そこそこ読書 空に小鳥がいなくなった日 詩集 谷川俊太郎 作
詩の世界は全く分からない。なぜ詩が必要なのか、現代でどのような役割を果たしているのかもさっぱりである。
読んでいく中で不可解な語も多い。「たたなずく」という言葉をご存じだろうか。幾重にも重なるという意味で、上代語と呼ばれる日本の古い時代(ネットでは古墳時代から奈良時代にまでかけて)に使われていた言葉のようである。
ある言葉を使う事で特定の時代の事を表現することが出来るというのは分かる。
詩を読むには詩だけで完結するものではないのだろう。詩はおそらく誘うのである。それは自分の生活、経験等の思いがはまるかも知れないし、今回のように時代を超えて想像しなくてはいけない物もある。
その為には実体験と勉強が必要不可欠だ。詩を読んでも何も感じないとは詰まるところ、自分の中身が薄っぺらいという事も言えそうである。
もしくは単純に自分の分からない世界に触れる身近な物として機能するのかもしれない。分からない言葉、今は使われていない言葉、自分にはない常識や習慣。それらは時代や空間を超えて人がありとあらゆる生活していた事でもある。
そこに何かしらを感じる時、同じ人間として存在している事を実感するのかもしれない。
なので詩を読む時には研究が欠かせない。しかしこの研究は非常に自由であり無暗にお金に還元してはいけないと予想している。
なぜなら、大切なのは自分の中での体験や考えなので、お金を払って誰かの解釈を見たり聞いたりするようになってしまうと、答えだけを知って満足してしまうからだ。目的地というのはあくまで目標であって楽に到達するのが目的ではない。
自分の頭で考えていく経験や失敗、勘違い等にも意味がある。ちょうど目的に歩いていく感覚だろうか。目的地に到達するだけなら便利な機械に頼ればいい。勿論それが必要な事もあるだろう。しかし、歩いていく中でわき道にそれたり、道を間違ったり、思わぬ出会いや事件に巻き込まれたり。そういった意識して知ろうとしなかった事との出会いが醍醐味なのかもしれない。
間違いが無いに越したことは無いが、間違いのない人間もまたいない。だからこそ、許容の形を広げていくしかない。
この辺を私は上手く表現できないし、バランスもあるのだろうが。
今回も具体的な中身に関しての感想ではなかったな、と振り返っておく。