見出し画像

映画『幻の光』を、上田映劇さんで鑑賞してきました

是枝裕和監督の1995年の作品ですが、石川県を舞台としている縁から、能登半島地震 輪島支援特別上映として リバイバル公開されています

原作の小説では、失踪したままの祖母の記憶に苛まれ、自殺した夫のことも幾度も幾度も繰り返し思い続け、語りかけることを止められない女性の話…と読める物語なのですが
映画として再構築された彼女は終盤までその内心が推し量れず、厳しくも穏やかな能登半島の自然の中で、幸せに過ごしているかのように見える
帰らない祖母、酷い有り様の遺体になる自殺をした夫のことを、どうしてもどうしても思い返してしまう、記憶に叫びだしたくなるのをいつも圧し殺しているのだと、新しい夫に訴える
でも夫はそれを安易に慰めたりもしないし妻を抱き締めたり共感したりもしない
ただ、そういうこともある、そういうもんだ、と何でもない感じで言い聞かせて、寄り添ったりもしないで、それより家に帰るぞと促すのでした

小説にはない、そのぶっきらぼうな夫の場面が、たしかに小説で書かれていた、人は急に死を選んでしまうことがある
実はそういうことは世の中にありふれてる
それより生きてるもんは、飯食って仕事して生きてくしかねえんだよって、突き放つ真実を補完する場面になっており、それを遠景からのシルエットで俳優さんの表情を写さず、音声だけで観客に委ねるかたちにしてくれていたのが、好ましいです

連れ子の息子ときょうだいになった先妻との娘のふたりはとても良い子で可愛くて、仲良しになってくれて、連れ子の息子はおじいちゃんと初日から仲良しになる
女性の鬱屈はその心の中にしかないもので、環境は間違いなく幸せそのものだから、見ようによっては、祖母や前の夫に拘りすぎているわがままさを感じとるのかも知れない
でも、色んな意味で、“それでいい”って思える
己の鬱屈は己だけのもので、どんなに非難されようが、周りの環境が幸せだろうが、己の内面は己だけのもので、そこにどんな感情を置いて生きようが、その感情は己で選べないのだからなおさら、ひとりひとりの勝手で自由なのだと描いているように思える
いえ、いち視聴者として、そう思いたい作品です

そしてこの映画は、舞台が能登半島の海辺の町で、今は失われてしまった光景を残しているからということ以上に、はっきり“再生”の物語であることが、復興支援のための特別上映にふさわしい作品と思えます
分かりやすい救いや癒しなどは、手酷く傷ついた心には受け付けられないし、訪れない
ただ図太くたくましく、あるがままに生きていくしかない 
そんな姿こそが、しっくりと、鬱屈をもつ心に叶うものだと感じたのでした

ところで、
繋がれてない犬がそこら辺で遊んでたり、古い日本家屋の長く急な階段や、ひんやりとした土間の広い玄関先なんかの、昭和の時代の描写も素晴らしいし、なにより主演の江角マキコさんの様々な情動を秘めた佇まいが美しい
画面に映る場面を眺めているだけでも、その絵力で“映画が持つ”作品でした
ですので、ややこしい感想を抜きにしたって、どんどん観られて欲しい作品なんです 

上田映劇さんに掲示されていた
プロデューサーの合津直枝氏のメッセージ
映劇はんこ

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集