そこそこ読書 「モモ」 ミヒャエル・エンデ 著 その3
今回でモモをすべて読み終えることが出来た。ファンタジーの要素が非常に強い反面、「時間とは」「生きる事とは」「他者とは」というその本質的な問題に迫っているのは、時代を問わず老若男女を魅了する要因となっているのだろう。
現実の世界においても小説内の世界においても時間泥棒というのは実際に時間を奪う存在ではない。一日の時間が二十四時間から減ることもなければ寿命を削るという事でもない。
では時間泥棒とは何を指すのか。小説内では、人の中にある生きる力、感じる力、好奇心を止めてしまう存在である。小説内では、致死的退屈症という言葉で表現されている。
すでに私は「時間泥棒」の餌食になっているのだろう。やりたい事よりも先にあるのはこうあるべきだという決まりである。自分で何かをするにしても感動よりも好奇心よりも先に、無駄なのだという思いがあるからだ。
そうするのが正解だったからだ。では誰にとっての正解か。それを知る事は無い。顔も名前も知らない誰かである。そして私自身もそれに疑うことがなくなっている。一言で「社会」「時代」と括ってしまう事に慣れてしまっている。
「時間泥棒」が奪っていくのは個人の余裕や満足感だけではない。余白や交わりが無くなれば規則に則って「カテゴリー化」する。個性は障害となって治療の対象となり、人々の不完全な善意は、少しずつ良くなる前に
余計なお世話、悪企みとなる。
決まりや法則に則らない約束、または口約束等の結束は相手に隙を与えるだけのものとなり、そこをつくのが「上手い」やり方とルールが作られる前に好き放題した方が有利で賢い生き方になる。
決まりやルールが不必要という話ではない。全体の中の一人という実感や感覚がなく、法律だけを神格化してしまえば必然であるという事だ。
何が問題かというと人は一人では生きてはいけないのに、生きていると勘違いしてしまうという事だ。それは人だけではなく自然という循環の中でも言うことが出来る。
小説内では人らしく生きる時間は花という形で表現されていたがそういった思いもあるのではないだろうか。
もしくは単純に人はそれだけでは苦しくなるのではないかという事だ。決まりを守っているのに苦しくなるのは、友人の影が見えないからだ。ただ肉体が息をしているだけなら死んでいるのと変わらないとはよく言ったものである。
おそらく、私は明日も死んでいるのだろう。