
真夜中のお茶漬け
「どうしたの!目が腫れてるよ、顔も・・・」
「うん、ちょっとね・・・」
「おはよ・・・わっ大丈夫!?準備したらすぐ行くから、いつものとこ!」
中学3年。朝。
私たちは、登校するとすぐにベランダに出る。
そこには、教室側からベランダへと突き出た出窓があって
その出窓の下のスペースは、膝をかかえて座るのにちょうど良い。
そのおさまりの良さは秘密基地のようで、私たちにとって絶好の隠れ場だった。
(外からは丸見えなのだけれど、笑)
夜から脱出した私たちは、毎朝そこに集まる。
朝の学活が始まるまでの30分間。
足に毛が生えてしまっただの、歯にノリがついたまま好きな人の前で笑ってしまっただの、話題は後から後から溢れてくる。
このブリキのおもちゃ、動き方が面白いんだ、と、学校には持ち込んではいけないおもちゃをこっそり持ってきたこともある。
そのレトロな人型おもちゃは、ネジをぐるぐるまわすと、ジージーと音が鳴り、かくん、かくん、いびつに、一歩一歩と歩く。その歩みに合わせて、顔が、斜め上、そして、左右に動くのだ。その動きは、中学生の笑いのツボを見事に捉えた。
ゲラゲラと笑いすぎて、頭上の天井に、ガツンとぶつかる。出窓はコンクリートで痛い。痛いけど、転がりながら、また、みんなで笑うのだ。
そのそばで、ブリキのおもちゃは、コトン、と倒れた。
「目、冷やす?授業まで、まだ時間があるから。ハンカチ濡らしてくるよ」
「ありがとう、大丈夫。昨日、冷やしたけど全くダメだね」
「痛そうだ・・・」
夏の暑さを拭い去るように、風がそよそよと吹いた。
このあたりは、お盆を過ぎると、風が涼しさを連れてくる。
「父に・・・殴れらたんだ。どうしてこんなに勉強ができないんだ、って。
私だってわかんないよ。教えて欲しいよね、ほんと」
「・・・うん」
「・・・」
「教員の娘なのに、恥ずかしいってさ。進学高以外の受験は許さないって言われた。このまま成績が上がらないなら、県外の、寮付きの高校にいれるって」
「・・・」
「横暴だな・・・でも、私も、お前みたいな子どもがいて恥ずかしい、は、よく言われる」
「あはは」
「はあーぁ、家に帰りたくないなぁ。また、殴られるのかなぁ。
昨日は、やっとお仕置きが終わったと思ったら、今度は課題が終わるまで寝るなって、朝までだよ。そんな状況で勉強できるかっつーの。眠すぎ。困るわ〜マジで。」
あはは、と、もう一度笑った後に、彼女は自分の膝に顔をうずめた。
肩が小刻みに震えている。
「早く朝が来て欲しいって思った、ここに逃げて来たかった・・・」
消えそうな彼女の声が聞こえた。
私たちは寄り添うように座りなおした。
風がまた吹いた。
空は広くて青い。真っ白な雲は輝いて見える。
飛行機は、飛行機雲を作りながら飛んでいく。
みんなどこへ行くのだろうか、ここではないどこかへ旅立つのか。
こんなにも、こんなにも、自由なのに
私たちは、どうして窮屈なのだろう。
ネジを誰かに回してもらえて、やっと動ける、あのブリキのおもちゃのように。
ネジが回り切ったら、コトンと倒れるおもちゃのように。
朝の学活のチャイムが鳴った。
今日は慌てず、わざと、ゆっくりと、移動した。
どうか、彼女の涙がみんなに気付かれませんように。
私たちの瞳が赤いのを、どうか誰にも知られませんように。
隠したい気持ちを、隠したままでいられますように。
その頃の私たちは、大人の言霊にがんじがらめになって生きていた。
進学高に入れ、
医者になれ、
弁護士になれ、
家を継げ、
人に負けるな、
人を蹴落とせ、
勝たなければ意味がない
結果が全てだ
バカは人の2倍努力しろ
ベランダの仲間たちは、明るくて話題が豊富でいつもゲラゲラと笑っていたが
その後ろには、心に闇を落とす何かがいて、バランスを崩さないように必死でお互いを支え合っていた。
夜は、その闇をより一層深くしながら、光の全く届かない時間を連れてくる。
それぞれに、耐えながら、バランスをとり続けて、もち堪えているのだ。
朝が来るのを。
私も、朝のベランダが待ち遠しい一人だった。
私は、自分を、ずっとバカだと思って生きていた。
バカだから、どうせ勉強してもできない。
そもそも分からないところが分からない。
できないことを、これ以上努力するなんて無駄だと思っていた。
優秀な姉や親族と比較され、その比較から逃れるために、私はどんどん勉強をしなくなった。比較される舞台から降りたのだ。
そうだ、バカならバカらしく、みんなを笑わそう。
みんなが笑ってくれたら、なんだか嬉しい。幸せになれる。それでいいんだ。
中学に入ると、そんな私に親も辟易し始めた。
受験生になってからは、親のため息と怒号はさらに激しくなったけれど
人を笑わすことだけは得意だった。
お前は何にも悩みがなくていいよな。親も優しいしさ、理解されてんだろ。
いいでしょ〜悩みなんてないよ、だって、悩むなんて損だよ損。
私には、なにもない。何も。
殴られたりはしないけど、私の親は言葉選びがネガティブだった。
「そんなことして、何になるっていうんだ」
「お前にできるわけないだろ」
「何度言っても分からない奴だな」
悪気はないだろうけど、平気でそういうことを言う。
自分は毎晩、接待とやらで飲み歩いて、お金を使って(どうやら非常にたくさんの資金を使っているらしい)酔っ払って帰ってくることが多く、家にもほとんどいなかった。
一度、習い事の相談をしたことがあるけど「金がかかる」と言うだけだったし「そんなことして何か意味があるのか」と言うだけだった。
困ったことはないか、やりたいことはないか、お前ならできるよ、頑張れ、いつでも相談に乗るからな、そういう言葉を聞いたことは、なかった。
物心ついたときには、勉強が嫌いだった。
特に、自宅での勉強は、嫌でたまらなかった。
小学生の時、親が覗き込んできて「こんな簡単な問題も分からないのか」
指を使って計算していると「頭の中で計算しなさい」と、手を叩かれた。
分からないから教えて、と言うと、「ちゃんと授業を聞いているのか」と怒り出した。幼心に、この人は、勉強が分からない人の気持ちが分からない、想像することさえ出来ないんだろうと思った。
私のその考えが態度にでるから「その態度はなんだ」とさらに怒られた。
私は、親の前で勉強するのが嫌になり、そのうち、勉強自体しなくなった。
宿題を提出しない生徒には、居残り勉強が課せられた。
まず、机の上に正座をさせられて、何を忘れたか先生に報告しなくてはいけない。
正解だと、解放され忘れてた宿題に取り掛かれる。不正解だと、思い出すまで言わされ続ける。結局、宿題を終わらすことができず、ノルマだけが増えていく。
女の子の居残りは私だけだったから、クラスの子から冷やかされた。
悲しかったし、惨めだったけど、その頃から、人を笑わすのは少し得意で、惨めさを逆手に取っては、みんなを笑わせた。
そのうち、冷やかしもなくなった。
でも、帰り道の、悲しみは、毎日、変わることはなかった。
中学に入って日々がすぎ、受験生になった。
周囲の雰囲気にも気圧された頃、親に「私たちが、もうそんなに無理をしないで、と言ってあげられるくらい、人生で一度は真剣に勉強しなさい」と言われた。
その頃の私は、ベランダ仲間から学ぶことの楽しさを教えてもらった頃で、
親の言うことも一理あるかと、少しは勉強するようになった。
今までを取り戻すために、休日は、1日17時間を勉強の目標とした。
しかし、親から言わせると、今までやらなかったのだから当たり前、らしい。
授業中ではあったが、ぼんやりと昔のことを思い出しながら、昨日の夜のことも思い出していた。
休憩中、漫画を読んでいた時に、タイミング悪く親が部屋に入ってきた。
「漫画ばかり読んでお前は何を考えてるんだ」部屋から引きずり出されて、話し合いが始まった。
話し合いといえば聞こえがいいが、怒りスイッチの入った親の罵声を一方的に聞き続けなければならない、長い夜の幕開けだ。
お前はみんなと違ってバカなんだから、人の2倍努力しないと人並みになれないと何回言ったら分かるのか。人が、4時間勉強していたら、お前は8時間やるんだ。世の中を甘く見るなよ、親にいつまでも頼っていられると思ったら大間違いだ、なんだその態度は、言いたいことがあるならちゃんと言いなさい。一体この先どうやって生きていくつもりなんだ。このままだと高校には入れないぞ。姉ができているのに、お前はどうして出来ないのだ・・・
私は、傷つかないように心の扉を閉めた。
そして、毎朝のベランダを思い出していた。空と風と、笑い声を。
勉強する楽しさを、理解できる喜びを、思い出させてくれたのはベランダの仲間たちだった。授業の受け方、ポイントの押さえ方、教科書の使い方、ノートの取り方、ペンは色分けするか否か、アンダーラインを引くべきかどうか、問題の解き方・・・私には面白いことばかりだった。分からないことが分かるようになる感動。解くことのできなかった問題が解けるようになった喜び。すごい、本当にすごいよ!と、一緒に喜んでくれたベランダの仲間。
穏やかな景色をかき消すように、聞きたくない声が割り込んできた。
ちゃんと人の話を聞いているのか、人の目を見て話を聞きなさい。うなずくこともできないのか。もうやめて、このくらいで。
私は、親の瞳を真っ直ぐに見た。
親の顔を見るのは何年ぶりだろうと思った。
「私が、今、何をしていたと思う?どうして漫画を読んだと思う?
どうして勉強をしなくなったか考えたことは?」
親は、驚いたような真面目な顔をしている。
「今の私がどんなことを考えて、どんなことが楽しくて、どんな気持ちで学校に行っているかを考えたことは?」
「私が今まで親に相談をしたことを思い出せる?何に悩んでいたか?
答えられないの?」
「一方的に、いつも自分の言いたことだけを押し付けて、何も知ろうとしない、一緒に考えようともしないあんたに、これ以上何も言われたくない」
そして、私は思いっきり声を張り上げて言った。
「私は、今、勉強が楽しいよ!そんな風に思っていたことも知らなかったでしょう!私がそう考える子どもだってことも、知らないでしょう!」
私は、本当は勉強が好きだった。
手を使うなと怒られたあの時。
私が何も思っていたのか、あなたたちは、知ってる?
数字を見ながら、同じ数だけ指を使って、答えが何になるか楽しみだった。
指が足りなくなったら頭も足も使おうと思った。それがなくなったらおはじきを。カラフルできっと楽しいだろうな、何色を使おう。
数ってどんどん増えたり減ったり本当に楽しい。
そんなことを考えていたこと、知らなかったでしょう?
頭の中で計算ができないこと、簡単な問いに時間がかかることを、罵った。
好きだった。本当は、好きだったんだ。
一緒に考えて欲しかった、一緒に楽しんで欲しかった。
もう、これ以上、私の邪魔をしないで。
昨日の夜のことを思い出しながら、彼女の席にそっと目を向けた。
彼女はウトウトと眠っていた。もう一人のベランダ仲間は、彼女が寝ていることに気づかれないように、自分の机の位置を少し横にずらしていた。
確かに、あの位置なら先生から見えにくい。賢いなぁ。
お、目が合った。
お互いに、小さく、goodのハンドサインをして笑い合う。
私の大切な人たち。ありがとう、本当に。
どうか、先生、起こさないで。ゆっくり休ませてあげてください。
「あーよく寝た。今日は一日学校で寝てられてスッキリした。
これでまた夜を耐えられる」
「・・・家、帰るの?」
「うん、仕方ないよね」
「何かあったら・・・絶対に連絡して。怖くても絶対に家を出て。私たちが助けるから。一緒に、考えよう。」
「ありがとう」
「みんなで考えよう」
「うん、ほんと・・・ありがとう」
中学生に何ができるのか、でも、大切な友人を、痛みから守りたかった。
「ねぇ。授業中、先生から隠してくれてたよね」
「お〜そうだったけかな、忘れちゃった」
「私は、本当に良い友をもった」
「あはは!何を言って・・・」
「・・・私も、同じこと思ってた」
「受験は・・・私たちに何を与えようとしてるんだろうね」
「うん・・・」
「答えが出ないのは苦しいね」
「うん・・・」
「苦しいけど、頑張ろう。みんなで一緒に」
「明日の朝、夜を超えて、また会おう」
「・・・うん!」
バイバイした後、
私は、親に会いたくなくて、わざと遠回りをしながら帰った。
みんなも、そうだったかもしれない。
太陽は沈み、空は青色からオレンジ色へ。そして、どんどん紺色に変わり
やがて、夜を連れてきた。星が光り始めた頃、私は、自宅にへ戻った。
「あ・・・おかえり、心配し」
声を無視して、部屋に入った。
ベランダ仲間たちも、きっと、今頃、それぞれに葛藤しながら闇と戦っているだろう。私も、頑張りたい。彼女たちと同じ高校に行けるように、頑張りたい。
いや、もし、行けなかったとしても、勉強の楽しさを思い出させてもらった。この思いを胸にずっと学び続けるんだ。もう誰にも、邪魔はさせない。
夜中の0時をまわった頃、部屋をノックする音が聞こえた。
親だ。
私は返事もせず、親が入ってきた方へ顔も向けずに、無視を続けることにした。
もう、邪魔しないで。私を傷つけないで。
その時だ。
ふんわり、と良い香りがした。
差し出されたお盆の上には、
香ばしく焼かれたお味噌、そのお味噌を塗ったおにぎりに
鮮やかな緑色の三つ葉、そして、刻みゆずが散らされていた。
それだけでも美味しそうな焼きおにぎりは、さらに、黄金の出汁に浸されて
温かな柔らかな湯気が、たちのぼっていた。
「焼きおにぎりお茶漬け」が机に置かれたのだ。
「ごめんな」
親は、それだけ言うと、部屋から出ていった。
夕飯を食べていない私は、空腹を通り過ぎて、お腹と背中がくっつきそうだった。
騙されないぞ、これで許すと思っているのか、絶対に食べるものか、と思いながら
空腹の胃は、その香りに刺激された。
透き通った黄金色の出し汁を一口、レンゲですくって、口に含んだ。
カツオの上品な香りが、ふわっと口中に広がった。
そのあとに、ゆずの爽やかで新鮮な、そして、はぁ〜と全身の強張りや、力みが解けていくような、心地よい香りが鼻へ抜けていった。
塩味もちょうど良い。
疲れた身体と空腹の胃と、そして、心を、優しく癒すとても優しい味だった。
小学校の頃、友だちに靴を隠されて靴下で帰ってきた日のことを思い出した。
一晩中、泣いた。明日はもう小学校に行きたくない、と泣き喚く私を
「大丈夫、学校に行かなくても大丈夫だからね」と、親は・・・
親・・・お父さんとお母さんは、ずっと抱きしめてくれた。
私は夜中まで泣きやむことができず、ようやく落ち着いた頃に言った台詞は
「お腹が空いた」だった。
それを聞いた父は私に「焼きおにぎりお茶漬け」を作ってくれたのだ。
食欲をかきたてるカツオの香りと、三つ葉と、ゆずの香り。
緑色のツヤツヤとした三つ葉は、のびのびと四方八方へ葉を伸ばし、ゆずの黄色は柑橘系の香りとともに元気をもたらした。黄金色に輝くスープは、爽やかな香りがして、鮮やかで美しく、私の涙と悲しい気持ちを全部吹き飛ばした。
「お父さん、これ、とってもとっても美味しいよ!涙が引っ込んでいったよ」
父と母は顔を見合わせて、嬉しそうに笑った。
そんなことを思い出しながら、
香ばしい香りのするお味噌と、こんがり焼けたおにぎりを
レンゲで大事に崩しながら、一口ほおばった。
白米と、おこげの部分が出汁を含み、お米の甘さをさらに引き立てていた。
白米は水分を含み、ふっくらとおいしくて、焼かれたお味噌は、小学生の頃と少し変化があった。松の実が加えられていたのだ。カリカリとほのかに甘い松の実。
お味噌の香りは、すべての不安を拭い去るほどの、ホッとさせる安心感があった。
三つ葉のシャキシャキとした歯応え、噛むたびにその香りは、さらに身体と心を癒していく。ゆずの香りは、芯まで届き、まるで私自身も、香り立つ存在になれたような気がした。一つ一つは個性的であるのに、どれもが調和していて、美しく響く和音のような味わいだった。その色と香り、食感は、ベランダで過ごす時間と同じくらい、楽しい気持ちを私に与えた。
父が、料理上手だったことを思い出した。
表現が下手なぶん、料理で家族を幸せにした。
私が大人になった時に、ドキドキしたり、その不安から相手に引け目を感じないように、カウンターのあるお寿司屋さんに連れていってくれたことがあった。
フランス料理もイタリア料理も中華料理もインド料理も。
ライチやマンゴスチン、ドラゴンフルーツ、レモンを甘く感じるミラクルフルーツ、どこからか仕入れてきては、皮を剥き、食べさせてくれた。食べる私を幸せそうに見ていた。山で一緒に竹を切ってきて、流しそうめんをしたこともあった。
牛乳でジェラードを作ったり、天ぷらをサクッと揚げる方法を教えてくれた。
回転寿司を自宅で体験できる機材を持ってきて、一緒にお寿司屋さんごっこをした。酢飯は鼻につくツンとするけれど柔らかい香りがした。
寿司職人に扮した父の出立ちに笑いながら、私の好きな、甘エビのお寿司をねだった。何貫も飽きずに作ってくれた。
「料理は、愛情を一手間、加えると必ず美味しくなるんだよ」
父がいつも言っていた言葉だ。
父は、幼い頃に両親を亡くしていた。だからこそ、家族と食べる食事の時間を大切にしていた。接待で夜遅くに帰ってきた時は、必ず、手土産を持って帰ってきてくれた。外国の珍しいチョコレートやお菓子、うなぎやお寿司。
美味しいものいっぱい食べてね、大きく成長するんだよ。
父が帰ってくるのはいつも遅くて、私は眠っていることが多かったけれど
そ〜と、部屋の扉が開き、父と母の声が、心地よく聞こえていた。
僕は君たちのために頑張るからね。一緒に過ごせる時間がは少ないけれど、いつも大事に思っているよ、大切な僕の二人の娘。
僕がいなくて寂しがることがあるかもしれないけど、悲しい思いをさせるかもしれないけど、子どもたちを頼んだよ、苦労かけてごめんな、二人で頑張ろう。
母の声がする、大丈夫、任せてね。一緒に頑張ろう。
父の大きな手が私の頭をなでた。
最近、父に、料理が美味しいと伝えたことはあっただろうか。
一緒に食事を楽しんだことは・・・
ありがとう、と伝えたことは・・・
習い事の相談をしたとき、母が「お母さんがサポートする、お父さんには秘密だけど」と言ってくれた。私は、ありがとうと言っただろうか。
その時の私は、父の言葉がストレスだったし、秘密、という母にも腹が立って、もういい、と断った。でも、母は私のやりたいことを応援してくれていた。
父が怒り出した時、食い止めてくれるのも母だった。
父は、母の前では、いつも小さくなって、悪かった、と謝っていた。
食事から呼び覚まされる記憶。
食べる人の健康や、心が豊かになるように用意された食事。
いつまでも、健やかであるようにと、願いが込められた食事。
栄養バランスを考えて、時に、心の栄養となるように
嗜好品としても
相手を包むような想いで、用意される食事。
私の身体は、思いやりと優しさで作られているのだ。
私は、父の作ってくれた「焼きおにぎりお茶漬け」を
最後の一粒、一滴まで残さず、綺麗に食べた。
後から後から、涙が溢れた。
一晩中泣き続けたけれど、小学校の時の悲しくて孤独な気持ちとは全く違う
じんわりと切なく、そして、温かいもので、心がいっぱいになった。
「おはよ・・・うわ!2人とも、目がパンパンじゃん!
ちょっと、すぐに準備するからいつものところにいて!!キンキンに冷やしたタオル持ってく!あ、一枚しかない!」
「大丈夫、大丈夫」
「準備してたら時間がもったいないから、早く来て」
出窓の下の、収まりの良い秘密基地。
「昨日は、大丈夫だった?」
「うん、うちの親、離婚することになったんだ。昨日は私の勉強どころじゃなくって両親二人でやり合ってたよ〜。おかげで私はよく眠れた」
彼女の顔は晴れやかだった。
「・・・私ね、親が離婚するって聞いて、嬉しかったんだ。いつもはオドオドしてる母の変容ぶりったら。私を殴ろうとする父に、フライパンで立ち向かったんだよ!父は驚いて腰を抜かしちゃって。泣きながら母にすがって、父のことザマァみろって思った。それにしても、母の凛々しい姿といったらさ〜格好良かったー!」
「うんうん」
私は涙が溢れそうだった。
「・・・本当にありがとう。心の友だ」
「私もだよ、私の方こそがだよ・・・」
「目、腫れてるけど大丈夫?」
「うん、大丈夫。これは・・・夜中に、ちょっと食べ過ぎて浮腫んだ」
「あははは」
「お待たせーっ!すごいスピードで冷やしタオル作ってきた!私も昨日は眠れなかったから一緒に冷やそう!」
「なんて優しいんだ、ありがとう・・・」
「せーーーーーの」
「ふわわわわわわ〜
気持ちいいいいいいいいいいいいい」
「これ最高だー」
冷えたタオルのはずなのに、じんわりと目頭が熱くなっていく。
タオルで景色は見えないけれど
鳥のさえずりが聞こえる。
青く広い空は無限に広がっているだろう。
白い雲も、形を変えながら、風に合わせて無限に姿を変化させていく。
飛行機の音が聞こえた。たくさんの乗客を乗っているだろうなぁ。
夢も持った人も、きっと、たくさん乗っている。
「ジ。ジジ。ジジジジ・・・」
「わっ!何のおと」
「あーごめん!元気になればいいと思って、また持ってきちゃったの」
ポケットからはブリキのおもちゃが顔を出す。
私たちは顔を見合わせて笑い合う。
「ネジ回すぞー!最大回転数、その公式はー!」
「あははは!」
ブリキのおもちゃは、やっぱりいびつで、私たちを大笑いさせた。
そして、ネジが切れて、歩みが止まっても、倒れることはなく
その立ち姿は、優しく、凛としていた。
そして、今
私は、中学生になった娘に「焼きおにぎりお茶漬け」を作っている。
心も身体も健康で、夢が叶いますように。
愛情を隠し味にして。
Fin.