見出し画像

浮草(1959)

浮草(1959、大映、119分)
●脚本・監督:小津安二郎
●出演:中村鴈治郎、京マチ子、若尾文子、杉村春子、川口浩、野添ひとみ、浦辺粂子、笠智衆

大映製作、カラー、三重県の志摩が舞台、と小津作品の中でも異色というか新鮮な気分で観ることのできる映画。

大きな灯台をアングルを変えながら空き瓶、船、郵便ポストなどと一緒にフィックスショットで切り取っていく冒頭がとても奇麗。

灯台は常にそこにあって来るものを迎え入れる物、対して空き瓶は漂流するもの、船は行き来するもの、ポストはメッセージを受け取るもの、とメタファーを連想しながらこの映画がどういう展開になるのかを楽しむことができる。

旅芸人の一座が海辺のある町で公演を行う数日間を描いている。

扇風機もクーラーもなくうちわで夕涼み。

道を行く子供たちの中には裸の男の子も。時代的には当然なのだろうが、子供たちの服がみんな白のランニングとかばっかりで彩りがほとんどない。

大人たちは将棋を差し、子供はめんこで遊ぶ。

そんな日本の夏の原風景とでもいうべき映像が静かに平穏なままに映される。

となりのトトロ』と並んでこの作品も“日本の夏”のスタンダードを記録した映像として後世の日本人たちのDNAに残していってほしい。

ちょうど今頃の季節に見るのにピッタリの映画である。

ストーリーがようやく動き出してくるのが約45分ごろ。

親方の駒十郎(中村鴈治郎)の行動に疑惑を感じた現在の連れ合いすみ子(京マチ子)が団員たちに執念深く問い詰めた結果、どうやら旅回りで此の地で会った昔の女との間に隠し子がいて、それで毎年立ち寄っているということが判明。

そしてすみ子がその女(杉村春子)の元にいる親方を訪れる(いわゆる修羅場の)場面は息を飲むほどの緊張感。

外は土砂降り。

BGMはない。

カメラはもちろんフィックス。

二人は果してぴたりと黙った。然し暴風雨がこれから荒れようとする途中で、急にその進行を止められた時の沈黙は、決して平和の象徴ではなかった。不自然に抑えつけられた無言の瞬間には寧ろ物凄い或物が潜んでいた。


・・・という夏目漱石の『明暗』の中の一節を思い出した。

そしてすみ子が、加代に清(隠し子)を誘惑してほしいと依頼することでまたストーリーはねじれていく。

なんせこの若尾文子演じる加代の誘惑術が完璧にハマりすぎてしまい、もう清は加代なしではいられない状態へ。

やる前は「うちにできるかな、そんなこと」と言っていた加代だが、電報を打ちたいと郵便局で働く清を訪れ、「あんた清さん言うんでしょ」と知っていますアピール。

「そこまで来てください」
「宛名は?」
「あんたや」
と言って呼び出し、芝居の後に会おうと告げる。

その後小屋の中で二人が密会するシーンでは、清の顔に照明が当たらず完全に真っ暗となっている。

「あんた震えとんの?うちもほら。こんな」と言って清の手を取って自分の胸に当て、キスをする。

火がついた清は自ら加代にキスをする。

はい落ちました。調略成功。ゲームセット。


暇があれば勤務先の郵便局の先輩に勉強を教わっていたほどの青年が、もう大学なんかどうでもいいという状態へとなってしまったのだ。

この辺りの描写も丁寧に描かれており、どの登場人物に感情移入しながら見ても鑑賞できる。

どこかの旅館。そろいの浴衣の二人。

加代が清に「あんたお母さんのところに帰って」と説得するシーンも、言葉ではそんなことを言いつつも結局は清の腕に抱かれキスをする場面に切り替わる。

ちゃぶ台にはラムネの瓶と食べ終わったアイスのお皿が置いてあるが、部屋の外にはビールの空き瓶が置いてある。

感情移入ができると書いたが、加代が「親方うちも連れてって」という台詞だけは果して彼女の真意だったのかどうかが少し謎。

確かに行く場所もないだろうし、自分が一緒にいては清のためにならないという思いもあるのだろう。

駒十郎に止められてからそこまで食い下がらなかったあたり、本人も本気で言ったわけではないような気もする。

ここだけ、少しの謎が残った。

ラストシーンでは、駒十郎とすみ子の台詞のやり取りはあまりないけれど、所謂小津調の美意識に十分包まれており、感動するほど素晴らしい。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集