見出し画像

ブッダ・心のことば ウダーナ第2章10 バッディヤの経  わかりやすい版

2 ムチャリンダの章

2.10 バッディヤの経(20) 
 
  自分のこころに自分がいなければ
  こうである、こうでない、ということはこえる
  そんなひとは恐れもなくなり
  悟りの世界に住んでいる
 
 あるとき、お釈迦様は、アヌピヤーに住んでおられた。
 郊外のマンゴーの果樹園で、バッディヤは、林でも、木の根元でも、「ああ、楽しい「ああ、もう楽しい」と、唱えた。
 大勢の弟子は、バッディヤが、「ああ、楽しい」「ああ、もう楽しい」と、唱えているのを耳にしてこう思った。
「バッディヤは、修行していても、昔、王様であった時の楽しみを、思い浮かべて、『ああ、楽しい』『ああ、もう楽しい』と、唱えたのだ」
 弟子たちはお釈迦さまに、こう申し上げた。
「尊き方よ、バッディヤは、林でも、木の根元でも、『ああ、楽しい』『ああ、もう楽しい』と、唱えてながら、清浄行をしています。昔、王様であった時の楽しみを、思い浮かべながら、『ああ、楽しい』『ああ、もう楽しい』と、唱えています」
 お釈迦さまはバッディヤを呼び出し、語りかけた。
「林でも、木の根元でも、『ああ、楽しい』『ああ、もう楽しい』と、唱えたのですか」
「尊き方よ、そのとおりです」
「バッディヤよ、なぜ、『ああ、楽しい』『ああ、もう楽しい』と、唱えたのですか」
「尊き方よ、わたしが昔、在家であったときには、王として権力をふるい、国の守護はしっかりとしていました。
 このように守られていたのですが、疲れ、疑い深く、恐れながら、住んでいました。尊き方よ、わたしは林でも、木の根元でも、独りでいながら、恐れず、疑いなく、恐れなく、安心して、落ち着いていて、施しで生活し、鹿のような穏やかな心で住んでいます。
 尊き方よ、わたしは、このようなことで、『ああ、楽しい』『ああ、もう楽しい』と、唱えていたのです」
 
    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 解 説 1
 「自分」とは、「私がここにいる」「私が偉い」という実感です。
 言い換えれば「自分」とはプライドのことで、この「自分」が、王や部下、妻、子供などに、いろいろな役柄を割り振り、その通りに演じなさいと求めるのです、しかし世の中はその通りに動いてはくれないのです、期待に応えられないと恐れます。
 悟った人には「自分」がないので、恐れもありません。
 
    ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
  
 解 説 2
 ここで一般的な解説と仏教の見地からの二種類の解説を記載します、2.8スッパヴァーサーの経の解説も兼ねています。
 
 仏教の中心部の解説です、何度でもお読みください。
 
 
  一般的な解説です
日本語訳は直訳に近い訳にしてあります
(1行目の詩)
Yassantarato na santi kopā,
心の中に怒りが生じていない
 *怒りというのは嫌な気持ち、不安も怒りです。おそらくバッディヤ王子
  がライバル達に対して怒りを持っていたでしょう。釈迦族では王である
  ことを決定してないので、みんな兄弟で親戚だから争いをしなかったの
  です。しかし、他の者が人気を得たら自分の立場が下がるという恐れが
  あったでしょう。バッディヤ王子は不安なのです。
 *このような怒りが、今は静まれば

(2行目の詩)
Itibhavābhavatañca vītivatto;
こうである、こうでないが消えた人であり
 *バッディヤ王子の在家のときの気持ちは、バッディヤさんは怒りがなか
  ったら王としての仕事が務まらないのです。ライバルを倒さなくてはい
  けないのです。自分が殺される恐れがあるからです。
 *このような問題をどう解決すればいいのかという不安・心配・迷いがあ
  るのです。
 *今は、このような気持ちは消えている
 
(3行目の訳)
Tam vigatabhayaṃ sukhiṃ asokaṃ,
もし恐怖がない、つぎ安楽になって、憂いなく、悲しくない、状態になるならば、

(4行目の訳)
Devā nānubhavanti dassanāyā
たとえ神々でさえそういう人々にアクセスできません。
 *もう超えています。
 *もし、心が憂いなく、悲しみなく、そういう状態になったならば、もう
  神々にさえアクセス不可能。

    仏教の見地からの解説です
(1行目の詩)
Yassantarato na santi kopā,
自分の心に怒りがなく静まれば
 *antaraというのは自分の心(の働き)です。心はどんな情報にも対立的
  に反応しない。もの(認識対象の情報)が眼耳鼻舌身に触れて流れて消
  えていく、放っておけば流れるのみになり。
 *心が放っておける境地に達していればkopā(怒り)がないと悟りを表現
  しています。
 *悟った人に私はいませんから、私は消えたのです。眼耳鼻舌身意に色声
  香味触法が触れては流れるだけです。
 色声香味触法に対して眼耳鼻舌身意が何か考えを持って、策動を持って、固定概念を持って当てようとはしないのです。固定概念を持っていると、好きになるか、嫌いになるかどちらかになるのです。
 悟ってない人はいつでもそこで苦しんでいるのです。悟りに達したら、心は空気のように流れるし、眼耳鼻舌身があって、色声香味触法が流れていく、眼耳鼻舌身の方で期待はないのです。
 だから、私は捏造して、この味だったら食べたい、この味だったら食べたくないとか、前もって捏造して(固定概念を)つくっているのだから、その自分の型に合うならば楽しい、型に合わなかったら楽しくない、こうして、心は激しく汚れるのです。
 つまりYassantarato na santi kopāというのは単純に「怒りがない」っていうことではないのです。
 Antaratoはエネルギーチェーンなのです。
 心だけではなくて、眼耳鼻舌身意の6つの流れの間で何も対立が起きないということは、言葉にすれば、(「怒りがない」ではなくて)「放っておく境地になりました」となります。
 なんで私たちにものごとを放って置けないのかと言うと「私がいる」からです
 
(2行目の詩)
Itibhavābhavatañca vītivatto;
こうである、こうでないを超え
 *Itibhavābhava というのは、こうではないか、ああではないかという心の
  状態です。
 *vītivatto;は超越する、消える
 
 人々は何にしたっても決定的には言えないのです。何故ならば、皆、自分の主観を持っているからです。
 一人一人の生命が自分の貪瞋痴でできた型を持っているから、この型で判断するのです。
 何事にしても人生も曖昧なのです。
 生命はみな、輪廻転生する生命には、これは決定っていうことはないのです。人々は偉そうに決定して生きているようなふりをするのだけども、すべて曖昧で生きているのです。だから、1秒でも人々は「こうですよというふうに決めて落ち着くことはできない」のです。
 人々は大まかな事で不安を感じていますが、本当は、瞬間瞬間に不安を感じているのです。ですから、無常を発見しないならば不安は消えません
感じ方が、(情報処理の仕方が)悪い人はすぐ結論に飛びつく、危険です。が何も決定しないで、曖昧、中途半端では、生きられません。生きるためには判断しなくてはいけない、決定しなければいけない。決定しても、それが不安です。正解ではないのです。
 悟れば(不安)が心から消えます、瞬間の不安も生まれません。
理由はいたって簡単です。私が消えたからです。これは私がいるからで、自我があるからです。自我がなかったら瞬間の不安は生まれません。
 何かについて意見が2つあったら、どちらでも知らないということです。
 例えばこういう質問を出しましょう。「人には死後がありますか、ないですか」と質問すると、意見が2つに分かれるのですが、どちらも(正解については)答えられません。
 そしてもう一人が「分かりません」と言ったら役に立たない。「分かりません」では決定できません。
そ ういうふうに科学でも一つも決定していない。どうなるかは分からないのです。だから、一般人には瞬間たりとも安らぎがないのです。自我の錯覚でつくっているのだから、悟ったとは「私はいない」と発見することです。いなかったのですから。発見したら、そこで安らぎが生まれる。
 そこで「こうではない、ああではない」が消える。
 
(3行目の訳)
Tam vigatabhayaṃ sukhiṃ asokaṃ,
恐れを離れ去った安楽で憂いなき人を
 *Tamそれ、vigatabhayaṃ恐れがない、sukhiṃ安楽、 asokaṃ憂いがない
 *vigatabhayaṃというのは恐怖感がなくなったということです。
  悟った人のことで、「存在欲」が消えたという意味です、「存在」がな 
  い、ということは自分がないだから。六つの流れが流れているだけなの
  です。存在欲というのは自分がいるという錯覚があるから生まれるので
  す。
 生きて行きたい、死にたくないと言うためには自分が今いなくてはだめで
 す。
 人々の恐怖感というのは存在欲から出てくるのです。これはもう避けられない、私が勝手に生きて行きたいと思っても、瞬間、瞬間、死んでいるのです。瞬間、瞬間、壊れているのです。壊れているのだから恐怖ですよ。嫌だ、怖いと生きていかなくちゃいけないのです、何故ならばすべて無常だからです。
 悟ったら恐怖は消えます、それで楽になって、憂いがなくなる。憂は期待から生まれるのです。
 フォーマットがあって、型があって、型に合わなかったら憂いが生まれる。憂い悲しみと言うのは、我々がどれぐらい強い型を持っているのかというところから生まれるのです。それで型が消えるから憂いはなく、それで存在もないから、
 
(4行目の訳)
Devā nānubhavanti dassanāyā
神の領域も超えている。
 
 

いいなと思ったら応援しよう!