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ザ・マスター(2012🇺🇸)

原題: The Master(2012、アメリカ、137分)
●脚本・監督:ポール・トーマス・アンダーソン
●出演:ホアキン・フェニックス、フィリップ・シーモア・ホフマン、エイミー・アダムス

約2時間15分というそこそこの長さだったけれども、すごく長かったという感じはしなかった。

説明の少ない回想を断続的に入れながらなのでいつ映画が本格的に動き出すかとジッと観ていると、フィリップ・シーモア・ホフマンが出てきてからストーリーにピントが合った気がした。

ポール・トーマス・アンダーソン監督の映画というと、一筋縄ではいかないというか、何かを仕掛けてくるような、そんなイメージがあったが本作でも観客の想像力を試すような、挑戦的なショットがいくつかあった。

戦争によって性的欲求不満やフラストレーション、重度のアルコール依存症を抱えることになった男フレディ(ホアキン・フェニックス)が主人公。

そんな彼がたまたま出会ったランカスター・ドッド(フィリップ・シーモア・ホフマン)との対話の中で、過去の男女関係における過失や戦争での殺人体験など閉ざしていた負の記憶を解放され、彼の思想に次第に傾倒していくというようなあらすじ。

フィリップ・シーモア・ホフマンと言えば『ダウト~あるカトリック学校で~』で少年への性的虐待を疑われる神父を怪演していた印象も強かったが、この映画を見る限り確かに非科学的な怪しいセミナーの主催者と描写されているものの、そこまでの危険人物には見えない。

カルト教団という言葉には信者から金を巻き上げたり簡単に脱会できないよう洗脳したり、腐敗した組織のようなイメージがあるが、そういったシーンは直接的には描かれていない。

あくまでもドッドとフレディの二人の関係に終始している。

ドッドと妻との逆転した主従関係を示唆するようなシーンも描かれているがそこへの深い言及もさほどない。

中盤、パーティーで酩酊状態のフレディが見る幻覚で女性たちが全員全裸になるショットが一瞬度肝を抜く。

思い出してみれば『マグノリア』のカエルのシーンなんかでも、脈絡なく度肝を抜かせるシーンというのを過去にも繰り出していた。

性的な抑圧もこの映画の一つの主題と言えるだろう。

映画の最後ではドッドと決別したフレディが行きずりの女とセックスしながら、彼に施されたのと同様のカウンセリングをその女にしている。

精神の深部への繋がりを肉体的な繋がりと同時に試みようとしていると読み取れる。

映画において最も大事な、映画をどう締めるかというラストシーンにおいて、冒頭の回想で出てきた砂浜に作った女の横で眠るという一見よくわからないショットで終わる。

戦争時、彼が夢に描いていた本物の肉体を持った女と今こうして交わり合っている、ということにフォーカスしているのだろうか?でもそこへ至るまでにデパートの女と一夜を共にしてるので、そういうわけではなさそう。

彼がこれから出会って抱く女たちも、全て彼の妄想を果たすための”砂で作った女”と変わらず、アルコールやセックスなど心の隙間を埋めるための”すぐに消えてしまう”一時の快楽に身を任せていくことになる…ということを示しているのだろう。

明確な結論は示されていないので、何度か繰り返し観ればそのたびに感想が変わる。そんなタイプの映画だと思った。

ちなみに音楽はレディオヘッドのジョニー・グリーンウッドが担当。

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