「北越雪譜」を読む:16
先日、NHKの朝ドラ「らんまん」を観ていたら、主人公・槙野万太郎の妻、すえ子が幼い長男に「ももき」と呼びかけていた。番組ホームページによれば、百喜と書くらしい。
すえ子さんは、滝沢(曲亭)馬琴の大ファンで「南総里見八犬伝」が大好き、という設定だ。
これはもしや、馬琴が弟子入りを断られたという山東京伝の、弟・山東京山の本名、岩瀬百樹から名をとり子に付けたのでは!?と思ったのだが、モデルとなった牧野富太郎夫妻の次男の名が百世というそうなので、どうやらわたしの考えすぎである。
岩瀬百樹こと山東京山は、鈴木牧之が書いた「北越雪譜」の出版に尽力した人だ。
兄である山東京伝の方が名は知られているがどちらも戯作者で、京伝が亡くなった後なかなか出版に漕ぎ着けられなかった「北越雪譜」を、京山が最終的に世に出した。添削なども行って、編集者と校正者を兼ねたような役割だったようだ。
この百樹さん、「北越雪譜」の初編では鳴りをひそめているのだが、第二編になるとちょくちょく文面に顔を出してきて、わたしは少々煙たく思っている。
彼なりの理由はあったのだろうけれど。あるいは心配性だったとか。
百樹が登場するのはまだもうすこし先なので、今回も引き続きなだれのお話。
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雪山で大きな声を出すな。なだれが起きるぞ。
誰かに聞いたのか、ドラマか本で知ったのか、大きな音がなだれを引き起こすことがあると思っていた。
猟銃のパァンという発砲音になだれが誘発されて、仲間がそれに巻き込まれる。功を焦って銃を撃った若い猟師の顔がクローズアップ。そんな場面も頭に浮かぶ。
音は振動やからな、とおとなが解説してくれたような記憶もあるから、家族でテレビでも観ていたのかもしれない。
実際には大きな声などがなだれを誘発することはないようだ。
発砲音にも、おそらくそこまでの威力はないのだろう。雪山での猟などできないことになってしまう。
物語の効果を狙って付け加えられた、もっともらしい演出か、それとも、そういうことが信じられていた時代もあったのか、どちらだろうか。
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「寺の雪頽」の項は、山だけではなく、峯の形をしたものから雪の塊がなだれ落ちてくることも“なだれ”と言った、という一文で始まる。
主人公は鈴木牧之の伯父である、「思川村天昌寺の住職執中和尚」。
…仲冬(冬の半ばの一ヶ月、陰暦で十一月くらいのこと)の末、この和尚が居間の二階で机に向かって物を書いておられたが、窓の庇に下がったつららが五、六尺(一尺30cmとして150から180cmくらい)の長さになり邪魔をして、外の明かりが入って来ず、机の辺りが暗いので、…
…(和尚は)家の軒に出て、家僕が雪を掘ろうとして置いてある木鋤を手に取り、このつららを折ろうと一打ちしたところ、この響きのせいだろう(この地方の言葉で金氷という。←叩いた時に金属的な音がするということか)、本堂に積もっていた雪が片方の屋根からグラグラとなだれ落ちた。
土蔵のほとりの清水が湧き出る池があったが、なだれに押された和尚は普通ならこの池に落ちるところを、なだれの勢いに体は手鞠のように池をも跳ね超えて、掘り上げた雪に半身が埋まった。
あーっと叫んだ声に庫裏(禅宗寺院の台所)の雪かきをしていた家僕たちが急いでやって来て、木鋤で和尚を掘り出した。
和尚は大いに笑って、身体を見ると少しも怪我をしておらず、耳に掛けたメガネさえお変わりなく、不思議なことに命が助かった。…
耳に掛けたる目鏡さへつゝがなく…、というところで、わたしもほっとして笑ってしまう。
奇天烈大百科を読む時に掛けるような、同心役の岸部シロー(古い)が掛けていたみたいな、耳のところが輪っかになったメガネだろうか。
このタイプのメガネを、鈴木牧之が掛けている肖像画もある。
金氷とも呼ばれる硬いつららを、木鋤で叩いたその音で屋根の雪が落ちて来たのではなく、叩いた振動が屋根に直接伝わって、緩みかけていた雪を振り落としたのが、実際のところだろうか。
無事だったとわかって読み返すと、雪に押されて体が跳ね上がり(袈裟が捲れ上がって、ご老人の細い脛が見える、たぶん)、掘揚にズボッと足から刺さる和尚さんを想像して、不謹慎ながら可笑しい。
この時、和尚は七十歳を越えていたそうだが、以前紹介したなだれで亡くなった人の不幸に比べれば、「万死に一生」を得た素晴らしい幸せと言える、と牧之は書いている。
万死に一生とは、九死に一生よりかなりミラクルだ。
屋根からのなだれに遭った時、和尚が書いていたのは「尊き仏経」で、一字ごとに念仏を唱えながら書いていた。
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このエピソードは、「文化のはじめ」とあるので、牧之が三十代の終わりの頃の出来事だ。
鈴木牧之記念館が発行している冊子「そっと置くものに音あり夜の雪 鈴木牧之」に付属の年表によれば、初め山東京伝に持ち掛けた「北越雪譜」の出版計画が頓挫し、新たな版元を探したがそれもうまく行かず再び断念した時期だったと思われる。
先が見えない中、エピソードを書き足していたわけだ。
三十代の終わりともなれば、長生きする人もいたとはいえ、江戸時代においてはもう決して若くない。現代のようにまだまだ青年扱いされる歳ではなかっただろう。
実際、出版が叶うのはここから三十年も先のことだ。
ちなみに、掛けたメガネがつつがなかった和尚さんは、八十歳を越える長生きをした。
舞台となった天昌寺は曹洞宗の寺院で、今も南魚沼市思川にある。越後三十三観音霊場の十二番札所ということだ。