石原裕次郎とチェット・ベイカー
石原裕次郎が米のジャズ・トランぺッター、チェット・ベイカーに心酔していたというのは今や有名な話である。
石原が銀幕デビューする以前から、逗子・桜山の石原家の邸宅でアメリカから取り寄せた米盤のレコードを聴いていたという。
なかでも、いちばん感銘を受けたものが、チェット・ベイカーが全編、スタンダードを歌う「チェット・ベイカー・シングス」であり、そのムード、空気感は石原裕次郎の歌唱スタイルに大きな影響を及ぼすことになった。
チェット・ベイカーのあのゲイ的ともとれる退廃的なヴォーカル・スタイル。
情報が今のようにない時代、舶来のレコード一枚が高級品だった時代。当時のジャズ評論家、ジャズ・ミュージシャンとともに、それをいちはやく知った数少ない日本人、石原裕次郎は間違いなくその一人だったわけである。
おそらく、ジャズの影響は兄・石原慎太郎からのものであろう。石原慎太郎は文壇デビュー後、麻薬の妄想のなかで殺人を犯したジャズ・ピアニストの葛藤と幻影をジャズのアドリブのごとく詩的に散りばめた「ファンキー・ジャップ」というジャズ小説を1959年にいち早く発表している。
そして、この2年後にアート・ブレイキー・ジャズ・メッセンジャースが来日し、日本人は米黒人ジャズ・ミュージックのスタイル、匂い、ニュアンスの洗礼を受けファンキー・ジャズ・ブームが巻き起こる。
兄、慎太郎の描く小説の主人公のジャズ・ピアニストは、ビ・バップの創始者、黒人アルト・サックス奏者のチャーリー・パーカーがモデルだとされているが。同じ、ジャズの麻薬中毒者で多大なる才能を持つミュージシャンでありながらも、弟、裕次郎は白人、チェット・ベイカーに魅せられていくというのも大変興味深い。
石原裕次郎の趣味とは、ヨット、酒、食事だったそうだが、そういえば、チェット・ベイカーの代表作、「チェット・ベイカー&クルー」のジャケットの構図は、チェットがバンドのメンバーたちと帆船に乗り込みリラックスした姿、チェット自身はマストにつかまりトランペットを吹く姿があしらわれている。
だが、ここで私の本音を言う。
その石原裕次郎、フランク永井を代表とする”ムード歌謡”というものが私はどうもダメだったのだ。
そもそも、ムード歌謡とはなんぞや、という話であるが。
一般的には戦後、連合軍の撤退以降、ポップス、ジャズ、ラテン等、その影響を受けながらも、日本独自で発展したポピュラー音楽のスタイル、(これはまるで現在の、J・ポップだ)ということになるが。やはり、それは石原裕次郎の存在なくしてならないだろう。
なぜか、私はこのムード歌謡と聞くとあの頃の場末のカラオケ・スナックの記憶がどうにも蘇ってきてしょうがないのである。それは、どう見ても、ポップス、ジャズ、ラテンとは結びつかないのである。
どいうわけか、あの頃の不良の皆さんはこの場所が好きだった。ここで、二十歳そこそこのニュートラできめた不良の方が、石原裕次郎の「ブランデー・グラス」を歌うのだ。
この曲は、なぜか、カウンターに座りながら、右手にマイク、左手にグラスを持って歌うことになっている。そして、間奏に入ると手元のグラスでウイスキーをグビッとやるのが毎夜の恒例行事だったわけである。
そうした光景を見慣れた私は、これのどこがジャズで、チェット・ベイカーなんだと思うわけなのだ。
しかし、石原裕次郎主演の映画を少しづつ観るようになって、そう、最初は、相手役、浅丘ルリ子の可憐な美しさに惹かれてであるが。
しかし、作品を見続けるにつれ、寅次郎でもない、若大将でもない、当時の観客求められたであろう石原裕次郎のポジションを新たに発見することになるのだ。優等生ではない、かといって、完全な不良でもない、役のリアルな生活感が足についた息吹を、そのリズムを。
そうこうすると、石原裕次郎の歌の感覚、漂う、セリフを話すかのような流れで歌われる自然な空気感、ヘンな例えかも知れないが、所作、作法のような。その歌唱が、段々とクセになっていく。
石原裕次郎は、音感、リズムには抜群の感覚、センスを持っていたという。どんな楽曲のレコーディングも、そう時間をかけずに少ないテイクで決めたという。
そんな裕次郎の歌唱に対し、一般的にはどのような評価がくだされているだろうとふと思いつき、ネットを検索してみたのだ。
すると、面白いのが、
はたして、”石原裕次郎は歌が上手いのか?”という、記事を少なからず見かけることに。
私は、文章が上手い、下手というのはなんとなくわかる。だが、歌の上手い、下手についてはまったくわからない。だから、石原裕次郎が実は歌が下手だったと言われても、ふ~ん、そんなものかで終わってしまうだろう。
だが、私はある時、ふと、石原裕次郎の「ささやき」という曲を聴いた時に、初めて、チェット・ベイカーを連想したのである。
優しく、哀しく、そして、光と影がそこに存在する。
そして、チェット・ベイカーの歌唱スタイルを検索すると、これまた、石原裕次郎と同じ、検索結果が現れたのである。
そう、すなわち、チェット・ベイカーは歌が上手いのか?である。(笑)
石原裕次郎は1956年に「狂った果実」で歌手デビューする。
そして、こじつけに聞こえるかも知れないが、チェット・ベイカーの「チェット・ベイカー・シングス」の12インチ・アルバムは、その同じ年の1956年に発売されているのだ。
(それ以前に、石原裕次郎がこの音源を聴いているとするならば、1954年に録音された18曲入り10インチ・アルバムのはずだ)
さらに、さきほどの「チェット・ベイカー・アンド・クルー」も同1954年、ウエスト・コースト・ジャズ、その全盛期、チェット・ベイカーの輝いていた時代、それと、石原裕次郎の華々しい銀幕デビュー、その時期がピタリと一致するのだ。
石原裕次郎、胆管炎がもとで亡くなったのが1987年7月。
そして、チェット・ベイカーが、オランダ・アムステルダムでホテルの窓から転落した死体となって発見されるのはその翌年の1988年5月のことだった。
もちろん、なんの音楽的な要因の指摘もないまま、石原裕次郎の歌のなかに、チェット・ベイカーの影響を語るにはまったくナンセンス話だが、少なくとも、二人のそれは歌唱力、力量、パーフォーマンスを持ってして聞かせるタイプの歌手ではないだろう。それは、かたや、トランぺッター、かたや、役者という余技からはじまったことが関係しているのかも知れない。だが、たぐいまれなリズム感、ささやくような唱法、光と影のようなもの、揺れるような絶妙なバランス感、そして、歌詞を表現するという点において、二人は、実に似通った感覚を持っていたといえるのだ。
”日本のムード歌謡”にもしかしたら、「チェット・ベイカー・シングス」が、大きな影響を与えていると考えるみるのもまた面白いことではないだろうか。