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私見 義信事件2

つづきです。
今川氏真が父・義元以上の策士なら、甲斐を奪って版図を拡げる最大の障害を除くはずだ。それは、武田信玄そのもの。甲州人は一己の有力者には従うが基本は独立気質の烏合の衆。信玄という要がなくなれば、かりそめに束ねている義信など借り着にしかならない。

そのことを最も知っている人物が義信側にいたことが、この謀叛劇の大きな敗因かもしれない。

飯富虎昌、義信の傅役。彼が「自分こそ首謀者」として、信玄に密告して露見した。

飯富虎昌は先代・武田信虎を駿河へ追放したときの家臣団のひとり。
武田家骨肉の辛さをよく知っていた。だから、謀叛の首謀者と称して義信を庇ったのである。

「よき折にて、太郎に頼みがある」
 信玄は盃を置いた。
「四郎を、よく面倒みてやってくれ」
「四郎を?」
 義信は首を傾げた。
「あれに諏訪を任せるが、癖馬に等しい。手綱が巧みなら、癖馬も名馬になる。亡き板垣駿河守のところにいた曲淵庄左衛門も、三郎兵衛の扱い次第で今ではたいそうな戦さ上手になった。わかるな」
「平素では厄介な暴れもんと聞きます」
「三郎兵衛は上手に扱っている。四郎も似たようなもんずら。おまんに全てを託す」
「は」
 なぜ諏訪四郎勝頼の話をするのだろうかと、義信家臣団は首を傾げた。信玄は、その関心を知ったうえで、声を大きくした。
「東美濃で対峙した織田上総介と和睦することになった。恐らく先方からは人質条件で輿入が申入れされるだろう。儂は、四郎にこれを娶せるつもりじゃ」
 めでたいと、義信は笑った。
「お待ち下さい」
 曾根九郎左衛門虎盛が進み出た。義信家臣団のなかでは齢を経た者で、感情的な物云いを律していた。彼は、今川家の仇敵と結ぶことの不義を訴えた。若者たちもそれに頷いた。
「皆の者、聞け」
 制したのは、義信だった。今川氏真に仇討ちの協力を再三申し入れたにも関わらず、相手にもされなかった交渉のことを義信は告げた。口惜しいのは、義信とて同じだ。
 思いも寄らぬ言葉に、義信家臣団は静まり返った。
「四郎のことはお任せください」
「頼りにしているぞ」
 この父子のやりとりは、ひとつの方針の決定にも似ていた。
 頼りにならぬ盟約は守るに値しない。これこそ戦国の倣いだ。当然のことだった。義信もやはり、武田の血を引く一己の獣であった。
 その夜のうちに、穴山彦八郎信嘉は義信信奉者に
「猶予此なく」
と発した。信玄を駿河に追い、義信を立てて今川家との綿密な共存をするのだという共通意思のもと、彼らは躊躇なく動き出した。
 そこに義信の意思はない。すべて彼らの一存だった。ただ義信さえ旗頭でいてくれればいいという、勝手な妄信のもとの謀叛だ。
 七月になり、その総大将として飯富兵部少輔虎昌が奉り挙げられた。
        (NOVLEDAYS「光と闇の跫」第9話義信事件(後))抜粋

思うに、信玄と義信の不和は、本当かどうかも疑わしい。

大河ドラマにもなった新田次郎の「武田信玄」。父子不和の根底は夫婦不和で、信玄が諏訪の姫に肩入れしすぎ勝頼を寵愛したような筋書きになっている。しかし、それさえ作者も創意であることを納得しているものだ。信玄と正室は不仲である根拠は、ない。

義信事件ののち、信玄は駿河を侵攻した。
目に見えぬ先手を討たれた報復という正当な理由があれば、後ろめたいこともない。
ただし「生島足島神社奉納起請文」により、全ての家臣に忠誠を疑わねばならぬ事態になったことだけが、信玄にとっての如何ではあるまいか。

 義信の立ち直りを期待していたが、その願いは、日に日に失意へと変わっていった。義信は食を受けつけなかった。意図的にではなく、身体がそういう反応を示すのだ。今日でいう、拒食症である。
「どうして、このような」
 信玄は泣きそうな表情で、随行させた僥倖軒宗慶に問うた。
「余程に、厭なことが」
「東光寺にあってか?」
「誰か、御館様の他に若殿を見舞う者はござらぬか」
「……ひとりだけ、いる」
 義信の妻だ。
 聞けば、三日と置かずに通っている。それは当然のことだろうと、誰も疑いはしなかったが、果たして見舞いの言葉が何であるものか。用心深い信玄も、このことばかりは間諜を用いていなかった。
 迂闊だった。
 躑躅ヶ崎に戻ると、東光寺周辺警護を厳重にするよう布告した。これは表向きのことだ。その上で、手練の素波五人を選り、昼夜絶え間なく東光寺仏堂内を監視させた。無論、信玄が見舞うときも、である。
 異変はすぐに報告された。
「御方様は駿河と通じております」
         (NOVLEDAYS「光と闇の跫」第10話涼風至)抜粋

義信が命を縮めたことの原因が今川ならば、信玄の駿河攻めは正当だといえよう。