魔斬
最終話 安政奇譚⑨
駕籠は、江戸府内へと向かった。
その道中、浅右衛門は無口である。じっと、己の手で仕置された罪人たちの事を、考え込んでいた。こんな気休めをしたところで、罪人たちが成仏出来ない事くらい、十分承知している。現にその後は、浮かばれずに彷徨い出た罪人の霊を魔斬して、やっと彼岸へと送っているのだ。
それでも刑場廻りをするのは、首斬り稼業で喰っている浅右衛門の業である。それが生業の浅右衛門の、年にたった一度だけの〈良心の呵責〉であった。日本橋を過ぎると、年越しの支度を終えた男たちが、屋台に店先に、酒を呑み交わしている光景が見え隠れした。
(そういえば)
浅右衛門はまだ昼飯を食べていないことに気が付いた。時刻は八つ半にもなろうか。
「おい、蔵前で下ろしてくれ」
浅右衛門の声に、駕籠舁は応えた。蔵前に着くと陽は西に照っていた。浅右衛門は小判五両を出した。正規の駄賃より倍以上である。
「気分の悪い場所巡りじゃった。こいつで酒でも呑んで、憂を忘れてくれ」
浅右衛門の言葉に駕籠舁たちは御礼を述べて、逃げるように去っていった。
蔵前には大晦日なのに営業をしている食い物屋が多く軒を列ねていた。日雇いの独り者が多いためだろう。しかしその大半は、夕暮で暖簾を下ろす。
山田浅右衛門は大川沿いの船宿に立寄った。初めて入る店だが、漂う味噌の匂いにふらふらと釣られたのである。雑多に込み合う店内で、浅右衛門は隅に陣取り、小僧を捕まえると
「熱燗をくれ。それと、何か暖の取れる肴はないのかい?」
「狸汁なんぞは如何。すぐにお持ち出来やすが」
成程、あの味噌の匂いは狸汁のものか。
「よし、狸汁を頼む」
さほど待たずに、小僧が大きめの蓋付椀と二合徳利を持ってきた。
手酌で取り急ぎ二杯程呑み干し
「むう……生き返る」
凍えていた指先に、ゆっくりと感覚が戻るのを感じながら、狸汁を啜り浅右衛門はそれを肴に、たちまち二合徳利を干してしまった。駕籠のなかとはいえ、寒風に曝された一日である。冷えきった身体には、味の染みた蒟蒻に薬味の葱が堪らない。それに熱燗とくれば、身体の芯から温まること受合いだ。
こういう喧騒のなかに身を置いて、じっと独り酒を呑んでいると
(世の中は太平よな)
と実感させられる。首を斬ったり、魔を斬ったり、そんな血腥い毎日が、まるで嘘のようだ。遠く浅草寺の鐘の音が響く。いつしか混合う店内も人数が疎らとなった。障子をそっと開くと、巣へ急ぐ鳥の群れが大川を渡っていった。
(今年の陽も沈むか……)
二合徳利をもう一本、それと
「腹に蓄まるものがいいな。何か出来そうかい」
小僧は暫し考えて
「残り御飯がありますが、焼握りにしましょうか」
「それ、それ、それ。それを頼む」
程なく運ばれた焼握りであったが、これもまた、味噌の匂いが芳ばしい。どうやらこの店は味噌にこだわりがあるのだろうか。聞けば主人の生まれが三州豊川稲荷の門前町という。
(さては八丁味噌か)
心憎い味に、外が暗くなったことを山田浅右衛門はすっかり気付かずにいた。
「お客さん、今宵は早仕舞で」
小僧の催促に、浅右衛門はすっかり冷めた残りの狸汁を啜り
「また来るぜ」
そっと銭を置いて店を出た。
寒風は川を渡りいよいよ冷たい。
(おお、せっかくの暖気が逃げちまう)
背中を丸めながら、浅右衛門は帰途に就いた。
雷門辺りまで来ると、ちらほらと白いものが舞い降りてきた。
(おや、先程までは夕焼けであったものを)
恐らくは多摩辺りから、北風に乗った風花が舞い下りたのだろう。見上げると、北の空から、厚い雲がみるみると江戸へ迫るのが見える。
(こりゃあ降るぞ……ついてねえや)
風花は風に舞いながら、次第にその粒を大きくし、たちまちのうちに大雪の様相に一変した。広小路を往来する人々は、蜘の子を散らすように家路へ急ぎ、あっという間に人気は消え去った。蛇骨長屋に馴染みの店があったが、やはり大晦日に店を開けている筈もない。
雪は、みるみると地面を敷き詰めていった。山田浅右衛門は足早に歩いた。
土手通りに出ると、何やら山田浅右衛門は胸騒ぎを覚えた。
(これは……)
幽霊がいる。
幽霊が、狙っている。
この感覚は、紛れもない。
緊張が山田浅右衛門の背筋を走った。魔斬りをするつもりではなかったので、今は大太刀を持っていない。咄嗟に備前長光へ手を添えながら、浅右衛門はゆっくりと歩き出した。
大太刀は魔斬専用の道具である。普段、持ち歩くことなどない。
大太刀は、かつては代々の仕置に用いた首斬刀であった。しかし長年に渡り血を吸ったため、魔だけを斬ることの出来る妖刀となった。
ただし、間違えてはいけない。
魔斬は道具ではなく、磨かれた技で行なう。山田浅右衛門は大太刀がなくとも、多少の幽霊くらいならば、日頃帯刀している備前長光でも斬り倒せるのだ。
ふと、浅右衛門の目の前に、ふたつの人影が過った。
草臥れた浪人と年増の女。夫婦のようだ。仲睦まじく語り合っている様子で、何やら微笑ましい。しかし、浅右衛門の第六感が、この夫婦への警戒心を抱かせた。
一瞬。
目を剥いた浪人が、獣のように五間も跳んで、山田浅右衛門に掴み掛かってきた。浅右衛門はそれを躱したが、今度は内儀が飛び掛かってきた。
その顔に、浅右衛門は覚えがあった。
「そなた……!」
湯島横丁の長屋にいた、魔斬の依頼にきたあの内儀ではないか。そしてもう一人、浪人の事も思い出した。橋本左内の仇討ちと称して、浅右衛門に返り討ちされた浪人だ。
「そうか……二人は夫婦か」
浅右衛門は備前長光を抜いて、二人に対峙した。
「……殺す、殺す、殺す!」
内儀は白目で凄んだ。
首筋が青痣になっている。たぶんこの浪人が死んで間もなく、首を吊って死んだのだろう。さぞや浅右衛門を呪って、この世を去ったに違いない。
「しかし、小賢しい。亭主は武士の倣いで儂を狙った。仇討ちに失敗したからと、怨霊に化すとは、笑止!」
浅右衛門は内儀に向かって踏み込んだ。その切っ先を擦り抜けて、内儀はぐっと手を延ばした。その指が物凄い力で浅右衛門の首を握った。指が首に食込み、気が遠くなりそうになった。刹那、備前長光の切っ先が下から上へ
「斬―!」
気合を込めて、浅右衛門は内儀を真っ二つに斬った。間髪置かず、蒼白で崩れ落ちた浅右衛門の背後から浪人が飛びかかってきた。浅右衛門は横っ跳びに転がりながらそれを避け、すかさず備前長光を横払いにした。
手応えがあった。浪人の胴は真っ二つになった。
「……殺す……殺す」
そう呻きながら、二人の亡霊は、やがて掻き消えていった。
息を整えながら、ようやく浅右衛門は雪を払い立ち上がった。その首には、べったりと、真っ赤な手形がついている。内儀の執念の深さに、浅右衛門は恐れ入った。辺りを見回すと湯島聖堂がみえた。
(そうか……幽霊が出てもおかしくないよな)
いかにも寂れていそうな近くの寺に立ち寄り
「ちと井戸水を拝借したい」
突然首が血塗れの大男が現れたので、そこの住職は仰天した。しかし、仔細の事情を聞いて、住職は更に仰天し蒼褪めた。
「あのな、御武家様」
どうやらその内儀はこの寺の無縁塚に葬られたらしい。
「……何かの奇縁よな」
浅右衛門は苦笑した。
その首に食い込んだ指の痕は生々しい。たぶんこれは、生涯消えないだろうよと、涼しい口調で山田浅右衛門は呟いた。
「そのようなもので?」
「そうとも。念の籠った疵というものは、相手にその形を残すと容易に消えぬ」
「そうかもなあ、そういうものかも知れないなあ」
「生きている奴の切り傷も、消えないそうだよ」
「はあ」
「生者がそうであるのだ、幽霊なら尚のこと。その執念が晴れてくれねばこの疵も癒えまいよ。もっとも俺をそこまで憎んで怨んで死した内儀じゃ。成仏させても、念だけは首の疵となって留まるだろうさ」
浅右衛門の言葉に、住職も項垂れた。
「拙僧も出来るかぎり、御内儀の供養を致しましょうぞ」
「忝い」
寺で提灯と傘を借りると、山田浅右衛門は夜道を急いだ。
帰途の道々、山田浅右衛門はいろいろと考えた。
そもそも内儀が怨みを残した発端は〈安政の大獄〉ではあるまいか。山田浅右衛門はそう思わずにはいられなかった。橋本左内を斬ったのは、その任にある者としての仕事だった。罪人を仕置するのは、山田浅右衛門の役目である。罪状は尊皇攘夷運動。御禁制の法度に触れたのだから、それは確かに罪には違いない。が、果たしてそれがどのような罪なのか。そこまでの経緯も仔細も、山田浅右衛門は知らない。
ただ、それが己の役目だから、首を斬った。
罪の是非は問題ではないのだ。
ある日、突然設けられた、善悪の物差しが庶民にはよく理解出来ない罪状……それが〈安政の大獄〉ではあるまいか。武家が武家を取締まる法度とも何か異質な、なにやらしっくり来ないものである。
しかし、ひとつだけ云えた。
(死ななくともよい者が、芋蔓のように、何処かで死ぬこともあるのだ。あの浪人のように……あの内儀のように。だとすれば、これからも何処かで、このような幽霊が増えていくのだろうか)
厭な世の中だ……容赦なく降る白い雪は、穢れを拭いきれないものなのだろうか。無垢なものに塗替えられないものなのだろうか。
今年最後の雪は何も答えない。
ただ黙って振り続けるだけである。
「南無……」
山田浅右衛門は天を仰いで冥黙した。
安政の大獄の張本人、井伊直弼が暗殺されたのは、それから二年後。万延元年三月三日のことである。この日も、季節外れの大雪だった。
《了》