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『幻の光』 宮本輝 感想

宮本輝さんはこれまで馴染みのない作家さんで、かなり前に『錦繍』を読んだだけだったのですが、来月の頭頃に映画版の『幻の光』が上田映劇さんでリバイバル上演されるので、読んでみようかと手に取りました
この作品は四篇の短編集になっており、表題作の『幻の光』は夫を自殺によって喪った後に、遺された息子を連れて、離れた土地の家に嫁いだ女性が、新たな生活や経済的な安定を得ながらも、前夫を思って心の中で語り続けているという話です
前夫は死を選ぶような兆候はまったく見せなかったにも関わらず無惨な死に方を突然しており、何年過ぎようとも前夫に想いを馳せて語り続けるのを止めることを出来ない語り手の激情と、時に凪いだような諦念を含んだ静かさが奥能登の海の姿と呼応するように描写され、ごく短い物語なのに濃密さがすごい一編でした

彼女の幼少期の、精神的にも経済的にも不安定な環境でいた頃の回想から、前夫の死を経て奥能登に嫁いできた半生が語られると、奥能登での日々はとても満たされて幸せなのだと痛いほどに感じるのですが、でも前夫への内心の密かな語りかけは習い性になっていて、それはどうしても手離せない、という葛藤もある
前夫との密やかな心の中だけの交歓によって、彼女は生き長らえてきたとも言える、しかし同時に何もかも嫌になって、もうここまででいい、と激しく死に惹かれてしまう衝動に繋がったりもする
しかし、それこそ荒れた海がふいに凪ぐように、日常の雑事や今の夫とのやりとりの中に飲み込まれてゆく

新たな生活の中で、前夫のことをだんだんに思い出さないでいられるようになった…なんて解放は訪れない
前夫が死を選んだ原因を理解するきっかけを得ることはないし、死は断絶で、それによって損なわれた心にはしっくりくる癒しなど訪れない
でも、損なわれてしまおうが、死者に囚われたままだろうが、ある意味それを糧にして、よすがにして、生きていくことは出来るし、そんな状態が不幸なわけでは決してない
むしろ、しあわせのひとつの形と言えるはず
ただ、あるがままに、己の心のままならぬ情動と共に生きていくと腹をくくった女性の物語なのだと感じました

ところで作中にふたりほど出てくる、年配の女性のキャラクターがとてもいいです
息子を連れて奥能登へ嫁ぐその日に、新たな生活への恐れや厭わしさに、にわかに取りつかれて行くのを止めてしまおうかと迷っていた彼女を、それと知らず電車の乗り換えの駅まで見送ってくれた近所のおばさまや
奥能登で出稼ぎに出掛けている夫を待ちながら堅実な漁をして暮らすおばさまなど、したたかで逞しい女性の姿に、直接そうは書かれてないけど語り手の彼女の心に活力を与えてるであろうことが伝わった 読んでても活力がこっちにくるくらい こういうおばさまになりたいもんです

他の短編も、図らずも死に近く触れてしまった人が、そのことからどのように自分の身と心を処してゆくかというテーマに共通していますが、それぞれの語り手や立場やその心の変遷はまったく異なるもので、ごく短い頁数でこうも多様性と濃厚さがあることに感嘆する思いです
個人的に好きなのは、息子に先立たれた女性が下宿屋を始めようとするが、そこに1日だけ部屋を貸して欲しい、迷惑はかけないし布団も持ってくるし食事もいらないし綺麗に使って掃除して一晩で帰る、と不可思議な頼みごとをする青年がやってくる話です
その青年が1日だけの下宿を望んだ理由に、家主の女性の心に訪れた変化を語る『夜桜』
“桜の咲く文学短編アンソロジー”を編むとしたら、ぜひ収録したい作品でした

なお、映画の『幻の光』は能登半島地震輪島支援 特別上演として公演を予定されています


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