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【本/考察】真っ直ぐにねじくれる

 市川紗央さんの「ハンチバック」を読んだ。
 障害がある人の世界を見るのは興味深かった。というのも私が前職で在宅介護に関わる仕事をしていたからだろう。知識として知ってはいても彼らの感覚はわからないので、個人的にはとても勉強になった。
 そして、さすがは芥川賞と言いたくなる不穏さ。よかった。
 今回も気になったことについて書いていこうと思う。


(1)夢

〈普通の人間の女のように子どもを宿して中絶するのが私の夢です〉

p17

 不穏の極み。この部分を読んで「おあ〜…」と声が出そうになった。驚きと感嘆の声だ。
 なぜそれが釈華の夢になったのか。

 持ち家の子が殆どいない、いても工務店の子というくらいの地域。晴れた空を戦闘機の音に蓋されてしまう、名前を奪われた基地の街。金色のミニスカートの子。イルカのピアスの子。私に教祖の著書をくれた子。あの子たちがそれほど良い人生に到達できたとは思わないけれど、背骨の曲がらない正しい設計図に則った人生を送っているには違いない。ミスプリントされた設計図しか参照できない私はどうやったらあの子たちみたいになれる? あの子たちのレベルでいい。子どもができて、堕ろして、別れて、くっ付いて、できて、産んで、別れて、くっ付いて、産んで。そういう人生の真似事でいい。
 私はあの子たちの背中に追い付きたかった。産むことはできずとも、堕ろすところまでは追い付きたかった。

p28

 中学2年のときに意識を失って以来、彼女がどのように生活してきたかは明かされていない。しかし高校に通っていなかったということは明らかで、現在はグループホームでコタツ記事とTL小説の執筆を行いながら通信大学に在籍している。
 多感な思春期真っ只中の頃に倒れ学舎を離れた彼女。中学生や高校生の頃は周囲の同性を意識するだろう。周りと比べて進んでいるとか遅れているとかを気にする時期だ。そこで彼女の時間は止まっているのかもしれない。

当時、中絶規制の法改定の動きを巡って、障害者を産みたくない女性団体と殺されたくない障害者団体が激しくぶつかり合っていた。殺す側と殺される側のせめぎ合いは「中絶を選ぶしかない社会」を共通のヴィランとすることでアウフヘーベンして障害女性のリプロダクティブ・ライツにまで辿り着き、安積遊歩のカイロ演説を生んだ。1996年にはやっと障害者も産む側であることを公的に許してやろうよと法が正されたが、生殖技術の進展とコモディティ化によって障害者殺しは結局、多くのカップルにとってカジュアルなものとなった。そのうちプチプラ化するだろう。
 だったら、殺すために孕もうとする障害者がいてもいいんじゃない?
 それでやっとバランスが取れない?

p44-45

 国際協力NGOジョイセフによると、リプロダクティブ・ライツとは「産むか産まないか、いつ・何人子どもを持つかを自分で決める権利。妊娠、出産、中絶について十分な情報を得られ、『生殖』に関するすべてのことを自分で決められる権利」であるという。
 母体保護法は不妊手術と人工妊娠中絶が認可される条件について定めたものである。これは本人の意に反した不妊手術が行われることを阻止し、健康面や経済面が十分でない、または望まない妊娠の場合は中絶を認めている。
 つまりリプロダクティブ・ライツも母体保護法も女性の権利を謳っているのである。

 出生前診断という言葉を耳にするようになったのはここ10年以内の話のように思う。
 出生前診断とは、妊娠中の赤ちゃんの発育状態や先天性の病気や染色体異常の有無の検査をもとに実施される診断のことである。
 その意義として、「赤ちゃんに病気があることがわかっていれば、手術などの十分な準備をしたうえで出産することができる」ことや、「病気や異常をあらかじめ知っておくことにより、向き合い方や心の準備」に時間を使うことができることが挙げられている。
 一方で、確実な診断結果が得られる「確定検査」の結果が陽性だった場合の中絶率はおよそ9割であるという。
(参考 : https://www.kyoto.saiseikai.or.jp/pickup/2023/01/-nipt.html , https://www.hiro-clinic.or.jp/nipt/ethical-issues/)

 釈華の言葉を借りれば、これは「健常者が障害者を殺す」という構図になる。読解に苦しんでいるのだが、彼女の主張は「それが許されるのであれば障がい者も健常児を殺して然るべき」ということだろうか。リプロダクティブ・ライツの名の下に健常者が障がい児を殺す権利が認められるなら、障がい者が健常児を殺す権利も認められるべきで、それで「バランスが取れる」ということを言っているのだろうか。
 こうした信条のもとに、釈華は妊娠と中絶をもって「普通の人間の女」のようになりたいと思っているのである。

(2)コンプレックス

障害者は性的な存在ではない。社会が作ったその定義に私は同意した。

p48

 釈華は妊娠して中絶したいとは言うがセックスしたいとは一度も言っていない。一方で、ハプニングバー記やTL小説などエロをテーマにした作品をいくつも手がけている。
 妊娠も中絶も前提としてセックスが必要だが、当たり前すぎるのであえて言及していないだけなのか。いずれにしろ、中絶までしないと「普通の人間の女」と対等になれないので、彼女の目的がセックスにないことは明らかである。

 では何故彼女はエロを書くのか。社会が作った「障害者は性的な存在ではない」という定義に反発しているのかもしれない。
 性的な存在ではないはずの障がい者が書いた作品に性欲を掻き立てられる人がいると考えると、彼女には滑稽この上ないのではないだろうか。

〈お金があって健康がないと、とても清い人生になります〉

p38

 釈華はそのように自虐している。Oxford Languagesによると自虐とは「自分自身を(必要以上に)責め苛む意味」だそうである。彼女は自らの清い人生を責め苛んでいるのだ。

私の心も、肌も、粘膜も、他者との摩擦を経験していない。

p38

〈生まれ変わったら高級娼婦になりたい〉
金で摩擦が遠ざかった女から、摩擦で金を稼ぐ女になりたい。

p39

 彼女は摩擦を欲しているのかもしれない。とりわけ肌の摩擦と粘膜の摩擦を。
 心の摩擦はさておき肌と粘膜の摩擦を求めるその姿勢には、中学2年で時が止まっている釈華の性に関する未成熟さが表れているように思う。

「精子なら山之内さんだって持ってますよ。健常者の精子じゃないと嫌なんですか?」
 なかなか痛いところを突かれた。
 ただの嫌味のわりに、障害女性のコンプレックスの本質に接続してくる問いだ。

p60-p61

 障害女性のコンプレックスの本質。それは「普通の人間の女」に比べて健常者とセックスするのが非常に困難であるということを表しているのだろうか。
 妊娠と中絶を目的とすると言いながら、田中とのセックスに別の意味を感じさせる文章である。「普通」の相手との性体験——それは彼女の「清い人生」を「普通」に近づけるために必要なものだ。

(3)必要悪

 釈華は1億5500万円で田中と「胎児殺しの共犯」の契約を結んだ。

 私を通して金しか見ていない奴のことは、私も金を通してしか見ない。

p59

 そもそも彼女はイングルサイドの人手不足を気にかけたり、そのために我慢して異性の入浴介助を受け入れたりする程度には心優しい人だ。
 彼女は自分の体のことを一番理解しているから「胎児殺し」に伴う危険性はよくわかっているはずだ。自分が命を落とす危険性と相手を殺人犯にしてしまう危険性。心優しい彼女に共犯の契約を結ばせるというのはよっぽどのことであるといえる。

 田中は若手であることから山下マネージャに言われたことには逆らえない。その鬱憤を晴らすように釈華の前では本性を見せ彼女を蔑むのだった。やっていることが矮小そのものだ。
 彼は弱者男性を自認しているだけあって実際に金に困っていたのかもしれない。本当のところはわからないが、彼が釈華を利用し、彼女が田中を利用するという契約が成立することになった。

 田中さんがお金のために胎児殺しの共犯者になってくれることを私はまだ諦めていなかった。諦めきれなかった。
 あの日、田中さんが本当に来るかどうかわからなかったから小切手はデスクの抽斗に仕舞ってある。
 私が不在の間にそれを取ってまんまとどこかへ逃げてしまうくらいのことならしてくれてもいい。
 でも。
 最初から何もなかったことにだけはしないでほしい。
 田中さんにはもっと邪悪でいてほしい。

p75-76

 妊娠も中絶も、それに伴う性行為さえ彼女の場合は命に関わる危険性がある。それをわかっているからこそ、釈華の死を気に留めないほどの邪悪さを彼女は求めたのだろうか。
 最初から何もなかったことにされてしまうと、善良な人に胎児殺しの片棒を担がせようと——もっと言えば殺人罪を負わせようとしたことにはならないだろうか。心優しい彼女が耐えられないのはそこだろう。
 これで小切手を持ち逃げでもされていれば、彼女は自分自身がやったことにまだ納得できたはずだ。

「お大事に」
 捨てられたiPhoneを見下ろしてそれだけ言うと、田中さんは背を向けて特別室を出ていった。帰りの挨拶もせずに、担当の日と同じように。
 iPhoneが? 私の病状が? それとも……。
 もちろんそれくらいの読解は、私でもできた。

p76-77

 たとえ死ぬ危険があったとしても、人に罪を負わせる可能性があったとしても「普通の人間の女」と同じになりたい。その考えは病的とも言える。それに対し田中は「お大事に」と言ったのではないだろうか。
 結局田中は小切手を持ち去りはしなかった。それを釈華は「憐れみ」と称している。
 死ぬかもしれなくても「普通の人間の女」と同じになりたいと言う障がい者。協力者がいなければ実現できぬ夢。その時点で気の毒なのに、小切手だけ取り上げるなんて最早人間の所業ではない——そう考えるのがきっと憐れみだ。

(4)紗花

 最後に紗花というソープ嬢が登場する。紗花は田中の妹ということになるのだろうか。

 田中はイングルサイド退職後、釈華の首を絞めて殺害。銀行印と通帳を持ち出して逮捕されている。奴は彼女の想像を遥かに超えた邪悪な人間だったわけである。
 殺人罪を負う覚悟で障がい者とセックスして1億5500万円をもらうよりも、殺人罪を犯して全財産をいただいた方が田中にとってはよかったのだろうか。セックスしても首を絞めても死ぬなら、セックスしないで死んでもらった方が彼には好都合だったのかもしれない。
 田中には釈華の夢などどうでもよかった。究極に金しか見ていなかった。
 釈華のなんと哀れなことか。「善人」に罪を負わせようとした事実に胸を痛められる彼女は、そこいらの健常者より、田中よりずっと真っ直ぐだと思った。

 こうして紗花の家庭は崩壊。金がないし楽に稼ぎたいということで、奇しくも「摩擦で金を稼ぐ」ことになった。
 紗花は釈華のことをいまだに考えていて、正気を保つために彼女の物語を紡いでいる。前半で見てきた釈華の物語は紗花の創作であることが仄めかされるわけである。
 ピルの服用をやめた紗花は客の子——「釈華が人間であるために殺したがった子」を妊娠するだろう、というところで物語は終わる。

 紗花は担当のホストやハプニングバーで知り合った商社マンと関係を持っている。それにまだ大学生で卒論の執筆中である。
 彼女は子を堕ろすのだろうか。「普通の人間の女」だからと言うより、釈華の夢を叶えるために堕ろすのではないかと、そんな気がしている。



 考察のしがいがあってわずか93頁の作品とは思えなかった。大満足。
 至るところで市川沙央さんの教養の高さを感じさせられた。私にさほど学がないからそう感じるのかもしれないが。
 障がい者が見る世界と市川さんの教養と技術と思いとが混ざって唯一無二の作品が生まれたのではないかと思う。新作が出たらまたぜひ読んでみたい。

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