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寛永絵画からの浮世絵

菱川師宣。
寛永七年(1630)に安房国保田で誕生した。父は縫物師、絵の才能は遺伝だろう。安房にて父子合作「釈迦涅槃図」縫い絵の下絵を描いたとされる。つい先日の2月15日が、年に一度の公開日。
菱川師宣は16歳で江戸に出て、絵師の修行を始める。
その頃の絵画事情を少し俯瞰しよう。寛永年間のざっくりした記録は、こうだ。

 寛永七年  狩野尚信、江戸へ下向し御用絵師となる
 寛永一二年 狩野守信、探幽斎と号す
 北村忠兵衛、京都清水寺に末吉船を画きて額を掛く
 寛永一四年 岩佐又兵衛、将軍の命で千代姫婚礼調度を描く
 寛永一七年 岩佐又兵衛、武州川越喜多院の額に三十六歌仙を描く
 寛永年間  俵屋宗達、風神雷神図を描く(伝)
 
後世の傑作が登場するも、浮世絵としては円熟をみておらず、菱川師宣は狩野派・土佐派・長谷川派の技法を学んだうえで、独自の方向性を試行錯誤し表現していく。そのうえで古版絵入り本の復刻の挿絵や名所図会を描き自己修練に結びつけた。
延宝年間にはいると、絵本や枕絵本を次々と刊行し〈師宣様式〉と呼べる技法を定めていった。この延宝年間、菱川師宣の故郷は〈延宝房総沖地震〉という、太平洋側を震源とする海底地震で被災する。M8.4のプレート間地震で関東大震災クラスとされる。
菱川師宣の独自性は、江戸にある流派に属すことなく、独学で技巧を確立した。それを磨いたのが挿絵だ。特に明暦三年(1657)に発生した明暦の大火以降は、大衆娯楽が活性化し出版物が多く普及した。それらの挿絵を手掛けていた菱川師宣の人気は江戸に浸透していく。
 
大江戸バブルといわれた元禄前後。
この時期に発表されたのが有名な〈見返り美人〉と呼ばれる傑作。事実、菱川師宣の名前は知らずとも見返り美人は分かるといわれるほど、浮世絵素人にまで浸透された。
当時、手がけた読み物挿絵の傑作が、井原西鶴の『好色一代男』。
 
天才というものは、古今東西、共通するものがある。
一己の才として、後継者や血縁者に煌めくものを伝えることなく、一代の華として天に帰してしまうことだ。菱川師宣もそのひとり。弟子とした実子や門人たちは、別の手法を得て、あらたな高みを目指した。芸術というものは、例えるならば、終わりなき螺旋を昇り続ける駅伝にも似ている。音楽も、映像も、もちろん文筆もそう。襷を得た者も、まだ握らぬ者も、脇目も振らず登り続けていく。
天才でない者は、必死にしがみつき落とされぬよう、四点確保で死ぬまで登らなければいけない。
凡徒代表のワシとしては、それを地でいくことを大いに自覚する。

先に〈延宝房総沖地震〉を案内したが、師宣晩年には〈元禄大地震〉が勃発する。
菱川家の菩提寺は大津波に飲み込まれて破壊されたが、師宣の寄進した大釣鐘だけが洗いざらいの地面に流されず残されていたと伝わる。
その釣鐘も大東亜戦争で供給され復員することはなかった。複製は、道の駅きょなん敷地内にあるので、一度ご覧になるといい。

房州日日新聞連載作品「真潮の河」
醍醐新兵衛と菱川吉兵衛、15歳。
世代が緩やかに移り変わる、第4話に突入です。


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