症」となります
勉強して、知識を増やすのも想蘊を増やすということです
行蘊
生きていきた、考えたい、話したい、行動したいなどの気持ち(行為)です、感情(衝動)です。私達は、想で考えたり外の世界を理解したりすると、次に「何かしなくてはいけない」という状態になり。
例えば、何かが見える。食べ物だと判断する(想)。おいしいものだと判断する(想)。同時にそれに対して何かをしたいという感情(衝動)が生じる(行)食べたい、食べたくない、無視したいなどです(行)。おなかで何かを感じる。空腹だと判断する(想)。何かを食べたという感情(衝動)が起こる(行)。
何かをしたいという気持ちは瞬間たりとも止まりません。何をしたいかは瞬間瞬間変わりますが、何かをしたいとう感情(行)は、常に変化し続けながらあります。行があるから息を吸う。吸ったところで吐きたいという行が生じるで、息を吐く。何かをしたいという感情(衝動)はつづきます、これが行です
識蘊
認識するシステムのことです。身体は物質ですが、生命です、なぜかというと、識があるからです。しかし識、心は独立して行動できないのです。何かに依存して存在しなくてはいけません。それが色蘊です、身体です。身体全体に「認識できる」という機能があります。この身体全体で機能する認識を識蘊といいます。
「知ること」と理解してもいいと思います、「何を知ったか」は想蘊の働きです。
身体と心が人(生命)で、その心の内、お釈迦様が問題にした感覚(受・想・行)を除く部分が識と考えてください
受蘊について
「受」というのは「感じる」という意味です、「感受」「感受性」つまり「感じること」です、お釈迦様の世界観ではこの「受」がキーワードです、存在とは? 生きるとは? という疑問を解明する鍵です
生きものと生きていないもの、生命体とただの物質の違いは何でしょうか、それは、心というはたらき、があるかないかです。心のはたらきを具体的に説明するのは難しいのですが観察してみれば、生命、例えばネコは反応しますが机は反応しません、この「反応する」という、はたらきが「受」です
その対象は二種類です「一:外の世界に反応する」「二:自分の体に反応する」です。
普段は外からの情報ばかり現代人は気にします、暗い部屋などにいれば何も反応しないかと言えば、自分の体を感じて反応します、自身が自分を感じているから、心は止まることなく回転します。
私は、音に耳が反応して。その音に「人の声・音楽・雑音」などなどの概念を作って、言葉で、認識しています。身体は熱と固さに反応しているだけなのにそれを頭のなかで「熱いもの、冷たいもの、柔らかいもの、固いもの」などの概念で、言葉で認識する。頭のなかの妄想だから、私が「柔らかい」というものに、他人は「硬い」と言うかもしれません。
存在とは、生きているとは、感覚があることです。感覚とは、外からの情報に反応することです。
人々にはこのことが難しいのです。「命は感覚だと言うと」納得しない、耳が音を感じても、私はそのステップを飛ばして、頭の中で「あれは音楽だ、あれは鳥のさえずりだ」と瞬時に概念(言葉)を合成する。「聞いた」とするのは、外にあった実際の音でなく、頭の中に起きた概念のことです。これが問題なのです。私が「楽しい音だ」と認識する音に、他人は「うるさい音だ」と認識することはあり得ます、そのとき互いに相手を軽視したり、非難する可能性があります、頭の中で起こる概念が、その人にとっては事実なのです。だから「自分の思うことは正しい」と執着してしまうのです。
同じ音に「音楽だ」と認識する私は、それが正しいと思う。「うるさい雑音だ」認識する人は、それが正しいと思う。どちらの認識も正しくありません。感覚のステップを飛ばして頭のなかで概念を作ったから起こった出来事に過ぎないのです。主観にとらわれて、自分だけの世界で、自分が正しいという錯覚を抱きながらでは、真の姿(真理)は見えて来ません。だから情報をありのままに客観的に観察したい人は、身体にある「感覚」を重視しなくてはいけない。頭に起こる概念を無視しなくてはなりません。このような理由で、感覚というはたらきは重大なポイントとなります。
眼は光を、耳は音を、鼻は香を、舌は味を、身体は固さや温度、意識で心にそれぞれ反応します、この六つのどこかに常に何かが反応する。その反応を「受」と言います。反応は知識ではありません。認識でもありません。まだ知ったわけではない。音に「反応」して、音を「聞く」。なにを聴いたかは、頭の中(意識)の主観で合成するので、感じただけでは知識にはなっていません。知識になる以前、情報を感じるステップが「受」です。
「感じることが生命」だから、生命という問題を解決するには「受」がキーワードになります。
我々は、話す、考える、なにかを作る。この膨大な情報、意識、活動は、すべて感覚が受け取った情報の主観的な合成なのです。主観的な認識は、その個人に限られたものですが、感じる、ということはすべての生命に共通しておこる出来事です
眼は光を、耳は音を、鼻は香を、舌は味を、身体は固さや温度をというように「感じる情報」は決まっています
意識は五感から入る情報を合成して概念を作る、また、過去のことを認識する、存在しないものをイメージする、将来を憶測したりすることもしますが、それは信頼できないはたらきです。意識は事実に徹するということはしません。過去のこと、将来のこと、ありえないことを妄想していても、意識には何かの現在の情報が触れています、そのほとんどは「貪瞋痴」という感情なのです
「受」を別の角度から説明します、何に反応するかを説明してきましたが、反応してなにを感じるかを説明します。
感受性は三つ、楽、苦、苦でも楽でもない(不苦不楽)という三つだけです。
例えば、耳に音が触れたら、「感じた」「聞こえた」とほぼ同時に、苦か、楽か、不苦不楽かを感じています。だから我々はいつでも、感受性として、生きている間に、苦しみを感じる、そのほとんどは「貪瞋痴」という感情を感じる。楽しみsukhaを感じる。あるいは、不苦不楽adukkha-asukkhaを感じる。
お釈迦様の教えである、お経を細かく砕いて読んでみてください、批判でも、宗教の分析でも、輪廻の説明でも、その中心は「受」感受性です。すべての原因はここから始まると。生命だから、何かに触れて感じて生きています、感じない瞬間はなく、その感覚とは、楽か苦か不苦不楽の三つだけです。
人は、眼耳鼻舌身意があって、その六つの感覚器官から反応している機関に過ぎません。その反応で感覚は、苦、楽、不苦不楽その三つの単純な反応から妄想して、いろいろなことを言葉にして、思想やら社会問題やらを作る。この妄想が作り出す世界は、そのほとんどは「貪瞋痴」という感情から作られます。このような世界に生きるのを、苦dukkhaといいます。
この受に基づいて、存在という、からくりが回っています。梵網経という経典に「世の中で起こりうる一切の宗教・哲学・概念などは、受から始まる」と説かれています。この受は因縁によって瞬間に消える無常aniccaṃなものです。だから「受に基づいて妄想推測をはたらかせて概念を作るのではなく、受に対する執着を捨てれば、苦を乗り越えて解脱に達することができる」と説かれています
六処(眼耳鼻舌身意)という場所で、受という、はたらきが原因・ステップとなり、想・行という、はたらきが「私」つまり「自分がいる」という実感を作る、この「私」という実感は、受という感覚を合成すると二次的に表れる概念です、このことが無我anattāということです。
受が「変わらない自分がいる」という壮大な錯覚を、引き起こしています。感受で知ったり、感受で考えたり、感受で妄想したりするのですから、感受で自我意識を断つというのは簡単ではありません。
生命は、先ず刺激があって、「受」が感受して、心が反応し、それに対して外の世界からの反応があり、貪瞋痴やまれに善き感情で、さらに反応し、その新たな反応が新しい刺激を生んでいく、この繰り返しです。そこには何の意味もありません。
心が対象(例えば音など)に触れると、「受」の働きによりその対象を経験します、これが「聞こえる」です。心が聞こえます、心は一本の絶え間ない流れとして、細胞がDNDをコピーして生滅を繰り返し存続していくように、流れています。聞こえる、という心は、次の心にその、聞こえた、という経験を手渡していきます、その経験をしている主体が「受」です。
過去世や今世において形成された業の結果を、一瞬一瞬、眼耳鼻舌身で経験し続けて、それぞれに反応して心が生起し、また新たな業を形成していき、それらの心を対象とする心がさらに生起していきます。
この心の働きはすべて、「対象を経験する」ことで成り立っています、その対象を経験する主体が、心と共に生起する「受」です
古来よりインドでは、人間は、名nāma(精神的現象)と 色rūpa(物質的現象)で作られているというのが常識でした、この人間と言う現象の中で、「対象を経験する」という働きを持っている構成要素(蘊)は「受」のみです、対象を経験し、感受しているのは、「私」でもなく「私の魂」でもなく、「受」です。このことがわかれば「そこに何の意味もない」と言うことが本当に見いだせれば、それこそ真理への道、仏道ということです
十二処・十八界
十二処とは認識の起こる場所ということです。煩悩の起こる場所であり、受想行識が起こる場所です。具体的に分析してみると、眼という処(場所)で、眼に見える色・形という処があり、二つが触れると感じる、そして受が起きて、同時に想行識も起こり、眼耳鼻舌身意という処に色声香味触法という処が触れて認識過程という作業が起こる。人が生きていると起こるすべての出来事は、身体で起こります、それを十二所という用語で省略しています。
眼処・耳処・鼻処・舌処・身処・意処・色処・声処・香処・味処・触処・法処という十二処(場所)があります。
①眼という処と、見える色・形という処があり、二つが触れると感じる
②耳という処と、聞こえるという声という処があり、二つが触れると感じる
③鼻という処と、香るという香という処があり、二つが触れると感じる
④舌という処と、味わうという味という処があり、二つが触れると感じる
⑤身(皮膚)という処と、触れるという触という処があり、二つが触れると
感じる
⑥意という処と、心的対象という法という処があり、二つが触れると感じる
①から⑤については、眼耳鼻舌身は人間の五感として知られ、私達にも、うなずけると思います、まとめて言えば、眼耳鼻舌身(内処)という身体の内側の認識器官に色声香味触(外処)という情報(外側の世界)が触れて、心が起こるということです。
⑥について説明します、意とはこころと同じ意味だと考えてもいいです、ではこころはどこにあるのかは、「身体の内側でこころのはたらきをしているどこか」、というのが答えです。これは、なにか特定の塊や器官というより身体全体ということです。現代の科学では頭(脳)というのが解りやすと思いますが、最先端の脳科学でも脳がこころや体をどの程度コントロールしているかは解らないことが多く、少なくとも、身体もこころも、脳だけでコントロールしているのではないことは、解ってきています。それでは触れる法とはなにか、眼耳鼻舌身以外の情報です。それは、頭でイメージした実在しないもの、具体的には、どこかでみた過去の風景・音・香り・味・触感、ドラえもん、天使、などや、存在するが五感でとらえるのが出来ないもの、具体的には、自身の眼や耳、眼に見えない紫外線(現在は機械で認識できますが、五感が直接は認識できません)など、涅槃も法に入ります。
十八界
界とは、おそらく世界の界で、十二処は場所ですが、十八界は認識の世界すべて、人の存在に関わるものすべてという意味です。
眼界・耳界・鼻界・舌界・身界・意界・色界・声界・香界・味界・触界・法界・眼識界・耳識界・鼻識界・舌識界・身識界・意識界という十八界があります。
①眼という界と、見える色・形という界があり、二つが触れると感じ、眼識が生じる
②耳という界と、声という界があり、二つが触れると感じ、耳識が生じる
③鼻という界と、香という界があり、二つが触れると感じ、鼻識が生じる
④舌という界と、味という界があり、二つが触れると感じ、舌識が生じる
⑤身(皮膚という界)と、触という界があり、二つが触れると感じ、身識が生じる
⑥意という界と、法(心的対象)という界があり、二つが触れると感じ、意識が生じる
五蘊・十二処・十八界は同じことを、異なる方法で分類して説明したものです。では、なぜ同じことをわざわざ説明するのか、それは学問や、哲学のためではなく、修行実践のために役に立つからです、心と身体(名色)で出来ている人を、このように分けて観察すれば悟りに役立つという、お釈迦様の観察方法が、五蘊・十二処・十八界です。
ここで、仏教の認識、知るということの説明をしていきます、 五蘊と同様に十二処は生滅を繰り返しています、現象というのは、ある振動、生と滅を繰り返す、それは波のような現象です、仏教ではこれを、「現れては消える」、と表現します。解り難いなら、有―無、と言い換えてもいいと思います。例えば、耳に、音が、触れて聞こえた、という感覚が生じる。耳は、分子から、素粒子から出来ていて、素粒子はとどまることはありません、耳も、人間の身体も同じことです。つまりは、「現れては消える」ということです。振動を繰り返している波のような、変化を繰り返す流れです。
音も同じく、「現れては消える」(生―滅)の流れです。耳も音も流れです、生―滅(有―無)を繰り返す流れです、耳が有で音が有のとき触れる(ぶつかる)と反応が起こります、その反応が、「聞こえた」ということ「感覚が生まれた」と言っても同じです。
感覚器官である、眼・耳・鼻・舌・身・意という六つ(六根)があります
認識対象であう、色・声・香・味・触・法という六つ(六境)があります
六根が六境に触れることで、視覚、聴覚という感覚、認識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)が生まれます。
感覚、認識というのが、仏教の知るという機能です、心(nāma・名)です、そして、この心は、ものすごい速さで変化していきます。
図.1 十二処です
(内処)眼処・耳処・鼻処・舌処・身処・意処
(外処)色処・声処・香処・味処・触処・法処
図.2 十二処を四つに分けています、これは解りやすくするための区分です
内五処 眼処・耳処・鼻処・舌処・身処
内一処 意処
外五処 色処・声処・香処・味処・触処
外一処 法処
図.3 十二所のうち、どの組み合わせで触が生じるかの図です 16通りの内、触が生じるのは5通りです、11通りは人間には知覚できません
○は触の生まれる組み合わせです、空白の触の欄では触は生まれません、つまり認識しない組み合わせです
★内五処は対象(所縁)としては法処に含まれます、内五処は意処で認識します
図.4は十二処の全ての組み合わせの図です 144通りの内、触が生じるのは17通りです、127通りは人間には知覚できません
図.5は内処と外処の関係です
感覚器官が滅のとき、認識対処が滅の時は認識しません、両方が生のときのみ認識します。図4で解るように私たちは四分の一しか認識していません、さらに図4でもわかるように、私達は現象のほんの一部分しか認識していません、ですから「ありのまま」を認識しているわけではないということがわかります。
このように私たちは「ある・(生)」という世界だけを認識します、これは、私たちの知識はすべて「ある」という世界のことだけ、ということです。
なにを意味しているかというと、人間の知識では、ものごとの変化を「ある」から「ある」しか認識できないということです、水を電気ポットに入れて、コンセントを差せば沸騰する、この現象過程も、「ある」から「ある」しか認識できない、これは無常の知識ではありません。
「ある」から「ない」から「ある」、つまり、「現れては消える」(生―滅)の流れは認識できないということです。
では、「ない」は認識できないのに、なぜ解るのか、具体例で説明します、100円のコインが昨日は財布に「あった」が今日は「ない」。あるいは、財布を見たら「あるはず」のコインが「なかった」というように、「ない」ことを推測しているが、「ない」ことを直接は認識できません。
もう一つ具体例を、目をつむって、コインを手のひらでポンポンと投げて弾ませます、手のひらに触れているときは、コインを認識して「ある」とわかりますが、手のひらから離れ空中にあるときは認識しないので、なにもわかりません、落ちてくればわかります。全体の流れとしては「ない」は推測にすぎませんが、わかります、これが人の認識です。
お釈迦様は「ない」を説明するのに、
否定形 「ない」を説明するのに、「あるのではない」という形
二項対立 「ある」を説明して、対になるのが「ない」だよという図式
を使って説明します。
次に業を見ていきます。
業について
業とは「行為と結果」です
例えば、私が石をガラスに投げると、ガラスが割れる。
石がガラスに触れた¬=行為 ガラスが割れた=結果 となります
ここでは時間の間隔がないので原因による行為と結果は明確です
そこで、時間の間隔が有る場合には、私が投げた石がガラスにあたる間隔に、その他の原因による行為と結果が生まれます
例えば、石を投げたのは私を殴った人に向けて投げたがガラスに当たった場合に、その原因は「私が割った」でも「私を殴った人」あるいは時間の間隔を短くして「石がガラスに当たった」でも原因による行為です、これが因果法則で考えることです
また、一つの原因で何かが起こるということではありません、例えばガラスが割れたのは石が触れたことですがガラスにも原因があります、強化ガラスなら、クッションの上に置いてあったらガラスは割れないかもしれません、ただ単純に「石があたってガラスが割れた」とは言えません、数えきれない原因が見つかります
ガラスの割れたのは誰のせいでしょうか、石を投げた人のせいか、その人を怒らせた人のせいか、その人が怒ったのはまた原因があるからその原因を作った人のせいなのか。このように原因と結果は、はてしなくつづき因果法則は複雑です
仏教では「業」という場合はすべての行為を業とは言わずに、心の行為を業と言います、つまり「行為をしたがる意志」を業と言います
私が石をガラスに投げたことは業ではありません、ただの行為です、ただそれだけで心の結果を得るわけではないからです、「なぜ投げたのか」という私の気持ちを業と言います、つまり意志です
業が自分に回るのかは「心は一本の絶え間ない流れとして流れているから、心の意志でやったことは、いつかは、やったことの結果がその心に現れる」ということです
心は瞬間瞬間、変わっていき、いまの心が死んで、次の心が生まれる。から、次の心が生まれる原因は前の心です
「私」というのは、結局、心です「身体が痛い」と言うときは、心がそこにはたらいていて、本当は身体ではなく「私=心」について「痛い」と、「楽しい」という場合も、心に生まれる感情ですから身体が楽しんでいるのではなく「私=心」が楽しんでいるのです
人間の細胞は壊れては、新しく作られます、永遠に身体は同じものではありません、DNDをコピーして一生涯続いていく仕組みと、心が瞬間瞬間、生滅を繰り返し前の心をコピーして続いていく仕組みはよく似ています、コピーですから前のものとは異なりますが、前の心を受け継いでいきます
行為をすれば心になにか跡が残ります、この跡(潜在力)が原因となり結果が出てきます、これが業「行為と結果」ということです、身体で言うなら正しい治療をすれば健康になり、怪我をしたのに誤った治療をすればその影響は残ります。一般的な出来事でも「行為と結果」では同じです、お釈迦様はこのことを説明するために普通の行為論と業論を一緒に説明されています
心はいつ、どのような場合に、業の行為(原因)が出るか(結果)は複数の原因に複数の結果が、はてしなく続く因果関係で成り立っているので、通常解りません
仏教では「人が行為をする場合は、行為をしたいからしていると、したいからする行為は全部、業」と簡単に理解する為に言っています。
なにかしたい気持ちを、貪り(貪)・怒り(瞋)・迷い(痴)の行為は悪い行為・悪業で、不貪・不瞋・不痴の行為は善行為・善業という尺度で仏教では分けます
つまり業(カルマ)とは、「意志が業であり、なにかやりたい気持ちが業」で悪いことをしたら、悪い結果。善いことをしたら善い結果があるという理解でいいと思います
インドでは業というと、行為全体を業と説明する人々(宗教・哲学)が多数で、仏教とは異なる業の考えが主流です、このため西洋でも日本でも仏教とは異なる業の考えが入ってきています、現在でも混乱があります、西洋の文献を翻訳した日本語の文献でもかなり混乱がありますので注意してください
無我について
「私」というものについて、認識がうまれるときに、同時に「自分」というものを感じる、ですから、なにかを見るたびに、自分が見ている、なにかを聞くたびに、自分が聞いている、香を感じ・味を感じ・体に触れても・何かを考えても、自分がということは、同じです、なにかに触れれば、自分がというと感じを受けて、自分がいるという感覚が起こります。
ここが問題です。
「感覚がある」ということでしかないのに、思考を働かせて、「感覚があるから〝自分〟がいる」という錯覚を作ります。
かといって、嘘とは言きれないのです、現象の「生―生」という「ある」という四つのパターンのうち一つしか知りません、残りの四分の三は知りません、このように知っているのは一部のことだけですから、正解でないですし、人類がいつ初めて自分ということを感じたのかも知りません。
「私がいる」「自分がいる」という実感をもつのは、ごく普通のことです、「人の解る範囲は限りがある」という程度の話です。
問題は「自分がいる」という実感を、貪り・怒り・迷い(貪瞋痴)という感情で「自我」「魂」「霊魂」といった錯覚をつくることです。
貪とは、果てしなく貪る心、欲のこと
瞋とは、怒りの心
痴とは、真理に対する無知
具体的に見てみます、「自分がいる」という実感があり、欲があると、自分の命に執着して、私は死にたくない、なにか死なない方法はないか、と考えるようになる。そして、「これが自分だと言えるなんらかの実態がある」「魂がある」「死なないなにかがある」。さらに「我諭」「天国と地獄」「永遠の命」という膨大な、宗教・おとぎ話をつくります。そして、「生きていたい」という欲があり「死にたくない」という怒り(うけいれたくない)があり、欲と怒りの感情があるので、「魂」「自我がある」という錯覚に極限までしがみつきます。
お釈迦様は「自分がいるという実感」はどのように起きるのかしらべ、分析して。無我ということを発見したのです。「無我」とは「我は無い」ということです、「ない」を発見、説明するのは難しいです、「有る」は説明できますが、「ない」を説明するのは、大変難しいです。
無我の我とはアートマンのことです、「無我」とは「我(アートマン)が全くない」ではなく、「我ではない」という意味です、「自分がいるという実感」がないとは、お釈迦様は言ってないです、微妙なところですから注意してください。
では、お釈迦様がどのように、分析、説明したかを見ていきます。
五蘊・五取蘊
人は、①色・②想・③受・④行・⑤識の集まりだという教えです。
①色という身体があって
②身体のなかに、受という感覚があり
③想という働きで概念をつくる、赤い、丸い、大きい、小さい、というようなことを考える前に思います、概念のことです。
④行は、なにかをしたくなるエネルギーで、食べたい、座りたい、しゃべりたい、寝たい、といった意欲・衝動的なエネルギーがあり、考え、実行します。感覚・概念・意欲があり、
⑤識とは、認識することです
「自分」とはこの、五つつの働きからできています。
この五つの働きは、常に変化します、身体も感覚も常に変化します、色・想・受・行・識はものすごい勢いで変化します、つまり無常です、人(名色・五蘊)は無常なのだから、永久不滅で、これが人だといえる、絶対に変わらない、実態=アートマン(我)ではないです。つまりは人のなかにはアートマン(我)はない、ですから「無我」だとお釈迦様は説いています。
十二処・十八界
「自分がいるという実感」があるのは、感覚が生まれるからです、「自分がいる」と感じるからです。眼・耳・鼻・舌・身・意という六つ(六根)に、色・声・香・味・触・法という六つ(六境)が触れることで、視覚、聴覚という感覚、認識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)が生まれます。この六つの感覚器官・六つの対象・六つの感覚器官六つの対象から生まれる認識は、常に変化します、身体も感覚も常に変化します、ものすごい勢いで変化します、つまり無常です、人(名色・五蘊)は無常なのだから、永久不滅で、これが人だといえる、絶対に変わらない、実態=アートマン(我)ではないです。また、認識の際に引き起こされる煩悩も、同じく無常です。ですから「無我」だとお釈迦様は説いています。
無常だから無我
すべての現象は、生―滅の流れ、有―無の流れです。無というのは直接には観察できないが、客観的に観察すれば、前の現象と後の現象とは違っていると理解できます。
ここでは流れを見てみます、川を流れる水を観察してみます。
「ある」と思える多摩川を観察してみましょう、多摩川だというべき絶対変わらない、多摩川の芯だといえるなにかがありますか。ありません。そこにあるのは、ただ、山に降った雨が海まで流れているだけです。雨が降るという条件が無くなれば、多摩川も無くなります、条件の中で生まれる現象だけです。そして川は、瞬間瞬間変わっていきます、いま見ている川の水は、一秒後には目の前にないです。一秒前に見ていた水が出ていき新しい水が入る現象を、瞬間瞬間くりかえしているだけの現象を、絶えず流れている現象を、私達は多摩川と呼んでいるだけです。流れは人が気づかないだけのことです。この現象を無常といいます。常に変化する無常なのだから、永久不滅で、これが人だといえる、絶対に変わらない、実態=アートマン(我)ではないです。ですから「無我」だとお釈迦様は説いています。
無常・苦・無我
無常・苦・無我は同じものの、三つの側面にすぎません。ですから、無常=苦=無我です。これを、一切の現象の三つの相=三相と呼びます。
では、なぜお釈迦さまは、無常・苦・無我という三つ言葉を使ったのでしょうか。
無常の概念に興味を抱く人も、苦の概念に興味を抱く人も、無我の概念に興味を抱く人もいるでしょう。お釈迦さまは、誰にでも理解できるように仏教の真理をユニバーサルにしたのです。
無常は、ほとんどの人が理解しやすいでしょう。物事が常に変化してやまないことは、感覚的にもわかりやすいです。
苦は、感覚的に物事にアプローチする人にとってわかりやすいでしょう。感覚的に、「ああ、苦しい、この人生は」と思う人にとっては、苦のほうが入りやすいです。
無我は、宗教家、思想家、精神世界に興味ある人にとってわかりやすいでしょう。ただ、あまりにも「我」論に執着すると、自分でもわからなくなります。存在しないものを存在すると思う話ですから。そうではなくて、あの人は何を言っているのか、この人は何を言っているのかと、そうやって調べる人にとっては、無我はアクセスしやすいのです。
お釈迦さまは、苦・無常・無我以外にも、病・傷・できもの・蜃気楼・幻覚・燃える炭などのたくさんの単語を使って同じことを説明しています。
このようにお釈迦さまは、相手の性格に合わせて語られています。
無常・諸法無我、浬槃もまた無我
そこでお釈迦さまは、
“Sabbe saṅkhārā aniccā”ti, / yadā paññāya passati;
Atha nibbindati dukkhe, / esa maggo visuddhiyā
一切の事象は無常である(諸行無常) / 明らかな智慧をもって観るとき
苦しみから遠ざかり離れる / これこそ清らかになる道である
(ダンマパタ277)
「諸行」とは、世の中にあるすべての現象、森羅万象のことです それは無常である
“Sabbe saṅkhārā dukkhā”ti, / yadā paññāya passati;
Atha nibbindati dukkhe, / esa maggo visuddhiyā.
一切の事象はドゥッカである(一切皆苦) / 明らかな智慧をもって観るとき
苦しみから遠ざかり離れる / これこそ清らかになる道である
(ダンマパタ278)
そして、
“Sabbe dhammā anattā”ti, / yadā paññāya passati;
Atha nibbindati dukkhe, / esa maggo visuddhiyā.
一切の法は無我である(諸法無我) / 明らかな智慧をもって観るとき
苦しみから遠ざかり離れる / これこそ清らかになる道である
(ダンマパタ278)
と説かれるのです。
ここで注意してほしいのは、「諸法」と「諦行」は違うということです。「諸法」には、現象だけでなく、すべてのものが含まれています。
「法」の場合は、何も抜けていないのです そして、すべてまとめて無我であると、お釈迦さまは説くのです。無我という概念を使う場合は、「法」という概念をわざと使います。「諸行無我」という。言はありません あくまでも「諸法無我」なのです。
ウサギの角は、無常でしょうか、はじめからないものですから、無常とはいえません。しかし、ウサギの角という概念は「法」に入ります。存在はしませんが、頭の中で組みたてた思考としては存在します。それが無常だとは言えないです。
たとえば、目の前にあるペットボトルは、無常です。実際にあるのですから、ベットボトルは、同時に無我です。永遠に変わることがない「実体」などありません。
こうまとめてもよいでしょう
行一囚禄によって起こる現象
法一涅槃も含むすべて
法と言えば、涅槃もウサギの角もすべてが無我です。ですから、涅槃もまた無我なのです。
「涅槃もまた無我」と、誤解するでしょう。仏教では究極の幸福の境地として涅槃を説かれています 無我を発見していない一般の方々は、涅槃の境地に達したら永遠の幸福の命を獲得したようなものだと推測します。
しかし、涅槃という境地は、認織概念では説明不可能です。すべての概念は現象の世界を指しています 現象を乗り越えた世界に対して、言葉も概念もありません、強いて言えば、生き続けることは苦(ドゥッカ)であり、それを乗り越えられたならば、幸福である、という程度の話です。最初から自我はなかったのです、自我が有るというのは人間の錯覚です。悟りに達するひとには、自我の錯覚が消えます、それだけです。悟ったひとに、今までなかったアートマン(自我)か突然現れるはずはないのです。涅槃も無我です。ですから、諸行無常で諸法無我なのです。
因縁(因果法則)原因が無くなれば結果も無くなる
一切の現象は、因縁によって現れます。人間に発見できても、できなくても、因縁なく、言い換えれば原因なしに、偶然、突然、あるいは神の創造によって、何かが現れるということはありません。
よく、「これは偶然だ」とか「これは突然だ」という人がいますね。「偶然」という言葉を口にすることがありますが、それは、その因縁の流れ・原因を知らないからです。「今日は突然、人が来た」というのは、その人が前もって「今日伺います」と連絡してこなかったから、来ると思っていなかったというだけの話です。その人が足を運んだという「原囚」があって、「来た」という結果があるのです。原因もなく、突然、現れたわけではありません。
本人が知らなかっただけのことですから。
科学の世界でも、まだ知られていないことは無数にあります。だからこそ、まともな科学者ならば、「まだそこまで研究していないからわからない」と答えるのです。知らないからといって、「偶然だ」「突然だ」「神の創造だ」などとは言いません。
そして、原囚によって生じるものは、その原囚によって支えられている時のみ存在するのです。今、蛍光灯が光っているとします。光っているのは、偶然でしょうか?それとも、神の大慈悲の結果でしょうか?光る原因を、皆さんも知っていますね。しかし、蛍光灯の光は、光る原因にずっと支えていてもらわないと、消えてしまいます。囚果法則とは、そういった話なのです。
原囚が無くなると、結果も無くなります。ですから、絶対的で、常在する実体(アートマン)が存在するというのは、観察能力が乏しいことから起こる、錯覚以外のなにものでもありません。この世の中にある膨大な我論、アートマンに関する膨大な知識・哲学というものは、単純に観察能力が乏しいことの結果に過ぎないのです。
覚りの結論
お釈迦さまが観察すると、因果法則ということがわかってしまいました。そうすると
Sabbe dhammā anattā 一切の法は無我である(諸法無我)
という結論に達しました。
Sabbe dhammā anattā 一切の法は無我である(諸法無我)
という結論は、このような現実的な因縁の法則を理解したことの結果です。
これが、お釈迦さまの覚りの結論です。
無我について、お釈迦様の言で説明します。
スッタニパーター 4 八なるものの章 14 迅速の経 より
athaṃ disvā nibbāti bhikkhu,
比丘は、どのように見て、涅槃に到達するのですか
Mūlaṃ papañcasaṅkhāya, (iti bhagavā)
「虚構の名称(papañcasaṅkhāya,)の根元を、
Mantā asmīti sabbamuparundhe;
『わたしがいる』という一切を、明慧によって破壊するように
Yā kāci taṇhā ajjhattaṃ,
渇愛があるなら、それらを取り除くために、
Tāsaṃ vinayā sadā sato sikkhe.
常にきづきある者として、学ぶように。
お釈迦様゙は、どのように見て、涅槃に到達するのですか、と尋ねられ、『わたしがいる』という一切を、明慧によって破壊するように、と答えています
無我を見て取ることが涅槃だと答えています
人間の存在は台風のようなものだというのが無我の教えです、台風は雲(水蒸気)と風から出来ています、地球の気象条件(原因)により台風が姿を現します(結果)、台風は地球の一部分であり、独立した存在でもあります、つまり
台風は地球と
<同じでものでない>
<異なるものでない>
<同じでものない>かつ<異なるものでない>ではない
<同じでものない>かつ<異なるものでない>のであり、条件によって発生したものである
その姿について
台風は目(中心)をもっています、その目(中心)には、なにかありますか
答えは 台風の中心は
<あるわけでない>かつ<ないわけでない>のであり、条件によって発生したものである
台風の目(中心)は永遠にあるわけではなく、なにもないわけでもないのです
これはインドでは数字の0という概念です
台風は自分の意志で進路を決めていません、地球の条件により進路を決めます、人間は自分の意志で動いているように見えますが錯覚しているだけです
台風は自分の意志で発生(生まれて)消滅(死ぬ)するのではありません
つまり台風は台風の目(中心)が、
あるわけでもなく、ないわけでもなく
進路を自分できめているのでなく、発生も消滅も自分で決めていません
台風のように、人間は自我でなにかを決めているのでない
無我(滅諦)の姿を解き明かし
無常(時間・集諦)苦(空間・存在・苦諦)を説き
無我をあるがままにみると、貪りから離れるのが解脱(悟り)であり
その道(道諦)こそ修行と説く
無我の教えは、「五蘊・十二所・十八界の分析」と「縁起の教え」の自然な答えであり、ここから理解するのが正しい道ということです。
私たちが存在、個人と呼ぶものは、五取蘊という五集合要素から成り立っている。そして、それらを分析し、検証してみると、その背後に「私」、アートマン、自己と呼べるものは何もないことがわかった。これが分析的方法であり、分別と仏教用語では言います。一方「縁起」の教義は総合的方法であり、分別の方法です、そして、同じ結論に達します。つまり、世界には絶対的なものは何一つ存在しない。すべては縁起で成り立っていて、相対的である、これが、仏教のアナッタ、無我の教理です。
お釈迦様は、相手によって、説き方を変えて説きます、対機説法と言われる方法で、聞いている相手が解りやすいように説いていきます。例えば、相手が騒がしい乱暴な子供なら、静かに話なしなさいと言う、相手が元気のない静かな子供なら、大きい声で話しなさいと言います。ときにはお釈迦様は、相手の病によって異なる薬を与える医者に例えられます。記載してきた、業・縁起・五蘊・十二処・十八界・無我などの教えを、四聖諦という形に整理して教えることが多かったと伝えられています、ここからは四聖諦について記載していきます。
四聖諦
第一聖諦ドゥッカの本質
ブッダがヴァーラーナシーの近くのイシパタナで、かつての修行仲間に対して行なった最初の説法〔初転法輪〕で説いた四つの公理〔四聖諦〕です
四つの真理とは、
Iドゥッカの本質
2ドゥッカの生起
Sドゥッカの消滅
4ドゥッカの消滅に至る道です
それでは見ていきます
第一の真理 ドゥッカの本質
最初の公理は「ドゥッカの本賢」です、仏教では「生はドゥッカ(苦しみ)、痛みに他ならないと解釈されている、そしてこの解釈も、不十分で、誤解を招くものです 事実、この「ドゥッカ」の意味を部分的にしか伝えない、その表面的解釈が、仏教は厭世的だという誤ったイメージをもたせることになったようです。
仏教は現実主義
仏教は悲観主義でも楽観主義でもなく、生命を、世界をあるがままに提える現実主義です、仏教はものごとを客観的に眺め、分析し、理解する 仏教は誤って人びとに人生は楽園であると思い込ませたり、恐がらせたり苦悶させたりしない、仏教は人間と世界のあるがままを正確に、客観的に説き、平安、静寂、幸福への道を示すものです。
ドゥッカについて
バーリ語(サンスクリット語)のドゥッカは、一般的には苦しみ、痛み、悲しみ、惨めさを意味し、幸福、快適、安楽を意味するスッカの反対語です。しかし、四つの公理のうちの第一の真理の場合のドゥッカは、ブッダの人生観、世界観を表わしており、深い哲学的な意味があり、はるかに広い意味で用いられている。普通の意味の苦しみも含まれてはいるが、不完全さ、無常、実質のなさといったさらに深い意味があり、第一の真理に用いられているドゥッカが含むすべての概念を.一語で表わすのは難しい ドゥッカを悲しみ、痛み、苦と訳すのは、便利ですが、不十分なのでドゥッカと表記していきます。
お釈迦様は 幸せを否定はしていません、幸せがあることを認めている。しかしそれらはすべてドゥッカに含まれる、瞑想の境地も、幸せとされる次元も、心地よさあるいは不快さといった感覚を超越し、沈静した意識の次元も、すべてはドゥッカに含まれる。そして、それらは無常で、ドゥッカで、流れるものであると述べている ここで注意しなければならないのは、ことさらドゥッカという用語が使われていることです 普通の意味での苦しみがあるからドゥッカなのではなく、「無常なるものはすべてドゥッカである」からドゥッカなのです。
ところでビク達よ、これが苦しみという真実(苦聖諦)である
生まれるも苦(生苦)。老いも苦(老苦)。病も苦(病苦)。死も苦(死苦)。
焼かれるような悲しみ、悲嘆、もろもろの苦しみ、憂惨、苛立ちも苦しい。
好まざるものとの出会いは苫しい(怨憎会苦)。
好ましいものとの離別は苦しい(愛別離苦)。
望んでも手に入らないことも苦しい(求不得苦)。
要するに、五蘊に執着することも苦しい(五取蘊苦)
(初転法輪経)
苦聖諦というのは、この世は苦(ドゥッカ)に満ちみちていることは真実で、具体的には四苦八苦であるというのが日本での伝統的な解釈で、それは、生苦、老苦、病苦、死苦の四苦、それに愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五取蘊苦の四苦を加えて八苦、という数え方をする。
生苦は、「この世に生きていることが苦である」というようなことであるというのが一般的な考えで、誕生時の苦のこと、つまり、赤子の産声は、そうした激痛に堪えかねて泣いている声だという、この生苦とはそうしたことであるともいわれる、生苦の「生」の原語である「ジャソマ」は、「生きていること」ではなく、「生まれること」を意味し、「輪廻」の別名は、「生死」(ジャンマ・マラナ)で、生きていることと死ぬこと」ではなく、「生まれることと死ぬこと」を意味するという解釈もある。
老苦は、老いに伴う苦(ドゥッカ)。
病苦は、まさに文字どおり、病気に伴う苦(ドゥッカ)。
死苦も、まさに文字どおり、死に伴う苦(ドゥッカ)。
愛別離苦とは、愛する人と別れることに伴う苦(ドゥッカ)。
怨憎会苦とは、煩わしい嫌な人と人間関係を持つことに伴う苦(ドゥッカ)。
求不得苦とは、欲しいものが手に入らないことに伴う苦(ドゥッカ)。
五取蘊苦は、以上の七苦を要約したもので、心身が活動していることそのもの、つまり、この世に生きていること自体が苦(ドゥッカ)だということ。
ドゥッカと五集合要素は二つの異なるものではなく、五集合要素そのものがドゥッカです。いわゆる「存在」を構成する五蘊(五集合要素)を少し角度を変えて記載します。
(1)色 (物質・ルーパ)
この物質という集合要素のこと、眼、耳、鼻、舌、身体と、それらが感知する対象、色かたち、音、香、昧、触と、心の感知対象(意)となる思い、考え、概念などが含まれる。内的、外的物質の領域は、物質という集合要素に含まれる。
身体の細胞システムと理解すればいいと思います。
(2)受 (感覚・ヴェーダナー)
人間が外の世界との肉体的、心的接触によって体験する快適な、不快な、どちらでもない感覚のすべてが含まれる。それは以下の六種類に分類される。
①眼が色かたちと接触することによって経験される感党
②耳が音と接触して経験される感覚
③鼻が匂いと接触して経験される感覚
④舌が昧と接触して経験される感覚
⑤身体が物と接触して経験される感覚
⑥心が感知対象、思いや考えと接触して経験される感覚
体中に機能する感覚のことで、感じる能力です。身体事態が外の世界を、自分がいることを、感じることです。触れたものを感じ、自分に体があることを感じます。私達の感受性自体が、受です。これは心のはたらきです。肉体的、心的なすべての感覚は、この中に含まれる。
仏教では、心は、機能、あるいは眼や耳といった器官という一機能で、他の機能と同様に、制御し発達させることができると、お釈迦様は頻繁にこの六機能を制御し、訓練することの大切さを述べている。
眼は色かたちを感知し、心はアイデアや考え、心的なことがらを感知する。私たちは色を聞くことはできないが、見ることはできる。同様に、音を見ることはできないが、聞くことはできる。こうして、私たちは肉体的器官-眼、耳、鼻、舌、身体-でもって、色かたち、音、香、味、そして接触できる物だけを体験する。これらは、ほんの一部にしか過ぎず、世界のすべてではない。アイデアや考えも同じく世界の一部であが、感覚的に捉えることができない。眼、耳、鼻、舌、身体では認識できない。それは心という、もう一つ別な器官、機能で感知される。アイデアや考えは、これら五つの肉体的器官で体験されるものから独立してはいない。実際には、それらは肉体的な体験に依存し、条件付けられている(影響される)。ですから、生まれつき眼の見えない人は、眼以外の機能によって体験できるものを通じてさまざまなものを知ることはできるが、色の概念をもつことはできない。アイデアや考えは、世界の一部ではあるが肉体的な体験によって生じ、条件付けられており、心によって感知される。ということで、心は、眼や耳と同じように、感覚機能、器官とみなされる。
(3)想 (識別・サンニャー)
眼耳鼻舌身意に入る情報を現象(概念)に変えるシステムです。感覚と同じく、識別も、六種類の内的機能とそれらに対応する外的対象に分類される。感覚と同じく、識別も六機能が外的世界と接触することにより生起する。肉体的なものであれ、心的なものであれ、ものごとを感知するのは想になります。
(4)行 (意志・サンカーラ)
善悪にかかわらず、すべての意図的行為が含まれる。生きていきた、行動したいなどの気持ち(行為)です、感情(衝動)です。
お釈迦様は業(カルマ)をこう語っています。私は、意志(チェータナー)を業(カルマ)と説く、意志してから、身体・言葉・思考によって業(行為)をなす
意志とは、「心的構築、心的行為」で、その役割は、善悪、そのどちらでもない行為の領域で、心に指示を与えることです。感覚・識別と同じく、意志にも受と同じく、六種類ある。受と想は、意志的行為(意志がはたらいているの)ではない。だから、受と想は、カルマの結果を生じない。注意力、意志、信念、自信、集中力、叡智、エネルギー、欲望、嫌悪や憎しみ、無知、うぬぼれ、自我意識といった意図的行為だけが、カルマの結果を生みます。
(5)識 (意識ヴィンニャーナ)
認識するシステムのことです。意識は、六つの機能(眼、耳、鼻、舌、身体、心)のうち、どれか一つを基礎とし、それらに対応する六つの外的対象(色かたち、音、匂い、味、接触できる物、心的対象すなわちアイデアや考え)のどれか一つに対する反応か返答です。
視覚意識は眼を基礎とし、見える色かたちを対象としている。心的意識は、心を基礎とし、心的対象、アイデアや考えなどを対象としている。ですから意識は他の機能と関連している。こうして意識も、感覚、識別、意志と同じく、内的機能、とそれに対応する外的対象の六種類に分けられる。
意識は対象を認知しないです。それは、対象が存在するということに気付く、感知の一種で、眼が色-たとえば青-と接触すると、視覚意識が生じるが、それは単に色がそこに存在するということに気付くだけで、青であるとは認知しない。それが青であると認知するのは、想なのです。「視覚意識」は、一般にいう「見る」ということを意味する哲学用語である。「見る」ことは、識別することではない。他(聴覚、嗅覚、味覚、触覚)の意識に 関しても同様です
ここで意識とは、一般的にいう魂のようなものだという誤解が多いので、このことについて記載していきます。
サーティという、お釈迦様の弟子の一人が、「お釈迦様は『同じ意識が輪廻しさまよう』と、お教えになられました」と述べた。
そこでお釈迦様は、サーティが「意識」をどう理解しているのかを問うた。サーティは「意識とは、善悪の行ないの結果を表現し、感じ、体験するものである」と答えたが、これは当時のインドの主流な、いわば古典的な考えです。
師はそれを戒めて。
「私がそんな教えを説いたのを耳にしたという愚かな弟子がいるか? 私は「意識は条件から生起し、条件のないところに意識は生起しない」と繰り返し、さまざまな方法で説かなかったか?」
師は続けた。
「意識は、生起する条件によって、名付けられる。眼と色かたちによって生起する意識は、視覚意識と名付けられる。耳と音によって生起する意識は、聴覚意識と名付けられる。鼻と匂いによって生起する意識は、嗅覚意識と名付けられる。舌と昧によって生起する意識は、味覚意識と名付けられる。身体と接触感知対象によって生起する
意識は、触覚意識と名付けられる。心と(心的)感知対象によって生起する意識は、心的意識と名付けられる」
火の喩え(燃焼経)
お釈迦様は、さらに喩えによって説明した。火は、燃える材料によって命名される。薪が燃えて生まれる火は、薪火と命名される。藁が燃えて生まれる火は、藁火と命名される。それと同じく、意識もその由来となる条件によって命名される。
この点に関して、注釈者ブッダゴーサは、こう説明している。
「薪が燃えて生じる薪火は、薪がある限り燃えるが、薪がなくなった瞬問に消える。なぜなら条件がなくなったからである。薪火は、破片などに燃え移り、薪火として燃え続けることはない。それと同じく、眼と色かたちによって生起する意識は、眼、色かたち、光、注意などの条件が揃って初めて生起するのであって、条件が揃わず、なくなれば、消える」
お釈迦様は、意識は色、受、想、行に依存しているのであって、それらから独立しては存在しえない、と明白に述べている。
「意識は、物質を手段とし、物質を対象とし、物質に依拠して生起し、喜びを求めて成長し、増大し、発展する。色の代わりに、受、想、行に関しても同じです。」
だれかが、『色(物質)、受、想、行と無関係に、意識が生起し、去来し、成長し、増大し、発展するのをお見せしよう』と言ったとしたら、彼は何か実在しないもののことを語っているのである」
すべては流れる
要するに、存在するのは五つの集合要素である。私たちが存在、個人あるいは「私」と呼んでいるのは、この五つの集合要素の結合に対する名称に過ぎない。それらはすべて無常であり、絶えず流れるものである。「無常なものはすべてドゥッカである」というのが、「要するに、執着の五集合要素はドゥッカである」というお釈迦様のことばの真意です。二つの連続する瞬間を通じて、同一。であり続けるものは何一つとしてない。すべては、一瞬ごとに生起し。一瞬ごとに消滅し、流れていく。お釈迦様はラッタパーラにこういっている。
「バラモンよ、それはあたかも、すべてを流し去り、遠くまで流れゆく山間の急流のようなものである。流れが止むことは、一瞬、一時、一秒たりともない、流れ続けるだけである。バラモンよ、人の命はこの山問の流れのようなものである、世界は絶えず流動し、無常である」因果律に従って、一つのものが消滅し、それが次のものの生起を条件付ける。その過程で、変わらないものは何一つとしてない.そのなかで、持続的「自己」、「個人」、「私」と呼べるようなものは存在しない 色、受、想、行、識の中で、一つとして本当に「私」と呼びうるものがないということです。相互に依作し合うこれら五つの肉体的、心的集合要素が、肉体的・心的機械として結合して機能するとき、「私」という概念が生まれる。しかし、それは間違った考えです。
苦しみは存在するが、苦しむ主体は存在しない
一般に「存在」と呼ばれる、この五つの集合要素の全体はドゥッカそのものです。五集合要素の背後には、「存在」も「私」もない。ブッダゴーサはこう述べている。
「苦しみは存在するが、苦しむ主体は存在しない。行為は存在するが、行為主体は存在しない」
流れの背後に、自らは流れることがない流れの主体はいない。ただ単に流れがあるだけである。人生は流れというのは間違っていて、人生は流れそのものである。人生と流れは二つの異なったものではない。言い換えれば、思考の背後に思考者はいない。思考そのものが思考者である。仮に思考を取り除いてみても、その背後に思考者は見出せない。
生命には始まりも終わりもない
生命には始まりがあるか、お釈迦様の教えによれば、生きものの生命の始まりは考えられないということです。生命の創造を信じる人に、神の始まりは何か?と尋ねたら、神に始まりはないと答えるでしょう。ビックバンの起こる前はどこかと問えば、考えられないという答えになるでしょう。お釈迦様はこう言っている。
「弟子たちよ、この輪廻の周期には目に見える終わりがない。そして、この無知に包まれ、渇望の足かせに束縛された彷徨も、いつから始まったのかわからない」
輪廻の最大の原因である無明に関して、お釈迦様はさらにこう述べている。
「無明は、この時点で最初に起きた。それ以前に無明はなかったと定めることは不能だ」
そうしてみると、この時点以前には生命はなかったということは不可能である。突き詰めると、これがドゥッカの真理の意味です。この第一の真理を明確に理解することは、非常に大切です。なぜなら、お釈迦様が言っているように。
「ドゥッカを見るものは、ドゥッカの生起を見、ドゥッカの消滅を見、ドゥッカの消滅に至る道を見る」からです。
第二聖諦ドゥッカの生起
ところでビク達よ、これが苦しみの出現という真実(集聖諦)である。
それは、渇愛と再生をもたらし
あれこれの歓喜を求める渇望である。それはすなわち
(1)欲望への渇愛・(2)生存への渇愛・(3)非存在への渇愛である。
四聖諦の第二「ドゥッカの生起」は経典ではこのように記載されています
(1)感覚的喜びに対する渇望、(2)生存に対する渇望、(3)非生存に対する渇望
(1)~(3)の意味
(1)~(3)が再生存、再生成を生み、貪欲と結びついて次から次へと新たな喜びを見出す、さまざまなかたちをとって現われるこの、渇望、欲求、貪欲、飢えが、すべての苦しみと存在の継続を生起する.しかし、これが絶対的主囚ではないです、この渇望は、ドゥッカの原因、起源と見えるが、他の何かに依存して生起する それは受であり、受はまた接触によって生起する.さらに接触はまた……と続き、この輪が、縁起です.ですから、渇望はドゥッカの生起の第一の、あるいは唯一の原囚ではないが、直接的原囚であり、主囚ではあります。ですから、いくつかのパーリ語原典におけるドゥッカの生起の定義には、渇望が第一に挙げられているが、それ以外の汚れたもの、不浄なものも記されている。この渇望は、主として無知から来る誤った自己の考えに起囚していると述べるだけで十分です。
ここでいう渇望は、単に感覚的喜び、富、権力に対する欲望、あるいは執着を指すだけではなく、アイデア、考え、意見、理論、概念、欲望、あるいは執着を意味する。お釈迦様の分析によれば、この世の問題や争いは、すべては利己的な渇望から生じる。お釈迦様はラッタパーラにこう説いている。
「世界は物資に欠乏し、物資を欲しがり、渇望の奴隷と化している」
世界の諸悪の根源は利己的な欲望ですが、この渇望が、再生存と再生成を生み出すかを把握するのは容易ではない。ここで第二聖諦のより深い哲学的側面を掘りさげる、それにはカルマと再生の理論を理解しておかねばならない
生存および生存の継続
生存および生存の継続には、原囚あるいは条件という意味で四つの「栄養素(エネルギー)」がある
1普通の物質的食べ物
2感覚器官(心を含めた)と外的世界との接触
3意識
4心的意志
である。
このうちの最後の心的意志が、生き、存在し、再存在し、継続し、増大しようとする意志です.それが、善悪の行為を行なうことにより、存在、継続の根源を生み出す。それが意志(行・業)です。お釈迦様は「意志はカルマである」としている.心的意志とは、生存に対する渇望のことであり、非生存(再存在)に対する渇望、つまりは、輪廻(生存)する栄養素のことであり、感覚的喜びに対する渇望とは、意志(行)から生じる、輪廻(生存)する栄養素である執着のことです。
こうして、渇望、意志、心的意志、カルマは同一のものを指していると言える.それは、欲望であり、生存し、存在し、再存在し、増大し、一層蓄積しようという意志である これが、ドゥッカの生起の原囚であり、存在を構成する五蘊(五集合要素)の一つである意志のうちに含まれる。
ドゥッカの原因はドゥッカの中にある
今述べたことがブッダの教えの中で、もっとも重要な点です。ですから、ドゥッカの原因、芽は、ドゥッカ自身の中にあり、外にあるのではないということを、理解し、認識し、ドゥッカの消滅、破壊の原囚、芽も同じくドゥッカのうちにあり、外にあるのではない、ということをよく認識する必要がある これが「生ずるものは、一切が滅するものである」という、有名なパーリ語定言の意味です、存在、ものごと、システムは、うちに生起の性質をもっていれば、同様にそのうちに消滅、破壊の原因、芽ももっている。ドゥッカは.五取蘊(五集合要素)は、自らのうちに生起の性質をもっており、同じく自らのうちに消滅の性質をもっている。この点は、第三聖諦の章で再度取り上げます。
カルマは意図的行為
カルマ(サンスクリット語 パーリ謡ではカンマ)は、行為、行ないを意味する 仏教では、すべての行為を指すものではなく、意図的行為のみを指す。意図は、欲望と同じく、善い場合も、悪い場合もある。カルマも善い場合も、悪い場合もある。善いカルマは善い結果を生み、悪いカルマは悪い結果を生む。渇望、意図、カルマは、善いものも悪いものも、結実として一つの力をもつ。善い方向でも、悪い方向でも、継続する力です。善悪というのは相対的なものであり、輪廻の中で言われることです。
アラカンは行為をなすが、カルマを集積しない。なぜなら、自己という誤った概念、継続、生成への渇望、他の汚れがなく。再び生を受けることはない。
カルマの理論は、原因と影響、行為と反応の理論です。それは自然法則であり、正義、賞罰という考えとは関係ない。すべての意図的行為は、その結果、結実を生み出す。善い行為が善い結果を、悪い行為が悪い結果を生み出すとしても、それは行為自体の性質、道理のせいであり、意図的行為の結果が死後の生においても現れ続けるという点である。ここで、仏教における死を説明します。
生と死
存在(生命)とは、肉体的、心的なさまざまな力あるいはエネルギーのコンビネーションに過ぎないです。死とは、肉体的身体の機能停止であり。身体が機能停止すると、これらの力やエネルギーは完全に停まってしまうとは、仏教では考えない。意志、意図、欲望は、存在し、継続し、増大しようという渇望は、すべての命、すべての存在を動かす途方もない力である、これは、世界でもっとも大きな力であり、もっとも大きなエネルギーです。仏教は、この力が身体の機能停止、死によって停まるとはない、それは、別のかたちで現われ続け、存在、再生を生み出すと考えます。現代物理学のエネルギー保存の性質を思い浮かべればいいとおもいます、自己、一般に魂といった永続的、不変的実体あるいは実質がないとすれば、死後に何が再び存在し、再び生まれるのか、私たちが生と呼ぶものは、肉体的、心的エネルギーのコンビネーション、五取蘊(五集合要素)のコンビネーションです、これらは絶えず変化しており、連続する一つの瞬間に同一のままであることはない.毎瞬間、生まれ、死ぬ。「ビクたちよ、集合要素が生起し、朽ち、死ぬとき、あなたがたは生まれ、朽ち、死ぬ」
こうして、この今の生においても、瞬間瞬間ごとに私たちは生まれて死んでいるが、それでも私たちは継続する 自分とか魂といった永続的、不変的実体なしで、私たちが今この生を継続しているということが理解できたなら、こうした力が、身体の機能が停止したあとも、あとに残された自己や魂なしで継続できる、ということが理解できるでしょう。
死後のエネルギーの継続
肉体的身体が機能しなくなっても、それとともにエネルギーは死なない。それは別なかたち、姿をとって継続し、それが再生と呼ばれる。子供の肉体的、心的、知的能力は、成人となる可能性を秘めている.存在を継続する肉体的、心的エネルギーは、自らのうちに新たなかたちをとり、次第に成長する力を内在している。
永続的、不変的実体が存在しない以上、ある瞬間から次の瞬間に継続するものは何もない.だから、ある生から次の生へと生まれかわる永続的、不変的なものは何もないことは明らかです。途切れなく継続するのは連鎖であるが、それは.瞬間瞬間、変化する.連鎖とは、実際のところ運動エネルギーです.燃え続ける炎のようなものです.同じものでもなく、また別なものでもない、大人は、60年前の子供と同じではないが、かといって別人でもない 同様に、ここで死に、別なところに生まれかわった人の場合、同一人でもなければ、別人でもない。同じ連鎖の継続、流れです。死と生の区別は、思考瞬間の違いだけです。この生の最後の思考瞬問が、いわゆる次の生の最初の思考瞬間の原因となる。この生でも、ある思考瞬間が次の思考瞬間の原因となる。この存在しよう、生成しようという渇望がある限り、継続の輪(輪廻)は続く。それが止むのは、現実、真理、ニルヴァーナを見る智慧によって、その原動力である渇望(煩悩)が断たれるときです。
第三の聖諦ドゥッカ(苦)の消滅
第三の聖諦は、ドゥッカ(苦)の消滅です、これは悟り(ニルヴァーナ)の真理と言い換えてもよいです。
ところでビク達よ、これが苦しみの滅という真実(滅聖諦)である。
それは渇愛を離れることによって、完全に滅すること、捨てること、放棄すること、解き放たれること、依存しないことである。
ドゥッカを完全に滅するには、その主な根源である渇愛を離れること、これが聖諦です、悟りとは、渇愛の消滅、とも呼ばれるので、ここでは、悟りについて記載していきます。
陸地を歩いてきた亀が、池に戻って魚にそのことを話した。魚は「陸ではもちろん、泳いできたのでしょう?」と言った。そこで亀は、陸地は固く、その上では泳げないので歩く、ということを説明しようとした。しかし魚は、そんなことはありえない、自分のすむ池と同じく陸地も液体で、波があり、潜ったり、泳いだりできるに違いないと言い張った。
このお話のように、私達は悟りのような未知のことがらは言葉では表現できませんが、陸地とは池ではないとまでは、表現できます。そこでお釈迦様は、~でない、というような否定的なことばで、悟りを表現してきています、一言では、停止、燃焼、吹き消す、などです。
お釈迦様がどのように、悟りを表現したか記載していきます。
ビクたちよ、その場所(処)は存在する
そこには、地なく、水なく、火なく、風なく、
この世なく、あの世なく、月と日もない。
ビクたちよ、そこにおいて、わたしは、
来る所(現世)を説かず、行く所(来世)を説かず、
在る所を説かず、死を説かず、生まれるを説かず、
涅槃は、なにによっているのでなく、なにから生み出されたのでもなく、
なにに支えられているのでもない
これこそは、苦の終極である
〈ウダーナ8-1より抜粋〉)
ビクたちよ、
『生じたもの』ではなく『存在するもの』ではなく『形成されたもの』ではなく
『条件づけられた』ではないもの(涅槃)は存在する
ビクたちよ、
『生じたもの』ではなく『存在するもの』ではなく『形成されたもの』ではなく
『条件付けられたもの』ではないもの(涅槃)がないとしたら
『生じたもの』『存在するもの』『作られたのもの』『条件付けられたもの』からの出離は覚知されない
ビクたちよ
『生じたもの』ではなく『存在するもの』ではなく『形成されたもの』ではなく
『条件付けられたもの』ではないもの(涅槃)が存在することから
『生じたもの』『存在するもの』『形成されたもの』『条件づけられた』からの出離が覚知される
(ウダーナ8-3より)
涅槃とは、地水火風なく、この世(loka)でも他の世界でもないような領域(āyataana)が存在し、そこには死の再生も存在しない、それこそが苦の終わり(anto dukkhassa)である。つまり苦の終焉である涅槃とは、生ぜず(Ajāta)、存在せず(abhūta)、形成されず(akata)、条件付けられていない(asaṅkhata・無為の)ものであり、そこでは縁生の現象が生成消滅しないから、死も再生も存在しないということ。
このような涅槃が存在するから、条件付けられた現象(この世・世間)を出離することが可能で、有為の現象を超えた所に、無為の領域が存在するから、覚知(目覚め・悟り)により、世間からの出離、すなわち渇愛を離れること、これが苦しみの滅、つまり悟り(涅槃)です。
悟りについては、経典(テーラガーター他)に「三つの明知(P. tisso vijjā)」を得ることで解脱したという記載が多数出てきます。「三つの明知」とは、第一の明知を宿命知(過去世を見通す知)、第二の明知を死生知(来世を見極める知)、第三の明知を漏尽(āsava-kkhaya)知(煩悩を滅する知)であり「四聖諦」を悟ることと、されている。
菩提樹の下で、初夜に「第一の明知」を、中夜に「第二の明知」を、後夜に「第三の明知」を得た、と説かれる
(中部36 マハーサッチャカ経)
「三つの明知」という言は、初夜(夜の初め)に第一の明知を、現象は原因があると知る(縁起の順観を知る)、第二の明知を、現象は消滅していくと知る(縁起の逆観を知る)、第三の明知を、悪魔の軍勢を粉砕している、あたかも太陽が天空を輝かすように(縁起の順観・逆観を知り悟りをえる)ということでもある(ウダーナ1・1~3)つまり縁起を悟ることです。
正覚経(相応部35・13~14)では内六処・外六処の十二処から、味楽経(相応部35・13)では五取蘊から、離れることを知って、苦が生じることを知り、悟ったとあります。
城邑経(相応部12・65)という経典では、お釈迦様が十支縁起を悟ったことを回想し、森をさまよい古の人が歩んだ道を見つけ、その道を進んで古い街を見つけるように。過去仏たちが歩んだ古の道を自分も見つけ十支縁起を悟ったと説き、この古の道とは「八聖道」であると説く、さらに、それぞれの縁起支の原因(集)、停止(滅)、道を悟りと説き、縁起を四聖諦と組み合わせて説く。
「わたしの心の解放は揺るぎないものだ。これが最終の生であり、もはやさらなる再生は存在しない」と。(転法輪転教)
このように宣言されます、お釈迦様の「生」とは「さらなる再生は存在しない生」です
「さらなる再生は存在しない生」とはなにか、四聖諦で「苦しみの滅」の同義語「解脱」(S.mokṣa,vimukti,P.mokkha,vimutti)は、とらわれから解放されるという意味で、仏典では「生存のとらわれから全て滅した」(P.parikkhiṇabhavasaṃyojana)という言がよく出てきます。
お釈迦様が「三つの明知」を得ることで解脱したとありますが、「第三の明知」では四聖諦を悟ることにより解放されると説きます。
私は、このように知り、このように見る。快楽の影響からも心が解脱し、生存の影響からも心が解脱し、無知の影響からも心が解脱した。
解脱すれば、「解脱した」という慧が生じる
「生存は尽きた。修業は完成した。なすべきことはなした、もはや生まれることはない」と知った。
(中部36 マハーサッチャカ経)
上記の経典のように、快楽の影響・生存の影響・無知の影響(厭離と離貪)からも心が解脱した者には、必ず「解脱した」との慧が生じる、というのは、経典において何度も繰り返されている仏説の基本です。いわゆる「解脱知見」を得た修行者は、「生存は尽きた」とか、「修行は完成した」とか、「なすべきことはなした」とか、「もはや生まれることはない」とか、そのような自覚を明白にもつ。つまり、涅槃を証得した者は、その時点で決定的に転換するということであり、それは以後も変わることのない、修行の完成でもあるということです。
このように解脱・涅槃は本来、曖昧なものではなく、決定的で明らかな転換であったということは、経典で明示されていることで、少なくともお釈迦様の教について考える上では外すことのできない特徴です。それでは修行の完成とは、解脱知見とはなにか。実際に、きづきの実践を行って、内面に生じる煩悩を自覚し、現象を観察し続けていても、たしかに執著は薄くはなるが、根絶されるということはない。仏教では煩悩は、数多くの輪廻による長い間がある過去の業の結果として生起しているものである以上、百年程度の一生のあいだ、それを「堰き止め」続けたところで、「煩悩の流れ」が尽きてしまうことはないからである。なすべきことはなしたと、言い切るためには、流れを根絶させる(塞ぐ)ための決定的な別の経験が、必要とされるということです。
師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、
きづきである。(きをつけることが)
煩悩の流れを防ぎまもるものである、とわたしは説く。
その流れは智慧によって塞がれるであろう。」
(スッタニパータ 1035)
経典では、煩悩の流れをせき止めるのが「きづき(Sati)であり、智慧(Paññā)によって塞がれるとあります。煩悩は流れていくが、先ず止めるのは、きづきであり、流れを塞ぐ(根絶する)のが智慧であるということです。
きづき(Sati)は、日本では伝統的に、念、と訳されていて、近年ではマインドフルネスと訳され広まっています、基本的には、現状にきづいている、自覚的である、と考えていいと思います。きづきの実践に関しては、長部経典・22、大念処教(Mahāsatipaṭṭhāna-sutta)に詳細にあります。
智慧とは、考えること、つまり哲学談義や本を読むことではなく、過去の知識を学び、その結果として徐々に到達するものでないです。ここで経典に出てくる例を取り上げてみます。
お釈迦様の侍者として有名なアーナンダ尊者は、お釈迦様に二十五年間仕え、その教法を最も近くで聴き続けた有名な仏弟子で、経典への登場回数も非常に多く、多くの説法を聴いて記憶していても、お釈迦様の生きているときには、悟れなかった人でもあった。そのアーナンダ尊者が修行を完成したのはいつであったかというと、それはお釈迦様の死後、第一結集か開催される直前のことであった。
律蔵「小品」の記述によれば、マハー・カッサパの主唱で開催されることになった結集の前夜、きづきの実践を行って過ごした。しかし、それでも解脱には至らず、明け方に、「横になろう」と身体を傾けたその瞬間、「頭が枕に達せず、足が地を離れない」あいだに、アーナンダ尊者の心は煩悩を離れて解脱したのである。と伝えられています。
このお話は、「悟り」が、推論や思考の進行の結果として徐々に到達される概念的分別知ではなくて、瞬時に起こる決定的な転換、いわゆる直覚知であるということを、教えています。智慧をえる、というのは直覚知をえること、それは悟りをえるのと同じ意味ということです。
悟りの経験、それ自体についても、表現したいのですが、悟りとは、生ぜず、存在せず、形成されず、条件付けられていない(無為の)ものであるということで、言語の領域(虚構の名称papañcasaṅkhā)を超えているので表現不可能なことです。
ここまでの記載で、言語の領域、虚構の名称の世界、から眺めた限りの、悟りの性質や、悟りを経験した結果について表現してきましたが、悟りそれ自体の表現は言語表現の限界です。ただ言えるのは、悟りが起こった時には、煩悩の炎が実際に消えてしまうということだけです。
お釈迦様の教である四聖諦はここで終わりではありません、ここは非常に大切なところで、この点に関する無理解から、現代日本に見られる仏教に対する誤解の多くも起こっているように思われます。渇愛は凡夫に対しては、「事実」として作用しており、それが凡夫にとっては「現実」そのものである、つまり、凡夫は虚構の名称の世界に住んでいます。
お釈迦様が、「世界=苦」の原囚を渇愛であると特定し、それを自分は滅尽したと宣言した上で人々にもその方法を教え、そしてお弟子さんたちがそれを自ら実践してみると、本当に「世界」が終わって苦が滅尽した、少なくとも、そのように確信することができたからこそ、当時の真摯な修行者もお釈迦様に従ったのでしょうし、現代日本にもその教えが伝わっているように思われます。
第四の聖諦ドゥッカ(苦)の消滅に至る道
まずは経典を見ていきます。
「ビク達よ、出家した者はこれら二つの極端にかかずらうべきでない。
どのような二つとはなにか。もろもろの欲望の対象を楽しむことである。
このことは低俗であり、凡俗であり、平凡であり、聖者の行いではなく、利益を伴わない
そして、一方は白身を苦しめることである。
このことは苦しく、立派でなく 利益を伴わない
ビクよ、これら二つの極端に近づかず、
中道は修行完成者によって完全に悟られた。
目覚めや安らぎへと導く中道とは。
それは、この八つの支分からなる道(八聖道)である。それはすなわち
正見(正しい見解)、正思惟(正しい思考)、正語(正しい言葉)、正業(正しい行為)、正命(正しい生活)、正精進(正しい努力)、正念(正しい思念)、正定(正しい精神集中)
である
(初転法輪経)
上記の様に第四の聖諦は、出家の道は中道である、その内容は八正道であると経典に説かれています、それでは、中道の説明から。
喩で説明します
ギターの弦を張るとき(チューニング)は
きつく張りすぎるとダメ 緩すぎてもダメ その中間でもダメ
きつすぎず緩すぎず
これが中道です
ギターは世界中で何万台使われているかわからないほど数多く使われています、それでも機械でチューニングできません、もし出来たら、その機会を作った人はお金持ちになれるでしょう、その場その時により微妙に、湿気や会場の音響など条件が変わるので人間がチューニングしないとならないのです、このように困難な狭い道です、ベストな答えを得る道と言い換えてもいいでしょう、これが中道です。
お釈迦様の時代のインドでは、欲望のままに快楽を楽しむのが人生という人々と、ジャイナ教や当時の修行者の人々の中には、極端な苦行をする人々がいて、そのどちらも悟りには役に立たないということです。かといって快楽と苦行を足して二で割るような中間でも悟りには役に立たない。だから中道を歩め、それは八正道のことだよというのがお釈迦様の教です。
八正道とは、お釈迦様が四十五年間にわたって説いた教えで、実質的にその教えは、八正道に凝縮されます。お釈迦様は、弟子の発展段階、理解能力、実践能力に応じて、さまざまな場所で、さまざまなかたちでこれを説明した、お釈迦様の何千という教えのエッセンスは、この八正道に集約されています。
この八項目(正道)は、ひとつずつ実践していくものではありません、それらは、各人の能力に応じて、すべてを同時に実践するプログラムで、八つは各々繋がっており、ひとつの実践が他の実践に役立つようになっています。
お釈迦様は、お弟子さん一人一人の修行の進み具合や性格など、いまどの教えを説くか、その場その場で見極め説いています。時として多くのお弟子さんに総合的に詳細に八正道を説いたことがあり、その時の経典が伝わっていますので、経典、つまりお釈迦様ご自身のお言葉で、第四の聖諦の説明といたします。
けして簡単な教えではありませんが、くり返し繰り返し読んでください
八正道
Mahācattārīsakasutta
この経典はお釈迦様ご自身が八正道を解説された、詳細で最も重要な経典と思いここに記載しました。
聖なる八正道
聖なる八正道
Evaṃ me sutaṃ – ekaṃ samayaṃ bhagavā sāvatthiyaṃ viharati jetavane anāthapiṇḍikassa ārāme. Tatra kho bhagavā bhikkhū āmantesi – ‘‘bhikkhavo’’ti. ‘‘Bhadante’’ti te bhikkhū bhagavato paccassosuṃ. Bhagavā etadavoca – ‘‘①ariyaṃ vo, bhikkhave, ②sammāsamādhiṃ desessāmi ③saupanisaṃ ④saparikkhāraṃ.
Taṃ suṇātha, sādhukaṃ manasi karotha; bhāsissāmī’’ti. ‘‘Evaṃ, bhante’’ti kho te bhikkhū bhagavato paccassosuṃ.
わたしはこのように聞いた。あるとき、世尊はサーヴァッティーのジェータ林にあるアナータピンディカの僧園におられた。そのとき世尊は比丘たちに話しかけられた。
「比丘たちよ」
「師よ」と比丘たちは世尊に答えた。世尊は次のようにいわれた。
「比丘たちよ、『③因縁をそなえ、④資助をそなえた①聖なる②正定を』について説くとしよう。では聞きなさい。よく耳を傾けなさい。よいか」
この説法のテーマ②sammāsamādhiṃ(サンマーサマーディ)正定、サマーディ(定)とは、心の統一状態、正定とは、正しいサマーディです。正しいサマーディにも二つあります、①ariyaṃ聖なるという形容詞をつけて、聖正定と正定という二種です。聖という言葉がつくと仏教の目的である、解脱・悟りに関わるサマーディになります。俗世界の次元を超えて、出世間(悟りの世界)を語っている言葉になります。
③saupanisaṃ 因縁をそなえ
upanisaṃとは、サマーディを支えてくれる原因・条件のこと。
④saparikkhāraṃ. 資助をそなえた
聖正定に必ず付いているいくつかのもので、正定を作るためにも必要です。
これからお釈迦様は、正定というサマーディのことを、それに必要なものを全部そろえて説明します。
聖なる正定
Bhagavā etadavoca –
‘‘Katamo ca, bhikkhave, ariyo sammāsamādhi saupaniso saparikkhāro? Seyyathidaṃ – sammādiṭṭhi, sammāsaṅkappo, sammāvācā, sammākammanto, sammāājīvo, sammāvāyāmo, sammāsati; yā kho, bhikkhave, imehi sattahaṅgehi cittassa ekaggatā parikkhatā – ayaṃ vuccati, bhikkhave, ariyo sammāsamādhi saupaniso itipi, saparikkhāro itipi.
「はい、師よ」
と比丘たちは答えた。世尊は次のようにいわれた。
「比丘たちよ、『因縁をそなえ、資助をそなえた聖正定』とはなにか。すなわち、比丘たちよ、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、というこの七つの項目を備えた心の統一が、比丘たちよ、『因縁をそなえ、資助をそなえた聖正定』といわれる」
お釈迦様は「条件と、それに備わっている他のものをまとめて聖道定とは何か、それは正しい見解・正しく考えること・正しい言葉・正しい行為・正しい生き方・正しい精進・正しいきづき、という七つです」このように説明されました。
正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、この七についてこころが統一すると、これが「聖道定」となる、ですから「聖正定」は単なるこころの統一ではなく、八正道がワンセットで揃っているということです。
「聖道定」とは七つの項目を均等に育て、まとめて一つにしないと作れません、バラバラの八種類の道ではないのです。
この経典は、八聖道を完成する実践の仕方です、そして一つを完成させようとすれば、残りの七つも付いてくる方法を、お釈迦様が直接語られた経典です。
2 聖なる正定
正定を心理学的に説明する
Tattha Katamo bhikkhave, sammāsamādhi Vivicceva kāmehi vivicca akusalehi dhammehi ①savitakkaṃ savicāraṃ ②vivekajaṃ ③pītisukhaṃ paṭhamaṃ jhānaṃ upasampajja viharati. Vitakkavicārānaṃ vūpasamā ajjhattaṃ sampasādanaṃ cetaso ekodibhāvaṃ avitakkaṃ avicāraṃ samādhijaṃ pītisukhaṃ dutiyaṃ jhānaṃ upasampajja viharati. Pītiyā ca virāgā upekkhako ca viharati sato ca sampajāno, sukhañca kāyena paṭisaṃvedeti, yaṃ taṃ ariyā ācikkhanti – ‘upekkhako satimā sukhavihārī’ti tatiyaṃ jhānaṃ upasampajja viharati. Sukhassa ca pahānā dukkhassa ca pahānā pubbeva somanassadomanassānaṃ atthaṅgamā adukkhamasukhaṃ upekkhāsatipārisuddhiṃ catutthaṃ jhānaṃ upasampajja viharati – ayaṃ vuccati, bhikkhave, sammāsamādhī’’ti. Aṭṭhamaṃ.
では比丘たちよ、正定とはなにか、もろもろの欲を確かに離れ、もろもろの不善の法を離れ、①大まかな考察のある、細かな考察のある、②遠離から生じる③喜びと楽のある、第一禅に達して住する。大まかな考察、細かな考察が消え、内心が清浄の心の統一された、大まかな考察、細かな考察のない、心の安定より生じた喜びある、第二の禅に達して住する。喜びを離れ、心は内心平等で執着もなく、ただ念があり、慧があり、楽のある、聖者たちは捨があり、念があり、楽がある、第三禅に達して住する。さらに、楽も苦もなく、すでに喜びも憂いも滅し、不苦不楽でただ捨があり、念があり、清らかな境地にある、第四禅に住するという。比丘たちよこれが正定である。
正定(正しいサマーディ)とはなにか、四段階(禅定)に分けて説明しています
第一禅定の特徴
①savitakkaṃ savicāraṃ 大まかな考察のある、細かな考察のある
頭の中の思考は、残っている
②vivekajaṃ 遠離から生じる
③pītisukhaṃ 喜びと楽のある
サマーディ状態になると、世俗的な楽しみに興味がなくなってきて、こころの中で喜びと楽が溢れてくる、このような世俗の喜びから離れているのをvivekajaṃ 遠離という。
俗世間の楽しみとは五感から得る刺激と頭で考えた刺激をうけて、ものを見る、いい音を聞く、よい香りを嗅ぐ、美味しいものを食べる、などをして人は生きています。ですから生きるためには、刺激に執着し頭とこころが刺激でいっぱいになる、これを五欲とも言います、悩み苦しみも五欲から生じ、刺激の対象が変わったり無くなったりすると悲しむ。
こころを集中するには、この五欲から離れること、もちろん簡単なことではありませんし、形として世間から離れて一人になっても、刺激を切望し、集中力もなくなります。
しかし、煩わしい五欲から離れると、高度な楽しみと安らぎが生まれると理解すれば、五欲から離れる気持ちになる。それで瞑想修行して第一禅定に達すると五欲から離れた状態になります。
第二~第四禅定の特徴
第一禅定では思考があり、喜びにその波が入る
第二禅定では思考も止められ、喜びは波があるとすると、楽は波がなく、心はより安定します。
第三禅定では喜びが消えて楽だけ残る、安らぎのレベルは高度になり、楽も、波打ってはいるが、振動は感じないレベルになる。
第四禅定では楽の波も止めていて、苦も喜も楽もない、upekkhā 捨という状態になります。
聖正定の条件
ここまでが正定の説明です、ここまでのサマーディ(禅定)では聖正定ではありません、その区別は、聖正定では、サマーディが解脱に達するための踏み台でなくてはなりません、解脱に達する道は、八正道という名で明かされています。サマーディ瞑想と、八正道が、ワンセットになっているならば、そのサマーディが聖正定です。つまり、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念の七つが揃って統一していなければいけません。
八正道のひとつ、正語を守っても、それだけでは「聖」という言葉は付きません、「聖」という言葉をつけるためには、その行為によって悟りに達しなければいけないのです。
「ariya聖」という言葉は、お釈迦様が解脱の境地を示すために、使ったことばです。
その行為によって悟りに達するとはどうゆうことか、正語を例にして説明します。言葉をしゃべるときには、しゃべる前にしゃべりたいという衝動があります。それ自体は世間的な衝動で、このポテンシャルエネルギーを「saṅkhāra サンカーラ・行」と言います。このエネルギーでしゃべることによって、頭の中にある思考や妄想に刺激を与えて輪廻転生します。立派な仏教のことをしゃべっても、それが刺激となり輪廻転生します、しゃべっていることは正しい仏教でも「正語」ではあるが「聖正語」ではないです。「聖正語」とはこころの中でしゃべりたがるポテンシャルエネルギーがなく、こころが統一する。正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念など七つまとめたところで「正聖定」となり、それが悟りの境地、サンカーラが消えていることです。
例えば「正見」では、間違った見方を、正見にしようと思うことも、頑張ることもサンカーラです。
見解なしには、人は生きていられません、なにか見方がないと、これは食べ物か食べられないものかの、区別判断もできませんから、それは生き続けるためのサンカーラ(衝動・行)というポテンシャルエネルギーです。
お釈迦様が「正見」で言われるのは「ポテンシャルエネルギーで悪いことはやめて、善い方向に転換しよう。偏見で生きると、不幸になる、輪廻転生で苦しむ。だから偏見はやめて正見にしましょう」ということです。ただし正見でも生きるために必要なサンカーラには変わりありません。
そこで「聖正見」では、「見解を築こう」というポテンシャルエネルギーがなくなり、こころは落ち着いて、安穏状態になり、いわゆるサンカーラがないということです。
ですから、この七つについてサンカーラが消えたところで聖正定ということです。呼吸瞑想などで統一するのとは違います、呼吸瞑想などで得るサマーディは、非常に強くてポテンシャルは最大で、純粋で綺麗なサンカーラですが、それ自体は解脱の境地にはならないです、サンカーラは輪廻転生を作りますから。
3 十の邪見
全てに先行する正見
Tatra, bhikkhave, sammādiṭṭhi pubbaṅgamā hoti.
「比丘たちよ、このなかで正見が最初にくる。
pubbaṅgamāは先に行く人、先頭をとるということで、すべての善いことの先頭にたつのは正見ということ、瞑想しても正しく先が見えていないと、闇雲に瞑想しても覚らないのは、正見がはっきりしないからです。では正見とはなにか「四聖諦」を理解することです。疑いなく納得することですが簡単なことではありません、ですから正見に達したら覚りの境地ということです。正見がすべての先頭にあります。
先ず邪見を知る
Kathañca, bhikkhave, sammādiṭṭhi pubbaṅgamā hoti? Micchādiṭṭhiṃ ‘micchādiṭṭhī’ti pajānāti, sammādiṭṭhiṃ ‘sammādiṭṭhī’ti pajānāti – sāssa hoti sammādiṭṭhi.
‘‘Katamā ca, bhikkhave, micchādiṭṭhi?
では、比丘たちよ、どうして正見が最初にくるのか。邪見を邪見と知り、正見を正見と知っているとき、その人は正見をしている。
では、比丘たちよ、邪見とはなにか。
どのように正見が先頭になるのか?それは正見が邪見という見解を抑えること、邪見は間違いだとはっきりと解った上で捨てることです。そして正見も知っているということです。
そこで邪見を調べもしないで捨てるわけにはいかないので、次に邪見を具体的に見ていきます。
十種類の邪見
‘①Natthi dinnaṃ, ②natthi yiṭṭhaṃ, ③natthi hutaṃ, ④natthi sukatadukkaṭānaṃ kammānaṃ phalaṃ vipāko, ⑤natthi ayaṃ loko, ⑥natthi paro loko, ⑦natthi mātā, ⑧natthi pitā, ⑨natthi sattā opapātikā, ⑩natthi loke samaṇabrāhmaṇā sammaggatā sammāpaṭipannā ye imañca lokaṃ parañca lokaṃ sayaṃ abhiññā sacchikatvā pavedentī’ti – ayaṃ, bhikkhave, micchādiṭṭhi.
『①布施は存在しない、②供え物は存在しない、③供養されるものは存在しない、④善行・悪行の業の果報は存在しない、⑤この世は存在しない、⑥あの世はない、⑦母は存在しない、⑧父は存在しない、⑨化生のいきものたちは存在しない、⑩この世やあの世のことをみずからはっきりと知り、じかに見て開示できるような、正しく道を行ない、正しく道を修めた沙門やバラモンは世間に存在しない』というのが、比丘たちよ、邪見である。
‘①Natthi dinnaṃ, 布施は存在しない
dinnaṃ(布施)は寄付、あげること、Natthiは、ない、という意味で、寄付は無意味、物体が移動しただけなので意味はないという、ものの見方ということです。
②natthi yiṭṭhaṃ 供え物は存在しない
yiṭṭhaṃ(供え物)は、バラモン教・ヒンドゥー経でヴェーダ聖典を唱てあげること、お経をあげてもらって、なにかを差し上げる布施のことです。
③natthi hutaṃ, 供養されるものは存在しない
hutaṃ(供養されるもの)は、バラモン教・ヒンドゥー経で法要(儀式)を行うこと、
法要(儀式)もらって、なにかを差し上げる布施のことです。
①~③は寄付には、心は関係ないということです
④natthi sukatadukkaṭānaṃ kammānaṃ phalaṃ vipāko, 善行・悪行の業の果報は存在しない
善い行い、悪い行いには結果はないという意味で、因果法則・業の働きを認めないということ、これは、石を投げたという悪戯(悪行)で他人の家のガラスを割ったときに、ガラスが割れたのは行為の結果だが、ガラスを割った人は悪行をしたから悪果(悪い結果)がもたらされるということは認めない、石を投げたという行為の結果はガラスが割れただけで、それ以外は何もないということ。
⑤natthi ayaṃ loko, ⑥natthi paro loko この世は存在しない、あの世はない、
生命とは物質の塊でというような、ものの見方という意味で、生命とは心と物質(身体)で出来ているという、生命の存在を否定すること。
⑦natthi mātā, ⑧natthi pitā, 母は存在しない、父は存在しない
尊い存在はないという意味で、自分を生んだ親はいないとは因果法則は認めないという、ものの見方という意味です、因果法則・業を認めない、ものの見方は道徳を崩す結果になり邪見であり、幸福にはつながらないというのが仏教の立場です。
⑨natthi sattā opapātikā 化生のいきものたちは存在しない
生命が自動的に誕生するという意味、アメーバーなどの生命形態や、天界の生き物などはなんらかの原因があって存在しているのを否定するのは、因果法則・業を認めないことになる、それは邪見だということ。
⑩natthi loke samaṇabrāhmaṇā sammaggatā sammāpaṭipannā ye imañca lokaṃ parañca lokaṃ sayaṃ abhiññā sacchikatvā pavedentī’ti この世やあの世のことをみずからはっきりと知り、じかに見て開示できるような、正しく道を行ない、正しく道を修めた沙門やバラモンは世間に存在しない
正しく修行する沙門やバラモンはいないという意味で、修行を否定する、ものの見方で、結局は生命とは物質だけで心は認めないという邪見です。
ものごとは原因によって現れ、原因がなくなると消える、これが因果法則です。いま現在の現象は原因と条件によって現れる、ですから人は原因と条件を変えることによって結果をかえることができる。
邪見とは、このように因果法則と業を否定することをいいます。
4 煩悩が残る正見・聖なる正見
二種の章見
‘‘Katamā ca, bhikkhave, sammādiṭṭhi? Sammādiṭṭhiṃpahaṃ [sammādiṭṭhimahaṃ (ka.) evaṃ sammāsaṅkappaṃpahaṃkyādīsupi], bhikkhave, dvāyaṃ [dvayaṃ (sī. syā. kaṃ. pī.) ṭīkā oloketabbā] vadāmi – atthi, bhikkhave, sammādiṭṭhi ①sāsavā ②puññabhāgiyā ③upadhivepakkā; atthi, bhikkhave, sammādiṭṭhi ④ariyā ⑤anāsavā ⑥lokuttarā ⑦maggaṅgā.
では、比丘たちよ、正見とはなにか。比丘たちよ、正見をわたしは二つ説く。比丘たちよ、『①有漏の、②功徳の部分であり、③素因の果となる正見』があり、比丘たちよ、『④聖なる、⑤無漏の、⑥出世間の、⑦道の部分である正見』がある。
正見とは二種類である、「煩悩が残っている正見」と「聖なる正見」の二種です。
最初の「煩悩が残っている正見」は①~③
①sāsavā 有漏の
煩悩が入っているという意味、煩悩でもこの場合は潜在力・衝動・意志(サンカーラ・行)をもっている正見で、善悪の善に入る。
②puññabhāgiyā 功徳の部分
Puññāは功徳、世間的な善い行為、bhāgiyāは部分、功徳に属するという意味で、功徳になる正見です。
③upadhivepakkā; 素因の果となる正見
Upadhiは生存の素質、煩悩の執着のこと、vepakkā;は結果のこと、執着に関わる結果、つまり転生する正見ということ、八正道は輪廻転生を断つための教えです、この正見は功徳を積むことになるので悪い結果ではないのですが、輪廻転生に関わる、執着に関わる結果です。
二番目の「聖なる正見」は④~⑦
④ariyā 聖なる
解脱・悟りに達するという意味、悟りに至る正見ということ。
⑤anāsavā 無漏の
煩悩もなく、潜在力・衝動・意志(サンカーラ・行)もない。
⑥lokuttarā 出世間の
世間(世の中)を出ているという意味 輪廻を脱出している。
⑦maggaṅgā. 道の部分
Maggaとは道ということ、悟りに必ず達する道という意味。
煩悩が残っている正見
⑦Katamā ca, bhikkhave, sammādiṭṭhi sāsavā puññabhāgiyā upadhivepakkā ? ‘①Atthi dinnaṃ, ②atthi yiṭṭhaṃ, ③atthi hutaṃ,④ atthi sukatadukkaṭānaṃ kammānaṃ phalaṃ vipāko, ⑤atthi ayaṃ loko, ⑥atthi paro loko, ⑦atthi mātā, ⑧atthi pitā, ⑨atthi sattā opapātikā, ⑩atthi loke samaṇabrāhmaṇā sammaggatā sammāpaṭipannā ye imañca lokaṃ parañca lokaṃ sayaṃ abhiññā sacchikatvā pavedentī’ti – ayaṃ, bhikkhave, sammādiṭṭhi sāsavā puññabhāgiyā upadhivepakkā.
比丘たちよ、『有漏の、功徳の部分であり、素因の果となる正見』とはなにか。『①布施は存在する、②供え物は存在する、③供養されるものは存在する、④善行・悪行の業の果報は存在する、⑤この世は存在する、⑥あの世は存在する、⑦母は存在する、⑧父は存在する、⑨化生のいきものたちは存在する、⑩この世やあの世のことをみずからはっきりと知り、じかに見て開示できるような、正しく道を行ない、正しく道を修めた沙門やバラモンは世間に存在する』というのが、比丘たちよ、『有漏の、功徳の部分であり、素因の果となる正見』である。
煩悩が残っている正見とはなにか、邪見の反対です、ここではポイントだけ記載します
①Atthi dinnaṃ, 布施は存在する
寄付することは、私のものという執着を切って与えることで、心に喜びが起き、一方で困っている人は苦しみを軽減して、そのことを寄付した人が知れば、心に喜びが生まれるという連鎖反応が起きる、これらは善行為になり、善的なポテンシャル(潜在力・衝動・意志・サンカーラ・行)です、善い結果をだす行為です、ですから、寄付することは意味があります。
因果法則と業を認めるのが、煩悩が残っている正見です、しかし聖なる正見ではありません、なぜなら善行為をして徳を積んでいくと幸福になりますが、輪廻転生はします、正見でも煩悩はなくなっていません解脱には至りません。
ここで、功徳というのは、こころの働きのことです、例えば布施なら金額が高い方が、功徳が増えるという物理学の話ではなく、布施することで煩悩が減り、善い方向に気持ちが動けば功徳は増大して、布施したことを後悔して煩悩が増えて、暗い気持ちになれば功徳は減少するという、こころの法則の話です。
⑧‘‘Katamā ca, bhikkhave, sammādiṭṭhi ariyā anāsavā lokuttarā maggaṅgā? Yā kho, bhikkhave, ①ariyacittassa ②anāsavacittassa ③ariyamaggasamaṅgino ④ariyamaggaṃ bhāvayato paññā ⑤paññindriyaṃ ⑥paññābalaṃ ⑦dhammavicayasambojjhaṅgo sammādiṭṭhi maggaṅgaṃ [maggaṅgā (sī. pī.)] – ayaṃ vuccati, bhikkhave, sammādiṭṭhi ariyā anāsavā lokuttarā maggaṅgā.
では、比丘たちよ、『聖なる、無漏の、出世間の、道の部分である正見』とはなにか。比丘たちよ、①心が聖なる者、②無漏の心の者、③聖道をそなえている者、④聖道を修めている者には慧、⑤智根、⑥智力、⑦択法覚支、道の部分である正見があります、比丘たちよ、これが『聖なる、無漏の、出世間の、道の部分である、正見』である。
①ariyacittassa 心が聖なる者
修行者のこころが聖なるこころになっていて
②anāsavacittassa 無漏の心の者
煩悩がないこころになっている。いわゆる、衝動がゼロになっている状態。見解も起こらず、苦・無常・無我しか認識しない状態で、瞬間に解脱の境地を体験する状態でいる。その状態に導くから聖なる正見という。悟りに達する一歩手前の状態といってもよい。そのときは、
③ariyamaggasamaṅgino 聖道をそなえている者
聖なる道にやっと入った者、というのです
④ariyamaggaṃ bhāvayato paññā 聖道を修めている者
修行が真理を発見できるところまで進んだ者のこと。その修行者のこころに起こる智慧(paññā)が聖正見です。
悟りに達する最終段階のことが語られています。智慧が現れてくると、生きることは苦である、自分が煩悩に支配されていること、嫌だと分かっていても妄想が勝手に出てこころを汚すこと、妄想が出ない瞬間に喜悦感や安らぎを感じるなどが、経験で分かっていき、仏道は結果の出る修行法だという確信も現れる、このような発見が、智慧です、しかし無明の壁を破り解脱の境地までは、その智慧では飛び込むまでにはいきません、集中力が上がって、妄想が得なくなると、現象はめまぐるしい速さで生まれては消えていくことを経験します。生滅変化を発見できるように智慧が上がったら。後戻りはない。そこで覚りに達し、修行は終了します。後戻りできない状態に智慧が発展した、その智慧が聖正見です。智慧にはその働きによっていくつかの用語があります。
⑤paññindriyaṃ 智根
五根(悟りに達するための五つの作用)の一つで、後戻りしないところまで進んだ修行者の智慧を、慧根という、それが聖正見でもある。
⑥paññābalaṃ 智力
五力(五根が安定して力強くなった作用)の一つで、智慧が力としてのはたらきをする場合に、智力という、それが聖正見でもある。
強い力とは、世間の次元を破って、出世間に達するために必要な力のことです。地球の引力を破って宇宙にいくためのロケットエンジンの役割です。サンカーラ(行)という強烈にこころを世間に縛り付けている衝動(引力)を、瞑想実践(正定)によって、智慧という力を加えて、サンカーラという引力から抜け出るためのロケットの推進力が、智慧のエネルギーが十分なら、世間の次元を乗り越えて、出世間に達します。
⑦dhammavicayasambojjhaṅgo 択法覚支
七覚支(五根がさらに安定して力強く作用する七つの支)の二番目の支で、ものが区別・分別できる能力、いわゆる智慧です、それが聖正見でもある。
認識するのは、瞬間瞬間、生滅変化していく現象の流れです。現象を破って真理を見抜く分別です
5 「正見・正精進・正念」の三法が正見を追いかける
正精進
yo micchādiṭṭhiyā pahānāya vāyamati, sammādiṭṭhiyā, upasampadāya, svāssa [svāyaṃ (ka.)] hoti sammāvāyāmo.
邪見を捨てよう、正見を備えようと努力するとき、その人は正精進をしている。
邪見を無くそう、正見を得ようと努力する、その努力を正精進という。
正念
yo sato micchādiṭṭhiṃ pajahati, sato sammādiṭṭhiṃ upasampajja viharati, sāssa [sāyaṃ (ka.)] hoti sammāsati.
注意して邪見を捨て、注意して正見を備えているとき、その人は正念をしている。
では、どのように精進は進めばよいのか、「sati.きづき」の実践で邪見だと気づけば、邪見がなくなる、正見だと気づけば、正見に達する。正念とは、正しいきづきのことです。
三セットのからくり
Itiyime [itime dhammā sammādiṭṭhiṃ anuparidhāvanti anuparivattanti, seyyathidaṃ – sammādiṭṭhi, sammāvāyāmo, sammāsati.
こうしてこの三つのもの、すなわち、正見、正精進、正念につきしたがい、ついてまわる
正念を実践することが正精進であり、結果として正見が現れる、ということです。
正見を得れば得るほど、さらに上の正見に達し、聖正見に達するまで、正見が正見を探して進む。その努力は正精進と言う。正精進で正見を探し求めて進む、その方法が正念という、きづきの実践です。このように聖正見に達するまで、一つになって働く。
ただ正念を正精進するためには、なにかを理解しておかないとできません、その理解を正見と名づけています。お釈迦様の教えを聞いて感動したところで、納得したところも、正見です。なぜなら、いままでの自分の思考が変わったからです。しかしその程度では聖正見、いわゆる解脱には、ほど遠いです。そこで、正精進する気持ちになって、正念を実践する。そこで徐々に、正見が深まっていく。最終的には、一切の思考・概念にとらわれないところまで進んでいきます。ですから、正見・正精進・正念は悟りの過程でも、悟りを得る時もセットで、その中身とレベルに応じて働いていきます。
6 邪思惟・正思惟
正見が最初にくる
Tatra, bhikkhave, ①sammādiṭṭhi pubbaṅgamā hoti. Kathañca, bhikkhave, sammādiṭṭhi pubbaṅgamā hoti? ②Micchāsaṅkappaṃ ‘micchāsaṅkappo’ti pajānāti, ③sammāsaṅkappaṃ ‘sammāsaṅkappo’ti pajānāti, sāssa hoti sammādiṭṭhi .
「比丘たちよ、このなかで①正見が最初にくる。では、比丘たちよ、どうして正見が最初にくるのか。②邪思惟を邪思惟と知り、③正思惟を正思惟と知っているとき、その人は正見をしている。
①sammādiṭṭhi pubbaṅgamā hoti 正見が最初にくる
すべてのよいことの先頭という意味
②Micchāsaṅkappaṃ ‘micchāsaṅkappo’ti pajānāti, 邪思惟を邪思惟と知る
saṅkappaは思惟・思考・概念。‘micchāは邪の・邪悪、間違っている思考のこと。「正邪思惟である」と「知ること」これが正見です。
③sammāsaṅkappaṃ ‘sammāsaṅkappo’ti pajānāti 正思惟を正思惟と知る
正しい考え方、という意味です。
邪見は邪見だと明確に知る、正見は正見だと明確に知る。そのことを正思惟という、ということです。明確に知るとは、信じる、ではなく、実証という意味です。
ここで思考とは、考えることですが科学を例にして説明します、ある説はデータを基に正しいか、間違いか決めますが、新しいデータ(新説)が入れば変わります、つまり思考は正しいか、間違いかはわからないのです、しかし、これを直す方法はありません、ですからお釈迦様は、邪思惟・正思惟に分けて、正しい思考をしなさいではなくて、してはいけない思考とするべき思考という二つに分けて、人は思考を戒めるべきだということです。そして解決策のない問題に無難なのは、思考に執着しないことです。
邪思惟とはなにか
Katamo ca, bhikkhave, micchāsaṅkappo? ①Kāmasaṅkappo, ②byāpādasaṅkappo, ③vihiṃsāsaṅkappo – ayaṃ, bhikkhave, micchāsaṅkappo.
では、比丘たちよ、邪思惟とはなにか。①欲をともなった思考、②瞋恚の思考、③害意をともなった思考――比丘たちよ、これが邪思惟である。
一般・世俗間の人が解脱にいたるまで、成長の道は正見に導かれるというポイントを、さらに説明なさっているところです。正見が邪思惟をなくして、正思惟にしてくれるととかれています。
①Kāmasaṅkappo 欲をともなった思考
欲に関わる思考、欲とは眼耳鼻舌身意を楽しませる、つまり六根に刺激を与えることです。身体にどうやって刺激を与えようか、そればかり考える、俗世間では刺激や快楽がなければ研究も学問もやらない、刺激を与えるということです、邪思惟です。
②byāpādasaṅkappo 瞋恚の思考
怒り・憎しみに関わる思考のこと、あれも悪いこれも気に入らないという暗い思考をつづけるのも、邪思惟です。
③vihiṃsāsaṅkappo 害意をともなった思考
いやなものは壊したい、害を与えたいという瞋恚が強くなる思考と、怒りがなくても自然破壊のように、「欲」で害を与えるのも、文化財への落書きなども、刺激を求めて破壊するのですから、邪思惟です。
一般的な人間の思考は、かなりの時間、というより、ほとんど全てが邪思考です、「欲」「瞋恚」「害意」の三つが抜けて、考えることはなくなってしまうかもしれません。ですから思考というのは執着してはいけないものなのです。
二つの正思惟
Katamo ca, bhikkhave, sammāsaṅkappo? Sammāsaṅkappaṃpahaṃ, bhikkhave, dvāyaṃ vadāmi – atthi, bhikkhave, sammāsaṅkappo sāsavo puññabhāgiyo upadhivepakko; atthi, bhikkhave, sammāsaṅkappo ariyo anāsavo lokuttaro maggaṅgo.
では、比丘たちよ、正思惟とはなにか。比丘たちよ、正思惟もわたしは二つ説く。比丘たちよ、『有漏の、功徳の部分であり、素因の果となる正思惟』があり、比丘たちよ、『聖なる、無漏の、出世間の、道の部分である正思惟』がある。
邪思惟以外の思考が邪思惟の反対の「正思惟」です
正思惟は二種、俗世間で煩悩に関係するが善いこと、出世間的で解脱の原因になる解脱を司る正思惟がある。一番目はupadhivepakko素因の果となる、これは善行為をすれば善結果が出てくる正思惟です。二番目は後で記載します。
正思惟(1)利欲の思惟
Nekkhammasaṅkappo, abyāpādasaṅkappo, avihiṃsāsaṅkappo
欲を離れた思考、敵意のない思考、害意のない思考
邪思惟の反対です。
Nekkhammasaṅkappo 欲を離れた思考
Nekkhammaは、離れる、出ていく、退去する、あきらめる、厭うという意味。欲をともなった思考は、刺激を自分に引き寄せる思考で、お金が欲しいというような思考のこと。瞋恚の思考は対象が自分に流れて欲しくない思考で、対象に対して嫌なものと判断する、怒る、害意をともなった思考は、怒りが発展して対象を潰そうとする思考です、
欲と怒りではこのように反対の方向がありますが、Nekkhammasaṅkappo欲を離れた思考はまったく違う方向です、自分の方向に流れて欲しいというものを、流れない方がいいと思うこれは、煩わしいことから離れようと、落ち着きを楽しもうという思考です。ものを与える思考、例えば、与えることができた、持っていたものから、はなれて心が楽になった、これは、あたえる行為をするときの思考です。瞑想を娯楽として楽しむ思考も、欲を離れた思考です。これは、欲を離れた、つまり、aloba無貪に導く思考です。
abyāpādasaṅkappo 敵意のない思考
mettā 慈に導く思考です。競争ではなく、共存する思考。自分がどのように他人を助けられるか考え、調和を保ち、平和に関わる思考です。慈しみの実践が、この項目を実践することになります。
avihiṃsāsaṅkappo 害意のない思考
karuṇā 悲に導く思考です。思考の行為です。それに行動プランを取り入れれば害意のない思考です。調和について思考するだけでなく、実行することも考えることです。
正思惟(2)解脱を司る思惟
Yo kho, bhikkhave, ariyacittassa anāsavacittassa ariyamaggasamaṅgino ariyamaggaṃ bhāvayato ①takko vitakko ②saṅkappo ③appanā vyappanā ④cetaso abhiniropanā ⑤vacīsaṅkhāro – ayaṃ, bhikkhave, sammāsaṅkappo ariyo anāsavo lokuttaro maggaṅgo.
では、比丘たちよ、『聖なる、無漏の、出世間の、道の部分である正思惟の者』とはなにか。比丘たちよ、心が聖なる、無漏の心の者、聖道に達し、聖道を修めている人の①考察、大まかな考察、②思惟、③専注、細専注、④心を上がらせること、⑤語行
―比丘たちよ、これが『聖なる、無漏の、出世間の、道の部分である正思惟』である。
聖なる、無漏の、出世間の、道の部分である正思惟の者とは、かなり高い瞑想の境地に入っている修行者のことで、その修行者のこころの状態を説明しています。
①takko vitakko 考察、大まかな考察
禅定に入っているときの思考、尋
②saṅkappo 思惟
そのときのこころの中に機能する概念。
③appanā vyappanā 専注、細専注
Appanāはサマーディ状態という、集中力で五感の情報に頼る普通の認識状態を超えた状 態をいう。vyappanā(vicāra・伺)も同じ意味で、さらに細かいサマーディ状態という意味です。専注、細専注とは、心がサマーディ状態に達した状態で、ヴィパッサナー瞑想の確認作業を続けている状態のことです。
④cetaso abhiniropanā 心を上がらせること
ふだんは気づかないこころの働きで、なにかを考えるために、こころにデータを乗せる機能のこと。
⑤vacīsaṅkhārā 語行
思考を言葉に変換するエネルギーのこと。ここでは修行の進んだサマーディ状態の行者の心境で、確認作業を続けるための言葉の機能で、思考を引き起こすエネルギー(語行)を観察しているだけです。同時にmanosaṅkhārā意業、kāyasaṅkhārā身行、も結果として制御されています。
正思考は、悪思考を止めて善い思考をする、聖正思惟は、なにかを考えるという意味ではなく、思考を引き起こすエネルギー(語行)を観察しているだけという状態です。
正思惟と三つのもの(法)
So micchāsaṅkappassa pahānāya vāyamati, sammāsaṅkappassa upasampadāya, svāssa hoti sammāvāyāmo. So sato micchāsaṅkappaṃ pajahati, sato sammāsaṅkappaṃ upasampajja viharati; sāssa hoti sammāsati. Itiyime tayo dhammā sammāsaṅkappaṃ anuparidhāvanti anuparivattanti, seyyathidaṃ – sammādiṭṭhi, sammāvāyāmo, sammāsati.
邪思惟を捨てよう、正思惟を備えようと努力するとき、その人は正精進をしている。注意して邪思惟を捨て、注意して正思惟を備えているとき、その人は正念をしている。こうしてこの三つのもの、すなわち、正見、正精進、正念が正思惟につきしたがい、ついてまわる」
邪思惟をなくそうと精進する、そこでサティ(念)でもって邪思惟を壊して正思惟に達する、これは因果法則があるということです、邪思惟をやめようという努力が正精進です。サティできづかないと、智・知る世界は成り立たない、きづかないと、明確に知ったことにはならない、ですから正念も入ってくる。正見が先頭になり正思惟・正精進・正念の3セットが回転する。正思惟は正精進で成り立つと同時に、正念で成り立つ。きづきで知るのですから、正念は欠かせません。しかし努力(精進)はしないと得られない。そこで正見をもとにして正思惟・正精進・正念がセットとなります。
7 邪語と正語
正見が最初にくる
Tatra, bhikkhave, sammādiṭṭhi pubbaṅgamā hoti. Kathañca, bhikkhave, sammādiṭṭhi pubbaṅgamā hoti? Micchāvācaṃ ‘micchāvācā’ti pajānāti, sammāvācaṃ ‘sammāvācā’ti pajānāti; sāssa hoti sammādiṭṭhi.
「比丘たちよ、このなかで正見が最初にくる。では、比丘たちよ、どうして正見が最初にくるのか。邪語を邪語と知り、正語を正語と知っているとき、その人は正見をしている。
お釈迦様は正見が先頭に立ってなにをするのか?問いかける。そしてご自分でお答えになります。正見が先頭に立つと邪語・正語がありのままに分かるということです。と
四つの邪語
⑲Katamā ca, bhikkhave, micchāvācā? ①Musāvādo, ②pisuṇā vācā, ③pharusā vācā, ④samphappalāpo – ayaṃ, bhikkhave, micchāvācā.
では、比丘たちよ、邪語とはなにか。①嘘、②中傷、②暴言、④戯れ言――比丘たちよ、これが邪語である。
正見は、邪語と正語をはっきりと区別することができる、それでは邪語とは、
①Musāvādo 嘘
嘘をつくこと
②pisuṇā vācā 中傷
二枚舌、仲間割れさせる言葉、噂話
③pharusā vācā, 暴言
荒々しい言葉、他人を苦しめ不機嫌にさせる言葉
④samphappalāpo 戯れ言
無駄話
俗世間の正語
Katamā ca, bhikkhave, sammāvācā? Sammāvācaṃpahaṃ, bhikkhave, dvāyaṃ vadāmi – atthi, bhikkhave, sammāvācā sāsavā puññabhāgiyā upadhivepakkā; atthi, bhikkhave , sammāvācā ariyā anāsavā lokuttarā maggaṅgā. Katamā ca, bhikkhave, sammāvācā sāsavā puññabhāgiyā upadhivepakkā? ①Musāvādā veramaṇī, ②pisuṇāya vācāya veramaṇī, ③pharusāya vācāya veramaṇī, ④samphappalāpā veramaṇī – ayaṃ, bhikkhave, sammāvācā sāsavā puññabhāgiyā upadhivepakkā. Katamā ca, bhikkhave, sammāvācā ariyā anāsavā lokuttarā maggaṅgā?
では、比丘たちよ、正語とはなにか。比丘たちよ、正語もわたしは二つ説く。比丘たちよ、『有漏の、功徳の部分であり、素因の果となる正語』があり、比丘たちよ、『聖なる、無漏の、出世間の、道の部分である正語』がある。
比丘たちよ、『有漏の、功徳の部分であり、素因の果となる正語』とはなにか。①嘘をやめること、②中傷をやめること、③暴言をやめること、④戯れ言をやめること――比丘たちよ、これが『有漏の、功徳の部分であり、素因の果となる正語』である。
正語は2種類、徳を積んで幸福になるという結果を出す、世俗の正語。解脱をもたらす出世間的な正語がある。
①Musāvādā veramaṇī 嘘をやめること
嘘をつかないこと
②pisuṇāya vācāya veramaṇī 中傷をやめること
噂することをやめる
③pharusāya vācāya veramaṇī 暴言をやめること
粗悪語をやめる
④samphappalāpā veramaṇī 戯れ言をやめること
無駄話をやめる
四つとも、自己を律することなので、大変なエネルギーです、徳行・善行・善行為になり、善い業になります。
出世間の正語
Yā kho, bhikkhave, ariyacittassa anāsavacittassa ariyamaggasamaṅgino ariyamaggaṃ bhāvayato catūhi vacīduccaritehi ārati virati paṭivirati veramaṇī – ayaṃ, bhikkhave, sammāvācā ariyā anāsavā lokuttarā maggaṅgā.
では、比丘たちよ、『聖なる、無漏の、出世間の、道の部分である正語』とはなにか。比丘たちよ、心が聖なる、無漏の心の者、聖道に達し、聖道を修めている人が、ことばによる四種の悪行を中止すること、終えること、絶つこと、やめること――比丘たちよ、これが『聖なる、無漏の、出世間の、道の部分である正語』である。
出世間的な正語とは、解脱に達する過程で、こころの中に起こる状態のことです。こころが沈黙状態に達するということです。俗世間に対する執着から心が離れた状態(中止すること、終えること、絶つこと、やめること)になったことでもあります。瞑想が上達して、思考・妄想する余裕がなくなると、衝動は潜在的にありますが、喜悦を感じて何かを語って楽しみたいという世俗的な意欲がなくなっていき、語りたいと言う衝動・意欲がなくなっていきます。なにもしゃべらない完全沈黙ではなく、語りたいという衝動を鎮めているので適度を知ってかたります。このような行者のこころの状態を語っています。
正語と三の法
So micchāvācāya pahānāya vāyamati, sammāvācāya upasampadāya; svāssa hoti sammāvāyāmo. So sato micchāvācaṃ pajahati, sato sammāvācaṃ upasampajja viharati; sāssa hoti sammāsati. Itiyime tayo dhammā sammāvācaṃ anuparidhāvanti anuparivattanti, seyyathidaṃ – sammādiṭṭhi, sammāvāyāmo, sammāsati.
邪語を捨てよう、正語を備えようと努力するとき、その人は正精進をしている。注意して邪語を捨て、注意して正語を備えているとき、その人は正念をしている。こうしてこの三つのもの、すなわち、正見、正精進、正念が正語につきしたがい、ついてまわる」
正見がある人は正語と邪語が分かり、精進して邪語をやめて正語に達する、しかし精進しただけでは、正語に達しない、きづきが必要、正語と邪語の区別がしっかりきづいたら、努力して正語に達する。正語・正精進・正念セットです、不可分です。ここでも正見が先頭です。正見が中心にあって、正語・正精進・正念がセットになり修行が進み、正見が強くなれば3セットも強くなり、正語が聖なる正語になります。
8 邪業と正業
正業と邪業
Tatra, bhikkhave, sammādiṭṭhi pubbaṅgamā hoti. Kathañca, bhikkhave, sammādiṭṭhi pubbaṅgamā hoti? Micchākammantaṃ ‘micchākammanto’ti pajānāti, sammākammantaṃ ‘sammākammanto’ti pajānāti ; sāssa hoti sammādiṭṭhi. Katamo ca, bhikkhave, micchākammanto? Pāṇātipāto, adinnādānaṃ, kāmesumicchācāro – ayaṃ, bhikkhave, micchākammanto.
「比丘たちよ、このなかで正見が最初にくる。では、比丘たちよ、どうして正見が最初にくるのか。邪業を邪業と知り、正業を正業と知っているとき、その人は正見をしている。
では、比丘たちよ、邪業とはなにか。生きものを殺すこと、与えられていないものを取ること、邪な行為――比丘たちよ、これが邪業である。
正見が先頭にきて判断するのは邪業(間違っている行為)と正業(正しい行為)です。生きものを殺すこと、与えられていないものを取ること、邪な行為の三つで、説明の必要はないと思います。ここで業を見るときは、ひとつひとつの単位で見ます、盗んだ食べ物で、飢え死にしそうな人を助けた場合、トータルで灰色とは見ないで、盗んだことは邪業、人を助けたのは善業です。
俗世間の正業
Katamo ca, bhikkhave, sammākammanto? Sammākammantaṃpahaṃ, bhikkhave , dvāyaṃ vadāmi – atthi, bhikkhave, sammākammanto sāsavo puññabhāgiyo upadhivepakko; atthi, bhikkhave, sammākammanto ariyo anāsavo lokuttaro maggaṅgo. Katamo ca, bhikkhave, sammākammanto sāsavo puññabhāgiyo upadhivepakko? Pāṇātipātā veramaṇī, adinnādānā veramaṇī, kāmesumicchācārā veramaṇī – ayaṃ, bhikkhave, sammākammanto sāsavo puññabhāgiyo upadhivepakko. Katamo ca, bhikkhave, sammākammanto ariyo anāsavo lokuttaro maggaṅgo?
では、比丘たちよ、正業とはなにか。比丘たちよ、正業もわたしは二つ説く。比丘たちよ、『有漏の、功徳の部分であり、素因の果となる正業』があり、比丘たちよ、『聖なる、無漏の、出世間の、道の部分である正業』がある。
比丘たちよ、『有漏の、功徳の部分であり、素因の果となる正業』とはなにか。生きものを殺すのをやめること、与えられていないものを取るのをやめること、不貞行為をはたらくのをやめること――比丘たちよ、これが『有漏の、功徳の部分であり、素因の果となる正業』である。
正業も2種類、徳を積んで幸福になるという結果を出す、世俗の正業。解脱をもたらす出世間的な正業がある。
世俗の正業はこの三つで、生きものを殺すのをやめること、与えられていないものを取るのをやめること、不貞行為をはたらくのをやめること。
いずれも邪行の衝動を抑えるのは正業を守ることになります。自分の不善の衝動を抑えることが善行為となり、結果として幸福になります。
出世間の正業
Yā kho, bhikkhave, ariyacittassa anāsavacittassa ariyamaggasamaṅgino ariyamaggaṃ bhāvayato tīhi kāyaduccaritehi ārati virati paṭivirati veramaṇī – ayaṃ, bhikkhave, sammākammanto ariyo anāsavo lokuttaro maggaṅgo.
では、比丘たちよ、『聖なる、無漏の、出世間の、道の部分である正業』とはなにか。比丘たちよ、心が聖なる、無漏の心の者、聖道に達し、聖道を修めている人が三種の身体による悪行を中止すること、終えること、絶つこと、やめること――比丘たちよ、これが聖なる、無漏の、出世間の、道の部分である正業』である。
解脱をもたらす出世間の正業のことです。修行が進むと、俗世間に対する執着から心が離れた状態(中止すること、終えること、絶つこと、やめること)になり、身体で刺激を受けて楽しみたい、なにかをしたいという衝動が消えていきます。正業を守る人には、行為をする意欲・衝動はあるので、気をつけないと、不注意で悪行為をする可能性はありますが、行為をしたい意欲・衝動がなくなれば完全安全です。ただ身動きしないということではないです、体は維持管理しなければなりませんし、慈しみに、基づいていて行為はします。
正業と三のもの(法)
So micchākammantassa pahānāya vāyamati, sammākammantassa upasampadāya; svāssa hoti sammāvāyāmo. So sato micchākammantaṃ pajahati, sato sammākammantaṃ upasampajja viharati; sāssa hoti sammāsati. Itiyime tayo dhammā sammākammantaṃ anuparidhāvanti anuparivattanti, seyyathidaṃ – sammādiṭṭhi, sammāvāyāmo, sammāsati.
邪業を捨てよう、正業を備えようと努力するとき、その人は正精進をしている。注意して邪業を捨て、注意して正業を備えているとき、その人は正念をしている。こうしてこの三つのもの、すなわち、正見、正精進、正念が正業につきしたがい、ついてまわる」
正業と正精進と正念の三セットで修行が進み、まず正見で正業と邪業を区別し、精進ときづきで正業に達する。正見が先にあり正業を正精進と正念が支え、出世間の正業に達する。ここでも正業・正精進・正念はセットです。
9 邪命と正命
五つの邪命
Tatra, bhikkhave, sammādiṭṭhi pubbaṅgamā hoti. Kathañca, bhikkhave, sammādiṭṭhi pubbaṅgamā hoti? Micchāājīvaṃ ‘micchāājīvo’ti pajānāti, sammāājīvaṃ ‘sammāājīvo’ti pajānāti; sāssa hoti sammādiṭṭhi. Katamo ca, bhikkhave, micchāājīvo? ①Kuhanā, ②lapanā, ③nemittikatā, ④nippesikatā, ⑤lābhena lābhaṃ nijigīsanatā [nijigiṃ sanatā (sī. syā. kaṃ. pī.)] – ayaṃ, bhikkhave, micchāājīvo.
Katamo ca, bhikkhave, sammāājīvo? Sammāājīvaṃpahaṃ, bhikkhave , dvāyaṃ vadāmi – atthi, bhikkhave, sammāājīvo sāsavo puññabhāgiyo upadhivepakko; atthi, bhikkhave, sammāājīvo ariyo anāsavo lokuttaro maggaṅgo.
「比丘たちよ、このなかで正見が最初にくる。では、比丘たちよ、どうして正見が最初にくるのか。邪命を邪命と知り、正命を正命と知っているとき、その人は正見をしている。
では、比丘たちよ、邪命とはなにか。①詐欺、②甘言、③仄めかし、④人を貶めたり、⑤利益の貪りを追求すること――比丘たちよ、これが邪命である。
では、比丘たちよ、正命とはないか。比丘たちよ、正命もわたしは二つ説く。比丘たちよ、『有漏の、功徳の部分であり、素因の果となる正命』があり、比丘たちよ、『聖なる、無漏の、出世間の、道の部分である正命』がある。
Ājīvaha(命)は生活・設計という意味ですから、職業・仕事のことになります、
正見は邪命と正命を区別して、その結果として五つの邪命を上げています。
①Kuhanā 詐欺
パーリ語の意味は、微妙にからくりして生活すること。仕事などはやる気がないのに、やる気があるように見せかけるなど、微妙な日常のウソのことです。
②lapanā 甘言
言葉巧みに騙す、相手が気に入るような甘い言葉を操ること。
③nemittikatā 仄めかし
暗示などで人を操る
④nippesikatā 人を貶める
ある種の詐欺、人の弱みや恐れに溶け込む詐欺のこと。
⑤lābhena lābhaṃ nijigīsanatā 利益の貪りを追求すること
自分は高い利得を貪り求め、相手を少量の利得で騙して自分が利得を得ること。あなたは儲かりますよと言いながら、結局は自分が儲けていること。
世俗間の邪命
Katamo ca, bhikkhave, sammāājīvo sāsavo puññabhāgiyo upadhivepakko? Idha, bhikkhave, ariyasāvako micchāājīvaṃ pahāya sammāājīvena jīvikaṃ kappeti – ayaṃ, bhikkhave, sammāājīvo sāsavo puññabhāgiyo upadhivepakko.
比丘たちよ、『有漏の、功徳の部分であり、素因の果となる正命』とはなにか。比丘たちよ、いま聖なる弟子が邪命を捨てて正命によって生活を営むとする。比丘たちよ、これが『有漏の、功徳の部分であり、素因の果となる正命』である。
正命も二種あります、善行為で善いカルマを積んで、輪廻が続いても幸福になる俗世間の正命と、出世間の正命です。
俗世間の正命とは、悪い仕事をしないで善い仕事をして生活する。これは常識の範囲でいいです。つまり俗世間の命とは仕事のことです。
出世間の邪命
Katamo ca, bhikkhave, sammāājīvo ariyo anāsavo lokuttaro maggaṅgo? Yā kho, bhikkhave, ariyacittassa anāsavacittassa ariyamaggasamaṅgino ariyamaggaṃ bhāvayato micchāājīvā ārati virati paṭivirati veramaṇī – ayaṃ, bhikkhave, sammāājīvo ariyo anāsavo lokuttaro maggaṅgo.
では、比丘たちよ、『聖なる、無漏の、出世間の、道の部分である正命』とはなにか。比丘たちよ、心が聖なる、無漏の心の者、聖道に達し、聖道を修めている人が、邪命を中止すること、終えること、絶つこと、やめること――比丘たちよ、これが『聖なる、無漏の、出世間の、道の部分である正命』である。
出世間の正命は命の意味が「仕事」ではなく「生きる」に変わります、私達はなぜ生き続けるのか、生きる衝動「サンカーラ」があるからです、この衝動が正命となります、すでに生きることは苦であると分かり、輪廻に対する愛着を捨てて、解脱を目指し活発に修行を続ける、生き続けたいというエネルギーはエネルギーとしてあるのですが、生き続けたいという気持ちは無色透明になる。この段階で出てくるのがmicchāājīvā ārati virati paṭivirati veramaṇī邪命を中止すること、終えること、絶つこと、やめること、間違っている者から離れるということです。
正命と三のもの(法)
So micchāājīvassa pahānāya vāyamati, sammāājīvassa upasampadāya ; svāssa hoti sammāvāyāmo. So sato micchāājīvaṃ pajahati, sato sammāājīvaṃ upasampajja viharati; sāssa hoti sammāsati. Itiyime tayo dhammā sammāājīvaṃ anuparidhāvanti anuparivattanti, seyyathidaṃ – sammādiṭṭhi, sammāvāyāmo, sammāsati.
邪命を捨てよう、正命を備えようと努力するとき、その人は正精進をしている。注意して邪命を捨て、注意して正命を備えているとき、その人は正念をしている。こうしてこの三つのもの、すなわち、正見、正精進、正念が正命につきしたがい、ついてまわる。
超越したレベルで正命と正精進と正念がセットで回転する。正見は邪命と正命を区別する。そこで邪命が正命を完成させようと精進する、それとともに、きづきで邪命をやめて正命に達する。この3セットは回転する。3セットは正命・正精進・正念で、その3つが正命を回転させる。
10 有学と無学
正見が最初にくる・今までのまとめ
Tatra, bhikkhave, sammādiṭṭhi pubbaṅgamā hoti. Kathañca, bhikkhave, sammādiṭṭhi pubbaṅgamā hoti? Sammādiṭṭhissa , bhikkhave, sammāsaṅkappo pahoti, sammāsaṅkappassa sammāvācā pahoti, sammāvācassa sammākammanto pahoti, sammākammantassa sammāājīvo pahoti, sammāājīvassa sammāvāyāmo pahoti, sammāvāyāmassa sammāsati pahoti, sammāsatissa ①sammāsamādhi pahoti, sammāsamādhissa ②sammāñāṇaṃ pahoti, sammāñāṇassa ③sammāvimutti pahoti.
「比丘たちよ、このなかで正見が最初にくる。では、比丘たちよ、どうして正見が最初にくるのか。比丘たちよ、
正見をしている人から正思惟が生じる。正思惟をしている人から正語が生じる。
正語をしている人から正業が生じる。正業をしている人から正命が生じる。
正命をしている人から正精進が生じる。正精進をしている人から正念が生じる。
正念をしている人から①正定が生じる。正定をしている人から②正智が生じる。
正智をもっている人から③正解脱が生じる。
一応のまとめです。
正見がある人には、正思惟はできる。正思惟がある人には、正語ができる。正語がある人には、正業ができる、正業がある人には、正命ができる、正命がある人には、正精進ができる、正精進がある人には、かならず正念がある、正念があれば、
①sammāsamādhi 正定
正しいこころの統一。正定がある場合は、
②sammāñāṇaṃ 正智・正智
正しい智慧がおきます。正慧がある人には、
③sammāvimutti 正解脱
正しい解脱が成り立ちます。
有学と無学
Iti kho, bhikkhave, aṭṭhaṅgasamannāgato ④sekkho [aṭṭhaṅgasamannāgatā sekhā paṭipadā (sī.), aṭṭhaṅgasamannāgato sekho pāṭipado (pī. ka.) ( ) natthi sī. syā. kaṃ. pī. potthakesu], dasaṅgasamannāgato arahā hoti. (Tatrapi sammāñāṇena aneke pāpakā akusalā dhammā vigatā bhāvanāpāripūriṃ gacchanti).
比丘たちよ、このように、④有学の修行中の者は[正見から正定までの]八つの項目を備えており、阿羅漢は[正見から正解脱までの]十の項目を備えている」
④sekkho 有学は、まだ学ぶものが残っているという意味。八つの項目で成り立ちます。無学は、学ぶものは無いという意味で、阿羅漢(悟った人)のことです、sammāñāṇaṃ正智・正智とsammāvimutti 正解脱を加えて、十の項目なります。
不善法の破壊と善法の成就
Tatra, bhikkhave, sammādiṭṭhi pubbaṅgamā hoti. Kathañca, bhikkhave, sammādiṭṭhi pubbaṅgamā hoti?
Sammādiṭṭhissa, bhikkhave, micchādiṭṭhi①nijjiṇṇā hoti. Ye ca ②micchādiṭṭhipaccayā ③aneke pāpakā akusalā dhammā sambhavanti te cassa nijjiṇṇā honti. Sammādiṭṭhipaccayā aneke kusalā dhammā ④bhāvanāpāripūriṃ gacchanti.
「比丘たちよ、このなかで正見が最初にくる。では、比丘たちよ、どうして正見が最初にくるのか。
比丘たちよ、正見をしている人には邪見が①破壊している。②邪見を縁として③多くの悪い不善法が生じるが、それらもかれには破壊している。正見を縁として生じる多くの善法が④修習の成就に至る。
正見が先頭になり、正見により、邪見が腐敗して壊れていきます。
①nijjiṇṇā hoti 破壊している
衰えてしまう、腐敗する
②micchādiṭṭhipaccayā 邪見を縁として
邪見によって現れる。
③aneke pāpakā akusalā dhammā 多くの悪い不善法
あらゆる不善のこと、悪いこと。
邪見によってあらゆる不幸、悪いことが生じる、その邪見も正見により、壊れ、錆びて、腐敗していく、それから正見によって、あらゆる善が完成します。
④bhāvanāpāripūriṃ 修習の成就に至る。
人格が向上し完成します。
Bhāvanāは瞑想と一般的に訳して、日本語の訳では伝統的に修習と訳していますが、パーリ語の語義は、向上の実践、人格の完成という意味になります、本来は成長するという意味ですから、向上が明確な日本語に思います。
不善法の破壊と善法の成就
Sammāsaṅkappassa, bhikkhave, micchāsaṅkappo nijjiṇṇo hoti
Ye ca micchāsaṅkappapaccyā aneke pāpakā akusalā dhammā sambhavanti te cassa nijjiṇṇā honti. Sammāsaṅkappapaccyā ca aneke kusalā dhammā bhāvanāpāripūriṃ gacchanti
比丘たちよ、正思惟をしている人には邪思惟が破壊している。邪思惟を縁として、多くの不善法が生じるが。それらもかれには破壊している。正思惟を縁として生じる多くの善法が。修習の成就に至る。
正思惟があれば、邪思惟が腐敗していく。そして邪思惟によって現れる一切の悪行(不善法)が腐敗してしまう。それから、あらゆる善行為が完成して、人格向上も完成する。
不善法の破壊と善法の成就
sammāvācassa, bhikkhave, micchāvācā nijjiṇṇā hoti
Ye ca micchāvācapaccyā aneke pāpakā akusalā dhammā sambhavanti te cassa nijjiṇṇā honti. Sammāvācapaccyā ca aneke kusalā dhammā bhāvanāpāripūriṃ gacchanti
sammākammantassa, bhikkhave, micchākammanto nijjiṇṇo hoti
Ye ca micchāājīvapaccyā aneke pāpakā akusalā dhammā sambhavanti te cassa nijjiṇṇā honti. sammākammantapaccyā, ca aneke kusalā dhammā bhāvanāpāripūriṃ gacchanti
sammāājīvassa, bhikkhave, micchāājīvo nijjiṇṇo hoti
Ye ca micchāājīvapaccyā aneke pāpakā akusalā dhammā sambhavanti te cassa nijjiṇṇā honti. sammāājīvapaccyā, ca aneke kusalā dhammā bhāvanāpāripūriṃ gacchanti
sammāvāyāmassa , bhikkhave , micchāvāyāmo nijjiṇṇo hoti
Ye ca micchāvāyāmapaccyā aneke pāpakā akusalā dhammā sambhavanti te cassa nijjiṇṇā honti sammāvāyāmapaccyā ca aneke kusalā dhammā bhāvanāpāripūriṃ gacchanti
比丘たちよ、正語をしている人には邪語が破壊している。邪語を縁として、多くの不善法が生じるが。それらもかれには破壊している。正語を縁として生じる多くの善法が。修習の成就に至る。
比丘たちよ、正業をしている人には邪業が破壊している。邪業を縁として、多くの不善法が生じるが。それらもかれには破壊している。正業を縁として生じる多くの善法が。修習の成就に至る。
比丘たちよ、正命をしている人には邪命が破壊している。邪命を縁として、多くの不善法が生じるが。それらもかれには破壊している。正命を縁として生じる多くの善法が。修習の成就に至る。
比丘たちよ、正精進をしている人には邪精進が破壊している。邪精進を縁として、多くの不善法が生じるが。それらもかれには破壊している。正精進を縁として生じる多くの善法が。修習の成就に至る。
次に正語によって邪語が腐敗し、邪語が原因で生まれるすべての悪も腐敗する。そして正語から生まれる善を満たして人格向上も完成する。その次に正業によって邪業が腐敗し、邪業から生まれる悪もなくなり、善も完成して人格が向上する。また正命によって、邪命が腐敗し、邪命によって生まれる不善もなくなり、善が完成して人格も向上する。さらに正精進によって、間違っている精進が腐敗する。間違っている精進によって生まれるあらゆる不幸が、悪が腐敗する。その代わりに、正精進によって、あらゆる善が満たされた人格向上も完成する。
11 邪念と正念
邪念と正念
sammāsatissa, bhikkhave, micchāsati nijjiṇṇā hoti
Ye ca micchāsatipaccyā aneke pāpakā akusalā dhammā sambhavanti te cassa nijjiṇṇā honti. Sammāsatipaccyā ca aneke kusalā dhammā bhāvanāpāripūriṃ gacchanti
比丘たちよ、正念をしている人には邪念が破壊している。邪念を縁として、多くの不善法が生じるが。それらもかれには破壊している。正念を縁として生じる多くの善法が。修習の成就に至る。
次に正念によって邪念が腐敗する。正念と邪念の区別は科学で新発見があると以前の科学的な真実が間違いになるようなことが起こります、これはデータが不十分な為に起こることです。科学者は感情的でいい加減な結論を出しているわけではないですが、これは避けられないことです、このようにデータが不十分なのに結論に達することも仏教では邪念とします。
瞑想では眠気や集中していない状態を、こころが穏やかになっている、禅定に入っていると勘違いし。瞑想が進んで世間に対して興味がなくなってくると、私には煩悩がない、悟っているのでないかと、きづく、これが邪念です。
きづきを間違えて、悟ったと勘違いすれば、精進しなくなり成長は止まります、お釈迦様はそれで、正見・正精進・正念の3セットをとても気をつけて語っています。
手に入る不十分なデータで結論に達する科学者のように、自分で考えた結論は間違いとおもうのが無難です、真理を発見したと思ったら、新発見で以前の真理は書き換えられます。しかし、仏教の悟りは、完全なデータが揃う必要があります、正念によって、現象のありのままの姿を完全に発見すると、正慧と正解脱がおのずと起こります。
12 邪定と正定
邪定と正定
sammāsamādhissa, bhikkhave, micchāsamādhi nijjiṇṇo hoti
Ye ca micchāsamādhipaccyā aneke pāpakā akusalā dhammā sambhavanti te cassa nijjiṇṇā honti. sammāsamādhipaccyā ca aneke kusalā dhammā bhāvanāpāripūriṃ gacchanti
比丘たちよ、正定をしている人には邪定が破壊している。誤った精神集中を縁として、多くの不善法が生じるが。それらもかれには破壊している。正定を縁として生じる多くの善法が。修習の成就に至る。
邪定とは詐欺師が人を騙すために使う集中力のように、悪行為につかう集中力です。
正しい集中力が生まれれば、間違った集中力から生まれた苦しみも、悪もなくなり、こころの中の不善法が起こらなくなり、善法にみたされていく、ということは、人格が完成していく、ということです。
13 邪慧と正慧
邪慧と正慧
sammāñāṇassa, bhikkhave, micchāñāṇaṃ nijjiṇṇaṃ hoti Ye ca micchāñāṇassapaccyā aneke pāpakā akusalā dhammā sambhavanti te cassa nijjiṇṇā honti. sammāñāṇapaccyā ca aneke kusalā dhammā bhāvanāpāripūriṃ gacchanti
比丘たちよ、正慧をしている人には邪慧が破壊している。邪慧を縁として、多くの不善法が生じるが。それらもかれには破壊している。正慧を縁として生じる多くの善法が。修習の成就に至る。
智慧がpaññāの日本語訳で、解脱に達する智慧だと簡単に理解してよいです。ñāṇaは普通の知識にも使える言葉です。いわゆる正慧とは、「一切は現象である」、「無常・苦・無我」を発見することです。本当にあるのは「無常・苦・無我、それだけです」と発見すること。
無常だけと言っても、「無常がある」とは言えない「無常はどこに存在しているか」といっても意味はない、現象があるから無常が成り立つのであって、無常があるわけではないのですから。こちらに花があると、花が枯れるという無常が成り立つのです。存在しない花が枯れるという話(言葉)は出てきません。新発見があれば覆る俗世間の知識は仏教的には邪慧です、しかし正慧が生まれたら、正慧に基づいて行う身口意の行為はすべて正しい行為になります。しかし、それが終わりではありません、「正しい行為をして生きられるようになりました」は世間のレベルです、人格向上が完全になるまで、実践を続けるのが仏道です。
14 邪解脱と正解脱
邪解脱と正解脱
sammāvimuttassa, bhikkhave, micchāvimutti nijjiṇṇā hoti. Ye ca micchāvimuttipaccayā aneke pāpakā akusalā dhammā sambhavanti te cassa nijjiṇṇā honti. Sammāvimuttipaccayā ca aneke kusalā dhammā bhāvanāpāripūriṃ gacchanti.
比丘たちよ、正解脱をしている人には邪解脱が破壊している。邪解脱を縁として、多くの不善法が生じるが。それらもかれには破壊している。正解脱を縁として生じる多くの善法が。修習の成就に至る。
正慧がある人には、正解脱があります。正解脱に達した人は、邪解脱がなくなる。邪解脱とは、解脱に達したと勘違いすることです。邪解脱に達した場合は一切の罪の根本である無明が強烈になり、身口意の行為によって、自分の邪見が強化されます。お釈迦様が説かれる正解脱に達するまで努力が必要です、正解脱によって、こころの悪は消えていき、人格が向上します。
15 偉大なる四十の法門
大四十の法門
Iti kho, bhikkhave, vīsati kusalapakkhā, vīsati akusalapakkhā – mahācattārīsako dhammapariyāyo pavattito ①appaṭivattiyo samaṇena vā brāhmaṇena vā devena vā mārena vā brahmunā vā kenaci vā lokasmiṃ.
このように、比丘たちよ、善いことがらについて二十、善くないことがらについて二十[の効果]がある」
「ここに開示された『優れた四十[の効果]』という教説は沙門にもバラモンにも神にも魔王にも梵天にもこの世の誰にも①逆転させることはできない。
八聖道に正慧と正解脱をいれて十正道、邪道と正道があり二十、ひとつひとつの道に原因と結果があり四十になります。
①appaṭivattiyo 逆転させることはできない
教えは真理そのものであるということです。かなり強いことばです。
Yo hi koci, bhikkhave, samaṇo vā brāhmaṇo vā imaṃ mahācattārīsakaṃ dhammapariyāyaṃ garahitabbaṃ paṭikkositabbaṃ maññeyya tassa diṭṭheva dhamme dasasahadhammikā vādānuvādā gārayhaṃ ṭhānaṃ āgacchanti –
というのは、比丘たちよ、沙門であろうとバラモンであろうと、この『優れた四十[の効果]』という教説を非難すべき、反駁すべきとみなす者は誰であれ、その見解から合理的に導かれる十の説がその場で非難される側にまわるからである。
sammādiṭṭhiṃ ce bhavaṃ garahati, ye ca micchādiṭṭhī samaṇabrāhmaṇā te bhoto pujjā, te bhoto pāsaṃsā;
『正見を非難なさるのでしたら、邪見をしている沙門やバラモンでも、あなたにとっては崇敬に値し、称賛に値することになりますね。
sammāsaṅkappaṃ ce bhavaṃ garahati ye ca micchāsaṅkappā samaṇabrāhmaṇā te bhoto pujjā, te bhoto pāsaṃsā;
sammāvācaṃ ce bhavaṃ garahati ye ca micchāvācaṃ samaṇabrāhmaṇā te bhoto pujjā, te bhoto pāsaṃsā;
sammākammantaṃ ce bhavaṃ garahati ye ca micchākammantaṃ te bhoto pujjā, te bhoto pāsaṃsā;
sammāājīvaṃ ce bhavaṃ garahati ye ca micchāājīvaṃ te bhoto pujjā, te bhoto pāsaṃsā;
sammāvāyāmaṃ ce bhavaṃ garahati ye ca micchāvāyāmaṃ te bhoto pujjā, te bhoto pāsaṃsā;
sammāsatiṃ ce bhavaṃ garahati ye ca micchāsatiṃ te bhoto pujjā, te bhoto pāsaṃsā;
sammāsamādhiṃ ce bhavaṃ garahati ye ca micchāsamādhiṃ te bhoto pujjā, te bhoto pāsaṃsā;
sammāñāṇaṃ ce bhavaṃ garahati ye ca micchāvimuttiṃ te bhoto pujjā, te bhoto pāsaṃsā;
sammāvimuttiṃ ce bhavaṃ garahati, ye ca micchāvimuttī samaṇabrāhmaṇā te bhoto pujjā, te bhoto pāsaṃsā.
正思惟を非難なさるのでしたら、邪思惟をしている沙門やバラモンでも、あなたにとっては崇敬に値し、称賛に値することになりますね。
正語を非難なさるのでしたら、邪語をしている沙門やバラモンでも、あなたにとっては崇敬に値し、称賛に値することになりますね。
正業を非難なさるのでしたら、邪業をしている沙門やバラモンでも、あなたにとっては崇敬に値し、称賛に値することになりますね。
正命を非難なさるのでしたら、邪命をしている沙門やバラモンでも、あなたにとっては崇敬に値し、称賛に値することになりますね。
正精進を非難なさるのでしたら、邪精進をしている沙門やバラモンでも、あなたにとっては崇敬に値し、称賛に値することになりますね。
正念を非難なさるのでしたら、邪念をしている沙門やバラモンでも、あなたにとっては崇敬に値し、称賛に値することになりますね。
正定を非難なさるのでしたら、邪定をしている沙門やバラモンでも、あなたにとっては崇敬に値し、称賛に値することになりますね。
正智を非難なさるのでしたら、誤智をしている沙門やバラモンでも、あなたにとっては崇敬に値し、称賛に値することになりますね。
正解脱を非難なさるのでしたら、誤った解脱をしている沙門やバラモンでも、あなたにとっては崇敬に値し、称賛に値することになりますね』
Yepi te, bhikkhave, ahesuṃ ①okkalā vassabhaññā②ahetuvādā ③akiriyavādā natthikavādā tepi mahācattārīsakaṃ
dhammapariyāyaṃ na garahitabbaṃ na paṭikkositabbaṃ amaññiṃsu Taṃ kissa hetu? Nindābyārosaupārambhabhayā’’ti.
比丘たちよ、①ウッカラ地方のヴァッサやバンニャは、②無因論者、③無作為論者、非存在論者であったが、『大四十』という教説を非難すべきもの、反駁すべきものとは考えないであろう。なぜなら、責められたり、怒られたり、なじられたりするのを恐れるからである」
①okkalā vassabhaññā ウッカラ地方のヴァッサやバンニャ
当時のバラモンの名前
②ahetuvādā 無因論者
原因を否定する説で、因果関係を否定する人々で、ガラスが石に当たって割れても。ただガラスが割れただけで、原因はない、割れると決まっているという思考です。
③akiriyavādā 無作為論者
行為の結果を否定する説と考えるとわかりやすいです、業などの考えを否定する理論で、ガラスが石に当たって割れても、石は関係ないガラスがかってに割れただけという思考です。
1.4 大傲な者の経(4)
このように、わたしは聞きました。
あるとき、お釈迦様はウルヴェーラーに住んでおられた。
ネーランジャラー川の岸辺のアジャパーラ・ニグローダ樹の根元で悟りをえてすぐのころ、七日のあいだ瞑想姿で坐っておられた。
悟りの安楽を得たお釈迦様は七日が過ぎて、瞑想から覚められた。
偉そうで、大げさなバラモンが、お釈迦様と今回の出会いを喜び合い挨拶(あいさつ)を交わしてかたわらに立ち、お釈迦様にこう言ったのです。
「友ゴータマよ、どのような人をバラモンと呼ぶのか、どのようなものが人をバラモンにする法(性質)なのですか」
お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました
もしもバラモンが悪徳を除き
傲慢でなく汚れなく自制し
ヴェーダの極致に達し清らかな修行を実践したならば
この世にあるものに何事についても傲慢さがない
法(真理)に従って自分は真のバラモンであると語る(4)
以上が第四の経となる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
バラモンカーストは聖者で生まれつき勝れているという信仰で、他人に敬語を使わないのです。 このバラモンは、何でも批難的で、バラモンに対しても批難的であったと思います
解 脱に達して四週間しか経ってないので、対話的な説法はありません、伝道する気はまだ起きてなかったようです。
お釈迦様の時代は、バラモンという単語は聖者に使う単語でもあることが常識です。 御自分が聖者になったので、その喜びを歓喜の言葉として語られた経典です。
質問には答えられています。しかし、相手が理解するか否かを気にしてないのです。悩んでいるバラモンを見たところで、釈迦牟尼仏陀は自分が解脱に達して、成功したことに喜びを感じて、この詩句を歌ったのです。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
なにが書いてあるか
(直訳詩)
Yo brāhmaṇo bāhitapāpadhammo,
そのバラモンが、悪い法を除き
Nihuṃhuṅko nikkasāvo yatatto;
驕りなく、濁りなく、自己を制御し
Vedantagū vūsitabrahmacariyo,
智の終極に達し、梵行を完成したなら
Dhammena so brahmavādaṃ vadeyya;
法(真理)によって、梵諭を知らしめる
Yassussadā natthi kuhiñci loke’’ti.
そこには傲慢が、世間のどこにも存在しない
解 説
Yo brāhmaṇo bāhitapāpadhammo,
もしもバラモンが悪徳を除き
*悪と思われる一切の現象(法)を捨ててしまっているということ。(悪
を犯してしまう性格が消えています)
Nihuṃhuṅko nikkasāvo yatatto;
傲慢でなく汚れなく自制し
*Nihuṃhuṅko 傲慢でなく、(見解が全て消えた状態)
*自分の見解を持って他を軽視することはない。(真理を知り尽くしたら
見解は消える)
*Nikkasāvo 汚れなく(煩悩はない)、
*yatatto 自制し(自分を戒めることを完成し)
Vedantagū vūsitabrahmacariyo,
ヴェーダの極致に達し清らかな修行を実践したならば
*Vedantagūとは、知るべきものの全て(智慧の極致)を知っているとい
うことになります。
*Veda とはバラモンの聖典です。 Veda には、智慧・Knowledge という意
味があって、ヴェーダを唱えると智慧に達するという信仰があった。
*vūsitabrahmacariyo
*梵行(清浄行)を完成している。 梵天とはバラモン教徒が期待する究極
の境地です。 清らかな生き方・修行という意味で使います。 修行は完
成しましたという意味です。
お釈迦様はバラモン教の考えに言葉を合わせているのです
Dhammena so brahmavādaṃ vadeyya;
この世にあるものに何事についても傲慢さがない
*合法的に真理に従って自分は真のバラモンであると語ります
*彼はこの世にある何事についても傲慢さがない
*一切の存在に対して何の関わりも、執着もありません
Yassussadā natthi kuhiñci loke’’ti.
法(真理)に従って自分は真のバラモンであると語る
*ussadā-凸 とつ (こころにはこの世に対する引っかかるもの)は何も
ありません。
*この単語は煩悩・慢という意味でも使います。
*お釈迦様は「智慧に達した」と告げます
タイトルのHuṃhuṅka の意味
*注釈書ではHuṃhuṅka とは傲慢と怒りの性格で、他人のことなら何でも否定・批難するバラモンに付けたあだ名です。
*Huṃ-huṅ とは相手を否定・批難するときに使う 言葉(呼び名)です。
人は自分の考えにしがみつき、自分の見解(我見)を持って他を批難し、見解に捕らわれ精神の自由が失われています。 このようなバラモンの名前です。
*注釈書では、初めて、お釈迦様にお会いしたバラモンではなく、お釈迦様が六年間悟りを開く前に苦行していた時に、五ビクと共に仕えていたが、その後務めを捨てて、ウルヴァーラーのセーナの町を一人で托鉢して暮らしていた時に、お釈迦様と出会い、お釈迦様のゴーダマとう姓を知っていたので、「友ゴータマよ」と呼びかけたとあります。
1、1 第一の菩提の経~1.3 第三の菩提の経、1.4 大仰な者の経、2.1 ムチャリンダの経、3.10 世とともに経の4種類の物語はお釈迦様が菩提樹の根元で悟りを開き最初の説法(初転法輪)をする前のお話です
最初の説法は「転法輪転経」という、お経として伝わっていますが、その説法以前にお釈迦様がどのようなことを考えていたかを物語る重要な経典です
このお話が史実かどうかは解りませんが、後の人々が十二縁起・無我・欲望を離れる・四聖諦・などを教えの根幹と考えていたことを確かめられる4種類の経典です
1.5 バラモンたちの経(5)
このように、わたしは聞きました。
あるとき、お釈迦様はサーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられた。
ジェータ林のアナータピンディカ長者の聖園(祇園精舎)で、尊者サーリプッタと、尊者マハーモッガッラーナと、尊者マハーカッサパと、尊者マハーカッチャーナと、尊者マハーコッティカと、尊者マハーカッピナと、尊者マハーチュンダと、尊者アヌルッダと、尊者レーヴァタと、尊者ナンダとが、お釈迦様のもとに向かっていた。
お釈迦様は、尊者たちがはるか遠くからやってくるのを見て、修行者たちに語りかけた。
「ビクたちよ、バラモンたちがやってきます、ビクたちよ、バラモンたちがやってきます」
このように言われたときバラモン生まれの修行者は、お釈迦様にお聞きした。
「尊き方よ、どのような人をバラモンというのですか、どのようなものが人をバラモンとする法(性質)なのですか」
お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました
悪しきことを拒み
常にきづきあり歩むなら
束縛するものが滅した覚者であり
世間にいるバラモンたちである
以上が第五の経となる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
お釈迦様と有名なお弟子さんとの出会いが語られている
常にきづきある者は、真のバラモンであると詩う
この時代は生まれた家柄がバラモン階級ならバラモンと言われていた時代です、十人のお弟子さんの中にはバラモン階級の生まれでない方もいました、その方々を見てお釈迦様が
「ビクたちよ、バラモンたちがやってきます、ビクたちよバラモンたちがやってきます」
という言葉を口にしたので、このような問いかけがバラモン生まれの修行者から発せられた
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
なにが書いてあるか
(直訳詩)
Bāhitvā pāpake dhamme,
悪しきことを拒み、
ye caranti sadā satā;
常に、きづき、歩むなら、
Khīṇasaṃyojanā buddhā,
繋りを滅して、目覚めた彼らこそ、
te ve lokasmi brāhmaṇā’’
世間におけるバラモンである。
解 説
Bāhitvā pāpake dhamme,
悪しきことを拒み
ye caranti sadā satā;
常にきづきあり歩むなら
*sadā satā 常にきづきがあること
*過去と未来に引っかかることなく、今の瞬間をよく知って生活すること
です。(正しいバラモンのこころ)
*縛り・何かへの依存がなければ生きられない
Khīṇasaṃyojanā buddhā,
束縛するものが滅した覚者であり
te ve lokasmi brāhmaṇā’’
世間にいるバラモンたちである
Satiというのが、Mindfulness(マインドフルネス)という英語の元になった、パーリ語です、日本語では「きづき」と翻訳されています、八正道の一つ正念sammā-satiというように使う言葉で、対象に執着などの価値判断を加えることなく、中立的な立場で注意を払うことを意味し、瞑想に関する重要な事柄です
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
尊者方について簡単に記載します。
尊者サーリプッタ
ブッダの十大弟子の第一とされ、智慧第一と称される。マガダ国のナーフカ村のバラモンの家に生まれる。父はヴァンガンタ、母はルーパサーリーないしサーリーといい、かれはウパティッサと呼ばれて、三人の弟と三人の妹がいた。
経典に、最もよく登場して、ときにはブッダに代わって説法し、サーリプッタはきわめて頻繁にお釈迦様に道を問い、問答を重ね、そのすぐれた素質によりよくこれを理解し、仏弟子中第一人者となる。お釈迦様の時代から今に続く宗教ジャイナ教の文献では、教団の代表者としてサーリプッタの名前が記載され、当時圧倒的な存在感があったのを伺わせる。最近の研究では、お釈迦様が大まかに説いた話を、詳しく、解りやすく説いたのは、サーリプッタであると言われています。
尊者マハーモッガッラーナ
山王舎城の近くにあるコーリタ村のモッガリヤーというバラモン女の子で、コーリタと呼ばれる。ウパティッサ、サーリプッタと親しみ、ともに山頂祭に多くの人々が集まるのを見て、却って無常を感じ、六師外道の一人サンジャヤの弟子となる。サーリプッタとともに王舎城に住み、道をさとったならば互いに語り合おうと約束していた。サーリブッタはプッダの最初の五人の弟子(五比丘)のひとりのアッサジから「因縁法頌」を聞いて大いに感動し、それをマハーモッガラーナに伝えると、同じく非常に感激する。二人はサンジャヤの弟子二百五十人をひきいて、ブッダのところに行く。ブッダは二人の来るのを見て、この二人は自分のすぐれた弟子となるであろうという。サーリプッタやマハーカッサパなどの大比丘とともに、祇園の講堂にブッダに侍し、夜を明かす。かれはサーリプッタとともに、ブッダの二大弟子中でもとくに重要な弟子として、きわめて頻繁に初期仏教経典に登場し説法もおこなう。とくに神通に関する記事が多い。サーリプッタとともに、ブッダに先立って死ぬ。ブッダは二人の死を悼む。
尊者マハーカッサパ
マガダ国のマハーティッタというバラモン村に生まれ、ピッパリ童子と呼ばれる。マハーカッサパは汚衣を着ていたため、比丘たちはかれを軽蔑する。そこでブッダはかれに自分の坐の半分を分かちあたえ賞賛する。ブッダの着衣を受けたとの説もある。かれはつねに粗衣・粗食に満足し、ひたすら仏道修行につとめた。ブッダ入滅後、仏弟子のなかでも、マハーカッサパはとくに尊敬された第一人者であり、多くの種々の教えを説いたことが多数の経典に見える。教団の大長老として修行の完成者五百人を集め、聖典すなわち経と律と論の三蔵をはじめて結集した。サーリプッタ、マハーモッガッラーナ亡き後教団をまとめ、教えを残したマハーカッサパの活躍が有ればこそ、二千五百年後の日本でも、お釈迦様の教えに触れられます。
尊者マハーカッチャーナ
苦労しながらも異国の地での布教に励み、わかりやすく説くことに長けていた。ウッジャイン国のクシャトリヤ出身。チャンダ王の輔佐役の子で、王の命令を受け、ブッダをその国に迎えるために、七人の王臣とともにブッダを訪ねて、帰依し出家した。さとりを得てからのち帰国し、王を帰仏させた。アヴァンティ国に小屋をつくって住み、諸バラモンを教化した。
尊者マハーコッティカ
田舎衛城の金持のバラモンの家に生まれ、三ヴェーダに通暁する教養あるバラモンであった。仏教に帰依して、さとりを得る。
尊者マハーカッピナ
王族に生まれ、師を求めて四方に人を派遣したところ、商人からブッダが祇園精舎にいるのを聞いて大いに喜び、ブッダを求めて東方に行く。その途中ブッダに出あい、仏教に帰依して、さとりを得る。
尊者マハーチュンダ
マガダ国のナーフカ村のバラモン出身。サーリブックの弟に当たる・出家して熱心に努め、さとりを得た
尊者アヌルッダ
ブッダのいとこに当たる。いわゆる十大弟子のひとりで天眼第一と称される。お釈迦様の説法の座にあって、いねむりをして叱られ、それ以後お釈迦様の前においては眠らないことを誓い、長時間眠りを取らなかったために失明したが、却って天眼(智慧の眼)を得たともいわれる。なお、かれは仏弟子として活躍し、ブッダ入滅に馳せ参じてアーナンダを慰め、その直後の処置に当たったが、その後の教団の動き、たとえば第一結集には加わらなかったらしい。かれの兄のマハーナーマは熱心な仏教信者として知られる。
尊者レーヴァタ
サーリプッタ尊者の弟で、本名はレーヴァタ・キャディラ・ヴァニヤ、「キャディラ林に住するレーヴァタ」という意味。カディラの林に住し、出家して熱心に努め、さとりを得た
尊者ナンダ
スッドーダナ(浄飯)王とマハーパジャーパティー妃との間の子。したがってゴータマーブッダの異母弟に当たる。またナンダは容姿が美しく、ブッダと見まちがえられた。よく諸欲を自制し、さとりを得る。諸欲をよく押えて調伏諸根最第一とされる。
尊者の伝記は、ウダーナ副読本にも記載しましたのでご覧ください。
ウダーナ副読本
ウダーナ(自説経)1-5 バラモンたち
ウダーナ1-5では、重要なお弟子さんが登場します、お一人お一人の伝記を記載しましたので参考にしてください
サーリプッタ尊者
(ウダーナ 3-4,4-7,4-4,4-7、4-10、7-1、7-2にも登場)
特にお釈迦様の信頼の高かったのが、智慧第一といわれたこのシャーリプトラ尊者です。釈迦に代わって教えを説くほどであり。仏教経典には、そんな場面が描かれている。ジャイナ教という同じ時代の宗教の文献では、お釈迦様の教団というよりシャーリプトラの教団と記載されており、外部からみた存在感は圧倒的なようでした。教団内部では、お釈迦様が説いた教えを、詳細に他のお弟子さん達に解説していて、現代に伝わる仏教の教理の詳細な部分は、シャーリプトラ尊者によるものが、かなりの部分を占めるというのが、最近の研究で言われていることです。
お釈迦様の弟子となったのには、次のような経緯があった。真理を求めて、さまざまな師を訪ね歩いたシャーリプトラはあるとき立派な僧に出会った。その物腰からして、悟りを開いた僧であろうと、懇願してその教えを尋ねた。この僧は釈迦が最初に教えを説いた5人のビクのひとり、アッサジであった。アッサジは、弟子入りしてまだ間もないので……と断って、次のような掲(詩)を唱えて聞かせた。「『もろもろの事がらは原因から生ずる。真理の体現者はその原因を説きたもう。もろもろの事がらの消滅をも説かれる。
大いなる修行者はこのように説きたもう。』」この縁起の教えを聞いただけで、シャーリプトラは、たちまちお釈迦様の教えを理解し、悟りの最初の段階に達することができた。真理を知った喜びに感動したシャ-リプトラは、まず最初に、親友のモッガラーナに、それを知らせようと思った。二人は幼いころからの仲良しで、かつて一緒に出家したからである。生まれた時から、何不自由のない生活をしていた。
少年だった二人は、ラージヤグリハで毎年行われる山頂祭という祭り見物に行ったときである。店が並び、見世物の小屋が出て、それは賑やかな祭りであった。ところが、聡明な頭脳と感じやすい心を持ったこの少年は、楽しいはずの祭りの賑わいに、かえって人生のはかなさ、無常を感じとってしまった。「あと100年もたったら、ここにいる人々は死んでしまうにちがいない。どんなに楽しくても、移りゆく時間のなかではすべてが虚しいばかりではないか。虚しさから逃れる永遠の道はないものか……」祭りの騒ぎのなかに虚しさを感じた少年たちは、虚しさから逃れるために、真理を求めて出家することにした。二人は、当時懐疑論を唱えていたサンジャヤの弟子となった。だが、サンジャヤの教えをたちまち理解した二人は、永遠の真理は別にあるはずだ、と考えるようになった。ならば、一緒にいるよりも別れて、その真理を探しに行こうではないか。もし、どちらか一方が先に真理を悟ったら、互いに知らせ合おう。こんな約束を交わして別れ、旅立った。そしてついに、シャーリプトラはアッサジを通じてお釈迦様と出会う。親友のモッガラーナもまた、喜びで輝かんばかりのシャーリプトラの顔を見て、すべてを理解した。二人は、お釈迦様の弟子になることにした。サンジャヤの教団で指導的立場にある二人が、お釈迦様の弟子になったと知り、信者250人は、全員がお釈迦様の下に走った。シャーリプトラは、最高の悟りを開き、教団の発展に大いに貢献したのであった。だが、先に入滅する許しを得ると、故郷に帰って病気で亡くなったとされる。末期の床で、母をはじめ多くの親族を仏教に帰依させたという。
サーリプッタの生活や心境を『テーラガーター』は次のように伝えている。
九八一 正しく行ない、心を落ち着けている人のようによく気をつけていて、正しく意志して行ない、怠らず、内に反省することを楽しみ、みずからよく心の安定をえて、ただ独りでいて、そして満足している者 - かれを人々は(修行者)と呼ぶ。
九八二 水分ある食物も、乾いた食物も、食べるときは、過度に飽食してはならない、修行者は腹をみたすことなくして、適量を食べ、よく気をつけて、遍歴せよ。
九八三 四くちか、五くちの食物を得ることができなかったら、水を飲むがよい〔修行に〕励む修行者にとっては、〔これだけで〕安楽に住するに足る。
九八四 この目的に適し、着るにふさわしい衣服を受けるならば、〔修行に〕もっぱら励む修行者にとっては、〔これだけで〕安楽に住するに足る。
九八五 結跏趺坐しているときに、膝にまで雨が降らなければ、〔修行に〕もっぱら励む修行者にとっては、〔これだけで〕安楽に住するに足る。
九八六 楽しみを苦しみと見、苦しみを矢と見、両者の中間にみずからとどまらないならば、かれは、この世においてそもそも、何にかかずらうであろうか?
九八七 悪い欲望をいだき、怠惰で、元気がなく、学ぶこと少なく、他人を尊敬しないような人が決してわたくしにはかかずらいませんように。― その人はこの世において、そもそも、何にかかずらうでしょうか?
九八八 ひろい学識があり、聡明であり、もろもろの戒行によく専心し、そして、心の平静をうることに専念する者〔かれこそ、わが〕頭上に立て。
九八九 ひろがる妄想にふけり、妄想を喜びとする獣〔のごとき者〕、― かれは、無上の安らぎ、安穏を獲得するにいたらない。
九九〇 妄想を捨てて、妄想のない道を楽しむ者、- かれは、無上の安らぎ、安穏を体得するにいたる。
九九一 村でも、林でも、低地でも、平地でも、聖者たちの住む土地は、楽しい。
九九二 〔人のいない〕森は楽しい。世人が楽しまないところにおいて、貪りを離れた人々は、楽しむであろう。かれらは、快楽を求めないからである。
九九三 〔おのが〕罪過を指摘し、あやまちを告げてくれる聡明な人に会ったならば、その聡明な人につき従え ― 隠している財産のありかを告げてくれる人につき従うように。
そのような人につき従うならば、善いことがあり、悪いことはない。
九九四 〔他人を〕訓戒せよ。教えさとせ。よろしくないことから[他人を]遠ざけよ。そうすれば、その人は善人に愛され、悪人からは疎まれる。
九八五 〔真理を見る〕眼ある尊き師・ブッダは、他の一人の人のために、真理の教えを説かれた。教えが説かれているとき、〔道を〕求めるわたしは、耳をそば立てた。
九九六・九九七 わたしが聞いたことは、空しくはなかった。わたしは、束縛をのがれ、煩悩のけがれのない者となった。実に、わたしの誓願としたところのものは、過去世の生活を知る〔通力〕を得るためではなく、すぐれた透視〔力〕を得るためでもなく、他人の心を読みとる〔通力〕を得るためでもなく、死と生を知る〔通力〕を得るためでもなく、聴力を浄める〔通力〕を得るためでもなかった。
九九八 頭を剃り、重衣をまとった智慧第一の長老ウパティッサ(サーリプッタ)は、樹の根もとで、瞑想する。
九九九 思考をなさない境地に到達した、完全にさとった人(ブッダ)の弟子は、つねに貴き沈黙を具現している。
一〇〇〇 聴岩山が確固として不動であるように、そのように、修行者は迷妄を滅ぼしているから、山のごとく、揺れ動くことがない。
一〇〇一 汚点なく、つねに済浄を求める人には、毛の先ほどの悪も、雲のような大きさに見える。
一〇〇二 われは、死を喜ばず。われは生を喜ばず。よく気をつけて、心がけながら、この身を捨てよう。
一〇〇三 われは、死を喜ばず。われは生を喜ばず。この身体を捨てるであろう。 - 傭われたわれた人が賃金をもらうのを待つように。
一〇〇四 二つの極端のどちらによっても、死のみである。〔この生涯に〕先にも後にも不死はない。道を実践せよ。滅びるなかれ。瞬時も空しく過ごすな。
一〇〇五 辺境にある、城壁に囲まれた都市が内も外も守られているように、そのように自己を守れ。瞬時も空しく過ごすな。時を空しく過ごした人々は、地獄に堕ちて、苦しみ悩む。
一〇〇六 かれは、こころ静かに、やすまり、思慮して語り、心が浮つくことなく、もろもろの悪しき性質を吹き払う - 風が樹の葉を吹き払うように。
一〇〇七 こころ静かに、やすまり、思慮して語り、心が浮つくことなく、もろもろの悪しき質を吹き捨てよ。- 風が樹の葉を吹き捨てるように。
一〇〇八 こころ静かに、煩労なく、心が清く澄んで、けがれなく、性行が良く、聡明であり、苦しみを滅ぼす者であれ。
一〇〇九 こういうわけで、ある在家の人々をも、さらに出家者をさえも、信頼してはならない。もとは善良であっても、のちに不良となる者どもがいる。また、もとは不良であっても、のちに善良となる人々がいる。
一〇一〇 官能的欲望と、害心と、ものうさと、ざわつきと、疑惑 ―、これらの五つは、修行者にとって、心の汚れである。
一〇一一 尊敬をうけていても、また尊敬されていなくても、どちらであろうとも、つとめはげんで生活する者は、精神の安定がゆらぐことがない
一〇一二 瞑想し、堅忍不抜で、もろもろの見解を微細なところまで洞察し、執著を滅すのを楽しんでいる人、- かれを〈立派な人〉と呼ぶ。
一〇一三 大海、大地、山、さらに風も、師(ブッダ)のすぐれた解説を説くのに、瞥えとするにふさわしくない。
一〇一四 大いなる智慧あり、心の安らぎに達し、〔ブッダに〕従って〔真理の教えの〕輪を廻す長老(サーリプッタ)は、地と水と火に等しく、染まらず、汚されない。
一〇一五 智慧の完成に達し、大いなる識別力ある、偉大な聖者は、愚者のようであって愚者ではない。つねに安らぎをえて歩む。
一〇一六 わたしは、師(ブッダ)に仕えました。プッダの教えを実行しました。重い荷をおろしました。迷いの生存にみちびくものを根だやしにしました。
一〇一七 怠ることなく、つとめ励めよ。これが、わたしの教えさとしである。さあ、わたしは、円かな安らぎに入ろう。わたしは、あらゆることがらについて解脱している。
またサーリプッタが詩人ヴァンギーサからほめたたえられたという話も伝えられている。
一 あるときサーリプッタ尊者は、サーヴァッティー市のジェータ林・〈孤独な人々に食を給する人〉の園にとどまっておられた。
二 そのときサーリプッタ尊者は、修行僧たちに、法に関する談話をして、示し、勧め、はげまし、喜ばせた。その談話は、ていねいで、障害なく、濁りなく、事柄の意義を知らせるものであった。
そうしてその修行僧たちはその意義を理解し、注意して、心をすっかり集中し、耳を傾けて、ことわりを聞いた。
三 そこでヴァンギーサさんは、次のように思った、―「このサーリプッタ尊者は、法に関する談話をして、示し、勧め、はげまし、喜ばせた。その談話は、ていねいで、障害なく、濁りなく、事柄の意義を知らせるものであった。そうして、その修行僧たちは、その意義を理解し、注意して、心をすっかり集中し、耳を傾けて、ことわりを聞いた。さあ、わたしは、ふさわしい詩をとなえて、サーリプッタ尊者を、面と向かって称讃しよう」と。
四 そこでヴァンギーサさんは、座席からたち上がって、上衣を一つの肩にかけて、サーリプッタ尊者に向かって合掌して、サーリプッタ尊者に次のようにいった、―「サーリプッタさん。わたしは、ふと思い出すことがあります。ふと思い出すことがあります。」
五 〔師いわく、―〕
「ヴァンギーサさん。では思い出せ。」
六 さてヴァンギーサさんは、ふさわしい詩をとなえて、サーリプッタ尊者を、面と向かって称讃した。
「智慧が深く、聡明な英智に富み、種々の道に通達し、大いなる智慧あるサーリプッタは、もろもろの修行僧に、ことわりを説く。
かれは簡略に説くこともあり、また、詳しく語ることもある。九官鳥の鳴き声のように、〔自由自在な〕弁舌の才を発揮する。
かれが、魅惑的な、聞くに快い、甘美な声で教えを説いているとき、その甘く快い声を聞いて、修行者たちは、心喜び、なごんで、耳を傾けた。」
(サンユッタ・ニカーヤ1.8.6.)
モッガラーナ尊者
(ウダーナ 3-5,4-4,5-6にも登場)
仏教では、次の6つの超能力があるとされている。
―、望むところに行く力(神足通)
二、運命を予知する力(天眼通)
三、鋭い聴力(天耳通)
四、人の心を知る力(他心通)
五、過去世の姿を知る力(宿命通)
六、真理を悟る力(漏尽通)
お釈迦様も、その多くの弟子たちも、この超能力を持っていたという。なかでもモッガラーナ尊者は、超能力つまり神通力では誰よりも勝っていたので、神通第一といわれていた。
モッガラーナ尊者とサーリプッタ尊者の二人は、「二大弟子」ともいわれる。幼いころから仲良しの二人は、弟子となってからも協力して仏教教団を支えた。
モッガラーナ尊者の説法でお釈迦様の教えを信じる者は増えた。しかし、信者を失う教団もあった。対立教団のなかには、モッガラーナを激しく憎む者がいた。そして、モッガラーナを、襲わせたのである。だが、最初の襲撃、2度目の攻撃も、超能力により事前にそれを察知したモッガラーナは、無事であった。3度目に襲撃を知ることができた。だが、これほど執拗に襲われるには。なにか深い理由があるに違いないと考え、自らの前世を超能力で振り返ってみた。
すると、驚いたことに、自分は前世において目の見えない親を殺そうとしていたことがわかった。馬車で両親を郊外に連れ出すと、どうせ目が見えないのだからと、盗賊を装って、襲いかかったのである。目が見えないながらも、盗賊の襲撃を察知した親は、大声で叫んだ。「息子よ、私たちのことはいいから、とにかくお前だけでも無事逃げておくれ」 盗賊を装った前世のモッガラーナは、深い後悔の念に苛まれ、振り上げた剣を下ろしたという。やがて、両親を馬車に乗せると、とぽとぽと街に帰っていった。その報いで、今、命を狙われている。自らの業を知ったモッガラーナは、逃げようとはしなかった。
その後、モッガラーナは盗賊に襲われた。盗賊は、風のようにその場を立ち去った。
4度目の襲撃も超能力を使って事前に察知すれば、逃げることができたはずである。だが、モッガラーナは、あえてそれをしなかった。超能力でその場をしのぐことができても、前世の業はどのようにも解決できないのである。彼は、一切の超能力を使うことなく、前世の報いを受け入れたのであった。
サーリプッタに続いてモッガラーナを失ったお釈迦様の悲しみは、いかばかりであったろう。絶大な信頼を寄せていた弟子2人を、失ったのである、それからほどなくして、お釈迦様も入滅したのであった。
モッガラーナの生活や心境を『テーラガーター』は次のように伝えている。
一一四六 われらは、森に住む者、托鉢して食物を得る者、採り残された食物が鉢に盛られるのを楽しむ者である。内に心のよく安定した者となって、悪魔の軍勢を打ち破ろう。
一一四七 われらは、森に住む者、托鉢によって食物を得る者、であって、採り残された食物が鉢に盛られるのを楽しむ者である。悪魔の軍勢を追い払おう、- 象が刄の生えている住居を払いのけるように。
一一四八 われらは、樹の下に住む者、堅く耐え忍ぶ者、採り残された食物が鉢に盛られるのを楽しむ者である。内に心のよく安定した行となって、悪魔の軍勢を打ち破ろう。
一一四九 われらは、樹の下に住む者、堅く耐え忍ぶ者、採り残された食物が鉢に盛られるのを楽しむ者である。悪魔の軍勢を追い払おう、-象が葦の生えている住居を払いのけるように。
一一五〇 肉と筋とで縫い合された骸骨の小舎、悪臭を放つ身体は、厭わしいかな。他のものである肢体を、そなたはわがものであると思いなしている。
一一五一 皮膚でつなぎ合わせた糞袋よ。胸に潰瘍をもつ魔女よ。そなたの身体には、九つの(孔から流出する)流れがあり、常に(液汁が)流れ出ている。
一一五二 糞尿に礙えられているものよ。そなたの身休には、九つの(孔から流出する)流れがあり、悪臭を放っている。清らかなることを求める修行僧は、それを避ける。-排泄物を避けるように。
一一五三 わたしが、そなたを知るように、そのように、もしも人がそなたを知るならば、あたかも雨季に肥溜を避けるように、人は遠く離れて、そなたを避けるであろう。
一一五四 〔遊女は答える、― 〕「このことは、あなたのおっしゃるとおりです。偉大な健き人よ。道の人よ。或る人々は、老いた牛がぬかるみの泥の中にはまりこむように、この〔不浄な身体〕に落ちこむのです。」
一一五五 〔大モッガラーナが説いて言う、― 〕他の染料で、空中に絵を画こうと思う者があれば、それは身の破滅を生ずるもとにほかならない。
一一五六 内によく安定したこの心は、虚空のごとくである。悪心ある女よ。蛾が火むらに近づくように、われを奪い去ることなかれ。
一一五七 見よ、粉飾された形体を!(それは)傷だらけの身体であって、いろいろのものが集まっただけである。病に悩み、意欲ばかり多くて、堅固でなく、安住していない。
一一五八 数多くの徳性をそなえたサーリプッタが〔死の〕安らぎに入ったとき、そのとき恐ろしいことが起った、- そのとき身の毛のよだつことが起った。
一一五九 もろもろのつくられた事物は、実に無常である。生じ滅びる性質のものである。それらは生じては滅びるからである。それらの静まるのが安楽である。
一一六〇 五種の構成要素(五蘊)を、(アートマンとは異なった)他のものであると見て、アートマンであるとは見ない人々は、微妙なる真理に通達する。- 毛の尖端を矢で射るように。
一一六一 またもろもろの形成されたもの(諸行)を(アートマンとは異なった)他のものとして見て、アートマンであるとは見ない人々は、精妙なる真理に通達した。- 毛の尖端を矢で射るように。
一一六二 刀が体に刺さっている場合に〔刀を抜き去る〕ように、頭〔髪〕に火がついている場合に〔急いで火を消そうと努める〕ように、愛欲の貪りを捨て去るために、修行僧は、気をつけながら遍歴すべきである。
一一六二 刀が体に刺さっている場所に〔刀を抜き去る〕ように、頭〔髪〕に火がついている場合に〔急いで火を消そうと努める〕ように、生存の貪りを捨て去るために、修行僧は、気をつけながら遍歴すべきである。
一一六四 自己を修養し最後の身体をたもっている人(ブッダ)に促されて、わたしは、鹿母講堂なる宮殿を、足の指で震動させた。
一一六五 これは、のんびりしたことをめざしているのではない。あらゆる絆をちぎり裂くこの安らぎ(ニルヴァーナ)に達することは、わずかな気力をもってしては、できないはずである。
一一六六 年は若いが、この修行者、この最上の人は、悪魔とその軍勢とにうち勝って、いまは最後の身体をたもっている。
一一六七 雷の電光は、ヴェーバーラ山とパンダヴァ山との岩の裂け目に落ちる。無比の立派な修行者(ブッダ)の子は、山の岩石の裂け目におもむいて、瞑想する。
一一六八 静かな安らいの境地に達し、辺境なところを臥坐所とする聖行(大力ッサパ)は、最上のブッダの相続者であって、梵天に敬礼される人である。
一一六九 バラモンよ。静かな安らいの境地に達し、辺境なところを臥坐所とする聖者にして、最上のブッダの相続者である力ッサパに敬礼せよ。
一一七〇 およそ人が、くりかえし人間に生まれて、しかもみなバラモンとして生まれ、ヴェーダ聖典に通暁した学者であって、
一一七一 三種のヴェーダ聖典を読誦し、その奥義に達したものであったとしても、この人を敬礼するのは、〔大カッサパを敬礼する場合の〕十六分の一にも値しない。
一一七二 朝食前に、八つの解説を順と逆とのしかたで体得して、それから托鉢に出かけるところの、
一一七三 そのような修行者を襲撃してはならない。バラモンよ。自己を破滅させてはならない。そのような尊敬さるべき人(アラハット)にたいして、心に信をおこせ。すみやかに合掌して敬礼せよ。- なんじの頭が〔七つに〕裂けることのないように。
一一七四 輪廻にみちびかれ、正しい真理の教えを見ない者は、曲りくねった路・邪道をかけめぐり、下に堕ちる。
一一七五 糞にまみれた飢虫のように、もろもろの事象(ごみくず)に心を迷わされ、利益や尊敬を受けることに沈潜し、ポッティラは、空しく〔この世を去る。〕
一一七六 両方において解脱を得、内によく心の安定した、この容姿端麗なサーリプッタがやって来るのを見よ。
一一七七 かれは、〔愛執の〕矢を抜き、束縛を滅ぼし、三種の明知かあり、死(悪魔)を捨て去り、供養を受けるにふさわしく、人々のための無上の福田(功徳を生ずるもと)である。
一一七八 これらの多数の神々、一万の神々は、神通力をもち、名声あり、すべてみな梵天を主導者としているが、モッガラーナに敬礼しつつ、合掌して立って、〔こう言った。〕―
一一七九 生まれ良き人よ。あなたに敬礼します。最上の人よ。あなたに敬礼します。―もろもろの汚れを滅しておられるあなたに。師よ。あなたは、供養を受けるにふさわしい方です。
一一八〇 あなたは、人間や神々に供養され、死に打ち克つ人として現はれて来ました。白蓮華が〔泥〕水に汚されないように、もろもろの事象に汚されません、
一一八一 かれは一瞬のうちに千回も世界を見通した。かの修行者は、大梵天のごとくであり、神通力という徳に関しても、生死を知ることに関しても自在であり、適当な時に神々を見る。
一一八二 サーリプッタは実に、智慧と戒行と平静とによって彼岸に達した修行者であり、そのように最高の人である。
一一八三 わたしは、幾万億の数の自己のすがたを、一瞬のうちに化作しよう。わたしは種々に身を変化することに巧みで、神通に熟達している。
一一八四 モッガラーナ姓の者であるわたしは、禅定と明知との違人であり、完成に達し、無執着なる(ブッダ)の教えにおいてしっかりと確立し、もろもろの感官の安定を知っていて、束縛を断ち切った。 - 象が腐った蔓草を断ち切るように。
一一八五 わたしは師(ブッダ)に仕え、ブッダの教え(の実行)をなしとげた。重い荷をおろし、迷いの生存にみちびくものを、根こそぎにした。
一一八六 わたしが出家して家無き状態に入ったその目的を、わたしは達成した。それは、すべての束縛を滅ぼしつくすことであった。
一一八七 ドゥッシン〔という悪魔〕が〔仏〕弟子。ヴィドゥラとバラモン・カクサンダヒを襲って地獄で煮られたが、その地獄はいかなるものであったか?
一一八八 〔そこには〕百本の鉄の串があり、それらはみな、おのおの苦痛を与える。ドゥッシンが、〔仏〕弟子ヴィドラと、バラモン・カクサンダとを襲って、〔そのために〕煮られたところの地獄とは、このようなものである。
一一八九 仏弟子、修行者にして、その〔光景〕を知るそのような修行僧を襲うならば、そなたは苦しみに出遭うであろう。カンハ(黒い魔)よ。
一一九〇 大きな湖の中央に、もろもろの宮殿が一劫の間、立っていて、それらは、ルリ色をし、麗しく、火炎か燃え、光り暉いているそこでは、色とりどりの多数の天女か舞っている。
一一九一 仏弟子、修行僧にして、その〔光景〕を知るそのような修行僧を襲うならば、そなたは苦しみに出遭うであろう。カンハ(思い魔)よ。
一一九二 修行僧の群が見守っているときに、ブッダに促されて、鹿母講堂たる宮殿を足の親指で震動させたところの、
一一九三 仏弟子、修行者にして、その〔光景〕を知るそのような修行僧を襲うならば、そなたは苦しみに出遭うであろう、カンハ(思い魔)よ
一一九四 わたしが神通力に支えられて、母の親指で、帝釈天の宮殿を震動させたところが、神も驚愕したところの、
一一九五 仏弟子、修行者にして、その〔光景〕を知るそのような修行僧を襲うならば、そなたは苦しみに出遭うであろう、カンハ(思い魔)よ
一一九六 帝釈天の宮殿において、かれ(モッガラーナ)は帝釈天に問うた、- 「友よ。そなたは妄執の消滅である解脱を知っているか?」と。かれに問われて、帝釈天は、ありのままに答えた
一一九七 仏弟子、修行者にして、その〔光景〕を知るそのような修行僧を襲うならば、そなたは苦しみに出遭うであろう、カンハ(思い魔)よ
一一九八 〔梵天の世界にある〕善法講堂において、会衆の面前で、かれ(モッガラーナ)は梵天に問うた.― 「友よ。そなたは以前にいだいていた見解を、今もなおもっているか? また、そなたは、梵天界において光輝が遷り消えていくのを見るのか?」
一一九九 かれに問われて、梵天は、ありのままに答えた、― 「師よ。わたしは以前に
いだいていた見解と同じ見解を、もはやもっていません。
一二〇〇 わたくしは、梵天界において、光輝が遷り消えていくのを見ます。いまでは、わたくしは、「わたしは常住であり、常恒である」ということをどうして、言えるでしょうか。
一二〇一 仏弟子、修行者にして、その〔光景〕を知るそのような修行僧を襲うならは、そなたは苦しみに出遭うであろう、カンハ(思い魔)よ。
一二〇二 解脱によって、スメール大山の峰を見、プッバヴァデーハ(束の大陸)の林と地上に住む人々を見たところの、
一二〇三 仏弟子、修行者にして、その〔光景〕を知るそのような修行僧を襲うならは、そなたは苦しみに出遭うであろう、カンハ(思い魔)よ。
一二〇四 実に、火は「わたしは、愚行を焼こう」とは思わない。しかし心から、愚行は、その燃える火に近づいて、焼かれる。
一二〇五 悪魔よ。それと同様に、そなたは、かの完全な人格者を襲って、火に触れた愚者のように、みずから自己を焼くであろう。
一二〇六 悪魔は、かの完全な人格者を襲って、禍をかさねた。悪魔よ。そなたは「わたしの忠〔業の報い〕は熟さない」と思っているのであろうか?
一二〇七 破滅させる悪魔よ。そなたが悪をなすにつれて、長い年月にわたって、悪業が積みかさねられる。悪魔よ。ブッダのもとから遠ざかれ。修行者たちに思いを寄せるな。
一二〇八 このように、修行者は、ベーサカラー林において、悪魔を叱責した。そこで、かの消沈した夜叉(悪魔)は、その場で、隠れてしまった。
尊き人・大モッガラーナ長老は、このように詩句を唱えた。
詩句の要綱
六十の詩句の集成においては、大神通力のある大モッガラーナ長老ただ一人がおり、そ
の詩句は六十八ある。(実際は六十三ある。)
また詩人の修行僧ヴァンギーサは、モッガラーナを讃えた、「モッガラーナ」という一節には、次の詩が伝えられている。
一 あるとき尊師は、玉舎城の〈仙人の山〉の山腹で、黒曜岩のところで五百人もの大勢の修行僧の仲間とともに住んでおられた。かれらはすべて〈敬わるべき人たち〉であった。大モッガラーナ尊者は、かれらの心をしらべて、その心が解脱していて、こだわりのないものであることを知った。
二 ときにヴァンギーサさんは、次のように思った、いまここに尊師は、工舎城の〈仙人の山〉の山腹で、黒曜岩のところで、五百人もの大勢の、修行者の仲間とともに住しておられる、かれらはすべて〈敬わるべき人たち〉である。大モッガラーナ尊者は、かれらの心をしらべて、その心が解脱していて、こだわりのないものであることを知った。さあ、わたしは、ふさわしい詩句をもって、尊師の面前で、大モッガラーナをほめ讃えよう」と。
三 そこでヴァンギーサさんは、座席からたち上がって、上衣を一方の肩につけ、尊師に向かって合掌し、尊師に次のようにいった、―「尊師さま。わたくしは、ふと思い浮かぶことがあります。幸せなお方さま。わたくしは、ふと思い浮かぶことがあります。」
四 「ヴァンギーサよ。では思い出して説け」と、尊師はいわれた。
五 そこでヴァンギーサさんは、ふさわしい詩句をとなえて、尊師の而前で、大モッガラーナをほめ讃えた 。
「三種の明知あり、死を捨て去った仏弟子たちは山腹に坐り、苦しみの彼岸に達した聖者(ブッダ)に仕えている。
大神通力のあるモッガラーナは、〔みずからの〕心をもってかれらの心を精査し、かれらの心がすっかり解脱し、こだわりのなくなっているのをたずね求める。
こういうわけで、かれらは、〈あらゆる屈性を具え、苦しみの彼岸に達し、幾多の美徳を具えた聖者〉ゴーダマに仕える。」
マハーカッサパ尊者
(ウダーナ 1-6,3-7にも登場)
清らかな精神を追い求めた実質的なお釈迦様の後継者と目されている。尊者マハーカーシャパは、頭陀行第一といわれた。頭陀行というのは、衣食住に対する執着を払いのけるために実践しボロで作った衣を着なければならないという行で、町の人々からもらった糞掃衣をまとって生活をした。あるいは、常に托鉢して歩き、布施されたものを一日1食だけ摂って生活するという行も、その通りに実践した。出家してから生涯を終えるまで、このような頭陀行を実践し続けたと伝えられている。
マハーカーシャパは本名をピッパリといい、裕福なバラモンの子として生まれた。幼いころから求道心が強く、出家に対する激しい憧れを持っていた。父母は、子供のそうした望みを知っていたので、早くに嫁をとらせ、家を継がせようとした。
結婚すれば、落ち着くと思ったのである。ピッパリが年ごろになったとき、父母は言った。
「嫁を迎え、早く安心させておくれ」
だが、出家の望みを絶ちがたいピッパリは、黄金の娘の像を作らせて、父母に結婚を断るための条件を出した。
「もし、光り輝くこの像より美しい乙女がいるようなら、結婚いたしましよう」
父母は、人をやってそれより美しい娘を探し出したのである。バッター・カピラーニーというバラモンの娘であった。
嫁にふさわしい娘がいたと聞いたピッパリは、自分の眼で確かめるため托鉢する修行者に身をやつして、娘の家を訪ねた。そこで施しを乞うと、出てきたのは、バッターであった。これが話に聞いた娘に違いないと思ったピッパリは、正直に身分を明かし、生涯独身で清浄な生活を送りたいという自分の望みを素直に打ち明けたのである。
「ああ、その話を聞いて安心いたしました。実は、私も同じ思いだったのです」
なんとバッターも同じ希望を持っていたのであった。
二人は、それぞれの親を安心させるために結婚することにした。だが、決して床を共にすることはなかった。
時が過ぎて、すでに父母も亡くなっていたが。二人の清浄な関係は変わらない。ある日、油を搾り取ろうと胡麻を乾かしていたバッターは、そこにたくさんの小さな虫を見つけた。今まで油を作るために、知らずに虫を殺していたのかもしれない。その罪を思うと、殺生するわが身があさましく思われた。そのころ、畑で農作業をしていたピッパリもまた同じ思いにとらわれていた。
帰宅した二人は、互いの気持ちを語り合い、ついに家を捨てて出家することにした。
家財をことごとく使用人に分け与えると、自分たちは衣となる布を持って旅だったのであった。
「良い師に巡り会ったら、必ずお前に知らせる。それまでは、別の道を歩もう」
二人は再会を約束して、それぞれ別の道を歩いていった。
妻と別れ、各地を旅して回ったピッパリは、ニグローダの樹の下に坐っているひとりの聖者に出会った。その姿は、見るだけで心が清らかになるようである。その聖者こそお釈迦様であった。
「あなたこそ、私の師です。どうか私を弟子にしてください」
こうして、ピッパリはお釈迦様の弟子となり、カーシャパ(カッサパ)族の出身であるため、以来マハー(偉大なる)カーシャパと呼ばれるようになったのである。
教えを聴いて8日目、マハーカーシャパは悟りを開いた。尼僧教団ができると、マハーカーシャパは、神通力で妻のバッターを捜し出し弟子入りさせた。お釈迦様の入滅後は、その教えをまとめるなど、実質的な後継者として活躍したのは、よく知られる。
マハーカーシャパの生活や心境を『テーラガーター』は次のように伝えている。
一〇五一 群集に尊敬されて遍歴すべきではない。〔もしもそうするならば〕心が乱れ、心の安定は 得難いであろう。さまざまな人々から受け容れられるのは苦しみである、と見なして、群集〔と交わること〕を喜んではならない。
一〇五二 聖者は良い家庭に近づいてはならぬ。〔もしもそうするならば〕心が乱れ、心の安定は得難いであろう。がつがつして味に耽溺する者は、幸せをもたらす目的を見失う。
一〇五三 けだし、かれら(修行者)は、良家の人々からつねに受ける礼拝と供養とは、汚泥のようなものであると知っているからである。細かな(鋭い)矢は抜き難い。凡人は(他人から受ける)尊敬を捨てることは難しい。
一〇五四 わたしは坐臥所から下って、托鉢のために都市に入って行った。食事をしている一人の癩病人に近づいて、かれの側に恭しく立った。
一〇五五 かれは、腐った手で、一握りの飯を捧げてくれた。かれが一握りの飯を鉢に投げ入れてくれるときに、かれの指もまたち切れて、そこに落ちた。
一〇五六 壁の下の所で、わたしはその一握りの飯を食べた。それを食べているときにも、食べおわったときにも、わたしには嫌悪の念は存在しなかった。
一〇五七 〔戸口に〕立って托鉢によって得たものを食物とし、(牛などの)臭気ある尿からつくられたものを薬とし、樹の下を坐臥所とし、ボロ布をつづった衣を衣服として、これだけで満足している人、かれこそは、四方の人である。
一〇五八 屹え立つ岩山に登ろうとして、生命を失う人々がいるのに、かのブッダの相続者であるカッサパは、気をつけながら、心を落ち着け、神通力に援けられて、そこへ登って行く。
一〇五九 カッサパは、托鉢から戻ってから、岩山にいって、執著なく、おそれおののきを捨てて瞑想する。
一〇六〇 カッサパは、托鉢から戻ってから、岩山に登って、執著なく、焼かれ(悩んで)いる者どものなかにいながら安らかとなり、瞑想する。
一〇六一 カッサパは、托鉢から戻ってから、岩山に登って、執著なく、なすべきことをなし終えて、煩悩の汚れなく、瞑想する。
一〇六二 カレーリの花輪にひろく覆われた楽しい地域がある。象の鳴き声が聞えるこれらの玄妙な山岳は、わたしを楽しませてくれる。
一〇六三 碧き雲の色を帯び、麗しく、冷たい水あり、清き流れあり、インダゴーパカ虫に覆われたこれらの岩山は、わたしを楽しませてくれる。
一〇六四 碧き雲の峰にも似、優雅な高き殿堂のごとく、象の鳴き声が聞えるこれらの玄妙なる岩山は、わたしを楽しませてくれる。
一〇六五 愛しい台地には雨が降り注ぐ。山々には仙人がしばしば訪れる。岩山では、孔雀が甲高く嗚いている。それらの岩山は、わたしを楽しませてくれる。
一〇六六 しっかりと決意して瞑想に沈潜しようと欲しているわたしにとって、〔この場所で〕充分である。しっかりと決意して目的を違成しようと欲している修行者であるわたしにとって〔この場所で充分である。〕
一〇六七 しっかりと決意して快適な境地を得ようと欲している修行者であるわたしにとって、〔この場所で〕充分である。しっかりと決意してヨーガを修行しようと欲している(立派な人〉であるわたしにとって、〔この場所で〕充分である。
一〇六八 雲に覆われた空のように、ウンマー花の衣をまとい、さまざまの鳥が群がるそれらの岩山は、わたしを楽しませてくれる。
一〇六九 世俗の(在家の人)たちがざわめかず、鹿の群れが往来し、さまざまの鳥の群がるそれらの岩山は、わたしを楽しませてくれる。
一〇七〇 清く澄んだ水あり、ひろびろとした岩盤あり、黒面の猿と鹿がいて、水と苔で覆われている岩山は、わたしを楽しませてくれる。
一〇七一 心を集中し、道理を正しく観ずる人に起るような楽しみは、五種の楽器によっては起らない。
一〇七二 多くの〔世俗の〕仕事をしてはならない。人々を避けよ。〔雑な縁をつくり出すために〕努め励んではならない。がつがつして味に耽溺する行は、幸せをもたらす目的を見失う。
一〇七三 多くの〔世俗の〕仕事をしてはならない。この、目的にみちびかぬことがらを遠ざけるがよい。〔もしも、そうしなければ〕、身体は悩み、疲労する。かれは、苦しんで心の平静を得ることはできない。
一〇七四 人は唇を動かして〔教えを学ぶ〕だけでは、自己〔のなんであるか〕をさとらない。〔ところが〕かれは、首を硬直させて歩き廻り、「自分は他の者よりもすぐれている」と思っている。
一〇七五 愚者は、他人よりもすぐれてはいないのに、白分をすぐれた者だと考える。しかしながら、識見ある人々は、心の硬直したこの者を称讃しない。
一〇七六 「わたしはすぐれている」とか、また「わたしはすぐれていない」とか、「わたしは劣っている。あるいは同等である」とか、いろいろに言って動揺することがなくて、
一〇七七 智慧あり、立派な人で、もろもろの戒行のうちによく心が安定し、心の平静を具現している一人 - かれを、実に、識見ある人々はほめたたえる。
一〇七八 ともに清らかな行ないを修行している人々に対して尊敬していることが認められない人は、真実の教えから遠く離れている。- 虚空が大地から遠く離れているように。
一〇七九 また、つねに正しく慚愧の念を確立している人々には、清らかな行ないが増大している。かれらが、迷いの生存を再び繰り返すことは、滅ぼし尽されている。
一〇八〇 浮ついていて、ふらふらしている修行者が、たとい、ボロ布でつづった衣をまとっていても、そうだからとて、かれは。立派には見えない。― 猿が獅子の毛皮をまとっているようなものである。
一〇八一 浮つくことなく、ふらふらせず、賢明で、もろもろの感官をよくととのえた者は、ボロ布でつづった衣をまとっていても、立派に見える。――山窟に住む獅子のように。
一〇八二 これら多くの神々、- 神通力を具え、名声ある数万の神々、- これらは、すべて、梵天の眷族である。
一〇八三 賢明にして偉人な瞑想者であり心の安定している〈真理の将軍〉サーリプッタにたいして、かれらは、礼拝・合掌して、立っていた。〔- つぎのように、たたえながらー 。〕
一〇八四 「生まれ良き人よ。あなたに敬礼します。最上の人よ。あなたに敬礼します。あなたがなにに基づいて瞑想しておられるのか、-わたくしたちは、それを知りません。
一〇八五 ああ、すばらしいことです。深遠なことです。- 真理をさとった人々(プッダ、複数)の自身の境地は! わたくしたちの思い知るところではありません。たとい、わたくしたちが、毛髪の先を射る者のように極めて微細なことを突きとめ得る人々の集まりであったとしても。」
一〇八六 尊敬を受けるにふさわしいそのサーリブッタが、そのとき、そのように神々の群れから 尊敬されているのを見て、カッピナはほほえんだ。
一〇八七 〔福徳を生ずる〕ブッダの田に関する限り、偉人な聖者(ブッダ)を除いて、わたしは(悪を払いのける〉という徳において傑出している。わたしに等しい者は存在しない。
一〇八八 わたしは師(ブッダ)に仕え、ブッダの教え(の実行)をなしとげた。重い荷をおろし、迷いの生存にみちびくものを、根こそぎにした。
一〇八九 測り知れないゴータマ〔ブッダ〕は、衣服にも、臥床にも、食物にも執著していない。 - 蓮華の花が水に汚されないように。かれは、出離に心を傾注し、三界から離れている。
一〇九〇 かの偉大な聖者・偉大な智者は、〔四種の〕心の専注を頸とし、信仰を手とし、智慧を頭とし、つねに安らぎを得て生活している。
大力ッサパ長老
カッチャーナ尊者
(ウダーナ7-8、5-6にも登場)
仏弟子のうちでも、「論議第一」といわれているが、経典のうちでも主として哲学的議論を述べている部分に登場する。仏教教理の深遠難解な事項を理解し、また論議して、人々に説いて聞かせた。仏教教団では、年日の経過とともに、次第に伝道活勁が重視されるようになったが、初期仏教の伝道に特に功績の大きかった。そして、教えをわかりやすく説くことに長けていたカッチャーナは、辺境で布教をしていたため、さまざまな障害を乗り越えなければならなかった。なかでも授戒の問題は深刻だった。これから紹介する話は、カーティヤーヤナの辺境での苦労を伝えるとともに、戒律に対するお釈迦様の柔軟な姿勢を物語っている。カッチャーナは、コーサラ国のはるか西、アバンティ国で、布教をしていた。
あるとき、彼の侍者であるソーナ・コーティカンナという青年が、自分も出家して修行の生活を送りたいと言いだした。だが、仏教教団に入り出家者としての生活をするためには、具足戒という僧の守るべき戒を受けねばならない。その儀式には、3人の師と7人の比丘(出家者)の証人がなければならない。つまり10人の出家者が必要だった。ところが、アバンティ国には、憎がほとんどいない。だが、カッチャーナは苦労の未、なんとか10人の僧を集め、ソーナに戒を授けて出家させてやったのであった。出家したソーナは、お釈迦様に会いたいという望みを叶えるべく、許されて旅立つことになった。そのとき、カーティヤーヤナは、ソーナにこう言った。
「ソーナよ、世尊に会ったらこのように伝えてほしい。遠い異境の地では、僧の数がきわめて少ない。どうかこれからは、具足戒を授ける僧の数を減らすことをお許しください、と」長い旅をつづけ、祇園精舎に着いたソーナは、お釈迦様に会ってカーティヤーヤナ
の伝言を告げた。ソーナの言葉に耳を傾けていたお釈迦様は、静かに言った。
「アバンティ国においては、5人の僧によって具足戒を授けることを許そう」そのほか、文化や自然環境の違いで、守ることの難しい2、3の戒を、その風土に合わせて改めることを許したのである
テーラガーターにこのようなことばが伝わっています。
四九四 多くの〔世俗の〕仕事をしてはならない。人々を避けよ。〔雑な縁をつくり出すために〕努め励んではならない。がつがつして味に耽溺する者は、幸せをもたらす目的を失う。
四九五 実に、かれら(修行者)は、良家の人々から、つねに受ける礼拝と供養とは、汚泥のようなものであると知っている。細かな(鋭い)矢は抜きがたい。凡人は〔他人から受ける〕尊敬を捨てることは難しい。
四九六 他人の行ないに依存して人の業(行ない)が悪業であるのではない。〔それだから〕みずからその悪い行ないを行なってはならない。なんとなれば、人々は〔自分自身の〕業の親族なので あるからである。
四九七 人は、他人のことばによって(他人が「お前は盗んだ!」といったからとて)盗人であるのではない。人は、他人のことばによって聖人であるのではない。自分がその人のことを知っているように、神々もまたかれのことを知っている。
四九八「われらは、この世において死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。このことわりを他の人々は知っていない。しかし人々がこのことわりを知れば、争いはしずまる。
四九九 智慧のある人は、たとい財産を失っても、生きてゆける。しかし智慧をもっていなければ、たとい財産のある人でも、〔実は〕生きてはいないのである。
五〇〇 耳であらゆることを聞き、眼であらゆることを見る。思慮ある人は、見たこと、聞いたことをすべて斥けてはならない。
五〇一 眼ある人は、盲人のごとくであれ。耳ある人は、聾者のごとくであれ。智慧ある人は、愚鈍なる者のごとくであれ。強い者は弱い者のごとくであれ。もしも目的が達成されたならば、死者の臥床によこたわれ。
大カッチャーナ長老
マハーコッティカ尊者
田舎衛城の金持のバラモンの家に生まれ、三ヴェーダに通暁する教養あるバラモンであったが、ブッダの出世を聞いて帰仏し、さとりを得る。
サーリブックやマハーモッガラーナなどの大弟子とともに、祇園の講堂にブッダに侍して夜を明かす。またサーリプッタとの種々の問答が、多くの初期仏教経典に登場する。多くの仏弟子のなかで、かれは得解第一と称される。
「テーラガーター」
二 かれは、心が静まり、(欲望が)止み、思慮して語り、ざわざわすることなく、悪いことがらを吹き払う。- 風が木の葉を吹き払うように。
尊き人・マハーコッティカ長老は、このように詩句を唱えた。
下記の「テーラガーター」はサーリプック尊者がマハーコッティタ尊者を賞賛した詩といわれる
一〇〇六 かれは、こころ静かに、やすまり、思慮して語り、心が浮つくことなく、もろもろの悪しき性質を吹き払う。― 風が樹の葉を吹き払うように。
一〇〇七 こころ静かに、やすまり、思慮して語り、心が浮つくことなく、もろもろの悪しき性質を吹き捨てよ。 ― 風が樹の葉を吹き捨てるように。
一〇〇七 こころ静かに、煩労なく、心が清く澄んで、けがれなく、性行が良く、聡明であり、苦しみを滅ぼす者であれ。
マハーカッピナ尊者
クックタという辺国の町の王族に生まれ、父についで即位した。師を求めて四方に人を派遣したところ、商人からブッダ(目覚めた人)が祇園精舎にいるのを聞いて大いに喜び、ブッダを求めて東方に行く。その途中お釈迦様に出あい、仏教に帰依して、さとりを得る。
「テーラガーター」五四七~五五六を説く。
五四七 未来の、ためになることでも、ためにならないことでも、両者をあらかじめ見ている人について、その欠点を探し求めていながら、敵も味方も〔実は〕見ていないのである。
五四八 ブッダの説かれたとおりに、呼吸を整える思念をよく修行して、完成し、順次に実践して来た人は、雲を脱れた月のように、この世を照らす。
五四九 実にわたしの心は浄らかで、限り無く、よく修養され、真理に通達し、抑制されていて、あらゆる方角を照らす。
五五〇 知慧のある人は、たとい財産を失っても、生きて行ける。しかし知慧をもっていなければ、たとい財産のある人でも、〔実は〕生きてはいないのである。
五五一 智慧は、聞いたことを考えて見分ける。知慧は、名誉と名声とを増大する。知慧のある人は、この世でもろもろの苦しみのなかにいても、楽しみを見出す。
五五二 これは今日だけの定めではない。奇妙でもないし、不思議でもない。- 生まれたならば死ぬのである。そこに何の不思議があろうか。
五五三 生まれたものには、生の次に必ず死がある。生まれ、生まれて、ここに死す。実にいのちあるものどもは、このような定めがある。
五五四 けだし、他の人々が生きるために役立つことは、死者のためにはならない。死者を嘆き悲しんで泣くが、それは名誉でもないし、世のほまれとなることでもないし、修行者やバラモンたちの称讃することでもない。
五五五 泣き悲しむならば、眼と身体を害ない、容色と力と知能は衰える。その人の敵どもは喜び、かれの味方は楽しくない。
五五六 それ故に、家に住んでいる聡明な学識ある人々を望むべきである。そのわけは、かれらの知慧の威力によって、なすべきことをなし終えるからである。- 水の満ちた河を船で渡るように。
大カッピナ長老
マハーチュンダ尊者
山マガダ国のナーフカ村のバラモン出身。サーリブックの弟に当たる・出家して熱心に努め、さとりを得た。
「テーラガーター」一四一、一四二を説く。
一四一 聞こうと欲するならば、聞いたこと(学識)を増大する。聞いたこと(学識)は、知慧を増大する。知慧によって道理を知る。道理を知ったならば、楽しみをもたらす。
一四二(修行者は、人々から離れて)孤独で坐臥することを習え。煩悩の束縛からの離脱を行なえ。もしもそこに楽しみを見出し得ないならば、己れを護り、よく気をつけながら、サンガ(教団)の中に住め。
マハーチュンダ長老
アヌルッダ尊者
お釈迦様は、いつものように弟子や多くの信行たちに教えを説いていた。人々は、熱心にその声に耳を傾けている。すると、そのなかに。一人うとうとと居眠りをする者がいるではないか。アヌルッダであった。
お釈迦様は、説法が終わると、アヌルッダを近くに呼び寄せて言った。「お前は、法を求めて出家したはずではないか。にもかかわらず、説法の最中に居眠りをしてしまう。どうしたのかね」「申しわけございません。気が緩んでおりました。今から、たとえこの身が溶けてただれようとも、決して釈尊の前で眠るようなことはいたしません」 アヌルッダは、お釈迦様のまえにひざまずき合掌して誓ったのであった。
以米、アヌルッダはお釈迦様のそばにいる間、夜更けでも夜明けでも決して眠らなかった。極端な修行を否定して中道を唱え、悟りへの道を歩んだお釈迦様は、さすがに心配して声をかけた。
「アヌルッダよ、怠けることはもちろんよくないが、極端な修行もいけません。さあ、お眠りなさい」
だが、お釈迦様の前で立てた誓いを、アヌルッダはどうしても破る気にはなれなかった。そのために眼が悪くなった。お釈迦様は、医師のジーヴァカにアヌルッダの眼の治療を頼んだ。だが、はじめから眠ろうとしない者には、いかに名医といえども手の打ちようがなかった。
「すべてのものが食事を摂ることによって存在している。耳には声が食事であり、鼻には香りが食事である。そして、眼には眠りが食事なのです。アヌルッダよ、もうお眠りなさい」アヌルッダの決意は固く、決して眠ろうとしなかった。そのため、とうとう失明してしまったのである。
視力を失って、何も見えなくなってしまったとき、アヌルッダの永遠の真理を見る智慧の眼は明るく開かれたのであった。これがアヌルッダの求めていたものだったのかもしれない。
お釈迦様の臨終にどれだけの人が立ち会ったか詳細不明であるが、アーナンダとともにアヌルッダのいあわせたことは確かです。
アヌルッダは、仏弟子のうちでは「天眼第一」といわれ、障擬を超えて見通す不思議な神通力をもっていたという。
アヌルッダに関する伝説は、種々さまざまで、かならずしも一致しない。古い伝えによると、アヌルッダはシャカ族に生まれたが、かつては〔前世には〕貧しい食物運搬人であった。しかしかれは出家して、五十五年間常坐不臥の行を修して、ものうさを滅ぼし、ヴァッジ族のヴェールヴァ村の竹林でなくなった。
他の所伝によると、仏教信者マハーヤーナの弟で、お釈迦様の従弟にあたる。お釈迦様の教えを聞いている最中に居眠りをして、叱責を受け、それ以後、不眠の誓を立てて、精進したから、ついに失明した。だが、天眼(=智慧の眼)を得たという。
かれは、クシナーガルでお釈迦様が入滅したときに、その場にいあわせて、お釈迦様の入滅を嘆いた。しかしお釈迦様の死の直後に、慟哭し悲嘆する弟子たちに慰められて激励したという。
アヌルッタはアーナンダよりも明らかに先輩であった。お釈迦様の入滅のときに、「クシナガリーに住むマッラ族の人々に告げよ」とアーナンダに命令している。
アヌルッダ尊者に関しては、ある女神との次の対話が伝えられている。
一 あるときアヌルッダ尊者は、コーサラ国のうちのある林の荒地にとどまっていた。
二 ときに、昔はアヌルッダ尊者の妻であって今は三十三天の神々のうちの一人となって
いるジャーリニーという女神が、アヌルッダ尊者に近づいた。
三 近づいてから、アヌルッダ尊者に詩をもって語りかけた。-「むかしあなたが住んで
おられましたところ、― 一切の欲楽をかなえた三十三天に生まれようとの願い起こしな
さいませ。
そこであなたは天女たちに恭しく敬われとりまかれて輝いておられました。」
四〔アヌルッダいわく〕
「わが身の思いにとらわれている天女たちは、禍いである。
天女たちを求める人々も、禍いである。」
五〔ジャーリニーいわく、-〕
世にほまれある三十三天の人々および神々の住居であるナンダナ園を見ない人々は、楽
しみなるものを知っていない。」
〔アヌルッダいわく-〕
「愚かな女よ。そなたは敬わるべき人々(=ブッダたち)のことばがどんなものであるかを理解していない。―
『つくられたものはすべて無常である。生じてはまた滅びる性質のものである。それらは生起しては滅びる。それらの静まった安らぎこそ安楽である』と。
ジャーリニー(罠にかける女)は、もはや神々の群れのうちに再び住むということはない。生まれを繰り返す迷いの生存はもはや滅ぼし尽くされた。いまや再び迷いの生存は存在しない。」 (サンユッタニカーヤ 1,9、6.)
またアヌルッダの生活および思想が『テーラガーター』第八九二詩以下に述べられている。
八九二 母と父、姉妹・親族・兄弟を捨て、五つの欲望の対象を捨て去って、アヌルッダは瞑想にふける。
八九三 舞踏や歌謡になじみ、お金の音に目をさまし、悪魔の境界を楽しんでいたので、わたしはそれによって清浄に達することはできなかった。
八九四 (しかるに今では)これをのり超えて、ブッダの教えを楽しみ、あらゆる激流をのり超えて、アヌルッダは実に瞑想にふける。
八九五 快美なるいろかたち・音声・味・香り・触れられるもの、- これらをのり超えて、アヌルッダは実に瞑想に耽る。
八九六 聖者は托鉢から帰って来て、伴もなく、独りでいる。汚れなきアヌルッダはボロの布切れを探し求める。
八九七 思慮あり汚れなき聖者アヌルッダは、ボロの布切れを選び、取り、洗い、染めて、〔綴じて〕着た。
八九八 欲が深くて、満足することなく、人々と交際し、浮ついている人がいる。その人には、これらの汚れた悪い性質が存する。
八九九 しかるに、心を落ちつけていて、欲が少なく、満足していて、心が散乱することなく、人々から述ざかり離れることを楽しみ、心に喜び、つねに精励努力している人がいる。
九〇〇 その人には、さとりにみちびく助けとなるこれらの善い性質が存する。かれは汚れのない者である、と大仙人(ブッダ)は説かれた。
九〇一 世問における無上の師は、わたしの意向を知って、神通力によって、心のはたらきだけで、現わし出した身体をもって、近づいてこられた。
九〇二 わたしが〔あれこれと〕思慮をめぐらしていたときに、それよりも以上のことを〔師は〕説かれた。妄想しないことを楽しむブッダは、〈妄想することのない境地〉を説かれた。
九〇三 わたしはブッダの説かれる真理を知って、教えを楽しんで生活していた。三つの明知が体得された。ブッダの教え〔の実行〕がなしとげられた。
九〇四 わたしが、横臥しないですわっている行(常坐不臥)を始めてから五十五年が経過した。無気力なものうさを根だやしにしてから二十五年が経過した。
九〇五 心の安住せるかくのごとき人には、すでに呼吸がなかった。欲を離れた聖者はやすらいに達して亡くなられたのである。
九〇六 ひるまぬ心をもって苦しみを耐え忍ばれた。あたかも燈火の消え失せるように、心が解脱したのである。
九〇七 いまや、接触を第五のものとするこれらの〔認識の対象〕は、聖者にとって址後のものである。プッダは、まどかな安らぎに入られたのであるから、その他の思考の対象は存在しない。
九〇八〔天女に答えていった、〕「ジャーリニー(罠にかける女)よ。もはや神々の群れのうちに再び住むということはない。生まれるのをくり返す迷いの生存はもはや滅ぼしつくされた。いまや再び迷いの生存は存在しない。」
九〇九 かれは一瞬のうちに千回も世界を見通した。かの修行者は、大梵天のごとくであり、神通力という徳に関しても、生死を知ることに関しても自在であり、適当な時に神々を見る。
九一〇「わたくしは以前には「アンナバーラ」(「食物連搬人」の意)という名の者で、貧しく、糧を運ぶ者でした。かつて有名なウパリッタという修行者を供養したことがあります。
九一一 そのゆえに、わたくしはサーキヤ(釈迦)族の家に生まれ、アヌルッダという名で人々に知られていました。舞踏や歌謡に明け暮れし、シンバルの音に目をさましました。
九一二 ところがわたくしは、何ものをも恐れぬ師、完きさとりを開いた人に見えて、かれを信ずる浄らかな心を起して、出家して、家無き状態におもむきました。
九一三 わたくしが以前に暮らしていた前世のありさまを、わたくしは知りました。わたくしはサッカ(帝釈天)として生まれて、三十三天のうちにいたのです。
九一四 わたくしは人間の王として七たび国を統治しました。四辺にいたる全世界を征服し、ジヤンブ洲(全インド)の主として、刑罰によることなく武器を用いずに、理法によって人々を統治しました。
九一五 ここから七たび、またそこから七たびと、十四回の輪廻にわたる生存を、わたくしは知りました。そのときに、わたくしは神々の天界にいました。
九一六 五つの支分をそなえた瞑想において心が静まり精神統一がなされたときに、わたくしは心の落ちつきを得ました。わたくしの天眼(透視力)は浄められました。
九一七 五つの支分をそなえた瞑想に住して、生きとし生ける者どもの生と死、往き来たること、このような状態、あのような状態で生存していることを、わたくしは知りました。
九一八 わたくしは、師(ブッダ)に仕え、ブッダの教え〔の実行〕をなしとげました。重い荷をおろし、迷いの生存にみちびくものを、根こそぎにしました。
九一九 ヴァッジ族のヴェールヴァ村において、竹の叢林のうちで〔一つの竹の〕下で、生命が尽きたならば、汚れなく、安らぎに入るでしょう。」
レーヴァタ尊者
父ヴァンガンタ、母サーリー、長男ウパティッサ、二男ウパセナ・ヴァンガンタ・プッタ、三男マハーチュンダ、四男レーヴァタ・キャディラ・ヴァニヤで、カーラ、ウパカーラ、シスパカーラという3人の甥がいた。彼は母親に結婚を勧められたが、兄のウパティッサが既に出家していたので、我も出家し3人の甥を伴って家出した。
みずから「万人の友である」として人々に対する親和感を特に顕著に表明したのは、修行者レーヅァタであった。かれはいう。「テーラガーダー」
六四五 わたしが出家して、家に住む状態から家のない状態に入ったときに、わたしは、憎悪ともなった卑しい意向をもつことはなかった。
六四六 わたしはこの長い時期のあいだ、「これらの生きものは殺されよ。殺戮されよ。苦しみに遭うように」という意向をもつことはなかった。
六四七 しかしわたしは、ブッダのとかれたように、無量の慈しみをよく修め、順次に実践して積み重ねたのを知っている。
六四八 われは万人の友である。万人のなかまである。一切の生きとし生けるものの同情者である。慈しみの心を修めて、つねに無傷害を楽しむ。
六四九 わたしは、心が動揺せず、不動であるのを喜ぶ。わたしは、悪人が実践することのない〈清らかな安住の境地〉を修める。
六五〇 まったき、さとりをひらいた人(ブッダ)の弟子は、思慮のない境地に到達した。か、尊い沈黙をつねに身に具現している。
六五一 岩山がよく安定していて不動であるように、修行僧は、迷妄を滅ぼしつくしているから、おののかない。― 山岳のように。
六五二 汚点がなく、つねに清きをもとめている人には、毛の尖ほどの悪でも、まるで雲のように見える。
六五三 辺境にある、城壁に囲まれた都市が内も外も守られているように、そのように自己を守れ。瞬時も空しく過ごすな。
六五四 われは死を喜ばず。われは生を喜ばず。雇われた人が賃金をもらうのを待つように、わたしは死の時が来るのを待つ。
六五五 われは死を喜ばず。われは生を喜ばず。よく気をつけて、心がけながら、死の時が来るのを待つ。
六五六 わたしは師(ブッダ)に仕えて。ブッダの教えをなしとげた。重い荷はおろされた。迷いの生存にみちびくものは、根こそぎにされた。
六五七 わたしが出家して家なき状態に入ったその目的を、わたしは達成した。それは、すべての束縛を滅ぼしつくすことであった。
六五八 怠ることなく、つとめ励めよ。これがわたしの教えいましめである。さあ、わたしはまどかな安らぎに入るであろう。わたしはあらゆることがらにいて解脱している。
ナンダ尊者
(ウダーナ3-1にも登場)
スッドーダナ(浄飯)王とマハーパジャーパティー妃との間の子。お釈迦様の異母弟に当たる。お釈迦様が故郷のカピラヴァツトウに帰国した際、その第三日目のナンダの結婚式の直前に、お釈迦様は強いて出家させた。のちナンダがしばしば追憶して愛欲に苦しむのを見て、お釈迦様は種々の方便でナンダを教化する。またナンダは容姿が美しく、お釈迦様と見まちがえられた。よく諸欲を自制し、さとりを得る。諸欲をよく押えて調伏諸根最第一とされる。
「テーラガーター」一五七・一五八を説く。なお別説では、かれはすでにスンダリー
と結婚してスマンダラナンダと呼ばれており、ブッダによって出家させられたのは立太子式の日ともいう。
「スッタニパータ」の第五章のうち、その一〇七七~一〇八三偏はかれの問いとお釈迦様の答え。
一五七 わたしは、正しく思惟しなかったので、装飾にふけり、うわついていて、ふらふらして、愛欲に悩まされていた。
一五八 〈太陽の裔であり、みちびく手だてに巧みなブッダ(の助け)によって、わたしは正しく実践して、迷いの生存に向う(わが)心を引き抜いた。
ナンダ長老
カ-リコーダー女の子・バッディヤ
詩句が次のように伝えられている。この人が、ヴァナーラシイ郊外の〈鹿の閥〉カーリゴーダー女の子・バッディヤはサーキャ族の王族の子であったと伝えられている。
テーラガーターに伝えられているカ-リコーダー女の子・バッディヤのエピソードは、初期の仏弟子の思想を伝えていると考えられています。
八四二 わたしが乗るためには、柔らかい布が象の頂に敷かれていたし、またわたしは、サーリ米のご飯に浄肉のスープをふりかけて食べてきたが、〔幸福ではなかった。〕
八四三 しかるに、今日、幸運にも、忍耐強い者となり、残飯が鉢に盛られたのを楽しみなから、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。
次に頭陀行に言及している。
八四四 ボロ布でつづった衣を着て、忍耐強い者となり、残飯が鉢に盛られたのを楽しみなから、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。
八四五 托鉢によって得た食物だけを食べて、忍耐強い者となり、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。
八四六 三種の衣だけを着て、忍耐強い者となり、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、コーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑恕にふける。
八四七 家の貧富をえらばずに托鉢して、忍耐強い者となり、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執着することなく、瞑想にふける。
八四八 一人で坐して、忍耐強い者となり、残飯が鉢に盛られたのを楽しみだから、ゴー
ダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。
八四九 一つの鉢に盛られる食物だけを食べて、忍耐強い者となり、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、取着することなく、瞑想にふける。
八五○ 食事の時を過ぎては食事しないで、忍耐強く、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑恕にふける。
八五一 森に住んで、忍耐強く、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・ハッティヤは、執著することなく、瞑想にふける。
八五二 樹の下に住んで、忍耐強く、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。
八五三 屋外に住んで、忍耐強く、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッデは、執著することなく、瞑想にふける。
八五四 死骸の捨て場に住んで、忍耐強く、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。
八五五 指定された場所に住んで、忍耐強く、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーグーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。
八五六 すわったままで横臥しないで、忍耐強く、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、コーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。
八五七 望むことが少なく、忍耐強く、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑恕にふける。
八五八 満足して、忍耐強く、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。
八五九 人々から遠ざかり離れて、忍耐強く、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。
八六〇 人々と交際しないで、忍耐強く、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。
八六一 精励努力して、忍耐強く、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。
八六二 高価な真鈴製の鉢と百両もする黄全製の鉢とを捨てて、わたしは土製の鉢を執った。これは[わたしの]第二の濯頂である。
八六三 かつて、わたしは、高く円い城壁をめぐらされ、堅護な見張り塔や門のある城のなかで、剣を手にした人々に護られながら、しかもおののいて住んでいた。
八六四 今日、幸運にも、恐れおののくことなく、恐怖・戦慄を断ちきって、ゴーダーの子・バッディヤは、森に潜んで、瞑想にふける。
八六五 幾多の戒めに安住して、心の落ちつきと智慧とを修めて、わたしは、順次に、あらゆる束縛の消滅を体得した。
上記の第八四四詩から、この第八五六詩が、いわゆる十三頭陀行です。
〔第八五七詩以下はむしろ修行者の精神的態度と思われる。〕しかし十三頭陀行としては言及してはいないから、十三頭陀行という項目は、「テーラガーター」が作られたころにはま
だ成立していなかったのであろう。〔しかしまた成立してはいたが、詩句のうちには明示しなかったのであるとも考えられる。〕
1.6 マハーカッサパの経(6)
このように、わたしは聞きました。
あるとき、お釈迦様はラージャガハ(王舎城)に住んでおられた。
ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパ(竹林精舎)にあるピッパリ窟に尊者マハーカッサパは住んでおられた。
激しい病に苦しんでいる尊者マハーカッサパは、やがて病から回復し、その苦しみから回復し思い立った。
「ラージャガハで托鉢しよう」
その時、五百の天の神々に、余計な考えが浮かんだ。尊者マハーカッサパに托鉢のお布施をしたいと。尊者マハーカッサパは、それらの五百の天の神々の施しを断り朝早くに衣を着て鉢と衣料をもって、ラージャガハに托鉢のために入ったのです。
貧しい民のいる路地や困った人のいる路地や機織職人のいる路地を歩んでいるときに、お釈迦様は、尊者マハーカッサパが貧しい民のいる路地や困った人のいる路地や機織職人のいる路地をとおって、托鉢のためにラージャガハを歩んでいるのを見ました。
お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました
他の扶養を受けず正しく悟り
こころが制御され真実をよりどころとして立ち
煩悩が尽き憎しみを棄てたその人こそ
私はバラモンと呼ぶ
以上が第六の経となる。
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聖者にお食事をお布施するのは、おおきな幸徳となり、この幸徳を得るのを神々も望みます、マハーカッサバ尊者は貧しい人々に、より幸徳を積む機会をという配慮で困窮者のいる路地などを托鉢して回ります、豊かな人々や神々から頂いたほうが豊かな品物を得られるにも関わらず貧しい人々の住む場所を托鉢して回る姿をお釈迦様がご覧になったお話
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
なにが書いてあるか
(直訳詩)
Anaññaposimaññātaṃ,
他を養わず、他から養われない
dantaṃ sāre patiṭṭhitaṃ;
よく訓練され、真実を確立し
Khīṇāsavaṃ vantadosaṃ,
煩悩をなくし、悪意を吐き捨てた
tamahaṃ brūmi brāhmaṇa”ti.
この方を、真のバラモンと説く
解 説
Anaññaposimaññātaṃ,
他の扶養を受けず正しく悟り
*Anaññaposi
*扶養するべき他がいない。
*単独・孤独・自立。(偉大なる孤独という意味、偉大なる自立と言う意
味です。)
*aññātaṃ
*「知られている」と注釈書も困って注をします。
*Ñāta 智慧の過去分詞でもあるので、智慧に達した人と言う意味で理解
するべき
dantaṃ sāre patiṭṭhitaṃ;
こころが制御され真実をよりどころとして立ち
*dantaṃ
*こころの制御が終わっている。
*sāre patiṭṭhitaṃ
*sāre は essence・有意義・真髄・芯
*sāre patiṭṭhitaṃとは、唯一有意義なことは解脱です。解脱に達している
*現象の世界を超えて、真理に達していることです。
Khīṇāsavaṃ vantadosaṃ,
煩悩が尽き憎しみを棄てたその人こそ
*Khīṇāsavaṃ
*煩悩を滅尽している。
*vantadosaṃ
*怒り(全ての間違い)を棄てている。(真理から見た間違いをすべて棄
てた人は、)
tamahaṃ brūmi brāhmaṇa”ti.
私はバラモンと呼ぶ
1.7 アジャカラーパカの経(7)
このように、わたしは聞きました。
あるとき、お釈迦様はパーヴァーに住んでおられた。
アジャカラーパカ塔廟にあるアジャカラーパカ・ヤッカの居所で、お釈迦様は真っ黒な闇夜のなか野外に坐っておられたのです。天は、ぽつぽつと雨を降らせるなか、アジャカラーパカ・ヤッカはお釈迦様に、身の毛のよだつ恐怖と驚きを起こさせようとし、お釈迦様のすぐ近くで
「アックロー、パックロー(騒がしい悪鬼がいる)。」
「修行者よ、俺様が、おまえをとって食うぞ」と三回騒がしく雄叫びをあげた。
お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました
バラモン(聖者)が自分という
法を乗り越えているならば、
その人はピシャーチャや
パックラなどを乗り越えている。(7)
以上が第七の経となる。
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ストーリーの説明
お釈迦様が Pāvā と言う町にあった ajakalāpake cetiya と言う処に滞在していました。 cetiya とは、聖地、祈りをする、敬意を抱く場所です。
ajakalāpakassa yakkhassa bhavane. とは、アジャカラーパは夜叉・鬼が宿っているところです。
暗闇の中、お釈迦様が外(そこ)に座っていて、 雨もパラパラと降ってきました。
お釈迦様を脅して恐怖感を感じさせようと鬼が企む。
突然、ものすごい大きな音が聞こえる。 ‘‘akkulo pakkulo’’
‘‘eso te, samaṇa, pisāco’’(餓鬼・幽霊がいるよ)と叫ぶ。
その時、お釈迦様が歓喜の偈を詠う, 恐怖を感じるどころか、釈尊が喜びを感じる。
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なにが書いてあるか
(直訳詩)
Yadā sakesu dhammesu
その時、自分という法を乗り越え
pāragū hoti brāhmaṇo;
バラモンが彼岸にいるなら
Atha etaṃ pisācañca,
その時に、魔物やら
pakkulañcātivattatī ”ti.
悪鬼やらを、乗り越える
解 説
Yadā sakesu dhammesu
バラモン(聖者)が自分という
pāragū hoti brāhmaṇo;
*pāragū hoti 法を知り尽くしていること
Atha etaṃ pisācañca,
その人はピシャーチャや
pakkulañcātivattatī ”ti.
パックラなどを乗り越えている。
*pisāca は迷信によると、ゴミ・汚物を棄てるところに現れる怖い霊で
す。
*pakkula は不潔、不浄、醜いという意味なので、ここで、その感情を支
配する霊です。
この二つの言葉で人間が妄想する全ての恐怖の対象を示しているので
す。怖いと感じられる概念はありませんという意味になります。
恐怖について
何が恐怖なのでしょうか?
死が第一です。それに関連して恐怖の対象は無数に現れます。自然災害、病気、仕事・家庭の不安など以外に、先祖、怨霊、死者、餓鬼、鬼門、呪いなどの迷信的なものもあります。
何でも人に恐怖を与えますが、その理由とは?
自分が可愛いのです。自分を守りたいのです。死にたくはないのです。その気持ちに逆らうものは全て怖いのです。
sakesu dhammesu pāragū
恐怖感を乗り越えるためにとは、自分という現象を知り尽くす。という意味です
「自分」とは
「自分」とは、色・受・想・行・識という五取蘊のことです。五蘊は常に変化して流れる。人はその事実を知らないのです。 五つの全てを一束に纏めて「変わらない自分がいる」という錯覚、幻覚を作ります。それから、その(変わらない自分という)幻覚を守ろうと苦労します。
自分を守るならば
五蘊を区別して、それぞれ(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)の流れを管理することです。 色蘊は物理法則で動くのです。受・想・行・識はこころの流れです。
悪感情、悪思考、悪衝動が現れないように気をつけるべきですが、人間にその気持ちはありません。自我の錯覚があるから自分を守ることができないのです。自分を管理できないのです。
五蘊を知り尽くす
無常である五蘊を知り尽くすと、「自我」という錯覚が消えます。
守るべき自分がいないので「自我」が成り立たなくなり、その人を脅すことはできません。 恐怖感が起こりませんから、恐怖感を感じるためには「自分」という幻覚が必要です。
現代日本では、自然のわずかな物音の恐怖を感じる機会は、少なくなっていますが、お釈迦様の時代では、街灯もなく夜は暗闇に閉ざされ、見えない小さな石につまずく怪我も、戸のガタガタという、わずかな物音も、大きな自然災害も、はやり病も、同じ恐怖でした、その恐怖を夜叉・鬼ピシャーチャ・パックラなどと、表現し、昔の日本では妖怪として表現していました。
現代では迷信に感じますが、身近な恐怖であり、得体のしれない大きな不安・恐怖として、日々の暮らしのなかで感じていたことを想像して、経典を味わってください。
1.8 サンガーマジの経(8)
このように、わたしは聞きました。
あるとき、お釈迦様はサーヴァッティーに住んでおられた。
ジェータ林のアナータピンディカ長者の聖園に尊者サンガーマジが、お釈迦様に会うためにサーヴァッティーに到着したのです。
尊者サンガーマジの前の妻は、「尊いサンガーマジが到着したらしい」と耳にしました。
彼女は幼児を抱えてジェータ林へやってきた。
尊者サンガーマジは木の根元で昼の休息のために坐っていたのです。
尊者サンガーマジの前の妻は尊者サンガーマジのいるところにやって来て、尊者サンガーマジにこう言ったのです。
「修行者よ、小さな子供がいるのです、わたしを養ってください」
このように言われたとき尊者サンガーマジは沈黙したままでした。
再び尊者サンガーマジの前の妻は尊者サンガーマジに、こう言ったのです。
「修行者よ、小さい子供がいるのです、わたしを養ってください」
再び尊者サンガーマジは沈黙したままでした。
三度、尊者サンガーマジの以前の妻は尊者サンガーマジに、こう言ったのです。
「修行者よ、小さい子供がいるのです、わたしを養ってください」
三度また尊者サンガーマジは沈黙したままでした。
そこで尊者サンガーマジの前の妻は、その幼児を尊者サンガーマジの前に置き去りにして立ち去りました。
「修行者よ、あなたの子供です、この子を養ってください」 尊者サンガーマジはその幼児を見ることもなく、語りかけることもありませんでした。
尊者サンガーマジの前の妻は振り返りつつ、尊者サンガーマジがその幼児を見ることもなく語りかけることもないのを見て、こう思ったのです。
「この修行者は子供でさえもこころ、惹かれない」
すぐに戻ってきて幼児を抱えて立ち去りました。
お釈迦様は人間を越した清浄の天眼によって、尊者サンガーマジの前の妻がこのように、思い直したのを見ていた。
お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました
来る者を喜ばない
去る者にも悩まない
サンガーマジが縛りから解放された
この人こそ真のバラモンと言う(8)
以上が第八の経となる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
Saṅgāmaji 長老は釈尊に挨拶をするために sāvatthi 町に来て、木の下で座っていました。 Saṅgāmaji に会いに来た、元妻が赤ちゃんを抱いて「子供を育てなさい」と、長老に頼むが、赤ちゃんを見てくれません。最後には、赤ちゃんを足下に置いて帰りますが、長老は目を開けて赤ちゃんを見ることすらしません。
「子供にも愛着がない人」だと思って、妻が子供を抱っこして帰る。
上記のようなストーリーです、現代の私達には、違和感があると思います。Saṅgāmajiサンガーマジはおそらく本名ではなく、下記のような語呂合わせです
Saṅgā は束縛、saṅgāma=戦争、saṅgāmaji =戦争で勝利を得た人。
Saṅgā束縛(執着・欲)に戦って(戦争)で勝利した人のことです、わが子に対する執着を戦争に例えての詩です、この詩を説明するストーリーが激烈なものになるのがお解りだと想います。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
なにが書いてあるか
(直訳詩)
Āyantiṃ nābhinandati,
来る者を喜び楽しまず
pakkamantiṃ na socati;
去る者を憂い悲しまず
Saṅgā saṅgāmajiṃ muttaṃ,
執着からサンガーマジは脱した
tamahaṃ brūmi brāhmaṇa”ti.
この人を私はバラモンという
解 説
Āyantiṃ nābhinandati,
来る者を喜ばない
*Āyantiṃ来る者とは、前の妻のこと
pakkamantiṃ na socati;
去る者にも悩まない
Saṅgā saṅgāmajiṃ muttaṃ,
サンガーマジが縛りから解放された
*Saṅgā束縛(執着・欲)にsaṅgāmaji戦って(戦争)で勝利した人
tamahaṃ brūmi brāhmaṇa”ti.
この人こそ、真のバラモンと言う
1.9 結髪者たちの経(9)
このように、わたしは聞きました。
あるとき、お釈迦様はガヤーに住んでおられた。
ガヤーシーサの大岩で、大勢の結髪者が寒い冬の夜な夜な、雪の降る時分のアンタラッタカ(月の第八日の前後)のガヤー川に、
「これによって、清らかにあれ」と、
身を清めるために浮んだり、沈んだり浮かんでまた沈んだりして、水をかぶったり祭火を捧げたりしていた。
お釈迦様は、大勢の結髪者が寒い冬の夜な夜な、雪の降る時分のアンタラッタカのガヤー川に、
「これによって、清らかにあれ」と、
身を清めるために、浮かんだり沈んだり浮んだり沈んだりして、水をかぶったり祭火を捧げているのを見ました。
お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました
ここで多くの人々が沐浴するが
人は水によって清らかとなるのではない
誰かに真理があり、法(真理)が備わっているなら
その人は清らであり、真のバラモンとなる(9)
以上が第九の経となる。
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なにが書いてあるか
(直訳詩)
Na udakena sucī hotī,
水で清らかにはならない
bahvettha nhāyatī jano;
多くの人々が沐浴をしても
Yamhi saccañca dhammo ca,
なぜなら、真理や法があれば
so sucī so ca brāhmaṇo’”ti.
彼は清らかであり、彼はバラモンである
解 説
Na udakena sucī hotī,
ここで多くの人々が沐浴するが
*現代のインドでも、沐浴で罪が洗い流されるという、信仰があるますが、この時代も同様です
bahvettha nhāyatī jano;
人は水によって清らかとなるのではない
*沐浴で罪が洗い流されるというのは、迷信として、お釈迦様は取り合いません
Yamhi saccañca dhammo ca,
誰かに真理があり、法(真理)が備わっているなら
*sacca は真理、dhammo は法、sacca と dhammo は同義語ですが、真理を発見していることと体感していること(解脱)を意味します
so sucī so ca brāhmaṇo’”ti.
その人は清らであり、真のバラモンとなる
Saccaの真理というのは、梵我一如のような、お釈迦様の時代に広く信じられていた真理というニュアンスで、dhammoの真理は、お釈迦様の説く真理と言うニアンスがあります、つまり、Saccaとはdhammoのことであるというニアンスがあり、ストーリー部分はこの微妙な部分を語っています。
Saccaが間違っているとは、お釈迦様は語っていません、この争わない、お釈迦様の語り口を味わってください。
浮かんだり沈んだりと記載されているのは、当時のインドでは浮かぶときに、浄められ、沈むときは浄められないので、浮かぶときのみ記載すればいいのですが、沈まなければ、浮かばないのが道理なので、浮かんだり沈んだりと記載されています。
このように道理に合うようにと経典は記載されるので、現代の感覚では、まどろっこしい表現もありますが、読み進めていけば道理に合うように記載されているのもわかりますし、もともと経典は、文字にして読むものではなく、耳から聞いて、覚えるように編集してあります。くり返しは、聞いて印象に残り、暗記しやすい表現なので、多用します。文字にするときも伝えられたそのままを、記載していますので読みにくいとは思いますが、想像力を働かせて読んでみてください。
1.10 バーヒヤの経(10)
このように、わたしは聞きました。
あるとき、お釈迦様はサーヴァッティーに住んでおられた。
ジェータ林のアナータピンディカ長者の聖園におられた。
樹衣のバーヒヤがスッパーラカの海岸に住んでいた。尊敬され、重んじられ、慕われ、捧げられ、うやまわれ、衣料や食事や寝具坐具や薬を受けていた。
坐禅する樹衣のバーヒヤの心に、このような考えが浮かびました。
「この世でアラカンやアラカンへの道に入った人たちがいるが、わたしはこの方たちのなかの一人なのだろうか」
樹皮行者のバーヒヤの過去世の血縁である天神が慈しみの心をとおして、樹皮行者のバーヒヤの心の考えを知って、樹衣のバーヒヤのいるところに現れこう告げた。
「バーヒヤよ、あなたはアラカンでもなければアラカンへの道に入った人でもありません。あなたの道はアラカンへの道でなくアラカンへの道に入る道でもありません」
「では天界をも含む世でどのような人が、アラカンたちでありアラカンへの道に入った人なのですか」
「バーヒヤよ、北の地方に、サーヴァッティーという名の城市があります。そこにお釈迦様というアラカンとして正しく目覚めた人が住んでおられます。バーヒヤさんお釈迦様は、アラカンでありアラカンになるための法(教え)を説かれる」
その天神の言葉に感動した樹衣のバーヒヤは、スッパーラカから立ち途中一夜の滞在ですませ、サーヴァッティーのジェータ林のアナータピンディカ長者の聖園にやってきた。
大勢の修行者が野外で歩行瞑想をしているところで、樹衣のバーヒヤはそれらの修行者に、語りかけた。
「尊き方々よ、お釈迦様は、アラカンは、正しく目覚めた人は、どちらに住んでおられるのですか。わたしは、アラカンであり正しく目覚めた人である、お釈迦様にお会いしたいのです」
「バーヒヤさん、お釈迦様は町中へと托鉢のために入りました」
樹衣のバーヒヤは急いでジェータ林から出て、お釈迦様がサーヴァッティーを托鉢のために歩んでいるのを見ました。
清らかな方にして美しい方を、五感は静まり心が静まった方を、身を律し。心の静寂を獲得した方を、自己を鎮め五感の門が守られ五感の機能を鎮めたナーガのような方を見て、お釈迦様に近づいて両足に頭をつけてご挨拶(あいさつ)し、こう申し上げた。
「尊き方よ、世尊よ、わたしに法(教え)を説いてください。善き方よ、法(教え)を説いてください。長夜に渡り、わたしに恵みと安楽をもたらす法を説いてください」
お釈迦様は、樹衣のバーヒヤにこう告げました。
「バーヒヤさん、あとになさい。わたしたちは町中へと托鉢に入ったのです」
再度また樹衣のバーヒヤは、お釈迦様にこう申し上げた。
「尊き方よ、わたしたちの生命は明日をも知れないものなのです。尊き方よ、世尊よ、わたしに法(教え)を説いてください。善き方よ、法(教え)を説いてください。長夜に渡り、わたしの恵みと安楽をもたらす法を説いてください」
再度お釈迦様は、樹衣のバーヒヤにこう告げました。
「バーヒヤさん、あとになさい。わたしたちは町中へと托鉢に入ったのです」
三度また、樹衣のバーヒヤはお釈迦様にこう申し上げた。
「尊き方よ、わたしたちの生命は明日をも知れないものなのです。尊き方よ、世尊よ、わたしに法(教え)を説いてください。善き方よ、法(教え)を説いてください、長夜に渡り、わたしの恵みと安楽をもたらす法を説いてください」
「バーヒヤさん、それでは、このように、あなたは学ぶがよい。
見られたものの中には、見られたものしかない
聞かれたものの中には、聞かれたものしかない
思われたものの中には、思われたものしかない
識られたものの中には、識られたものしかない
このことを、あなたは学びなさい。
バーヒヤさん、あなたにとって、
見られたものの中には、見られたものしかない
聞かれたものの中には、聞かれたものしかない
思われたものの中には、思われたものしかない
識られたものの中には、識られたものしかない
バーヒヤさん、それですから、
あなたというものは、見られ・聞かれ・思われ・識られたものの中にはいないのです
バーヒヤさん、あなたが、見られ・聞かれ・思われ・識られたものの中にはいないのですから、
バーヒヤさん、あなたは、そこにいないのです。
バーヒヤさん、あなたが、そこにいないのですから、
バーヒヤさん、あなたは、ここにもいない、向こうにもいない、あるいはそのあいだにもいないのです。
これこそは、苦の終わりです」
樹皮行者のバーヒヤは、お釈迦様のこの法(教え)によって、執着が無くなり心は煩悩から解き放たれた。
お釈迦様は、樹衣のバーヒヤを、この短い説法によって教え諭して立ち去りました。お釈迦様が立ち去った後まもなく樹衣のバーヒヤに、若い子牛づれの雌牛がぶつかってその生命を奪ったのです。
お釈迦様は、サーヴァッティーを托鉢のため歩いて食事のあと、大勢の修行者たちと共に城市から出て樹衣のバーヒヤが命を終えたのを見て修行者たちに語りかけました。
「ビクたちよ、樹衣のバーヒヤの遺骸を寝床にのせて運び出して燃やしてあげなさい。この人のために塔を作りなさい。ビクたちよ、あなたたちと共に清らかな修行をする者が命を終えたのです」
「尊き方よ、わかりました」と、それらの修行者は、お釈迦様に答えて樹衣のバーヒヤの遺骸を寝床にのせて運び出して燃やしてあげて塔を作って、お釈迦様にご挨拶(あいさつ)して、かたわらに坐りました。それらの修行者は、お釈迦様にこうたずねました。
「尊き方よ、樹衣のバーヒヤの肉体は焼かれ塔が作られました。あの方には、どのような来世がありますか。どのような未来の運命がありますか」
ビクたちよ、樹衣のバーヒヤは賢者です。法(教え)を法(教え)のままに実践しました。そして法(教え)を問題にしてわたしを悩ますことがありませんでした。ビクたちよ、樹衣のバーヒヤは完全なる涅槃に到達したのです」
お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました
そこ(解脱)には地・水
火・風は、入りません
そこでは、星は輝かない
太陽もありません
月の光もないが
暗闇もありません (10)
自己を知ると、その時
仙人は沈黙に達することで、バラモンであります
また、色、無色
楽・苦から解放しています(11)
以上が第十の経となる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
樹衣のバーヒヤがお釈迦様とお会いする旅に出て、教えを受けて悟りをひらくお話。
お釈迦様が最も簡潔な説法で悟りへ導いた、非常に有名なお話
物語の要約と詩の原文と意訳です。
Bāhiya Dārucīriyo は海岸に近い Suppārakeというところに住んでいたのです。木の皮を身に纏っていて、大衆の尊敬を受け暮らしていた。
ある日、「世にアラカン(聖者)がいるとするならば、私も その一人ではないか」と思った。 友人の神が現れて、「汝はアラカンどころか、アラカンに達する道すら分からない」と脅され、二日目で舎衛城(スッパーラカ)へいき、神の案内で、釈尊の指導を求めて Sāvatthi に行きますが、釈尊は托鉢に出かけていたのです。
歩いている、お釈迦様に礼をして、説法するように頼むのですが、断わられます。
「釈尊の命も先が分からない。私の命も先が分からない。ですから、私に真理を語ってください」と三回も頼みます。
そこでお釈迦様は、解脱への道を省略して語る
Tasmātiha te, bāhiya, evaṃ sikkhitabbaṃ
それではバーヒヤ、このように学ぶべきです。
diṭṭhe diṭṭhamattaṃ bhavissati,
見えたものに対して見ただけにします。
sute sutamattaṃ bhavissati,
聞いたものには聞いた(聴覚・音)だけにします。
mute mutamattaṃ bhavissati,
身体で感じたものに対して感じただけにします。
*mute ― 所覚・思われたもの・考えられたもの。
対象を眼耳鼻舌身意で感受し(感じ)、想い、思ったもの
viññāte viññātamattaṃ bhavissatī’ti.
こころで認識したものに対して識だけにする。
*viññāte ― 所識・認識された・わかる。
対象を意識・心で感受し、想い、思った(認識した)もの
Evañhi te, bāhiya, sikkhitabbaṃ.
もし、あなたは、そのように学ぶならば、
Yato kho te, bāhiya, diṭṭhe diṭṭhamattaṃ bhavissati,
あなたは、見えたものに対しては見ただけにします。
sute sutamattaṃ bhavissati,
聞いたものには聞いた(聴覚・音)だけにします。
mute mutamattaṃ bhavissati,
身体で感じたものに対して感じただけにします。
viññāte viññātamattaṃ bhavissati,
こころで認識したものに対して識だけにする。
tato tvaṃ, bāhiya, na tena; yato tvaṃ,
あなたは、それら(見られ・聞かれ・思われ・識られたもの) と一緒でないから
bāhiya, na tena tato tvaṃ,
あなたは、それら(見られ・聞かれ・思われ・識られたもの)と一緒ではありません。
bāhiya, na tattha; yato tvaṃ,
あなたは、そこ(対象の世界)にいません。
bāhiya, na tattha, tato tvaṃ,
そこ(対象の世界)にいない、あなたは、
bāhiya, nevidha na huraṃ na ubhayamantarena.
ここにもいない、向こうにもいない、二つの間にもいない。
Esevanto dukkhassā
これが苦の終わりであります。
アラカンに達したBāhiya尊者が町で若い牛の攻撃を受けて亡くなります。遺体はゴミの山(のところ)にあった。午後、お釈迦様がビク達に遺体を丁寧に運んで火葬して、塔を作るように指導します。ビク達は教えられた通りに実行します。
その後、ビク達はこの人は誰ですかとお釈迦様に聞きます。名も知らないこの人は誰ですかと聞かれたところで、お釈迦様はバーヒヤが大アラカンであったことを発表する。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
なにが書いてあるか
物語で解るようにバーヒヤという人は、優れた資質をもちヴェーダの学習をし、修行を積み、人々に尊敬された人格者で、お釈迦様にお会いして、悟りを開いた尊者です。お釈迦様とは今まで会う機会はなく、お釈迦様の教えを聞く機会もない人です、そこでお釈迦様は、バーヒヤさんが学んできた、ヴェーダ(ウパニシャット)の言葉を使って、わかりやすく説いています、バーヒヤさんがどの様に理解したかを書いていきます。
この時代のインドでは、魂のようなものが生命一つ一つ(個人)にあり、その魂のようなものはアートマンというものが内在していて、この魂のようなものが、生まれ変わり、そして、見て、聴いて、感じて考えて、認識する、そしてこのアートマンがブラフマンという宇宙の最高原理と一つになるのが修行の完成(悟り)とされていました。
(詳しい説明は、副読本の十二縁起を参考)
下記がウパニシャットのアートマンとブラフマンの記載です。
ātmā’ntaryāmy amṛto
それがあなたのアートマンであり、不死の内部の抑制者です、すなわち
` drṣṭo draṣṭā, `śrutaḥ śrotrā, `mato mantā, `vijñāto vijñātā,
他から見られることなく見るものであり、他から聞かれることなく聞くものであり
他から思われることなく思うものであり、他から識られることなく識るものである
(ブリハットアーラヌヤカ・ウパニシャット3・7・23)
etad akṣataṃ
この不滅のもの(ブラフマン)は
adṭṣṭam drṣṭr aśrutaṃ śrotr amataṃ mantr avijñātaṃ vijñātṛ
他から見られることのない見るものであり、他から聞かれることのない聞くものであり
他から思われることのない思うものであり、他から識られることのない識るものである
(ブリハットアーラヌヤカ・ウパニシャット3・8・11)
お釈迦様は、お弟子さんたちには、生命(人間)を、身体(色)と心(名)、と説明して、さらに五蘊(五蘊の説明は別冊参考)という一つの身体(色)と、四つの心(受・想・行・識)に分けて説明しています。そして五蘊から離れることを知って、苦が生じることを知り、悟った(相応部35・13・味楽経)と説いている、バーヒヤさんには五蘊ではなく今まで学んできた、見えたもの、聞いたもの、体で感じたもの、認識されたもの、という言で解りやすく説いている。
見えた・聞いた・体で感じ・認識したものに対して、見た・聞いた・体で感じ・認識しただけにします。これは五蘊から離れることを知るのと同じことを指している。
(離れるとは、涅槃・悟り、と同じ意味です)
苦が生じることとは、五蘊という仕組みが苦をつくり出す、ということで、お弟子さんたちには、五蘊という仕組みで、六処・十二処・十八界という場所で、十二縁起という仕組みで、と多くの方法で説かれていることですがバーヒヤさんには、見ただけにします‥‥‥という言で説ききっています。
そして苦をつくり出す仕組みを説いたお釈迦様は、あなたは、ここにもいない、向こうにもいない、二つの間にもいない。と説いています、これは、バーヒヤさん、あなたは、魂のようなものではない、アートマンではない、ブラフマンではないという意味で、バーヒヤさんが学んできた、永久不滅の魂のようなものを求めてもそれは認識できない、すべては無常であり、永久不滅の魂のようなものだと思っているのは五蘊という五つの束にすぎない(無我)と説き、これが苦の終わり、つまり悟りだと説いています。
(直訳詩)
Yattha āpo ca pathavī,
そこ(涅槃)には地・水
tejo vāyo na gādhati;
火・風は、足場をもたない。
Na tattha sukkā jotanti,
そこでは、星は輝かない。
ādicco nappakāsati;
太陽も輝かない。
Na tattha candimā bhāti,
そこには、月の光も輝かない
tamo tattha na vijjati.”ti.
暗闇も見出されない。
“Yadā ca attanāvedi,
自己を知ると、その時
muni monena brāhmaṇo;
聖者は沈黙に達することで、バラモンとなる
Atha rūpā arūpā ca,
また、色、無色、
sukhadukkhā pamuccatī”ti.
楽・苦から解き放たれる
解 説
Yattha āpo ca pathavī,
涅槃には地・水
*Yatthaそことは、涅槃・悟りということです、
tejo vāyo na gādhati;
火・風は、入りません
*地・水・火・風とは、物質は涅槃にはないということ
Na tattha sukkā jotanti,
そこでは、星は輝かない
ādicco nappakāsati;
太陽もありません
Na tattha candimā bhāti,
月の光もないが
tamo tattha na vijjati.”ti.
暗闇もありません
*光が生じる太陽・月つまり、光も暗闇もないという意味
Yadā ca attanāvedi,
自己を知ると、その時
*attanāvedi, 自己を知る
muni monena brāhmaṇo;
仙人は沈黙に達することで、バラモンであります
*muni牟尼(仙人)が、
*monena心は揺らがないこと、思考が停止したこと(沈黙に達する)
*brāhmaṇo(真の)バラモンである
Atha rūpā arūpā ca,
また、色(物質)、無色(精神の働き)
*rūpā色(物質)、arūpā無色(精神の働き)
sukhadukkhā pamuccatī”ti.
楽・苦から解放しています
*sukhadukkhā楽・苦
*pamuccatī解放しています。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ウダーナ副読本
ウダーナ(自説経)1.10 バーヒヤの経の解説に代えて
Suttanipātapāḷi スッタニパーター
4.11 Kalahavivādasutta 4八なるものの章 11争 闘
バーヒヤ経では、簡潔にお釈迦様は説いているので、争闘経での対話で、そしてウダーナ1-1~1-3で説かれた縁起の法(しくみ)をどのように説いたかの具体例として争闘経を解説してみました。
争闘というお経は、物語のように対話が進んでいきます、この副読本も物語を読むようにして読み進めていただければ幸いです。
はじめに、争闘経の原語であるパーリ語と日本語訳で経典を記載し、次に解説と続く、経典には、それぞれの詩に番号が振ってあります、これは中村元博士の翻訳したスッタニパータの番号です、解説ではこの番号ごとに詩を解り易くまとめてから、要点を取り出し、次に解説文を記載しました。
最後に十二縁起との関連、バーヒヤ経との関連を記載しました、ウダーナ(自説経)1-10 バーヒヤを理解する、なにかのヒントになれば幸いです。
Suttanipātapāḷi スッタニパーター
4.11 Kalahavivādasutta 4八なるものの章 11争 闘
862〔対話者が尋ねた〕
“Kutopahūtā kalahā vivādā,
紛争と論争は、どこから起こるのですか、
Paridevasokā sahamaccharā ca;
悲しみや憂いとともにある物惜しみなどは、
Mānātimānā sahapesuṇā ca,
くらべる心と高慢とともにある悪口などは、
Kutopahūtā te tadiṅgha brūhi” (1)
これらは、どこから起こるのか、説いてください(1)
863〔お釈迦様は答えた〕
“Piyappahūtā kalahā vivādā,
愛しいものから、紛争と論争は、
Paridevasokā sahamaccharā ca;
悲しみや憂いとともにある物惜しみなどは、
Mānātimānā sahapesuṇā ca,
くらべる心と高慢、悪口などは、起こります
Maccherayuttā kalahā vivādā;
物惜しみに結びついて、紛争と論争は起こります
Vivādajātesu ca pesuṇāni”.(2)
論争が生まれたとき、そこには悪口が起こるのです(2)
864〔対話者が尋ねた〕
“Piyā su lokasmiṃ kutonidānā,
世間における愛しいものは、どこから生じるのですか
Ye cāpi lobhā vicaranti loke;
さらには、世間にはびこる貪欲は
Āsā ca niṭṭhā ca kutonidānā,
来世ついて人がいだく、願望と叶うことは、
Ye samparāyāya narassa honti” (3)
どこから生じるのですか(3)
865〔お釈迦様は答えた〕
“Chandānidānāni piyāni loke,
欲から、世間での愛しいものや
Ye cāpi lobhā vicaranti loke;
世間にはびこる貪欲は、生じます
Āsā ca niṭṭhā ca itonidānā,
来世ついて人がいだく願望と叶うことも
Ye samparāyāya narassa honti”.(4)
これ(欲)から、生じます(4)
866〔対話者が尋ねた〕
“Chando nu lokasmiṃ kutonidāno,
世間での欲は、どこから生じるのですか
Vinicchayā cāpi kutopahūtā;
決めつけは、どこから起こるのですか
Kodho mosavajjañca kathaṃkathā ca,
怒り、偽りの言葉と、疑惑、それと
Ye vāpi dhammā samaṇena vuttā” (5)
サマナによって説かれた法(ことがら)とは(5)
867〔お釈迦様は答えた〕
Sātaṃ asātanti yamāhu loke,
世間で人々が言うところの
Tam ūpanissāya pahoti chando;
快と不快に依って、欲は生じます
Rūpesu disvā vibhavaṃ bhavañca,
もろもろの形態などに、離れることと生存を見て
Vinicchayaṃ kubbati jantu loke. (6)
世間の人は決めつける(6)
868 Kodho mosavajjañca kathaṃkathā ca,
怒り、偽りの言葉と、疑惑も、
Etepi dhammā dvayameva sante;
これらの法も、二つがあるときにあります
Kathaṃkathī ñāṇapathāya sikkhe,
疑惑あるなら、智の道に学ぶのがよい
Ñatvā pavuttā samaṇena dhammā” (7)
これらの法は、サマナによって知って説かれた(7)
869〔対話者が尋ねた〕
“Sātaṃ asātañca kutonidānā,
快と不快は、どこから生じるのですか
Kismiṃ asante na bhavanti hete;
何がないとき、これらのものは、ないのですか
Vibhavaṃ bhavañcāpi yametamatthaṃ,
離れることと生存の意味するところは、
Etaṃ me pabrūhi yatonidānaṃ” (8)
それはどこから生じるのかを、わたしに説いてください(8) 870〔お釈迦様は答えた〕。
“Phassanidānaṃ sātaṃ asātaṃ,
接触から、快と不快があります
Phasse asante na bhavanti hete;
接触がないとき、これらはないのです
Vibhavaṃ bhavañcāpi yametamatthaṃ,
離れることと生存の意味するところとは、
Etaṃ te pabrūmi itonidānaṃ” (9)
それは、ここから生じると、あなたに説きます(9)
871〔対話者が尋ねた〕
“Phasso nu lokasmi kutonidāno,
世間での接触は、どこから生じたのですか。
Pariggahā cāpi kutopahūtā;
私のものは、どこから起こるのですか
Kismiṃ asante na mamattamatthi,
何がないとき、私(我)はないのですか
Kismiṃ vibhūte na phusanti phassā” (10)
何が生存から離れるとき、接触は、接触しないのですか(10) 872〔お釈迦様は答えた〕
“Nāmañca rūpañca paṭicca phasso,
名称(名)と形態(色)を、縁として接触がある
Icchānidānāni pariggahāni;
欲求が生じたとき、私のものがある、
Icchāyasantyā na mamattamatthi,
欲求がないとき、私(我)はありません
Rūpe vibhūte na phusanti phassā” (11)
形態が、生存から離れたとき、接触は、接触しません(11)
873〔対話者が尋ねた〕
Kathaṃ sametassa vibhoti rūpaṃ,
どのように行えば形態は、生存から離れるのですか。
Sukhaṃ dukhañcāpi kathaṃ vibhoti;
楽は、苦は、どのようにして、生存から離れるのですか。
Etaṃ me pabrūhi yathā vibhoti,
このことを、離れること、そのさまを、わたしに説いてください
Taṃ jāniyāmāti me mano ahu” (12)
それを、知りたいと、わたしは思っていました(12)
874〔お釈迦様は答えた〕
“Na saññasaññī na visaññasaññī,
想いを想うことなく、想いを離れて想うことなく
Nopi asaññī na vibhūtasaññī;
想いがないことでなく、想いを離れた者でもない
Evaṃ sametassa vibhoti rūpaṃ,
このように行えば、形態は生存から離れます
Saññānidānā hi papañcasaṅkhā”.(13)
虚構の名称(概念)は、想いから、生ずるからです(13)
875〔対話者が尋ねた〕
“Yaṃ taṃ apucchimha akittayī no,
わたしたちが、尋ねたことを、あなたは語ってくれました
Aññaṃ taṃ pucchāma tadiṅgha brūhi;
他のものについて、お尋ねます、それを説いてください。
Ettāvataggaṃ nu vadanti heke,
なぜこれだけが、最上の清浄と説くのですか
Yakkhassa suddhiṃ idha paṇḍitāse;
賢者たちが、ここにヤッカ(魂)の清浄があると
Udāhu aññampi vadanti etto” (14)
あるいはまだ、他にあると説くのですか(14) 876〔お釈迦様は答えた〕
“Ettāvataggampi vadanti heke,
これだけが、最高の清浄と説いています
Yakkhassa suddhiṃ idha paṇḍitāse;
賢者たちが、ここにヤッカ(魂)の清浄があると
Tesaṃ paneke samayaṃ vadanti,
ある人たちは、ある説を説く
Anupādisese kusalā vadānā. (15)
生存の依り所という残りがないのをよいと説きます(15) 877
Ete ca ñatvā upanissitāti,
これらを依存ある者と知って、
Ñatvā munī nissaye so vimaṃsī
聖者は依存あることを知って、観察者として知って
Ñatvā vimutto na vivādameti,
論争をすることはない
Bhavābhavāya na sameti dhīro”ti. (16)
賢者は、もろもろの生存を行うことがありません(16)
スッタニパータ 4.11 経典のまとめと解説
862
紛争と論争は、どこから起こるか
悲しみや憂い、とともにある、物惜しみ、
くらべる心と高慢、とともにある、悪口は、どこから起こるか
863
愛しいものから、紛争と論争、悲しみや憂い、物惜しみ、くらべる心と高慢、悪口が起こる
物惜しみに結びついて、紛争と論争が起こる
論争が生じたとき、悪口が起こる
要約すれば
→はある ←はない の関係を表します
愛しいもの → 紛争と論争、悲しみや憂い、物惜しみ、くらべる心と高
慢、悪口
物惜しみ → 紛争と論争
論 争 → 悪 口
この時代のバラモンの生活は世間を離れて真理を求める求道者というのは少数で、世間に住み祭式の実行で富を求める知識階級として生きる世俗的なバラモンが多数だったようですが、対話者は、お釈迦様と対等に話ができる人格者で真摯に真理を求めるバラモンです。
このような状況で対話者の眼に映るバラモンの日常はどのようだったか想像してみてください、富を巡る紛争や、理屈だけの互に対立する自分だけが正しいとする論争が日常になっていたと想像されます。まずは日常になっている醜い出来事である、紛争と論争は、どこから起こるかと問い、このような自己中心的な利己的な世俗の人々と同じ在り方が日常になっている心を代表して、物惜しみは、どこから起こるかと問い、ともにある、悲しみや憂いはどこから起こるかと問う、ここで通常、悲しみや憂いは同情を寄せる感情ですが、物惜しみは、同情を抱く感情ではないのに同列で問うているのは、論争に敗れて嘆き悲しんでいるバラモンの姿を問うているからです、お釈迦様が無駄な論争するなと戒めているのは、悲しみや憂いが生じて、人々を分断させるだけだからです、一般的な悲しみや憂いというより、バラモンの日常から生じた本当に身近な実感を問うています。
お釈迦様はバラモンの日常からの身近な実感に丁寧に答えます
愛しいもの(Piya)は、解りやすい素朴な日常的な欲のこと、この愛しいものから、紛争と論争、悲しみや憂い、物惜しみ、くらべる心と高慢、悪口などが起こる
紛争は一般的な争い、論争は言い争い、これは自己中心的な物惜しみから起こる
言い争いから悪口が起こる
このようにバラモンである対話者の目の前の問に一つ一つ答えています
864
世間における愛しいものは、どこから生じるか
世間にはびこる貪欲、来世ついて人がいだく願望と叶うことは、どこから生じるか
865
欲から、愛しいもの、世間にはびこる貪欲、来世ついて人がいだく願望と叶うことが生ずる
要約すれば
欲 → 愛しいもの、世間にはびこる貪欲、来世ついて人がいだく願望と
叶うこと
次にバラモンの身近な、いわばバラモンの社会の枠から離れて、世間という一般的な人々の住まう社会に場所を移してお釈迦様に問うていきます。
世間における愛しいものは、ここでお釈迦様の答えた、愛しいものに、わざわざ世間という言葉を付け足して、問うています、即物的な欲ということです。
どこから起こるか、ではなく、どこから生じるかと、問うています、起こるは、物事が新しく生じるを意味し、生じるは、原因となっているという意味です(詳しくは言葉の説明参照)
世間にはびこる貪欲は、際限なく貪る世間に一般的に見られる、現代でもお馴染みの欲のこと、物欲、名誉欲など、人間の欲という意味です
来世について人がいだく願望と叶うことは、この時代に人々の最大の願望は、よき来世に生まれることです、よき来世とは死んでから人間に生まれるというより天界に生まれ変わり永遠の命を得るということで、この生まれ変わりに対する願望と叶うこと、いわば、この時代の見果てぬ欲という意味で、現代では希望と達成、成功願望と言ってもいいものです、しかし、貪欲と同格で扱われていることに注意が必要です、現代世間では希望と達成はポジティブシンキングと名付けられて、その本質が見えにくくなっている状況は、この時代も同じです、対話者は争いを引き起こす愛しいものや、世間では本質が見えにくくなっている際限のない見果てぬ欲は、どこから生じるか、対話者は世間を見ながら問うています。
お釈迦様は一言、欲(chanda)から生ずると答えています、欲とは、動物が生き残るのに最低限の食料で満足するのと好対照な際限のない人間の欲のことで、知性の入った欲でもあり、わがもの、わがものでない、という知性が作り出す観念にとらわれた欲でもあります。
ことばの説明
起こる(pahūta) 生ぜられたものを意味し、自然発生的なものでなく、
人 間自身によって生ぜられた作為の産物であること
を表す
生じた(nidānā) 原因のこと、原因と結果は相互に依存しあう他律的な
あり方で、仮に存在している(名づけられた)だけの
こと
866
①世間での欲は、どこから生じるか
②決めつけは、どこから起こるか
③怒り・偽りの言葉・疑惑とは
④サマナによって説かれた法とは
867
①世間での快と不快に依って、欲が生ずる
②もろもろの形態などに、離れることと生存を見て決めつける
868
③これらの法(怒り・偽りの言葉・疑惑)も、二つ(快と不快の)があるときにある
④疑惑あるなら智の道に学ぶのがよい、サマナ(お釈迦様)は知った後で説かれた
要約すれば
世間での快と不快 → 世間での欲、怒り・偽りの言葉・疑惑
離れることと生存 → 決めつけ
(上記の二言は二項対立)
ここでは三つの偈にそれぞれ番号を振って四つに分けています、一見判り難いのですが、三つの質問で、①は前の偈に出てくる、欲に世間と付け足して、世間一般の欲とはと問い、②③④は、862・863偈の続きで、バラモン社会とは本来真理を語り合う筈なのですが論争で、自分の説が正しいと互いに言い張ること、つまりは決めつけることにより怒り・偽りの言葉・疑惑が対話者の目の前で飛び交っている様を、お釈迦様に、なぜこのようなことが有るのかと問い、サマナという修行者によって説かれた法とは、本来の教えとはなにかという問いです
お釈迦様は一つ一つ丁寧に答えていますが、中身は二つの答えです、一つは五感からの刺激により、世間での快と不快から、欲、怒り・偽りの言葉・疑惑が生じる。もう一つは頭の中(心)からの刺激により、離れることと生存から、決めつけが起こると説きます。そして本来の教えとはお釈迦様の説いた教えと答えます。
詳しくは①~④に分けて解説しましたのでご覧ください
①、一般の人々の欲は、これ好き欲しいという感情と、これ嫌い要らないという感情から依存して起こるという意味です。快と不快という感情は生きるという欲、私を守り生きていく為の反応(感情)で、二項対立と同じ図式です
快と不快(sāta asāta) 快(aāta)とは世間での日常的な快楽、欲望の充足のことで、不快(asāta)とはその反対
世間での欲と言はお釈迦様の欲という言を受けて864・865の続きであるということを表し、依ってという言が④にかかってくることを表しています。
②、この偈では、世間の人々は、人間の体だけを見て、生きている、死んでいるのを決めつけるという意味で、二項対立で、決めつける、という意味があります。
そして、お釈迦様の時代のバラモンは一般的に、生きているというのは身体に意識がありその意識にアートマン(自我)が宿っている、死んでいるとは身体に意識がなくアートマンが宿っていないというのが常識的なことがらであり、このアートマンという主体があるから感覚があり認識があるというのが常識でした。
形態(rūpa) 物質的な形態、かたち、という意味があり、この偈では身
体を言う
離れる(Vibhava) ない、天界(永遠の世界)をえるという意味がある。
生存(bhava) ある、天界を離れていない、つまり、この世で生きてい
る・存在しているというという意味。なお、bhavaには
、生きとし生けるもの、輪廻するもの、なども意味し、生
きものの生存状態を指すこともある。
元々は生まれるための条件、環境が揃っている次元を意味し、生命が存在する条件や場所のことを表し、存在、生きている、生まれるなどを表すようになる。
③、「二つ」という言葉は、論争の中にある、正しいか・正しくない、つまりに二項対立の図式を表しています
ここで867①の依って(ūpanissāya)は縁・喩えという意味で、相互に依存
する、二項対立に依存するということです。
同じく867①の世間での快と不快に依って欲がある、は人間社会のありさ
まを表しています、
これは868③怒り・偽りの言葉・疑惑(これらの法)も、快と不快(二
つ)があるときにある、につながる。
ここで862・863、864・865を見てください、(これらの法)(二つ)と
は何を指すか
(これらの法)とは、欲
(二つ)とは、紛争と論争、悲しみや憂い、くらべる心と高慢、願望と叶う
こと
要約すれば
(二つ)二項対立 → (これらの法)欲、怒り・偽りの言葉・疑惑、決め
つけ
ここから④につながります
④、依って(ūpanissāya)とは論証(推論)に使う言で、サマナとは修行者を指し、仏教のみでなく、他の考えをもつ修行者も含まれます、ここではサマナによって説かれた法とは、欲から脱していない教えを指すが、お釈迦様は他の教えを正面切って断罪するようなことはしないで言及せずに、お釈迦様が知った後説かれた、つまりは、世間のありさま(ことわり)を、よくよく観察してから、中道・縁起などやお釈迦様が説かれた(見つけた)正しい論証と修行が、智の道と説いています。
疑惑は、現代語では質問・迷いというニアンスです、智の道とは論争(二項対立)しない道です。
869
快と不快は、どこから生じるのか
何がないとき、快と不快は、ないのか
離れることと生存とは、どういうことか
それは、どこから生じるか
870
接触があるから、快と不快がある
接触がないから、快と不快がない
離れることと生存とは、どういうことか
それは、ここから(接触)から生じる
要約すれば
接触 → 快 と 不 快
接触 ← 快 と 不 快
接触 → 離れることと生存
対話者は問い続けます、快と不快はどこから生じるのか、離れることと生存はどこから生じるか、お釈迦様の答えは、接触です。二項対立という、まよいのメカニズムは接触から生じるという意味です。
接触(Phassa) 感覚のこと、眼に触れる・耳に触れる・鼻に触れる・舌に触れる・身体に触れる、という五感と、頭の中の概念として触れるという六種類の触れる(感覚)があります、眼耳鼻舌身意に色声香味触法が触れると感覚が生まれるということです。
ここでの接触は、生きる行為そのものの接触ではなく、感覚を意味することには注意が必要です。
生存(Bhava)とは条件や場所を指し示す言で、お釈迦様の時代はバラモンにとって生きているとは、魂のようなものが体に宿っているというのが前提で、これは永久不滅の実体であるアートマンが魂のようなものに宿り、アートマンがあるから(原因として)快と不快という認識ができるというのが常識の時代に、お釈迦様はアートマンと答えずに接触と答えます、次の871で対話者は、接触は、快と不快に依って生じた欲(私のもの)は、私(我)はどこから生じるか、アートマンではないのなら認識(接触・感覚)とはどのようなもので、接触という二項対立からどうすれば離れるのかと問うていきます。
868の④で説かれた、お釈迦様の方法が開示されています
接触(触)があるから、快と不快(受)がある
接触(触)がないから、快と不快(受)がない
お釈迦様の縁起の法(形式)が上記の様に開示されています、ここで詳しくは記載しませんが、お釈迦様の重要な智の道です。
871
①世間での接触は、どこから生じるのか、
②私のものは、どこから生じるのか、
③何がないとき、私(我)はないのか、
④何が生存から離れたとき、接触は接触しないのか
872
①名称と形態を縁として、接触は起こる
②欲求が生じたとき、私のものがある、
③欲求がないとき、私(我)はない
④形態が生存から離れたとき、接触は接触しない
871と872は省略されて語られているので詳しく書きます
871①世間での接触は、どこから生じるか/ 872①名称と形態を縁として接
触は生じる
872①接触によって、 欲求が
ある
871②私のものは、どこから生じるのか / 872②欲求が生じたとき、私のも
のがある
872②私のものがあるから、私
(我)がある
871③何がないとき、私(我)はないのか/ 872③欲求がないとき、私のも
のはない
872③私のものがないから、私
(我)はない
871④何が生存から離れたとき、接触は接触しないのか /
872④接触がないとき、欲求は
ない
872④形態が離れたとき、接触は接触しない
872①接触によって、 欲求があるという関係は省略されていますが、772洞窟(身体)にとらわれ迷わせるものの中に沈没している人とあり、その具体例が773で欲求によって生じた生存の快にとらわれているとあり、これは身体で行われている接触を原因として欲求がある、と推し量られます。
要約すれば
①名称と形態 → 接触 → 欲求
④形 態 ← 接触 ← 欲求
②欲求 → 私のもの → 私(我)
③欲求 ← 私のもの ← 私(我)
①④は五感で生じる心の流れを、②④は心で生じる心の流れを表していま
す
五感で外の世界と接触して欲求が生じて、この欲求から生じた欲求を仏教では「欲」と呼びます
心は外からの刺激と心にある過去の記憶(行)からも欲求を生じさせ、この欲求が私のもの(執着)を生じ、私(我)を生じさせる、この心で生じる欲を仏教では「煩悩」(kilesa汚れ)と呼びます。
接触が生じる原因は名称と形態であり、接触によって欲求があり、欲求が、私のもの、を生じさせ、私(我)があるとなりこの私(我)があることが、煩悩があるということです。
ここで確認します
Yaṁ kiñci samudayadhammaṁ, sabban-taṁ nirodhadhamman-ti.
生じる性質をもつものはいずれも皆、滅する性質をもつ
sabbe te bhavā aniccā dukkhā vipariṇāmadhammāti.
それらの生存は、すべて無常であり、苦であり、変化を法(性質)とす
るのである
上記の二つの文は、あるがままの姿とは無常という、ひとつつづきの流れであり、変化をつづけていく流れであるということです、このひとつづきの流れを、概念(言葉)で断片化(切り刻み)し、固定化し、静的化(流れを止めて)し、静的な断片とし、実態化し対象化したのが名称と形態です。わたしたちは、ないかあるの、どちらかでしか、ものごとを見ようとしない、そうした断片的で固定的な、ものの見方できめつける、この認識のあり方が、名称と形態という世界のあり方を立ち上げる、そして二項対立(ないかあるか)という世界のあり方は接触が原因であり、接触があるときには欲求があります、これは、名称と形態はすでに、実態化、対象化という汚れを受けているということを表します、同時に汚れを受けた形態と名称を縁として立ち上がる接触(感覚作用)は、いわば純粋(汚れていない・清浄)感覚ではなく、二項対立という対象認識の上に虚構された汚れ(煩悩)たものであることを意味しています。
ここで注意が必要なのは、汚れた名称と形態の裏側にある純粋な清浄世界があるという、純粋世界を対象とする神秘的な直感があるという事ではなく、いまここにある、あるがままをあるがままに知り見ること(yathābhūtaṁ ñāṇadassanaṁ・如実知見)ということです。つまり、「あるがままをあるがままに知り見ている」と素朴に信じている私たちの「あるがままの姿をあるがままに知り見る」という意味です。
接触は静的に分断化され断片化されたものとなり、接触する方(眼耳鼻舌身意)もされる方(色声香味触法)もともに静的に断片化された、するものとされるものという二項対立という図式である、あり方が接触から出現する。一方、私(我)の原因は、私のもの(執着)であるという、あり方が説かれ、私のものの原因が欲求と説かれ、欲求という心的作用が煩悩のそもそもの発端だと説かれ、欲求の原因は生命活動の一環である接触(感覚・感じること)であるということです。ここで欲求というものが存在するのでない、自己と切り離された他者や他の物としての対象化され断片化されたものとして実態化してはなりません、実態としてのものではなく単なる、あり方であり、相互に依存し合うというあり方で虚構されたものでしかなく、それを実態としてものと錯覚しているだけということは注意が必要です。
欲求(Icchā) 根源的、潜在的な心的作用的な欲
私のもの(pariggaha) 捉えられる、つかむ、から派生した抽象名詞、心的
作用としての執着と作用の対象(=執着されたもの)も意味します
私(我)(mamatta) mama(わがもの)から派生した抽象名詞
873
どのように行った者の形態は、生存から離れるのか
楽は、苦は、どのようにして、生存から離れるのか
対話者は形態から離れるにはどうすればいいか、接触という二項対立から離れるにはどうすればいいか、と問います。
形態とは断片化され実態化された認識の型枠という意味でこの形態は、どう行えば離れるのかという問で、この行いというのは、形態と同じように断片化され実態化された言葉を使う論争と紛争から起こった知識である悩み苦しみではない、今このときに悩み苦しむこの私のその悩み苦しみも、接触を原因とする二項対立が原因と説かれ、ここで、はじめて現実の行いだと認識され、その悩み苦しみの、あり方は、どうすれば離れるかという問です。離れるとは完全に消滅するという意味ではなく、質的に変容されること、つまり名と形(形態)を与えられた、言葉を換えれば断片化された実態という、あり方を離れることを意味します。
苦と楽は、感覚的な楽と感覚的な苦を指し、まよいの生存を立ち上げる二項対立の図式のひとつで、苦を嫌い楽を願う心のあり方を虚構します、これは快と不快という二項対立が感覚器官の接触から生じると言う教えを受けての問です
日本語では解りにくいのでパーリ語を解説します
苦(dukha)通常は(S.duḥkha P. dukkha)と表記するがサンスクリットでは
(dukha)も表記する
楽(Sukha)サンスクリット、パーリ同じ
dukhaはduとkhaという言葉を組み合わせ、sukhaはsuとkhaを組み合わせ
た言葉
duは悪い、難 khaは感覚器官という意味 suはよい、しやすいkhaは感覚
器官
楽と苦は明確に感覚器官の二項対立を指している。
869では、快と不快(sāta asāta)と問うている、これは世間での日常的な二項対立を指している、楽は、苦はという問いは871・872の問答を対話者がお釈迦様の教えを十分理解した上での問です。
いずれも錯覚しているだけのことなのです、そしてこの実態(もの)という、あり方から離れるにはどうすればいいかと問うています。
断片化され実態化された、他者や他の者は存在しないが、すべては無常という、ひとつづきの流れなので、断片化されず実態化されない、あり方としては存在する、これが二項対立という図式でない中道というあり方であり、正見(Sammā diṭṭhi)です。
874
想いを想うことなく、想いを離れて想うことなく、想いがないことでなく、想いを離れた者でもない
このように行えば形態は、生存から離れます、それはなぜか
虚構の名称(概念)は、想いにもとづいて、生ずるからです
虚構の名称は想いから生ずるから、このように行えば形態は生存から離れる、それは、
想いを想うことなく、想いを離れて想うことなく、想いがないことでなく、想いを離れた者でもない、と説きます。
お釈迦様は輪廻を引き起こすのは認知器官の働きで経験は入力されるデータに意味を与える、つまり、名づけるということでこれは、ひとつづきの流れであるものを、ことばで断片化し固定し静的化し実態化し対象化することで、この過程の根底にある概念を司るのが想と説いています
バラモンである対話者の学んできたウェーダの智慧では、あるものを知ることと、その名称を知ることは同じことで、サンスクリット語の名称は、その本性に与えられた固有の名で例えば、サンスクリット語の牛と現実の牛は不可分である、これはサンスクリット語は現実の写真であるという考えです。アートマンやブラフマンなどの永久不滅の実体などは確認できず真理は無常という、たえまなく流れるひとつづきの流れなら、断片化し固定し静的化し実態化し対象化する言語は、現実の写真となるのか。お釈迦様の根本的な問いかけです。
sabbe te bhavā aniccā dukkhā vipariṇāmadhammāti.
それらの生存は、すべて無常であり、苦であり、変化を法(性質)とす
るのである
Saññā, anattā.
想は無我である。
上記は無我相経からの引用で、詳しくは無我相応経の説明を参照してください
想は、絶えず変化し(無常)、不満足であり(苦)、永久不滅の本質ではない(無我)、これは同じことわりを三方向から表現していて相伴うと説いています。ここで注意するのは。外部にある概念化されたものと、実際に外部にあるものの双方に当てはまり、外部にあるものは、まったく何もないとは言ってないことです。これは、本来いかなる言語も現実を十分には把握(表現)することはできないという事を表しています、私達は認識する時は言語によって分節化(断片化し固定し静的化し実態化し対象化)して、あらゆる感覚入力データを言語によって分節化(二項対立化)を得ない限り、知られ得るものとはならない、そして言語を介してしか認識を表現できないにもかかわらず、言語は固定化し、くり返すだけの知識であり、実態を表示する言語としての名詞に人を誤りに導く特質があると説く、私達の知りえることは言語活動の一部分ではあるが言語の本性によって確実な知識はえられないので概念化というそのものが不正確さをともなう、このことを虚構と呼んでいる、虚構によって名づけられたものを、虚構の名称と呼ぶ、これは概念のことです。
想いを想うことなく、想いを離れて想うことなく、想いがないことでなく、想いを離れた者でもない、とは、想の正しいあり方を表した言で、これは真の意味(そのもの・写真)を表さない言を重ねるという行いによって無常という、ひとつづきの流れであり、変化をつづけるものであり、あるがままの正しい想は存在すると、想のあり方を表す。
同時に
①「想い」と「想うこと」両方がある
②「想うこと」がない
③「想い」がない
④「想い」と「想うこと」両方がない
構造的には、この四通りのことが起こらないという意味で、想いを操作することで、身体が生存から離れるということです。想いはそれを原因としてさらに思いを生んでいくので「想いを想う」という構造になります。
この構造は、すべてを否定して、言葉では表現できないということがらを表現しています。
身体の中(形態・物質など)で起こる接触が欲求(渇愛)をつくり、私(我)をつくると、お釈迦様は教えています、この欲求をつくるのも、私(我)をつくるのも、虚構の名称で、それは想(saññā)が原因です、だから想を理解すればいい、これが、悟りということです
言語では表現できないという事は、ある経験を一度もしたことがない人に、その経験を明確には出来ないということですが、喩えを使えば伝わる部分もあります、目覚めること、自らをともに燃え続けてきた貪・瞋・痴の火が消え去った感覚など、また、悟りを経験した後に、どのように感じたかを振り返って言うことは可能です、例えばマラソンで優勝した瞬間にその感覚を表現するのは難しいとしても振り返って言葉にするのは可能です、至福と言ったり、インドの気候では涼しく快適と言ってみたりなど、もう一つ伝統がそのことを完全ではなくても語っている場合がある、人が経験したことを客観的な内容があると感じた場合に表現することは可能になる、お釈迦様は悟りを表現するのに、あるがままをあるがままに知り見ること(yathābhūtaṁ ñāṇadassanaṁ・如実知見)という言を用います、この言を用いて通常の経験・真実の姿を語り、私達に示してくれます、その上でお釈迦様は、悟りの世界は対極にあると語っています、具体的には、悟りとは、彼岸に渡る、つまり通常の世界の対極にあると表現し、現れるのではなくある、とも表現しています。
874の偈では、想いを想うことなく、想いを離れて想うことなく、想いがないことでなく、想いを離れた者でもない、という言で無常(無常・苦・無我)という私たちの世界を表現して、二項対立というあり方(生存)から離れる(彼岸に渡る)、なぜなら虚構の名称は想から生ずると、あるがままをあるがままに知り見れば、その対極に渡れるから、これがお釈迦様の答えです。
875
わたしたちが、尋ねたことを、あなたは語ってくれました
他のものについて、お尋ねます、それを説いてください。
賢者たちは、ここにヤッカ(魂)の清浄があると説きます
なぜこれだけが、最上の清浄と説くのですか(常住論)
あるいはまだ、他のものもあると説くのですか
バラモンである対話者は、魂は永久不滅であるという考えが(常住論)最上であると説いている人々がいるがと問い続けて、他のものもあるかと問います
ここでの魂とはお釈迦様の時代では、永久不滅のアートマンが相当すると思われます、他のもの(añña)とは、他者・他の物・他の教えのことですが、他のものによっては悟りには到達できなという意味もある重要な言です。
876
賢者たちは、ここにヤッカ(魂)の清浄があると説きます
これだけが、最高の清浄と説いています
ある人たちは、ある説を説く
生存の依り所という残りがないのをよいと説きます(断滅論)
お釈迦様は、死んだらすべて終わりとする考えもある(断滅論)と答えます
877 これらを、依存ある者と知って
聖者は依存あることを知って、観察者として知って、論争をしない
賢者は、もろもろの生存を行うことがありません
これらとは、常住論・断滅論者
依存ある者とは、他者・他の物・他の教えに依存している者
観察者(vimaṃsī)とは、あるがままの姿をあるがままに観察する者であること、観察者であることが理想の境地で、有(常住論)でもなく、無(断滅論)でもない、中道というあり方である
もろもろの生存とは、輪廻する生存(生命)
虚構の名称(papañcasaṅkhā)について
ここでは、虚構の名称(papañcasaṅkhā)という言をキーワードにして、角度を変えて説明してみます。
通常ではpapañcaは戯諭(けろん)と訳され、原義としては、拡大、拡散する、そこから分化、多様化という意味があり、本来は分別されないものを境界づけて、そこに多様性を持ち込み、拡散、複雑化させるはたらきを意味する、そこからも妄想、幻想、迷執という含みをもつ、戯れの無益な論争、という意味も含まれます、つまりは、断片化、固定化、静的化して、実態化する、しくみ、のことです。
862~868とは、論争は世間(loka)での快・不快、離れることと生存、という「二項対立」が原因という問答です。
お釈迦様の世間(loka)とは、六の感覚器官である、眼・耳・鼻・舌・身・意と、六の感覚器官に入る対象である、色・声・香・味・触・法のことです。「認知されうるもの全て」、ということです、十二処、十八界、五蘊、一切、世界、全て同じことを指しています、五蘊、十二処、十八界は認識の内容そのもので、分類の仕方が異なるだけです。
この時点では質問者は、世界というのは「認知されうるもの全て」ではなく一般的に言われている、世界・神羅万象・宇宙という意味で問答している。
869~870では、快・不快、離れることと生存、という「二項対立」は接触が原因と説いています。
871~872では、接触という「二項対立」は欲求の原因であり、この欲求から私(我)が生じると説いています。
つまりは、接触という「二項対立」(快・不快、離れることと生存)が欲求を生み、私(我)を生み、「二項対立」は「認知されうるもの全て」の原因であり、名称と形態という「二項対立」が接触の原因であり、形態(身体)が接触の原因であると説いています。
この時点では質問者は、世間(世界)というのは「認知されうるもの全て」であると理解しています。
873では、「認知されうるもの全て」(苦と楽、離れることと生存)という「二項対立」から作られた世界から、離れるにはどうしたらよいか、と質 問者が問います。
生存から離れるとは、今生きているこの場で悟れるかということです。
874では、感覚の入力によって生じる認知は「ありのままに」しておくなら、ひとつづきの流れとして継続しているだけのことである、つまり無常という現象を、「想いを想うことなく、想いを離れて思うことなく、想いがないことでなく、想いを離れた者でもない」という言で語り、そこには虚構の名称(papañcasaṅkhā)という実態化する、しくみ、が機能していないときは、つまりは認知が機能しているときのみ「ある・ない」という「二項対立」が機能しているのであり「二項対立」が機能していないなら、イメージを形成し、世間(loka)は立ち上がらない、このことを見て取るのが、あるがままをあるがままに知り見ること(yathābhūtaṁ ñāṇadassanaṁ・如実知見)ということです。
「ある・ない」という「二項対立」がなければ、離れることと生存、決めつけ、論争もない。
「ある・ない」という「二項対立」がなければ、苦と楽、世間での快と不快、世間での欲もなくなり
「二項対立」が機能しているのは接触があるときであり、この接触が欲求を立ち上げる。そして欲求が、私のものという煩悩を立ち上げ、私(我)を立ち上げると説きます。
ではなぜ、あるがままでないイメージを形成し、世間を立ち上げるのか、それは、十二処、十八界、五蘊という要素に、例えば、眼に接触した、美しい色(美しい異性など)に、欲望を抱き、執着して、実態化するからです。
世間の人々は864~865の問答でも解るように、欲chando(渇愛taṇhāと同義)から、外の世界のものを、好んだり(貪loba)嫌ったり(瞋dosa)という二項対立もついてまわり、なにより、そのことは自覚しない(痴moha)(無明avijjā)のです。
そして871~872では、欲求Icchā(渇愛taṇhāと同義)によって、世間という像(イメージ)(形態と名称)を結ぶレンズとして機能するのが、私(我)mamatta(我attāと同義)という仮像で、五蘊、十二処、十八界、もそれらが「私の」認知だと捕らえられたときにはじめて統合の中心を得て世間を形成する要素として機能します。
眼・耳・鼻・舌・身・意と色・声・香・味・触・法が触れて生ずる、個々の認知を、それは私のものである、それは私であり、それは私(我)であると捕らえられることがなければそれらは、レンズの機能をする私(我)という統合の中心を失って、ただ、ひとつづきの流れある、ただの現象がそこには、あるがままにあるだけです。
このように渇愛・煩悩・我執によってイメージを形成し、現象を実態化し対象化する、はたらきのことを虚構の名称(papañcasaṅkhā)といいます。
873~874は、欲望によって、様々なイメージが私(我)という像を結んだのが世間であり、それは虚構の名称というはたらきが機能しているときに限り存在するが、その、はたらき(形態をつくるはたらき)がなくなれば、生存から離れると説いています。
873の問は、生存から離れる(vibhoti)とは、離れることと生存(Vibhavaṃ bhava存在・非存在)から離れるという意味で、生存とは生きること、すなわち、苦(dukkha)のこと。
苦・楽とは、「認知されうるもの全て」であり、世間で生きること、すなわち、苦(dukkha)のことを二項対立の図式を含む言で表現した言です。
つまりは、苦(dukkha)という二項対立により虚構の名称というしくみによって仮像された(汚れた)像を離れるには、どのように、行なえば(sametassa)よいかという問です。
874は、世間というのは実際には虚構の名称によって作り出された仮の象に過ぎないのであるから、それが欲望する私(我)の認知とは独立に事実として「ある・ない」「苦・楽」「存在・非存在」などは見当違いのものごとである、862~868の問答は当時のバラモンが論争していた「常恒・常恒でない」「有限・無限」というような二項対立(ウダーナ6-4~6-6参照)も同様でそんなものは答えようがないというのがお釈迦様の答えで、二項対立というのは虚構の名称が作っているのだから、認知が我執を伴っている限り、世間(世界)は生成され続けるのだから、二項対立から我執から離れて虚構の名称が働かなくなる、別な言い方では、はたらく場所である身体(形態)から離れる、これがお釈迦様の答えです。
875~877は、常駐諭・断滅諭、という二項対立では、依存ある、つまり渇愛・煩悩・我執があるのだから、悟ってはいないということです。
866・868の④の問答の内容についても触れておきます。サマナによって説かれた法とは、智の道という、お釈迦様の説かれた法のこととあります、これは二項対立しない道である、中道のことです、つまりは八正道のこと、要するに悟りへの実践の道です。
(八正道については仏教副読本で、お釈迦様ご自身の説明を記載してありますので参照してください)
十二縁起がこのように開示されています
863
愛しいもの → 紛争と論争、悲しみや憂い、物惜しみ、くらべる心と高
慢、悪口
865
欲 → 愛しいもの、世間にはびこる貪欲、来世ついて人がいだく願望と叶
うこと
十二縁起では下記に相当する
渇愛→執着→有→生→老死愁悲苦憂悩(一般的な苦しみや悲しみなど)
縁起というのは関係性の表現方法で、862を例に取ると。
紛争と論争→悲しみ。悲しみ→憂い。悲しみや憂い→物惜しみ。紛争と論争→くらべる心。紛争と論争→高慢。くらべる心→高慢。くらべる心と高慢→悪口。などなど
口を動かす→悪口。悪口を考える→悪口。相手が気に入らない→悪口を考える。などなど
相手がここにいる→相手は歩いてここに来る。相手はここに来ようと思う→歩いてくる。歩こうと思う→歩いてくる。何か食べる→歩こうと思う。などなど
上記の様に862を見ても、無数の縁起でものごとは成り立っています。十二縁起とはお釈迦様が十二の項目を選び出して並べた教えです、その目的は、悟りをえるためです、それでは、どうしたらよいか、それは欲(無明・渇愛)を滅ぼすということだ、というのを一目で解るように、多くのお弟子さん達が解るように説いた教えです。
お釈迦様を訪ねてきた対話者も真理を求めるバラモンです、目的は同じですから、同じ教えを説いています、ただ相手が理解しやすいように、無数の縁起の中から相手が学んできた言葉で、相手のレベルに合わせて、相手の質問に答えるという形で説いています。
縁起の法は、解説でも触れましたが、身近な切実なところから始まる教えです。お釈迦様の教えは四聖諦でも一番身近な苦諦から始まり、悟りへの修行方法でも、身近な生活を整える戒律から始まり、瞑想でもまずは自分自身の体から始めていく、縁起の教えを理解するのなら身近なところから始めていけばよいです。
867・868
世間での快と不快 → 世間での欲、怒り・偽りの言葉・疑惑
離れることと生存 → 決めつけ
十二縁起では下記に相当する
受→渇愛→執着
ここでは、世間的な視点で欲(渇愛)(煩悩)がどのように生じるかを説いています。
870
接触 → 快と不快
接触 ← 快と不快
接触 → 離れることと生存
十二縁起では下記に相当する
触→受
触←受
二項対立の原因は接触という教えです、二項対立とはどちらかを選ぶという図式ですが、これは生物としての人間は、いま目の前にあるものを食べるか、食べないか、道が右と左に分かれていれば、どちらに行くかなど、二項対立という図式は、まよいの図式であると同時に、生きる(生存)ための図式でもある為に根深いしくみです。
お釈迦様は、接触→受という言で二項対立というしくみは感覚のことであり、この仕組みは生命が生きるためのしくみであるのだから、どこからどのように出来たのかを問うても、このしくみはアートマンによってなされているのか問うても、悟りには役に立たないと説いています。
ここで縁起の型式つまりは、お釈迦様が智慧を使う方法を開示します。
①これがあるからあれがある、②これが生ずるからあれが生ずる
③これがないからあれがない、④これが滅するからあれが滅する
①は常に支え合っている因果関係、②は原因によって原因と異なる果が生まれるという連続性を示す因果関係
世の中の現象は、二つの側面があり、ここにある現象を、それはどうゆうことかと説明すること(例えば引力という原因が絶えずあるので、人は地面に付いている)が必要なのと、その現象が変化して違う現象になる(百年前の世界と今の世界が、だいぶ変わっているように)その、現象が違う現象になる仕組みも説明しなくてはなりません。その両方を説明するための、厳密に見るための方法です。
③④は①②の反対です、これは正しいと確かめるための方法です。「AがあるときBがある」、これが正しいと確かめるには、「AがないときBもない」と発見し、Bという現象の存在にAという現象が欠かせないと、確かめる、こうして、すべてのものごとを観察したお釈迦様は、一切の現象は無常であり、消えてゆくものだと発見したのです。
このようにお釈迦様が因果関係を使って、ご自分の教説を説明したのが十二縁起です。
無明→行→識→名色→六処→触→受→渇愛→執着→有→生→老死愁悲苦憂悩
無明←行←識←名色←六処←触←受→渇愛←執着←有←生←老死愁悲苦憂悩
上記の十二縁起には、お釈迦様の教説のすべてがまとめて入っています、この経典の対話者にもバーヒヤにも、同じことがらを相手に合わせて、言を変えて説いています。
872
名称と形態 → 接触 → 欲求 → 私のもの → 私(我)
形 態 ← 接触 ← 欲求 ← 私のもの ← 私(我)
十二縁起では下記に相当する
名色→六処→触→受→渇愛→執着→有
名色←六処←触←受←渇愛←執着←有
ここでは、生命が生じて(名色)渇愛の再生産をへて執着を作りまた生じる(生存・有)しくみを説いています。
触→受で渇愛が生じ執着が生じ業(行)が生じ生存する、輪廻のしくみ
です
触の原因は名色(生命が生じる)で、生存する原動力は欲・煩悩(欲求)である
生命が誕生して死んでまた生まれるサイクルを開示しています、用語は異なりますが同じことです。
874
想 → 苦と楽・形態
想 ← 苦と楽・形態
十二縁起では下記に相当する
識→名色
識←名色
想 (S. saṃjñā P. saññā) は、共存や完成を意味するsamと知るを意味するjñāから作られ、
識(S.Vijñāna P. Viññāna)は、分離を意味するviと知るを意味するjñāから作られた言、対になる語形で、両方とも分けて知ることを意味し、二項対立の原因であることは同じです、想は名ずける、つまり言語で知ることも意味します、最初の対話862・863が紛争と論争から悪口が起こるということを説いて、それをふまえて名色の原因は名ずけるという意味を含む想という答えを説かれたと思います。
ウパニシャット以前からの言である名色の原因(根底)に想を求めるように説いていますが、スッタニパータ1037には、識が滅することにより、名称と形態が残りなく滅する、とあります、状況や相手により、お釈迦様は言をお使いになったということです。
無明→行→識→名色、について、生命はどこからどのように出来たかという話です、哲学で言う存在論に当たります、毒矢の例えという教えでも解るように、言にしていないだけで、実際には865(渇愛→執着→有→生→老死愁悲苦憂悩)で語っています。
無明というのは、知らない、つまりは名づけるということにより二項対立をつくることを知らないということです、後の時代になると四聖諦を知らないなどと説明されます。
詳しくは縁起についてをご覧ください
バーヒヤ経との関連
スッタニパーターの争闘経では、接触を原因として、快と不快・離れると生存が生じると説かれています、これはアートマンは認識には必ずしも必要ないという事を意味します、接触という感覚・認識作用である二項対立から、欲求か生じ、私(我)が生じると説かれ、虚構の名称というしくみが説かれ対話は進みます、バーヒヤ経ではこの接触を原因とした虚構の名称というしくみをお釈迦様は
①バーヒヤさん、それでは、このように、あなたは学ぶがよい。
見られたものの中には、見られたものしかない
聞かれたものの中には、聞かれたものしかない
思われたものの中には、思われたものしかない
識られたものの中には、識られたものしかない
②このことを、あなたは学びなさい。
バーヒヤさん、あなたにとって、
見られたものの中には、見られたものしかない
聞かれたものの中には、聞かれたものしかない
思われたものの中には、思われたものしかない
識られたものの中には、識られたものしかない
バーヒヤさん、それですから、
③あなたは、それと(見られ・聞かれ・思われ・識られた)ともにはいないのです
バーヒヤさん、
あなたは、それと(見られ・聞かれ・思われ・識られた)ともにいないのですから、
④バーヒヤさん、あなたは、そこに(対象の世界)いないのです。
バーヒヤさん、あなたが、そこに(対象の世界)いないのですから、
⑤あなたは、ここにもいない、向こうにもいない、あるいはそのあいだにもいないのです。
これこそは、苦の終わりです
という説法で解き明かしています、争闘経では862~873の対話にあたります。
見られ・聞かれ・思われ・認識した、というのは五蘊と同じことというのはバーヒヤ経で説明しています、五蘊は十二処と詳細は省きますが同じことを説明する言です、五蘊での説明はバーヒヤ経でしていますので十二処で説明します。
バラモンであるバーヒヤさんの学んだウパニシャットでは、お釈迦様が解き明かしたような眼・耳・鼻・舌・身・意(感覚器官・あなたの中の世界)とその対象としての色・声・香・味・触・法(外の世界)が接触して感覚が起こるという教えでなく、アートマンが魂のようなものに宿り感覚を司るとされ、アートマンとブラフマンが同一と理解することが悟り、というのが常識でした、お釈迦様の説法というのは最初は大まかに説いて順々に詳細に説いていきます、
①では「感覚しかない」つぎに、
②では「あなたの中も感覚しかない」と説きます、仏教の言葉では十二処
となります、一切と表現し、六処→触→受 とも表現します、
③では「あなたの中の感覚を司るものなど認識できない」なぜなら、あな
たは「あなたの中(中の世界・眼・耳・鼻・舌・身・意)」にもいないか
ら、
④では「あなたの外の世界に対する感覚を司るものなど認識できない」な
ぜなら、あなたは「外の世界(色・声・香・味・触・法)」にもいないのだ
から、と説きます
①~④は、十二処という二項対立のしくみ・苦の生じるしくみの説明です、その原動力が欲・煩悩であることや、真理への道筋は、バーヒヤさんには説明不要とお釈迦様は見て取ったように思います。認識できないアートマンとブラフマンはなくても生存できるという「しくみ」もここでは開示しています。
⑤では、無我と悟りを解き明かしています。
(詳しくは次のページをご覧ください)
争闘経では
想いを想うことなく、想いを離れて想うことなく、想いがないことでなく、想いを離れた者でもない
このように行えば形態は、生存から離れます
上記のように無常・苦と悟りを解き明かしています。
すでに説明したように、無常・苦・無我は同じことを言葉で三方面から表現したにすぎません、
バーヒヤ経では、簡潔にお釈迦様は説いているので、争闘経での対話で、そしてウダーナ1・1~1・3で説かれた縁起の法(しくみ)をどのように説いたかの具体例として紛争と論争経を解説してみました。
1章10 バーヒヤの経の現代語版
見たら、見ただけ、で止まりなさい
聞いたら、聞いた、ところで止まりなさい
嗅いだら、味わったら、そこで止まりなさい
なにか思考が生まれたら、すぐに止まりなさい
そうするとあなたは、こちらにもいませんし、そちらにもいませんし、真ん中にもいませせん
あなたというものはどこにもいないのです
どこにもいないということは苦しみの終了です
スッタニパータ 4.11 紛争と論争の現代語版
想う人でなく、想いを離れて想う人でなく、想わない人でなく、想いを超越した人でない
想うことを止め(実体を離れる)たら、あなたはどこにもいない
なぜなら、想いから、あなた(虚構)は生じるから
あなたが、どこにもいないということは苦しみの終了です
バーヒヤ経 解脱への道の直訳
Tasmātiha te, bāhiya, evaṃ sikkhitabbaṃ
それでは あなたは バーヒヤ このように 学ぶべきです
diṭṭhe diṭṭhamattaṃ bhavissati,
見えたものには 見えたもののみが あるであろう
Sute sutamattaṃ bhavissati,
聞いたものには 聞いたもののみが あるであろう
Mute mutamattaṃ bhavissati,
思われたものには 思われたもののみが あるであろう
viññāte viññātamattaṃ bhavissatī’ti.
識られたものには、識られたもののみが あるであろう
Evañhi te, bāhiya, sikkhitabbaṃ.
そのように あなたは バーヒヤ 学ぶべきです
Yato kho te, bāhiya,
なぜなら あなたにとって バーヒヤ
diṭṭhe diṭṭhamattaṃ bhavissati,
見えたものには 見えたもののみが あるであろう
Sute sutamattaṃ bhavissati,
聞いたものには 聞いたもののみが あるであろう
Mute mutamattaṃ bhavissati,
思われたものには 思われたもののみが あるであろう
viññāte viññātamattaṃ bhavissatī’ti.
識られたものには、識られたもののみが あるであろう
tato tvaṃ,
それゆえに あなたは
bāhiya, na tena yato tvaṃ,
バーヒヤ それとともにはいない なぜなら あなたは
bāhiya, na tena tato tvaṃ,
バーヒヤ それとともにはいない それゆえに あなたは
bāhiya, na tattha yato tvaṃ,
バーヒヤ そこにはいない なぜなら あなたは
bāhiya, na tattha, tato tvaṃ,
バーヒヤ そこにはいない それゆえに あなたは
bāhiya, nevidha na huraṃ na ubhayamantarena.
バーヒヤ この世になく あの世になく 二つの中間になく。
Esevanto dukkhassā
これが 苦の終わり
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このウダーナもまた「お釈迦様によって説かれたものである」と、わたしは聞きました。ということで
菩提の章が、第一となる。
その章のための、まとめとなる。
詩偈に言う
「三つの菩提、大仰な者、バラモンたちカッサパ(マハーカッサパ)
とともに アジャ(アジャカラーパカ)、サンガーマ(サンガーマジ)、結髪者たちがあり、バーヒヤとともに、それらの十がある」