パラダイスの夕暮れ(1986🇫🇮)
原題: VARJOJA PARATIISISSA(1986、フィンランド、80分)
●脚本・監督:アキ・カウリスマキ
●出演:マッティ・ペロンパー、カティ・オウティネン、サカリ・クオスマネン、エスコ・ニッカリ
アキ・カウリスマキの初期作品。
一時は中古でもわりと高価なボックスでしか見られなかったが、今では手軽に動画配信で見られるのだから本当に便利になりました。
マッティ・ペロンパーとカティ・オウティネンの二人が主演。
久しぶりにカウリスマキの作品を鑑賞したが、改めて見ると本当に凄いな、と思わされる。
自分が映画監督だとして、恋愛もので女優を起用するとなったら、やっぱり好みの女優というか美人を使いたくなるものだろうが、そこをカティ・オウティネンである。
アンナ・カリーナでも、クリスティーナ・リッチでもない、カティ・オウティネンである。
映画と観客の間に感情移入や共感をさせない、冷徹な境界線をピタッと引きく。
カウリスマキ自身の好みなのだと言われたらもうそれまでであるが。。
ストーリーの作りも、行動や過程、心理描写にすら省略や排除をバシバシしまくる演出スタイル。
主人公のニカンデル(マッティ・ペロンパー)も何を考えているのかまるでわからない。
留置所で一緒になった男を同じ職場に誘い、仲良くなったが、イロナ(カティ・オウティネン)とのデートの日に彼が訪ねてきてしまい、別にやましいことでもなんでもないのだから普通に「実はこれから予定があるんだ」と言えばいいのに、隠してそわそわしている。
失恋したシーンでは微動だにしなかったのに次のカットでは「重病だ」と言って寝込んでいたりする。
退屈な日々を過ごす男だが、英会話スクールに通っている。
ただそのスクールと言ってもそれぞれが視聴覚室みたいな個別の席で流れるテープを聞いて自分で発音するだけで、会話はしない。
この、他者とコミュニケーションを取りたいんだか、一人でいたいのかよくわからない感じがこの場面で出ていた。
ちなみに主人公の職業はゴミ収集業者である。
仕事の先輩から独立しようと持ち掛けられるも彼が(映像的にはやはり淡々と)急死してしまうが、最初から途方に暮れているような表情なので、その前後で彼の心情が大きく変わったかどうかはあまり判別できない。
『真夜中の虹』でも父親の唐突な死からストーリーが(仕方なさそうに)動くという始まりだった。
一方のイロナは週末はクラブに行くような、ニカンデルに比べれば普通の女という設定なのだろうが、一貫して無表情のため、よくわからない。
二人のデートで彼が最初に連れていった場所は暗いビンゴホール。
つまらなそうに数字が読み上げられ、病院の地下待合室のような窓のない暗い室内で、暗い人々がじっとビンゴに没頭している風景をデートシーンにする、この時点で監督の勝ち。
仕事をクビになった彼女を連れ、どこか遠くへドライブをするシーン。
普通の映画であればそのまま颯爽と恋の逃避行となるところを、まず友だちの家に寄っていいかとことわり、例の友だちのもとへ行って金と着替えを借りに行く。
友だちも金がないため、娘の貯金箱から金をちょろまかし、それをニカンデルに与えるというシーンをわざわざ入れている。
直後に郊外のホテルへと泊まるシーンになだれ込むのだが、部屋はダブル?と聞かれシングル2つと即答するニカンデル。
それから食事に行くが、交わされる会話シーンが以下のこちら。
「なぜ私といるの?」
「特に理由なんてない。いちいち理屈をこねる贅沢などない」
「冷えるわね」
「そうかな、おれは感じない」
本当に、こういう脚本を書けるのがすごい。
よく引き算の美学という言葉があるが、そういうことでもないと思う。
はなっから0か1しかない、2進法的世界観である。
二人は別々の部屋に戻り、寒風の音が何かを強調するように吹き続けるが、開くことのないドアとそれを見つめるイロナ、煙草を吸うニカンデルの表情を交互に映すのみ。
このまま何も起こらないのか…と見せかけてその後アッサリとキスシーンが間接的ながら描かれる。
ドラマチックな展開というものを徹底的に排除、拒否する演出が続く。
行くあてのないイロナを自分の部屋に招いた後のシーンでは、おめかしとばかりにイロナが美容院へ行き(ニカンデルは待ち合い席に)、レストランに行くも満席と言って門前払いとなり、夜の売店でハンバーガーを一緒に食べる。
この辺の流れもいい。
「うまいか?」
「まあまあ」
「帰るか?」
「そうね」
ここを沈黙にすればまだ観客の想像力によって可能性は広がるだろうが、そんな無限の可能性すら拒否するように、この意味のなさそうな会話でミニマリズムの座標にピン止めしていく。
意味のない会話をあえて入れる、このことに大きな意味がある。
二人がこの”間”を共有することに意味がある。