そこそこ読書 愛と別れのなぞなぞ ちばやくこ 作 風乃 絵
けがをしたカラスを拾ってきた小学一年生の亮とその母親である紗知の物語である。カラスの世話と別れを通して成長する亮の物語と並行して紗知の親としての葛藤や疑問との戦いが描かれている。
小学一年生の成長はさまざまな出会いという経験であるが、親の成長はこれで良かったのかというこれまでの経験による疑問との折り合いのつけ方である。
紗知にはもう一人翔という息子がいる。翔は専門学校生であり、彼の成長に母親である紗知は時に戸惑う。そんな中父である誠はぶれない。なるようになると。
この物語を現代においては、共感する事も糧とする事もかなり困難であると感じた。それは、思想とか考え方ではない。単に環境の違いである。
おそらく「愛と別れのなぞなぞ」というのはあえて言語化するなら、子供の成長における苦悩の事を言うのだと思う。
亮はカラスの世話を通して出会いや別れ、愛に触れていく。それぞれを詳細に言語化する事は小学生には難しいが、行動や感情の中で確かに蓄積していくのである。その中で母親も正しさや自責の念に向き合う事になる。
それら一連の答えの出ない人生の出来事がなぞなぞなのだろう。その時々に出す正解のない表現や選択が人生とも言えそうだ。
しかし、この物語を支えているのは自然である。意識が広がり過ぎた現代ではこちらの方が夢物語だと感じる。
まず、カラスが生息しており世話をするという事。野生の動物を家に持ち帰る事そのものに抵抗があるのではないだろうか。
世話をしているカラスが近所にいたずらをするシーンがあるが、これもそうだ。本文中では母親が謝っておしまいになっていたが、今では所有権がちらつく。金銭的に解決をする事を良しとしているのではないだろうか。適切な表現かどうかは分からないが、裁判や契約の法則が近所の些細なトラブルまで蔓延しているのではないか。
無論、法律が不必要という訳ではない。話し合いで解決出来る顔見知りが
少なくなっているのではないかという話である。
そもそも、このような自然を相手にした物語はかなり限定された舞台での話ではないのかというのが私の疑問である。
自然に任せるのではなく誰かのせいと責任を押し付けるだけになってしまう社会では、父の言うなるようになるは意識的に許されないのではないか。
もしも、近くに自然があるなら是非とも大事にしてもらいたい。
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