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鈴岡城址
築城年代は定かではないが、室町時代初期に小笠原貞宗の子宗政によって築かれたとも云われる。鈴岡城は天竜川によってできた河岸段丘の東端に築かれている。北の毛賀沢川を挟んで松尾城と相対する位置にあり、現在は両城ともに公園として整備されている。
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足を運んだら、ボタボタの雨で、NO☔だったから散策もソコソコでした。
室町中期中興の祖である小笠原政康。房総武田氏の祖・武田信長を描いた「信長伝」(アルファポリス公開)にも登場した重要人物。
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小笠原氏は政康の死去後、府中深志・松尾・鈴岡に分裂し、対立した。鈴岡城は字の如く、鈴岡小笠原氏の居城である。「御所車-知久太平記-」でも小笠原氏が在地にとっての古き足枷であることが描かれている。
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小笠原家は、武田信玄の侵攻に際し分裂して運命を割った。
分家である松尾小笠原家に対抗するため、府中信濃守護職の小笠原本家から派遣された信定は鈴岡小笠原家を再興。目と鼻の松尾城にいた小笠原貞忠と対立する。在地豪族はこのときの小笠原家の内々抗争に巻き込まれたようなもので、迷惑だった。
やがて松尾城は鈴岡側の勢いで陥落する。
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小笠原貞忠の子・信貴は松尾を取り返す大義名分のもと、身を寄せた武田信玄のもとで信濃先方衆として活躍。やがて故地を取り戻した。しかしこれによって、南信州は武田の支配下となる。
鈴岡の信定は、先に信玄に敗れた兄で本家の長時と抵抗するが敗北、上洛し同族の三好長慶らを頼る。しかし織田信長により討たれて果てた。兄・長時は小笠原流礼法や弓術などを政治的に利用して後世に生き永らえる。
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織田信長が甲州征伐したときは、信貴の子・信嶺が真っ先に武田から寝返る。南信州の人間雪崩現象はどこに主原因があるか、まだまだ底が知れないところがある。しかし小笠原家の背信は武田家にとって大打撃だった。
鈴岡城はその後、小笠原家が天正18年に武蔵国本庄へ国替となったことで廃城になったと考えられる。しかし遺構がこれだけ残されて住宅化を逃れたことは大きな功績だと考えられる。
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この攻防も、「御所車-知久太平記-」で描かれています。