鑑賞の思い出その10 『君が心をくれたから』
基本情報
主演:永野芽郁
脚本:宇山佳佑
演出:松山博昭、相沢秀幸、保坂昭一
主題歌:宇多田ヒカル「何色でもない花」
あらすじ:逢原雨は暗い性格と変わった名前から他人に奇異の目で見られるなど幸薄い人生を歩んできたが、故郷の長崎でかつて珍しく心を許した相手である高校の先輩の朝野太陽と偶然再会する。ところが太陽は交通事故に遭って瀕死の重体になってしまう。絶望する雨の前に突如あの世からの案内人を名乗る謎の存在・日下と千秋が現れ、雨が五感を差し出せば太陽は死を免れると持ちかける。
どうも。このコーナーで主演の項にカッコ書きで準主演を書くかどうかの基準は実は「タイトルにその主演でないキャラの存在が含まれているか」だったりします(花野井くんが好例。ただしどう考えても小倉唯主演という雰囲気では無かったので対策委員会全員のキャストを併記したブルアカは例外)。今回は物凄く微妙なところだったんですが一応ウィキペディアに倣ってお相手役の山田裕貴の名は記さずにおきます。
今回取り上げたこの作品は今からちょうど1年前のクールに放送開始した月9ドラマ。視聴し始めた動機は日曜劇場と同じで有名な枠の作品を人生で初めて通しで見てみたい、というだけのものだったんだけど(それに加えて放送開始までは心をくれるとはどういうことなのか説明が無かったので興味が湧いた)、肝心の内容はなかなかの曲者で……。
オリジナル作品で、脚本担当の宇山佳佑という人は近年はもっぱら小説家として活動していたらしいんだけど全体的な話の構造というのがなんかこう、文学的セツナ系とでも呼ぼうか、恋空に通ずるものがあるというか、フィクションの中だからと人間の死を感動を作るための道具扱いする製作者の作為性が作品そのものにも染み込んでしまっているというか……。
エピソードの流れとしては太陽君の生命維持装置になるべく雨ちゃんが1つ1つ五感を失っていく様を2話につき一種類くらいのペースで描くんだけど、とにかく全体的な雰囲気があまりに暗い。そもそもがそういうキャラクターだからしょうがない部分もあるとはいえ雨ちゃんは明らかに心を病んでいる母親の元に生まれてくるわスイーツ店ではしごかれるだけしごかれて最終的にクビになるわ(その癖店長は現在パートで唐突にデレる)散々な人生を歩んでいて、その上五感を失う過程でも八つ当たりみたいな人間らしい感情のブレはちっとも見せずに泣きゲーヒロイン的なメンタリティーで自己犠牲を積み重ねる一方だから痛々しい。一方雨ちゃんの犠牲で生きているとは途中まで知らない太陽君はこれまた実家の花火工場絡みのトラウマ・火種持ちで家族間の争いもありあまり気分の良い登場シーンは多くない。あと過去回想をかなり多く挟むんだけど「◯年前」みたいなテロップを何故か定期的にケチるせいでさっきまで成人だった雨ちゃんが自宅に入ったら急にJK時代になってたりしてちょっと見づらさがあった。
本筋となる五感の話以外に2人の恋愛関係も進展するし、2人は色々な問題事に片をつける必要が出てくるんだけど、ここでも製作者の、最終回でのカタルシスを最大化するためにそれまでは誰一人として幸せにさせないという鋼の意思を感じた。雨ちゃんの母親は最終的に和解したは良いけれどどうにも同情を誘う描写が足りなさすぎて単なる狂人の症状が治まったという捉え方が出来てしまうし、市役所職員の望田司っていう人は雨ちゃんに唐突に彼氏の振りをさせられるなど良いように利用されて終わった印象が強いし、案内人のうち日下はボソボソしてて何考えてるのか分かんない奴だなーと思っていたら自分もかつて恋人の身代わりになって死んだ身だし、千秋の方は実は幼少期の太陽君がうっかり事故で殺した(花火師の息子が静電気除去シート触り忘れるの中途半端にリアルな描写で洒落にならないな)お母さんだし。
あと先ほど指摘した通りどうも作中での死の扱いが作為的というか、全体的に自己犠牲に対する執心が強い。特に第6話の雨ちゃんの祖母の笑顔がそのまま遺影になる演出はちょっと感動というよりは悪趣味に感じた。
でもそんな作品にも見続ける原動力の糧というものはあって、その大きな要因としてぶっ飛んだ展開が挙げられると思う。とにかく目新しい感動ストーリーを作ろうと話がジタバタしてるので完成度はともかくどうなってしまうんだという楽しみはあった。さっき恋空に通ずるものがあるとか書いたけど、それは結局作者が作りたい感動シーンのためなら多少の変な部分は見て見ぬ振りをして突き進む物語の構成にあるんだと思われる。特に印象に残ってるのが第10話の展開で、ネタバレすると「視覚を失う雨ちゃんに最後の花火を見せたい→雨雲で花火大会が中止になりそう→千秋たち案内人は人間に正体を知られると天界との契約違反で月明かりに溶けて消える→月明かりに溶けるということは逆に言うとそれが起こる時には月が出る→雨雲晴らせるやん!息子のために消えるわ!」という……急にとんちみたいなこと言いだして重要キャラ退場させるからもはや少し笑っちゃった。何回も指摘している自己犠牲を崇拝するあまりキャラ退場に容赦・後悔がなさ過ぎる。もはや露悪厨という死語を適応しても文句言われない気がしてきた。しかもそこまでして打ち上げた花火はコンマ数秒の差で雨ちゃんに届かないし、その時の演出ちょっと分かりにくかったし。そこから続く最終回でも詳しい経緯はうろ覚えなのもあって省くけど最後に太陽君が雨ちゃんに自己犠牲のお返しをして準主役なのに死んだままラストシーンまで行くっていう……。素直に2人ともハッピーにしないあたり何処までも本作らしくてもはや感心してしまった。この下手なミステリー作品をも凌ぐ展開の読めなさ・初見の衝撃は持ち味だったように思う。あと初回からずっと長崎の美しい景色は見応えあったし(長崎では日曜劇場すら今では取れないような視聴率だったようだ)、永野芽郁が五感を失っていく演技は非常に上手かった。特に最終話の太陽君に噓のタイムリミットを伝えていたせいで太陽君や視聴者目線だと想定より早く突然最後の五感である聴覚を失ったときにそのことが目の色の変化だけで伝わったのは流石。まあそのせいでより一層痛々しさが増すんだけど。
まとめると、作者の「美しい自己犠牲」という性癖を何の遠慮も無く披露しすぎですね。凡庸じゃないという点で「ありす」よりマシだけど、色々ありつつ最後は王道にハートフルだった「マエストロ」には遠く及ばないかな。とは言え本作と上映期間が近かった映画「あの花」とか、何ならさっき悪い意味で例に出した恋空にも言えることだけど、この辺の若者向け感動ストーリーをいちいち槍玉に上げて「こんな低俗で危険思想(多くは本作のような自己犠牲や死の美化を指す)持ちの作品を若者に売りつけるな(=結局のところこんな作品で感動する若者は愚民だと言ってるのと同義)」と憤慨する批評家たちのムーブには自分はZ世代男性として賛成出来なかったりする。例え個々の批評が間違っていなかったとしても論の構造そのものがちょっと老害的で若者文化に対して思いやりが無いというかエリート思想・愚民論が強すぎるというか。そういう意見はこのブログのように単に私はこう思うという形でのみ表されるべきであって、それに反して感動している観客はなってないとでも言いたげにするのはダメだろう。因みに筆者は黎明期の本ブログで似たような主張をしていたはずなので見て欲しい。
最後に主題歌は……本作の質感を象徴するような暗くて地味であんまり盛り上がらない1曲。最終回ではオープニングでもエンディングでも流れるという謎の好待遇を受けていたけど、ゴリゴリのバラードだしうるさい曲好きな自分とはあまり合わないな。