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カタカナ語がわからん

故あってここ一年ほどの間、心療内科に通院している。

これまで滅多に病院のご厄介になることがなかったため、かかりつけ医など当然おらず、飛び込みで受診したクリニックだった。

診察券と健康保険証を受付で渡し、診察の順番と概ねの時間を聞いて、それまで待合室で時間を潰す。随分と慣れたものである。

日によって診察まで一時間半とか二時間とか待ち時間が見込まれることもあり、そんな時は「後ほど連絡しますので外出されますか?」と聞かれるのだが、私は外出したり待合室で過ごしたりとまちまちだ。

しかしながら、待合室で過ごすと言っても診察の順番を待つ時間というのはなんとも手持ち無沙汰感が強い。

鞄に忍ばせた文庫本やスマートフォンでネットニュースの記事を読みながら過ごすことが多いのだが、早々に飽きがくる。音楽を聴くにしても、いつ呼ばれるかわからない以上これもできない。

となると、天井をなんとなく見上げてみたり辺りを見回してみたりと周囲に気を向けてみるのだが、ふと気づく。

待合室の壁には種々様々な貼り紙がされていることに。

「診療報酬改定につき」「院長は○曜日休診です」「マスク着用のお願い」などなど……

そんな中にあって一枚の貼り紙が目にとまった。

それは「マインドフルネスセミナー」(表題は確かこんな感じだったような気がする)と書かれたA4サイズの紙だった。


「マインドフルネス」という聞き慣れない単語に首を傾げる。表題の下につらつらと何か文章が続いていたが、私の座っている席からは若干離れた場所に貼られていたためよく見えない。

「マインド」というからにはなんとなく心に関する単語であろうことは察しがつくのだが、なんともピンとこない。

「マインド〇〇」と聞くと、どことなく所謂「意識高い系」と称される人たちが好んで使う言葉なのかと、そんなことを考えてみる。


私も職業柄「エビデンス」なる単語をよく使っている。正直なところ使いたくはないのだが、上司をはじめとして周囲の人たちが使うので渋々使っている。

別に「裏付け」「証拠」「証明」などいくらでも表現のしようはあるのに何故「エビデンス」なる単語をわざわざ使うのだろうか。甚だ不明だ。

とまぁ、少し話が逸れてしまったが「マインドフルネス」なる単語も、我らが国語表現に置き換えられるのではなかろうかと思い、手許のスマートフォンで意味を検索してみることにした。

どうやら精神病理に関する界隈では注目されている単語のようだが、辞書には載っていないのか、検索結果には辞書的定義が該当しなかったのでWikipediaを参照した。どうにも次のようなことを指すようである。

現在において起こっている経験に注意を向ける心理的な過程である。 瞑想、およびその他の訓練を通じて発達させることができるとされる。

引用:「マインドフルネス」
『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』
最終更新日時 2024年8月28日 (水)10:06 UTC
URL:https://ja.wikipedia.org/


んーー………「意味わからん!」というのが正直なところ。

つまり、どういうことなのだろうか。

それは「心理的な過程」であり「瞑想、およびその他の訓練を通じて発達させることができる」とあるため、瞑想などの方法そのものをいうわけではなく心構えをいっているという解釈でよいのだろうか。

これだけでは判然としないため、「マインドフルネス」について解説しているサイトを複数覗いてみた。

どこも概ね次のようなことを言っていた。

「過去の出来事や経験といったものからくる先入観や感情(不安や恐怖、怒りなど)というような雑念にとらわれることなく「今の気持ち」「今の状態」に目を向けられている状態、あるいはその方法」


要するに「雑念を排して今の自分と対話しようぜ」という、有り体に言えば精神修養なのだろうと私は解釈した。

企業の中にも新入社員や中間管理職向けの研修を禅寺にて泊まり込みで行うところがあるとかないとか聞いたことがあるが、このようなことをしているのだろうか。未だお目にかかったことはないのだが。

とまぁ、そのようなことをするセミナーであるということは一応理解できた。

であるならば、「マインドフルネスセミナー」などというカタカナ語を使わずとも「精神修養講座」としてもよさそうなものだが。

これでは心理的なハードルが高く感じられるのだろうか。はたまた「自分は精神的に弱いのだろうか」という自身に対する疑念のようなものが参加者の内心に湧くのだろうか。


では「雑念を排して」という部分に着目して、「無念無想講座―あなたも「無」を感じよう―」とか「心頭滅却講座―無の境地―」としてはどうか。

自分で書いていて、これでは寧ろ足が向かないのではないかと思えてきた。どことなく、金づるを求めて口を開けながら待ち構える悪徳宗教団体を思い浮かべてしまう。

なんとなく…こう……胡散臭い。洗脳されて気づけば水晶玉やら壺やら「THE・悪徳宗教団体御用達の品」を一式買わされていそうな雰囲気が漂わなくもない。

やはりカタカナ語の方が音としては滑らかに優しく響くのだろうか。故に、世の中には「サマーセール」だの「クリスマスキャンペーン」だのとカタカナ語を多用したがる傾向にあるのだろうか。

確かに「夏季廉価販売」や「降誕祭商戦宣伝活動」ではなんとも味気ない。これでは売れるものすら売れなくなってしまう。こうした「経済」という手続きを介するとカタカナ語も浸透しやすいのかもしれない。

そう考えると他に表現しようがないため「マインドフルネス」なる単語を使っているのかと、なんとも奥歯に物が挟まっているような鈍い納得感を得る。

しかし一方で、流行していない単語をさもメディア等が流行しているかの如く見せる際の居心地の悪さも同時に抱くので複雑だ。

まぁ、社会一般や業界ごとで浸透していて発し手と受け手の間で共通認識を得られていればそれで問題は一応ない。

なにも「トマト」や「メロン」までもを国語表現にしろと言うわけではない。(そもそもこれらに日本語由来の表現があるのかどうかわからないが……)

ただ、何でもかんでもカタカナ語にするというのはいただけない。

「ガバナンス」だの「エスカレーション」だの日本語でも問題なく言葉にできるだろうに。これでは意思疎通に支障をきたしかねない。つまり、分かりづらいのだ。

「ガバナンス」くらいならまだましな部類だが、「コミット」や「フィックス」と言われると、一旦英語に変換した後に日本語の意味に照らし合わせるため、一手間増えることで若干の間が生じてしまう。

年齢的にはまだ若者の部類だが、普段からあまりカタカナ語を使わないためか、業務の中で多用されたりわざわざカタカナ語で言われたりするとどうしても違和感を拭えない。

また、大して浸透もしていないカタカナ語を使って質問されて、それに対するこちらからの意味合いの確認に「質問に質問で返すな」と言われた日にはたまったものではない。


カタカナ語を徒に使う人たちの心理的背景には何が潜むのだろうか。


優越感、有能感、自負、矜恃…………
劣等感、無能感、虚無感……

この辺りの感情が、相手への伝わりやすさという価値を超えてしまっているのではないかと勝手に推察している。

特に優越感と劣等感は相反する感情ではあるものの、核心を突けているのではないかと自賛してみる。

というのも、IT企業に転職した元同僚に久しぶりに会えば、得意気に「アサイン」とか抜かし始め、業界感や専門感を醸し出してきて少しばかり唖然としてしまったことが実際あった。

ところどころ劣等感から来ているであろう「知的強者感」を聞きかじった知識を以て出してくる人だったので、さもありなんという感じではあったのだが………


確かに音だけを聞けば、「何か専門的なことを話しているな」とか「何か高度で難しいこと話しているな」とかいうような印象を私も受けることはあるが、文字に書き起こしてみれば、どうだろう。

先述の「エビデンス」などまさにそれだ。「エビデンス」………字面がこの上なくダサいのだ。アルファベット表記なら「Evidence」、漢字表現なら「証拠」となり随分としっくりくる。

使っている当人はいたって真面目なのだろう。某都知事のように。

サービス名称等の固有名詞を除いて、社内向け社外向けを問わず文書にカタカナ語を入れると途端に文章全体が締まらなく見えてしまうのは私だけだろうか。メールの文面もしかりなのだが。


口頭にしても文書にしても、用法用量を守って適度にカタカナ語とは付き合っていきたいものだ。


というようなことを「マインドフルネス」の一語から始まり、最近時々考えていた。

冗長が過ぎてしまった。おそらく最後まで一読いただける方は稀有だろうが、もしここまで辿り着けた方はあまりの内容のなさに「無の境地」に達しているやもしれない。

このまとまりのない駄文を通して是非「マインドフルネス」になっていただけると幸いだ。

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