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極光龍

作品名:きょっこうりゅう
制作年:2022-2023

世に赤氣あり、像(かたち)龍に似て、己を思ふ

 歴史書『日本書紀』や藤原定家の日記『めいげつ』などに【せっ】と呼ばれる現象が記録されている。夜空に赤い筋の光がいくつも見え、きじの尾のようだとも、遠くの火事のようだとも表現されたこの出来事は、実はオーロラであったことが現在では明らかになっている。
 オーロラは地球上空の酸素やちっが、太陽によって放出されたプラズマと衝突することで発光する現象であり、高度によって光の色も違ってくる。緑色がもっとも多いのは、プラズマのエネルギーが強く、またそれと衝突する酸素の量が多いことによる。
 発光の原理を簡単に説明すれば、衝突によって得られたエネルギーを原子が光として放出するためである。かんげんすれば、原子は帯びたエネルギーを所有することなく、光として手放したからと表現することができよう。

 ものに限らず、思考や習慣を手放すことはいつの時代でも提唱され、いんように説かれてきた。あるいはまた説かずとも、移ろい行く自然の姿を前にわが身をかえりみた歌人や俳人の残したことばも同じであろう。いろは歌然り、平家物語然り、いにしえより語り継がれてきたことばは常に【大いなる流れ】についての真理をうたっている。
 流れるということはとどまらないことである。留まらないということは、そこになんの力も働いていないことであり、それこそが自然な在り方なのだ。ミクロな原子もまた自然の存在であるがゆえに、大いなる流れのままにその身をゆだねて光を放っている。それは絶対的な真理に従っているわけでも、ましてや個々に意思があっておこなっているわけでもない。しかし私たちのような、いやそれ以上の意識をもって自らの存在性を認識していることはたしかである。
 原子をはじめ、すべての自然はみな自覚しているのだ。
 自らが大いなる流れの中に存在し、そして大いなる流れそれ自身であるということに。

 描かれた三柱の龍は、観測されるオーロラの赤色、緑色、紫色に対応している。低緯度の日本ではもちろんのこと、極地である北極や南極でも赤や紫のオーロラはややまれである。それがいま龍の姿をもってけんげんし、目の当たりにできることはこうじんの至りであるといっていい。
 私たちは自然より産まれ、したがって自然の一部でありながら同時に自然そのものであるという至極当然の感覚を、いつの間にかすっかり忘れてしまった。私たちを構成する原子はすべからくそのことを知っているのにもかかわらず、である。自然とは大いなる流れのひとつの姿であり、私たちが自然であるならば当然大いなる流れでもある。流れであるなら、流れていくのが自然である。手放すとは流れそのものであり、諦めることでも捨てることでもない。息を吸ったら吐くのと同じ美しい『うごき』である。

 いま一度、龍を見よ。そして同時に自らをかんがみよ。
 その身を包み込む大いなる流れを感じ、また自身が大いなる流れそのものであったことを思い出すのだ。その瞬間、オーロラの如き光を自ら放ち続けていたことを知るであろう。
 ひっきょうこれらの龍はみな、本来の自分の姿なのである。

 源龍図には『せっりゅう』と題された作品が残っている。オーロラは江戸の頃にも見られたようで『せいかい』や『しん宿しゅく』などいくつかの文献でその状況を知ることができる。『りょうものがたり』ではそれらをもとに赤氣龍が描かれたとして、構図の相違や画の制作時期などを論じているが、絵師本人が直接目撃した可能性もなくはない。いずれにせよ作品自体はすばらしく、朱で彩られた龍は息を呑むほどだったという。おそらく、それは画そのものよりもそれを通して感じた大いなる流れに対する感覚であろう。
 科学が知られていなかった当時、原理はわからずとも天が表現する真理を感じ取った人が一定数おり、そのうちのひと握りが画や書など今日でいうアートとして残し現在まで語り継いできた。本作品を描いた芸術家もその大いなる流れの中に存在し、そして大いなる流れそのものであることをよく知る存在なのである。


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